三陸の銀河鉄道は海の上を走る

荒沢外記

第1話  海の上を走るSL観光列車

 2011年3月11日午後2時46分に突如とつじょ発生した大地震は、東北の太平洋側に深刻な被害をもたらした。いわゆる「東日本大震災」である。この災禍により沿岸の多くの町が壊滅かいめつ状態となってしまったが、同時に、多くの地域創生への観光事業計画までもが消え去った事は知られていない。


 大震災発生の数年前より、いわゆる赤字ローカル線を廃止するか、それとも観光鉄道へと転換ができるのか、ギリギリの検討が続けられて来ていた。SLさえ走れば観光客は来る、そういったやや楽観的な議論がもてはやされる一方、外部集客を目指す観光鉄道と厳しい人口減に対峙する地域輸送機関としてのローカル鉄道とは、投入資源が限定される中で経営上両立し得ない、という現実的反証には強い説得力があったと言えよう。


 ただし、いずれの主張にも、その裏には税金の投入という問題が避けて通れず、議論はどこまでも膠着こうちゃく状態のまま、やがて訪れるだろう廃止という現実だけに事態は向かって行く。この様な状況は東北地方に限らず日本中の赤字ローカル線で見られ、アイディアこそ色々あれども、結局は資金不足こそが最大の課題とされていたのであったのだ。


 そこに、既存のローカル路線と同じ線路敷地に、新たに別のSL観光鉄道会社を作り走らせるという発想が、一筋の可能性を見出させることになる。この方法によるならば、観光鉄道だけに特化した資金調達が可能になると共に、線路用地や鉄道施設の新たな取得がほぼ不要と言う点において、資金不足を克服し実現への希望がひらけて来る! それでも、実際に走らせるべきSLが見つからないという問題は残り、SL無しでの観光鉄道であっては、新たに鉄道会社を創る事への地元説得性に欠ける事態へとつながってしまう。


 そんな既存鉄道の線路敷地に、より小型の鉄道車両を走らせるという発想は、まさしくデジタル時代だからこそ出て来たアイディアであったのだ。その計画には新規に小型SLを創る事さえも含まれていた。計画は少しづつ実現へと動き出し、資金・法律・製造そして観光鉄道会社運営シミュレーションに至るまで、有志によるSL観光鉄道実現への検討が続けられ、間もなく具体的な事業計画として公表段階に入るところまで辿たどり着いていた。


 ところが、震災はこれらの努力を全て押し流してしまう。事業計画も、そこに関わった人も、である・・・・・・。


 「三陸夢絆さんりくゆめきずな観光鉄道」は、当初の事業計画策定中には全く想像もできなかった、まさに被災地ならではの特殊路線を走るSL観光鉄道の姿となっている。ただし、その中身は天空にある銀河鉄道とは異なり、地上にある本物のSL観光事業計画がベースとなっている事を、あらかじめ最初に記しておきたい。


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『海の上を走るSL列車!』


 三陸夢絆さんりくゆめいきずな観光鉄道のキャッチコピーにうそは無かった。あの大震災の復旧工事として急ピッチで作られた防潮堤ぼうちょうてい。地元民の事前予想をはるかに凌駕りょうがしたその巨大さは、長年海と共に生活して来たはずの地域を海から強く分断し、観光客を呼ぼうにもあおい海は既に巨大壁の外側となった。もはや太平洋は浜から見えず、壁の向こうにそれを想像するしかない・・・・・・。


 今、その巨大防潮堤の上を私の乗ったSL観光列車は走っている。ここは、観光用にと新しく作られた線路区間だ。三陸の観光シーズンともなると、どこのメディアにも必ずここでのシーンが出て来る。真夏という事もあり、開け放たれた客車の窓からは、ストレートに三陸の気持ちよい海風が通り抜けて行く。防潮堤の土台の先にくだけ散る太平洋の波も今日は比較的おとなしく感じるが、うっかり窓から身を乗り出すと、そのまま防潮堤の斜面を海まで転がり落ちて行きそうだ。


