#18 「私になにか、心で語りかけてみてよ。」

 クルスに山の奥地まで連れて行かれ、僕は一体どこまでいくのか、不安と期待でどきどきわくわくとしていた。緑の香りとクルスの香水の香りが漂う。少し歩いた所で山奥らしからぬコンクリートの小さな建物を発見した。

「ここは地下に続くんだけど、どうやら閉鎖されていて入り口しかつかえないわ。」クルスは言った。「まあ避暑地には丁度いい。」

『ギムマルグ社支所』と建物の扉に書かれていた。扉を開けると誰もいない受付の机と椅子がある。「座って。」クルスに言われて僕は座る。向かい合わせでクルスも座る。

「さあてと。」クルスは両手で僕の頭を掴んだ。僕はどきりとした。クルスは「ふん、ふん・・・」と言いながら額のあちこちをジロジロと観ていた。「なるほどね。」クルスはそう言って手を離した。そして机に置かれているペンとメモ用紙を取りながら言う。

「ちょっと、質問なんだけど、」そしてペンとメモ用紙を僕の前に置く。「あなたは自分の事をどうして罪深いと思う?」

 僕はメモ用紙に書く。 [僕は、悪魔に取りつかれている。]

 クルスは切れ長の暗い目でその文字をじっくり観ながら言った。「悪魔に取り付かれているって、どういう事?」

 僕は二枚目のメモ用紙に書く。 [僕は皆が見えないものが見えたり聞こえたりす る。]

「何が見えるの?聞こえるの?」

[もうよく覚えていない。]

「まあいいわ。それは悪い事を言ったり唆したりする?」

[奴らが囁く言葉が悪い事かというと正直あまり分からないけど、] そこまでペンを書いて僕は止まってしまう。また気づいてしまった事がある。自分が罪深い事以 に深刻な問題に直面している事に僕は始めて意識した。

[僕はそもそも、] ・・・書き進める・・・[何が悪いのかわからない。] その文章を僕は深刻な問題である事を示すためにゆっくり見せた。しかし、何故かクルスはふふふと笑いだした。「じゃ、一度悪魔の声とやらに一度耳を傾けてみるべきよ。」 僕は驚いて、何を言うんですか、といわんばかりにクルスを見た。 「君の悩みって悪魔の声を拒絶したら死にたくなった、って事でしょう?それぐらい悪魔の声とやらは君にとって重要な事を言ってくれてるかもしれないじゃん? 向き合ってみたら?」

 なんと恐ろしい事を。そんなことしたらアリュヌフの神から裁きが。

「裁かれる事なんて無いよ。」クルスはニコリと笑った。「やってごらんなさい。」

[あなたはアリュヌフの神に愛されながら、神に逆らうような事ばかり言う。]

 駆られるように書かれたたその文章をまじまじと眺めたクルスは今度こそ笑い出す。

「あなたはアリュヌフの神より前に、自分の想像の神様を信じているのよ。迫害されるのが怖いから、殺されるのが怖いから、声が奪われるのが怖かったから、なんでもかんでもアリュヌフの神が支配してると思ってその恐怖から逃れているの。でもその結果声は奪われた、そしたら自分は根から間違いだから死ぬしかないと思ったんでしょ? 声が奪われる事があなたにとって重要で、その通りになった。それって、うまく言葉で言えないけど、貴方自身がアリュヌフの神をも越える存在だと自覚している大きな証拠よ。」

 そんな傲慢だったのか僕は。それが、僕の罪。

「それが僕の罪ぃとでも思った?」クルスは笑った。「まだ分からないのかな?アリュヌフの神が絶対の存在、と思ってる限り君は死ぬか全てを諦めるしかないの。そういう人間なの。君は。わかる?」

 あれ?と思った。確かに、その選択しかないだからだ。

「絶対者ってのはもう、考える前提の前提でしょ? 教典でも書かれているとおりアリュヌフの神とは世界の根幹である! というのがオーソドックスな考え方。だから、 本当に彼を絶対者だと思うなら『アリュヌフの神は絶対であり、罪深いボクは彼に奉 仕しなきゃいけない』だなんて思えない。それって自分と神は違うんだ! みたいないわゆる『傲慢』な考え。絶対者と思うなら、絶対者と自分との繋がりなんかゴチャゴチャ考えないで、 アタシは何もかもがアリュヌフの神に生きられてるんだわーお花畑ふわふわーって思うでしょう。それが信仰者であり、悟者なの。その程度の知性なの。」

