手紙のむこう
五月二十二日 横浜
水茎の君から返事が来た。
身体中の細胞が跳ねまわり、全身が柔らかな温もりに包まれていく。
ああ。こんな感覚、忘れていた。いくつ歳を重ねても感じられる悦びがあることを知る。
桂介には感じたことのないあまりに懐かしい感覚だった。
これを最後と綴った手紙への返信。あちらも最後の挨拶をくれたのか、それとも――。
まるで制服を着ていた頃のような瑞々しい血潮が頬や耳を染めていくのを感じる。
望んではいけない。
いつの頃からだろう。明かりに似たものを見つけると、まずそう言い聞かせるようになっていた。傷つきたくないからと、初めから手を伸ばさずに。
けれども今はまた、傷を負ってでも触れてみたいものがある。それはなんて心震えることなのだろう。
この震えがどうか共振しますように。
祈りながら封を切る。見ればまたもや便箋のほかに同封されているものがある。
――絵だ。花を描いた水彩画。
この花は――オダマキ。
一般的によく見られるのは鮮やかな
中心に立ち上がる無数の雄蕊と、五本の雌蕊を取り囲む白い筒状の花びら。そして、その外側に、こちらこそが花びらだとでもいうように美しく発色し先端をつんと尖らせた五枚の萼片。
これは、あの庭に咲くオダマキ。
私はその花弁に沿って指先を這わせる。それから花の香りを感じたくて顔を近づけ――あの庭の風の匂いを吸い込む。
ああ……。あの時と同じ。馬車道の地下にある小さなギャラリー。極楽寺のあの家の庭を描いたアキの油絵を初めて見た時のあの感じ。
私はもう一度オダマキの花を瞳の奥に焼き付けてから、便箋に手を伸ばした。
水茎の君は、
なんということ。きちんと住所も名前も記した手紙が、どうして赤の他人の手に渡ったのか不思議でならなかった。いくら同じ住所とはいえ、名前が違えば届くはずもない。
それが。点ひとつ。まるで筆の先からぽたりと垂れた絵具のような点ひとつ。
これではまるで、なにかのいたずらのよう。
改めて手紙と向き合う。
彼は、絵を描く仕事を志しているらしい。
そうなるとやはりあの由比ヶ浜の青年にちがいない。そう確信があった。すでに思い込みではないかという不安は微塵もなかった。
一瞬アキと見紛うような雰囲気を漂わせていた青年。手紙の向こうにいる「アキ」だとは知らずに思わず心奪われた存在。あの時感じた清廉な魂。――あれはたしかに同じものだったから。
水茎の君と由比ヶ浜の青年が同一人物であったことは、私にとってこの上ない啓示に思えた。私は正しい道を歩んでいる。そんな気がした。なにをもって正しいのかなんてわからない。けれども、山道を歩いていたらぽんと切通しにつながっていたかのように、私の歩むべき道が目の前に現れた気がした。
そしてその道の先に待つ人がいる。
水城彰太さん――私に新しい色を重ねてくれる人。
同封されたオダマキの水彩画は自分の気持ちだという。つくづく思う。この人は絵を描くことでしか自らを伝えられないのだと。
オダマキの花言葉は「素直」。
けれども彼は知っているのだろうか。この花にはまた「捨てられた恋人」という花言葉もあることを。花言葉はひとつではないし、どれが正しいというものでもない。このオダマキにだって「愚か」「必ず手に入れる」などもある。
気持ちを言葉ではなく絵で伝える。それは自らが語る言葉を持たないというだけでなく、相手がそれを受け止める心を持っていると信じているからなのだろう。筆を伝わって色へと姿を変える画家の心。私はそれを感じ取れる人なのだと信じられたのかもしれない。彰太さんに。アキに。
手紙の中で彰太さんは語る。私のアキへの一途な想いに救われたと。そして立ち向かう勇気を得たと。
けれども私は彼になにも与えてなどいない。私の捨てられない想いを彼が自らに塗り重ねて新しい色を生み出したまでのこと。それでも彼はオダマキの花言葉に従って素直に「会いたい」と言ってくれる。私のアキを想う気持ちが必要だと言ってくれる。桂介には捨てることを望まれていたこの気持ちを――。
あの庭のオダマキを彰太さんはどのような想いで描いたのだろう。
長い間住む人もなく荒れた庭の草叢でオダマキのひと群れに出会った時の想いが、この一枚の水彩画に写し取られている。
それは言葉では言い表せない気持ち。あやふやで、もどかしく、けれども確かにここにある気持ち。
新しい色を重ねたいと。そうして私たちは互いの色を求める。
――僕が同封したこの絵が描かれた風景を。
その先にしたためられた水茎の跡に視線を滑らせ、息を飲む。
だって、これは。この言葉は。
私はこれを手紙に書いただろうか。きっと書いたのだろう。そんな気がする。そして、この人は、その言葉が使われた過去を知っていてなお、再び私に授けてくれる。
――この場所を見てみたくはないですか。
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