 潮風のにおいと共に、懐かしい石炭の匂いも車内に入って来る。そう、これは本物のSL列車なのである。ただし、JRなどで走っている復活SLから比べるとかなり小さい。この客車にしてもそうだ。ちょうど遊園地で良く見かける遊戯ゆうぎ列車の様な大きさであるが、その小ささ故に防潮堤上の走行は、それだけでもちょっとしたスリルである。


 一番海沿いの区間では防潮堤を波がたたく音に消され、SLの走行音はあまり聞こえてこない。だが、海とは反対側の車窓を見ると、そこには太陽に照らされ確かに先頭で煙を吐く小型SLと、それに連なる客車たちがシルエットとなって地面に映っている。そのシルエットはどこまでもこちらの列車を追いかけて来て、決してその形をくずそうとはしない。


 そうなのだ、緊急の復旧工事により、巨大防潮堤こそ早くに出来上がったが、肝心の町の復興はまだ進んでいないのである。旧市街は広大な更地さらちとなって、本来あるべき町の姿を失ったままだ。そこがまるであつらえた土のスクリーンの様に、今、私が乗っているSL列車の影を映し出す。


 やがてSL列車は、丸太を積み上げた木造橋を渡って防潮堤から内陸へと入って行く。まるで昔見た古い米国映画の様に木製の橋脚きょうきゃくがギシギシと鳴るのかと期待したが、ここは至ってスムースに通過されてしまった。実は木造に見えるがこれは鉄製橋とのこと。私が乗っている「三陸夢絆さんりくゆめきずな観光鉄道」は、その名前のとおり観光に特化した鉄道なので、こんな鉄橋一つにも強いこだわりがあるのだという。


 巨大防潮堤の上から疑似ぎじ木造橋を渡る区間が終わると、復興工事を横目に少しばかりSL列車専用の線路を走る。すると程なくして白いガードレールが延々と続く舗装ほそう道路の近くで、列車は赤信号を前にして停車した。そこは駅では無いらしく、車内アナウンスが客車の外に出ない様にと注意を呼びかける。


 間もなく、舗装道路の反対側からけっこうな速度でバスがやって来た。そのバスはSL列車への乗客を降ろすわけでもなく、そのまま止まらずに舗装道路を走り去ってしまう。すると、今度は警報音が鳴り赤い知らせ灯が点滅し、同時にガードレールの一部が左右にスライドし始めた。止まっているSL列車の先にある信号機が青色に変わる。恐らく現場の係員だろうか、安全を確認しつつ発車の合図をこちらに送る。


 やがてSL列車は汽笛と共にじわじわと動き出し、そのまま急なカーブでもって、今開いたガードレールの隙間すきまから、何と舗装道路の中に入って行く! これこそ、「BRT(バス高速輸送システム)」の専用道路を、SL観光列車が併用軌道として走る区間の始まりに違いない。巨大防潮堤と並び、いつもメディアに取り上げられているあの光景の始まりなのだ。


 私の様な年齢の人間なら、全国の都市にまだ路面電車が走っていたことを覚えている。自動車といっしょに渋滞路をノロノロと動く路面電車は、交通への邪魔じゃまな存在として間もなくその多くが姿を消してしまったが、まさしく道路の上を走ると言う点では、これはSL列車ではあるが路面電車と何ら変わらない。


 BRTバス専用道の舗装路区間に入ると、そこには典型的な三陸地方の鉄道車窓風景が広がっていたが、それも当然なのだ。何故なら「BRT(バス高速輸送システム)」とは、元々鉄道であった線路敷地を舗装ほそうして、そこに専用バスだけが走る様にした、まさしく線路を道路に転用した交通機関に他ならないからである。ちなみにBRTとはBus Rapid Transitの略となる。