 今までに聴いたことの無いとてつもなく狂った考え方と思ったが、何かとてつもなく僕の心の硬直した部分が排泄されたかのように溶けて流れていく快感からその言葉の続きを聞かずにはいられない。

「いい、もう不信心だろうがどうだろうが、私はあなたに心から生きて欲しいの。だからこそ、聞いて。あなたが悪魔と思って忌み嫌った声を、聞いて欲しい。」

 僕はそして紙に書いてクルスに見せた。[あなたは、アリュヌフの神に愛されながら 随分真逆の考え方に見えます。]

 クルスはその文字を見て言った。「それについてはもう少しあなたが整理してから私の感じた事を話したいと思うわ。これ以上言ったら混乱しそうだし。」

 十分混乱していたので、まあ、なるほどと思いつつ続きを書く。 [僕は正直あなたの考え方がキライになれません。課外授業で出会ったメンヴィス・ソルトボーンという歌手に何となく似ている・・・]

「メンヴィス・ソルトボーン?ファンだわ。こっそり帰郷時にライブに行ってた。似てると思ってくれたなら嬉しい。」

 その時鐘が鳴る。クルスが立ち上がったので、僕はもう終わってしまうのか、と寂しくなった。 「さすがに寮に帰らなきゃ。」クルスは苦笑いした。「また来週、ここで会いましょう。」 僕はこくりと頷き、そしてクルスの後を着いていって施設を出る。



 夕陽に照らされた寮の戸口にマルデナがいた。マルデナは僕を観るなり、なにやら安心した表情をした。

「お前死ぬんじゃないかと思っていたよ。」マルデナは言った。「昨日まで物凄く 暗くて、今日になって妙に陽気に外を歩いたからね。変な予感がしたと思ったが、それが単なる悪魔の囁きでよかったよ。」

 悪魔の囁き。でも、マルデナさん、それは本当の予感だったのですよ、と言いたかったが会話板を持ち歩いていなかったし、考えてみれば伝えるべき言葉でもない。  しかしその時僕は一つの事に気づく。僕が悪魔の囁きとして否定した事に、予感のようなものが入っていたんじゃないかと。

 “お前はこのように死ぬ”

 ふとその言葉を思い出して、寮に入りながら僕は身震いした。あれはドーファが 気が狂い、撃たれて死んだ時。もしもあれが予感だったらどうしよう。僕も気が狂って、打たれて死んでしまうのだろうか。

 いや、でも、マルデナばあさんは『単なる悪魔の囁きでよかったよ』と言っていた。予感があっても外れる事はある、と思いながら夕飯を食べていた。どうしてマルデナの予想が外れたのかというと、クルスが来たからだ。クルスに僕を励ますよう頼んだのはネイスンだ。三人とも同じ予感をしていた。マルデナ、ネイスン、クルスは三人とも僕が死のうとする事を予感し、クルスの励ましによりそれが回避された。予感を外すのは誰かの行動であり選択だ。

 部屋に入った頃には色々と考えがまとまるのを実感した。意思が予感をも覆す。つまり例えあれが予感だったとしても、自分がドーファのような死を逃れる方法はあるはずだ。自分の意志よ強くあれ。僕はその時クルスの最初の言葉をようやく思い出した。

『自分を信じて。自分の感覚を信じて。』



「サリア!元気そうだね!」

 ネイスンは再び面会に来てくれて嬉しそうに僕に話しかけた。それに対して僕は会話板で応える。

[ああ、ありがとう。君のおかげだ。]

「僕のおかげ?」

[クルスに頼んだのだろう?彼女から聞いた。励ましてくれたよ。本当に、死にそうだったが、立ち直れた。]

 ネイスンは驚いた目をして、やがてそれはすぐに緩み、「良かった、良かったよ!」 と僕に抱きついた。僕は困惑し、左手でネイスンを抱えながら右手で会話板に書いて、そのまま右手で後ろに回しネイスンに見せた。

[大丈夫なのかい?聖歌隊の神聖な身で、こんな御業で穢れた人に触れて。]

ネイスンは首を振って僕の頬を軽く擦った。「サリアは穢れてなんかいない。言ったでしょう?」

僕は嬉しくなってゆっくりと頷いた。

「そういえば。」ネイスンはふと真面目な声になって腕を放した。「それとちょっ とお知らせがある。」

僕は何だろう?と首を傾げた。ネイスンは言った。

「アルバント・キンベルク。」・・・その名を聞いて、もしや御業を受けて死んだ か?という不謹慎な期待が頭に浮かんだ・・・ネイスンは言葉を続ける・・・「彼 は、」・・・彼は・・・「悟者試験に受かったんだ。学院生のまま。」

