#15 そうだ、そうして一年が終わったのだ
いよいよ今日が聖歌隊の試験である。僕は緊張のあまり寮の中を歩き回っていた。時々「あー、あー」と声を出すがあまり調子のいい声が出ない。本番の為にあまり過度な練習をしないようにした。ネイスンは聖歌集を見ながら沈黙している。外を見ると灰に続いて雪すら降っており、喉を痛める危険もあるから、身体を暖かくしないといけなかった。僕は未だに寮を歩き回る。ネイスンは聖歌集を見てうつむく。
そして僕ら二人は無言で外に出る。ザクッ、ザクッと雪の上を歩きため息をつく。白い息がでる。そのうち後ろから「おはよー」と呼びかける声が聞こえて振り返るとランチャであった。「おはようランチャ」と呼び返すと「緊張するね。」と笑顔で話しかけた。「そうだね、」と答えつつ、結局三人は無言で香壇を行く。灰と雪が交じり合い、結果的に綺麗な空気になっているような気がした。雪が来たのは幸運かもしれないぞ、と僕は思ったのであった。
結局僕たち三人が一番乗りであり、寒い香壇前を耐えなければいけなかった。やがて一年生のほかの二人や上級生がぞろぞろと現れた。デリンジ先生とダーラス神父は最後に現れた。
「みなさま、今日は特別、アリュヌフの神の御姿を見る事となります。ですが、被 り物をしていまして、本当の姿は見れない事になっています。その被り物の下を決して覗かぬようお願いします。」ダーラス神父はしめやかに言った。「デリンジ先生の指揮のもと、歌の審査が始まります。アリュヌフの神はお歌に厳しい方ですので、決して無理をして汚い声を出さぬよう、しかし全力を尽くしてお願いします。」
そうして香壇の扉が開き、ゆっくりとその中を入っていく。蝋燭で薄ら薄ら照らされたロビーのような部屋には、乾燥したセリウミャの入った壷が並んでおり、壷からもれ出る甘い匂いですこし頭がぼんやりとする。ダーラス神父とデリンジ先生が階段を上り、僕たちもその後に続いて足元に気を付けながらゆっくりと上がっていく。
『さきほどまで香壇の香りが満ちていて、その排気口を閉じたので、少しセリウミャの香りが強いかもしれません。』ダーラス神父はそう静かに言った。『気を確かに持ってください。』そういえば秋の祭典でここ香壇が焚かれた場所で歌った聖歌隊たちは、相当のセリウミャの香りの中で歌えるよう訓練されているのだろうか、それとも、今回は特別にアリュヌフの神の前に歌うけれど、いつもは香りのさほど届かない場所で歌っているのだろうか、と僕は不思議に思った。
扉は開かれる。
階段の上のその部屋は異様に奥行きがあるように見えた。否、それほどまでに、奥に座っている何者かが巨大に見えたのである。実際それは人ほどの大きさであった。神殿前の銅像と同じ、歯を見せて笑ってる一つ目の顔の仮面をつけており、赤く分厚いごてごてしたものを羽織っていた。仮面の目には赤い宝石が埋め込まれている。それは椅子に座っていたが、椅子の手すりの辺りに赤紫色の手のようなものが見えた。ただの偶像かなと思っていたら、被っている布がゆっくりと内へ外へと移動しており、明らかに何かが呼吸していた。身体は人型にしては異様に盛り上がっており、特に頭の上には何かが生えて横たわっているんじゃないかと思わせる膨らみがあった。
「アリュヌフの神よ、ああ、アリュヌフの神よ。」ダーラス神父は言った。「迷える我々を救ってくださり誠に感謝いたします。私はこの通り、新しい聖歌隊になるべき人 たちを選び出しました。」
「e...rhx...Bq...Dah...Nbvr...」
アリュヌフの神のその声は、金属の軋むような蝿の羽音のような奇妙な振動音であった。どこから声が発せられてるのか分からない程に異様な声色である。
「ありがとうございます。ネ・プロダズマ・ハディズマ。ここの皆様が歌われるのは、聖歌223番『聖なる神にこそ勝利がある』です。」
「x...Jvr...Qdbns...D...」
「ありがとうございます、ありがとうございます。デリンジ先生。」ダーラス神父 は呼びかけた。「アリュヌフの神が早く歌を始めよ、との仰せです。お願いします。」
「はい、わかりました。」デリンジ先生は手を上に上げる。僕たちも聖歌集を持って構える。珍しくデリンジ先生も真剣な表情で少し恐れも感じているらしい。そして指揮を振る。僕たちも息を吸う。そして声を出す。
・・・♪聖なる神にこそ勝利がある・・・
ああ、ついに歌い始めてしまった。もう止まる事はできない。観客は只一人の、恐るべきアリュヌフの神。一体神はどのような気持ちでお聞きになられているのだろうか。
・・・♪神は私を助けたもう・・・
僕にはもう周りの様子を眺める余裕など無い。アリュヌフの神にアピールできるよう美しく歌おう、と行く前ぐらいは考えた事はあるが、そんな気持ちなど神を前にして吹っ飛んでしまった。
・・・♪神が私を見守る事で・・・