 つまりこのBRT専用区間とは、間違いなく鉄道が走っていた線路区間なのだが、いわゆる一般的な鉄道廃線跡の雰囲気がしないのは、もはや路面が舗装されガードレールが装備された自動車道の外観そのものだからに他ならない。ただし、実態が舗装道路となっているにも関わらず、この区間は法的には鉄道の休止区間の扱いとなっている。震災被害で鉄道は寸断されたが、いずれ鉄道として復活する事を地元に強く期待され、廃線とは違うのである。それにも関わらず、線路ががされ、代わりに道路として舗装され、そこにBRT専用バスが走っている以上、誰の目にも一般の道路としか映らない。


 そして、このSL観光列車を走らせている三陸夢絆観光鉄道は、今、SL観光列車が走っている線路敷地に本来走るべき休止中のローカル鉄道会社とは、なのである。その「線路敷地」を借りてSL観光列車は運営されているのだ。しかし、この言い方も正しくはない。実はこの「線路敷地」自体は、ローカル鉄道ともSL観光鉄道とも異なる運営体である、地元自治体を中心とした別の鉄道会社が所有していると言うのだから、何とも話はややこしい。なので、今はこの程度の説明に留め話を先に進めて行こう。


 それにしてもおかしな話ではないか。オリジナルのローカル鉄道は震災被害で休止となり、仮復旧と称してBRT化された。そのバス専用道として舗装された道路の上を、今、併用軌道として三陸夢絆観光鉄道のSL列車が走っているのである。なぜこのような状況が起きたのか? 


 そして、私の乗ったSL観光列車は、ここがかって線路だった事を様々な形で知らされる。その多くは、沿線途中にある駅舎やホームなど、鉄道ならではの施設がそうであった。しかし、一番それを強く感じさせられたのは、途中からBRT専用バスが津波をまぬがれた街中方面へと、一般道路を使って外れて行くのに対し、SL観光列車の方は、まさにこの先からが本当の鉄道線路区間へと入って行くからである。すなわち、BRT専用道の路面レール併用区間はここで終わり、分岐地点から先は、誰もがイメージするローカル鉄道の線路そのものを走る事になるからだ。


 この分岐地点からは、当然舗装道路では無い。鉄道専用区間として、休止中のローカル鉄道である「陸泉りくせん鉄道」のレールが残る区間をSL観光列車は走る事になる。そこには、潮風でび付いてしまった二本のレールの間に、さらに二本の銀色に光る狭いレールが敷いてあった。銀色のレールは、これが現役で使われている線路であることを表す。そして、その狭いレールこそ、私が乗っているSL観光列車が走るレールに他ならない。


 このSL観光列車は見た目もJRサイズより小さいが、線路幅もそれに見合ったように狭い。昔はこの様な小型鉄道を『軽便列車』や『軽便鉄道』などと呼んだが、今では「ナローゲージ(Narrow Gauge)」という呼び名がメジャーの様だ。ナローとは「狭い」という意味であり、ゲージとは「線路幅」だ。標準の線路幅よりも狭い線路幅の鉄道に対して使われる。休止区間には、本来なら陸泉鉄道の単線二本レールだけのところに、その間にはさまれて更に狭い幅の二本レール、すなわち三陸夢絆観光鉄道のレールが走り、結果としてここからは「四本レール」区間となっているのである。


 では、なぜ単線区間なのに四本レールなのか? 元のオリジナルの二本レールはどうして使われていないのか? 私はその理由を知らなければならない。何故なら、どの様にしてこのSL観光鉄道が実現したのか、その過程を雑誌にレポートして行くため、取材として三陸を訪れているからである。私の本業はフリーの旅ライターだ。今回の取材は、単に被災地にSL観光列車が走っているという普通の旅行記事ではなく、このSL観光列車がどうやって実現できたのか、その過程を辿たどることが目的なのである。そして、不思議な事に、鉄道趣味系の雑誌含め、このSL観光鉄道が実現するまでについてをが過去に無かった・・・・・・。