 僕は驚きのあまり考えた事を全て失っていた。

「学院生で、それもまだ卒業しない6年生で悟者試験に受かるのは珍しいとされる。」ネイスンは言った。「それに、僕の中の悪魔がなぜかアルバントにバレていた んだ。」

 ネイスンの悪魔、それは男でありながら男を好む事である。

「それで、あいつ、僕を脅してきた。お前がサリアを愛しているのは知っている、 と。もしかして『無言者』に成り果てたサリアと時々会っているんじゃないだろうな、もしそうだったら、悟者の責務として考えない事はないぞ、まず、貴様がサリアへの愛をそそのかしているその悪魔が消えるよう、ナーディア先生に追い出してもらおう、て。」

 僕も知っていた。僕もこれ以上クルスと仲良くしたらネイスンの同性愛をバラすと言ってきたからだ。 「僕たち・・・いや、僕は傍目ではサリアの親友であるよう、そう見えるよう努力していたはずだ。もしも愛していると確信できる証拠があるとしたら・・・多分 あれを観られたんだ。」

 ネイスンは恥ずかしそうに左を観ていた。あれか。僕は頷いた。ネイスンが僕に口づけをした時だ。

「だから、今後頻繁に挨拶できないかもしれない。」ネイスンは言った。「ごめん ね。」

 僕は会話板に書いてネイスンにみせた。ネイスンは笑顔になった。 [大丈夫だよ。僕はちゃんと生きていく。ネイスンも自分の事をがんばってね。]





(さあ、僕に囁きかける声無き声よ。)

風がびうびう吹いて微妙に学院の灰がこっちまで流れてくるこの緑の丘で、僕はフードを被った頭で囁いた。寮の宿題はもう終えていたから時間は十分にある。

(悪魔呼ばわりしたことを深く反省すると同時に、今一度、僕に語りかけて欲しい。僕はこれから何をすればいい。)

 自分がこれから何かの力を身につけようとしている気がした。それは試験に受かるとか、歌が歌えるとか、そういう目に見える事ではないけれど、何かおそらく予想もつかない思考の世界に飛び込もうとしていた。自分が何者かになったとき、きっとアルバントは僕に目を付けるであろう事は明らかだ。否、初めから目を付けられていた。僕と関わった人たち、特にクルスとネイスン、時々ランチャにあいつは関与してきた。

(さあ、声よ、語りかけておくれ。)

 ランチャはどうせ声を失った時に真っ先に手の平を返したひどい奴だから、僕と関わった事に特に咎めはないだろう。というか出来るだけ痛い目にあってほしいのだが。クルスももともとアウトサイダーで許されているのと僕を脅したアルバントに拳で黙らせる程度に侠気あるから大丈夫だろう。問題はネイスンだ。ネイスンは最も不利な立場にある。ひょっとして苛められているのではないか、と一抹の不安が過ぎる。

(応えてくれないのか・・・)

 僕は色々と考えながら声無き声に向かって呼びかけるのだが、全く聞こえて来ない。一体どうしてだ・・・。一体、何故・・・。風は相変わらず強く吹きつけ、日 光は巨大な光線のように空の中央から一体を照りつける。


「ばっかねえ。大自然を目の前に自分の頭に向かって語りかけるなんて。そんなん何も聴こえるわけないわ。」

 クルスはくっくっくと笑いながら言ったので僕はむくれる。

「こういうのは継承で学んでいくのが王道よ。」クルスは言った。

 継承? と僕は思った。

「そう、継承。すでに力を持っている人と会話する事で、自分自身に自覚させるの。」

 どうやってやるのだろう。

「今やっているじゃない。」

 え?あれ?え?

「ふふふふふ。」

 僕は紙に字を書いてクルスに見せる。[どういう事ですか?]

「黙っていて悪かったけど、私はあなたの心がわかる。あなたも人の心がわかるはず。」 そういえば妙に時々話が通じるなとここ最近思っていた。ということはもしかして・・・ 「そうよあんたの気持ちは駄々漏れよ。今も続いているのね。お気持ちはとっても嬉しいわ。」クルスはニコリと笑う。

僕は恥ずかしくて赤面する。 「でも、だめよ。今、私とあんたは先生と生徒です。あんたが立派な大人になるまでは先生を辞めません。だから、」クルスは僕を見た。「私になにか、心で語りかけてみてよ。」

 僕はすうと深呼吸をし、入学してからこれまでの事を思い出し始めた。

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