第5話 犬、分裂しない 1

 異世界には行けなかったので、夏野と和人はまたマンションの最上階へと戻ってきた。

 エレベーターを降りて玄関を開けて、夏野は言った。


「わたしは致命的な過ちを犯していた。それはあなたが駄犬だということを忘れていたということだ」

「いや、そんな名言のように言われても困ってしまうんだが……」


 執筆に戻るのかと思っていたが、夏野が開けたのは寝室の方のドアだった。


「異世界なんかに行こうと思ったのが間違いだったのよね。ここはやはり最新のネタを取り入れなければ」

「最新のネタ?」


 言うなり、夏野はベッドで横になった。いつもの黒い服のままで。


「じゃあ、わたしは寝るから」

「寝るのかよ!」

「起きたら、あなたは分裂しているのよ」

「はい!?」


 どうも今の夏野の思考には付いていけない。執筆で意識がハイになっているのだろうか。

 思っていると、夏野はすぐに起き上がってこっちを見た。

 赤い瞳がじっと見つめ、その下の口が開いて言う。


「分裂していないじゃない」

「当たり前だ!」


 さらに言い合いをしようとしていると、玄関でピンポンが鳴った。

 夏野の意識がそっちへ向いた。


「誰よ。こんな時間に。開いているから勝手に入ってきなさいよ」

「先生、こちらにおられたのですか」


 やってきたのは編集者の柊鈴菜だった。俺の気のせいだろうか。言った瞬間にはワープしてここにいたような気がするのだが……

 まあ、いいや。深く気にするのは止めておこう。

 鈴菜は足元の犬はスルーしてベッドに座っている夏野に話しかけた。


「お休みのところをお邪魔してしまいましたか」

「違うわ。分裂した犬を見ようと思っていたのよ」

「分裂した犬……ですか」


 鈴菜の目が足元の犬を見る。何か恐い。和人はちょっと身を引いた。

 幸いにも夏野が話を続けてくれて、鈴菜の意識はそっちに向いてくれた。助かった。


「最新のネタを参考にしようと思ったんだけど」

「あの分裂する話ですか」

「そう、あの分裂する話よ」


 どの分裂する話なんだ? 和人は気になって聞き耳を立てた。

 鈴菜と夏野の間で会話のキャッチボールが行われる。


「でも、あれ売れてませんよね」

「え!?」


 絶句する夏野。珍しい物を見てしまった。そして、悪あがきするかのように言った。


「読書メーターでナンバー1……」

「よそはよそですし」

「カクヨムで大人気……」

「評価は高いですね」

「これからヒットするかも……」

「その可能性は多いにありますね!」


 その自信たっぷりな編集者の言葉と態度に、夏野は驚き、安心したようだった。

 だが、続く言葉を聞いてその表情が凍り付いた。


「もしかしたら大罪シリーズより人気になるかもしれませんね!」

「はうわっ」


 夏野は肩を落として寝室のドアを出ようとした。そこで振り返って叫んだ。


「わたしにはわたしの世界がある! 奴には負けない!」

「おお、さすがは先生。応援している読者のためにも頑張ってください」


 さすがは編集者。乗せるのが上手いなと思った和人だった。

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