五月十九日 横浜
それから二日もの間、私は大した外出もせず、だらだらと部屋の中で過ごした。桂介からメールはあるものの、電話もないし、ましてや訪れてくることもないので、ちょっぴり肩すかしだった。案外終りなんて呆気ないものなのかもしれない。アキのことをずるずる引きずっている私の方がどうかしている。
カタン……カタン。カタン。
私はコットンスニーカーの踵を潰したまま突っかけてメールボックスへ向かった。郵便配達の制服姿が去っていく。
期待しちゃ駄目。今日だってDMくらいしかないんだから。
そう言い聞かせながらも、万が一、億に一でも可能性がないものかと、どうしても期待してしまう。
――あった!
靴を脱ぐのもそこそこに封を切る。すると中身のふくらみで封筒がぱかりと自ら口を開けた。
やけに分厚いと思ったら、スケッチブックから切り取ったかのような紙が折りたたまれている。なぜこんなものが……?
そっと開くと、細く繊細な線で描かれたたおやかな静御前が立っていた。
白拍子の装束の――私?
私が直垂・水干を纏い、頭上には立烏帽子、腰に白鞘巻の刀を差している。届けるあてのない想いを持て余し、戸惑いながらもなお真っ直ぐな白拍子。
どういうことかと逸る気持ちのままに手紙を開く。
相変わらずの素っ気ない封筒と便箋ではあるけれども、走り書きの前回の手紙とは違い、丁寧に心を籠めて文字が綴られている。力強く大きめの文字はけして整ったものではないけれど、たしかになにかを伝えようとしてくれているのが感じられる。
繊細で細密な静御前の絵と、摯実で勇壮な文字。どちらも溢れんばかりの想いを持て余した精一杯の表現。
手紙によれば、この静御前の絵を入れたのは、アキが以前とは描く絵までも変わってしまったことを示すためらしい。由比ヶ浜で桜貝を拾っていた女性のスケッチを元に描いたという。
しかし、しかし……。
幻想的に美しすぎる雰囲気を除けば、どこをどう見ても私としか思えないこの静御前。
――アキじゃない。
遠目であれ、アキが、私と知らずにスケッチするはずがない。知らぬふりをするということも考えられなくもないけれど、そうなると、こうやって手紙に同封してくる意味がわからない。だから、この手紙の向こうにいるのはアキじゃない。
水城彰大はやはりあの家にはもういない。
――それなら……これは誰?
不思議と落胆はしない。だって、わかっていた。初めからわかっていた。アキが返事などくれるはずがないと。だから初めから期待していなかった。私自身が手紙を送るという行為そのものに過去との決別の意があったわけで。
なのに、どういうことなのか、返事がきてしまったから。
そんなはずはないという思いと、もしかしたらという思い。
私は再び過去に手繰り寄せられて……。
こんなはずじゃなかった。
手紙を送り、受け取り手がなく、そこで私はやっとアキとの想い出に別れを告げられたはずなのに。
こんなはずじゃなかった。
桂介を好ましいと感じていたのに。共に歩く道は光に溢れていると思っていたのに。
こんなはずじゃなかった。
手紙の向こうに手繰り寄せたいなにかがあったなんて。
人の想いは年月を絵具で塗り重ね変わっていくものだと、この人はいう。
ああ。この人は――。
忘れろといいながら、塗り重ねろという。
この人にしてみれば、忘れるというのは捨て去ることではない。大切に仕舞い、その上に新たな色を重ねていけばいい――。
私にそう促してくれている。過去を抱いたまま前へ進めと――。ただ過去に捉われるなと――。
この人もまた重ね塗りの下絵となるものを持っているのだろう。そして重ねるべき色が見つからないでいる。
互いに色を混ぜ、塗り重ね合い、新たな絵を描く――。
それはとても魅力的に思えた。
あの階段に腰かけていた放浪画家のような青年の姿が脳裏に鮮やかに浮かぶ。あの時は夕景を描いているのだとばかり思っていたけれど、もしかして。
……まさか。そんな偶然があるわけない。
けれどもあの日は由比ヶ浜の西の端。極楽寺の家からでもそう遠くはなく、アキとも何度も訪れた場所でもある。
でもそんな。ありえない。――ありえない、だろうか。ほんとうに?
いくつもの偶然で塗り重ね、そこに現れる色は運命なのかもしれない。
いくら私が絵画に疎いとはいっても、これではさすがにアキの絵ではないとわかる。この人は、それに思い至らない人ではないだろう。
それでも手紙に入れたのはなぜ?
気付いてほしいと。見つけてほしいと。静かに叫んでいる。
私を呼んでいるの?
そうに違いない……そんなはずはない……。
想いが行ったり来たりする。
ライティングデスクの片隅にある木製の小引き出し。
一段目には白いレースのハンカチ。
二段目には桜貝のネックレス。
三段目には――。
あんなに重く、もう二度と開くことがないと思っていた引き出しは、思いのほか滑らかに開かれた。中には折りたたまれた一枚の紙。角を揃えてはあるけれども細かな皺が無数に散らばり、さながらちりめん和紙のよう。
折り目のついた静御前の絵と並べ置き、届いたばかりの手紙を胸に押し当てる。
しづやしづしづのをだまきくり返し
昔を今になすよしもがな
そういえば、たしかどこかにあったはず。引き出しや小箱を次々と漁り、ようやく目当てのものを探し出す。
萌黄色の封筒と便箋。封筒の口には赤い縁取りがされている少し和風のレターセット。
あの人ならきっとこれの意味するところをわかるはず。初めの手紙で静御前の舞のことを記してきたあの人が気付かないはずはない。
でも、これでは私が新たに塗り重ねたい色がわかってしまうかもしれない。でもそれでも。わかってほしいような、そうでないような。
はしたないだろうか。静御前の絵を送られた返信にこの色合いで送るなんて。
だってこれは――
赤地錦の
――義経の戦姿の色。
私の消せない想いを静御前と重ねたあなたへ贈るのは、その想い人の色をした水茎の跡――。
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