 ところで、今、小型SLが一生懸命に走っている区間は、現在震災被害で休止中の陸泉りくせん鉄道なのだが、走っているSL列車は、三陸夢絆さんりくゆめきずな観光鉄道という別会社の列車なのである。さらに、休止中の陸泉鉄道自体も、実は列車の運行のみを行う鉄道会社でしかなく、鉄道の線路敷地や駅や信号などは、陸泉りくせん町や県が共同オーナーとなって貸している関係にあった。そして、こちらもれっきとした法律上の鉄道会社となるのだ。つまり、ここには三つもの鉄道会社が存在している! すぐには理解できない話だろう。


 実際、この辺の話は何やら込み入っていてわかり辛い。今後の取材レポートの中で順を追って説明して行く事にしたいが、それにしてもだ、陸泉鉄道の休止区間を走る三陸の陸地側も、平凡なれども全く持って素晴らしい車窓風景である。海上を走る巨大防潮堤が観光アトラクション的なら、こちらは昔ながらの汽車旅気分満点の区間だと、本来の旅ライターの立場からは強調しておきたい。


 そんな汽車旅気分の沿線風景も、徐々に内陸のターミナル駅が近づくにつれ、民家の数が増えて市街地の雰囲気が強くなって来る。古くからの三陸の建物が良く目に入るのは、ここまでは津波の直接被害が来ていないからだが、昔から人が住んでいるという当たり前に見える光景に、何故だか急にほっとするのだった・・・・・・。


 どんどんと人家が増え続け、間もなくJRとのターミナル駅が近いという辺りで、三陸夢絆観光鉄道のレールは陸泉鉄道の休止レール区間から分離して、今度は独立した二本レールの線路となる。この何気ないレールの分岐に、四本レールならではのトリックがあるのだが、その話は後ほどあらためて触れたい。何やら後回しばかりで申し訳ないが・・・・・・この最初の取材時は、私自身も何も気が付かずに乗車していたのだ。まさか、こんな分岐に仕掛けがあるなんて・・・・・・。


 本線部分と分離して間もなく、郊外ロードサイド型のショッピングモールの建物が、平行する真新しいバイパス沿いから近づいて来る。そこまでの独立線路区間は、旧市街の雰囲気とは異なり、明らかに最近に造成された様な真新しさである。私の乗ったSL観光列車は、そのモール建物の一角に作られた、ちょっとモダンレトロな観光鉄道専用駅へと入り込む。そこがこの三陸夢絆観光鉄道の終着駅なのだ。各地からの来訪客が観光バスや車でやって来て、ここからSL観光列車に直接乗れる。この様に駅と商業施設の機能が合体していれば、雨天でも安心だし観光土産も忘れずに買えるだろう。ちなみに、今日の私にとっては終着駅だが、三陸夢絆観光鉄道にとっては始発駅だ。


 ところで、途中の沿線でもそうだったが、この終着駅にも楽しそうな乗客に交じり、大勢の鉄道職員が働いている。車中からも何度もそんな光景を目にした。彼らは年齢も性別もバラバラで、相当なシニアから若い学生風までいる。これだけの雇用を抱えられるほどSL観光鉄道は儲かるのだろうか? それとも、これも震災復興助成金などのおかげなのだろうか・・・・・・。


 私はこれから、この建物内にある三陸夢絆観光鉄道の本社で、このSL観光鉄道が生まれた経緯を取材する。普段は旅のレポートが多いので、ここでも震災後の三陸推奨観光地などを押さえておこうかなどと、割とおっとりと構えていたのである。


 しかし、この取材により、三陸夢絆観光鉄道の実現には、震災被災者だからこその絶望からの出発と、決して逃げないという不退転の決意があったことを知り得た。そしてわかったのである。三陸夢絆観光鉄道の実現が、自分たちの主体性を持ちながらも「他人ひとの金・他所よその人材・外部そとの知恵」を使い、震災復興と地域創生を成し遂げた努力の成果であることを・・・・・・と、まあえらそうに書いてみたが、私の取材活動が、これから大変な目にうとは、この時にはまだ予想だにしていなかったのである。

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