テンポが遅めに感じた。デリンジ先生が歌いやすくなるように配慮したのか、或いは僕が、緊張をするとテンポが遅くなるタイプなのだろうかと思う。
・・・♪私の心は強くなる・・・
そうだ、心は強くなる。今僕は神に見守られていて、だからこのように心を強くしてうたうべきである。自分の歌う歌自身に励ましを求めて僕らは先を歌う。
・・・♪私は神を信じるが故に・・・
・・・♪アリュヌフの民の中にいる・・・
・・・♪私は神に愛されるが故に・・・
そろそろだ、と僕は思った。次の次の節である『聖なる〜』のところで非常に高い 音が出る。そこで僕の最大の強みであるボーイソプラノの高音を、アリュヌフの神にしっかりと届けるのだ。その一音が歌われるまでの時間があまりにも長く感じる。一瞬一瞬があまりに研ぎ澄まされ、おそらくかつてない集中力が僕の中で注ぎこまれている。
・・・♪アリュヌフの民で生かされる・・・
いよいよ『聖なる〜』の節がやってくる。デリンジ先生のいつもよりゆっくりな指揮がさらに遅く見える。手を1拍子、そして2拍子、3拍子で横切って、4拍子で皆が息を吸い始めその手が上がると同時に息が満ち満ちて上がりきる前に息の充填を完了し声を出す準備をして喉を震わせその高い声を響かせるべく喉を緊張させ、僕は歌う。
「♪聖なァッ!」
一瞬自分の身に起きた事が理解できなかった。あろう事か声がひっくり返った。昨日までそんな事の無い絶好調の声だったのに、声がひっくり返った。
・・・♪聖なる神は敗北を知らず・・・
声変わりだ。僕はその時悟った。あろうことかこのタイミングで声変わりが進み、歌えるはずの音が歌えなくなっていた。そして次に血が冷める感触と共になにかが吸い取られていくのを感じた。それが何なのか分からない。とりあえずはやくアリュヌフの神に気づかれる前に歌に戻らなければと思い声を発する。
「♪・・・・・・・・・・・・・・」
・・・♪時の移り変わりと共にいる・・・
「♪・・・・・・・!・・・・・・!・・・・!」
声が、出ない。声が全く出ない。目の前が歪むように見えた。どうしてだ。いくら声を出そうとしても胸が詰まって出てこない。むりに出そうとすると吐き気すら催し、苦しくなって跪く。
・・・♪変化の時こそ傍にいる・・・
声、声が。
・・・♪変化の時こそ傍にいる・・・
結局一言も歌えないまま歌が終わった。指揮を終えたデリンジは僕の事を冷たい目で僕を見ていた。何か言おうとしたが、胸が苦しい。聖歌隊候補者たちは歌が終わるや否や僕から離れた。その中にランチャもいた。もともと離れた位置にいたネイスンは呆然と僕を見つめていた。
「rQhnbv...Ddhng...」
アリュヌフの神が何か言う。
「わかりました。」ダーラス神父は厳かに返事し、そして皆に呼びかけた。「みなさま、聖歌隊員が決まりました。」
一同に緊張が走る。僕は胸を抑えながら、聖歌隊の夢は終わったな、と諦めていた。
ダーラスの口が開かれた。
「新しい聖歌隊員は、ネイスン・チルレア。」
ネイスンは今度はダーラス神父を見て呆然とした。
「神は仰せになりました。」ダーラス神父は言った。「ネイスンは美しい声に加え、他者を支える調和的な姿勢が見れる素晴らしい歌声であった、との事です。おめでとう。」
「サリア・・・」ネイスンは思わず声を漏らした。そして僕は突如デリンジ先生に掴まれ、皆のいる神室から、階段の下の壷のある部屋に連れてこられる。しばらくするとカメラマンが現れ僕の顔を撮り、乱暴に香壇の外に追いだされた。僕はふらふらと 歩きながら灰と雪の舞う校庭を歩いて寮の中に入る。寮を入るとき、「サリア・・・ え・・・ちょっと・・・」と同級生達が僕を見て驚き後ずさりする。「こないでよ、 こっちにこないでよ。」と言う者もいる。寮はとても入りづらい。もうみんなの僕を見る目で明らかではあったが、しかし僕は知りたかった。僕は寮のトイレに入った。鏡を見た。それはかつての僕の顔でなかった。目にはすでに恐ろしい隈が出来ており、口の中は真っ黒であった。声を奪われた聖歌隊員や上級生とまったく同じ顔をしていた。僕は絶叫した。何度も何度も叫んだ。しかしその悲鳴は、誰にも聴こえなかった。叫ぼうとしても声が出なかった。だから僕は激しくえづいた。それでも声は出ず、こめかみから顎に続く不快感と痙攣が駆け巡り、冷たい汗と苦しい涙だけが僕の身体から発せられた。それは年の終わりの事であった。年の終わりと共に、僕は全てを失った。
・・・そうだ、そうして一年が終わったのだ・・・
・・・振り返ると、本当にひどいものだった・・・
・・・振り返っても何も戻ってこない・・・
・・・しかしその先にも何も無い・・・
・・・僕はどうすれば、いいのだ・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・死ぬか・・・生きるか・・・
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