日常の変化の兆し
翌朝のこと、秋人は気だるい暑さの中で目が覚めた。
全身は汗だくで、夜にかけたクーラーの冷気など全く残っていない七月の七時半。
起き上がった秋人はスマホを取り、LINEを確認した。
「やっぱ夏の幻とか夢とかそういうのじゃないか」
LINEに残っていたシャーの登録ID。昨日のあの出会いはなんでもないリアルであったのだ。
これまで女子から敬遠され続け、まったく会話などもしたことがなかった秋人だったが、スマホに残った事実が、昨日の思い出をまざまざと蘇らせる。
――あの後。シャーのイヤホンを耳に付け、そのマイクに声を届けるために黄金の髪をふわりとくすぐらせて密着してきた青い瞳――。
互いの時が止まったように感じた。だが、はっとしたシャーは赤い顔でイヤホンを秋人の耳からひったくって、脱兎の如く走り去ったのであった。
スマホのホーム画面に残っていたアプリアイコンは、ウォークラリーとある。
彼女がダウンロードしたリアルな地球を舞台にしたゲームで、その解説も中途半端なまま、夏の日差しの中に残された秋人とチャオは、暫しぼんやりしたあと、真っ直ぐに帰路についたわけである。
「シャー、か。どういうつもりだったんだか……」
連絡しようと思えば連絡はできる。とは言え、女の子にLINEなどどう切り出していいかわからない。どうせ学校に行けば同じクラスなのだ。嫌でも顔を合わせることになる。何かあればあちらからアプローチもあるだろう。
それに、どうにも自分の中の常識の範疇から少しずれたところにある異文化少女の行動は図りきれない所があるのも事実だ。あのくらいのコミュニケーションはあちらでは当然レベルなのかもしれない。
のっそりと布団から起き上がって、朝飯を食べるため、秋人は自室から出て行くのであった。考えないようにと思っても、いつまでもあの金色の髪がチラチラと浮かんでは消えていった。
ところ変わって学校である。
一年一組の二列目一番前の席が秋人の席だった。ここに座るという事は、後ろのドアから教室に入ってこない限り、大抵の人間がすぐ傍を横切る。
亀山秋人という出席番号順で一年生の席が決まっていたため、「か」の頭であった亀山は二列目の一番前に来たようだ。
しかしながら、その二列目の他の生徒はたまったものではなかっただろう。
なぜなら秋人は、高校一年ながらに身長が百八十センチあるのだ。そんな巨漢が一番前の席に座ってしまうと、真後ろの生徒はまったく前が見えない状況になるわけだ。
一度秋人は席替えを提案したが、先生が一学期はこのままでと言われた。どうも生徒の名前と顔を一致させるために、一学期はどうしても席変更をしたくないらしい。ものぐさな話だが、先生がそういう以上、秋人はもう何もいえなかった。
後ろの席の木村栄太に「すまん」と声をかけたが、栄太はヘラヘラと笑って、「別にイイって、オレ居眠りしてもバレ無そうだし」と言ってくれたのが救いとなった。
それから何となく栄太とは仲良くなって高校で出来た友人一号になった。
「オッス。あと二日で夏休みじゃん? どっかであそばねえ?」
教室に入ってくるなり、栄太が言いながら後ろの席に座る。秋人はのっそりと巨体を動かして振り向いて「おう」と短く返す。
「じゃあさ、高校初めての夏をマンキツするためにも、やっぱ女子も必須だよな!」
仲良くなったある日の事、栄太は高校に入ってやりたいことが山ほどあると宣言し、薔薇色青春計画表というものを得意げに見せたことがある。その中に、高校の夏は青春の夏、恋に遊びに若さをぶちまけたい! と、記載されていたはずだ。
それを実践するためか、と秋人は納得しながらも、別段このテンション高めの友人を気に入っていたので、その提案自体には頷く姿勢をみせた。
「だが、オレに女子の知り合いなぞいない。そこは期待するなよ」
「んなの、分かってるって! そこはオレに任しとけよォ。女子だって、高一の夏は青春したいって考えてる奴、多いんだぜ? 誘えばすぐに釣れますって!」
「そうだろうか……」
栄太のどこからくるのか分からない自信に、秋人は汗を垂らせて目をハニワみたいに丸くした。
確かに、栄太は見た目はそこそこ整っている。とは言っても超絶イケメンとかそういうレベルじゃないし、中の上か、上の下ってぐらいだ。しかしながら、彼のグイグイくる性格は、女子には少しばかりウザがられるのではないだろうか。そして何より、自分が一緒だと分かれば、女子はみな戦慄してしまう事だろう。
(――この計画はダメになる気がする)
口には出さなかったが秋人は盛り上がっている友人の傍で苦笑いを浮かべているだけだった。
「ハイ、アキト!」
後ろを向いていた自分の後頭部にぺちんと軽く叩かれ、一声聞いて分かる声が耳に届いた。
ぐるんと向き直ると、そこには白い肌と小さな体躯に黄金の風をまとうようなシャーがいた。青い瞳を細くして、にっこりと笑っていた。
「お、おう」
「クラリーどうなった? もうトレーニングした?」
矢継ぎ早にシャーが質問をしてくるが、秋人も表情を固まらせて目の前でニコニコ笑うアメリカンガールに暫し眼を奪われていた。
その後ろでは、栄太が「え、何、なんで?」と二人が挨拶を交わした事に驚きの表情で二人を見比べている。
「いや、あれからすぐ帰ったし、全然触ってない。良く分からない所ばかりでな……」
なんとかそれだけ言葉にできた秋人は、低い声がさらに低く、地響きみたいに口の中で渦巻いていた。ちゃんと相手に伝わるかどうかも不明なモゴモゴだったが、シャーはぴょこんと跳ねるみたいにその言葉を受けて反応した。
「ナンダヨー! ちゃんとしろ?」
「お、おう……」
それだけ言うと、シャーはつかつか教室の奥へ進んでいった。席に付く途中で友人の女子に朝の挨拶をして、それから女子間でのトークがはじまったらしい。
「ちょっと、シャー? なんであのニオウ像に話しかけてんの! ヤバイって!」
「ニオウ? 臭い?」
「ちがうって! ちょっと、こっち……!」
秋人に聞かれたらマズイ内容なのか、友人の少女はシャーを手繰り寄せて耳元でナイショ話するみたいに会話し始めた。
気にはなったが、秋人は逆に気が付いてない振りをしようと思って、意味もなく、机の中をゴソゴソやりだした。一時間目の準備でもするか、と気持ちを組み立てていた時、後ろの栄太がグーで、ぼこりと突いて来た。
「オイ、なんだよ、なんであのフィリップスさんと挨拶してんのよ!?」
「あぁ、いや……ちょっと」
「ちょっとなんだよッ?」
「ううむ……後で話す……」
「絶対だぞっ」
説明するのは簡単だったが、ここで話すと、当の本人の耳にも届きそうだ。あっちもあっちで秋人との事を話し込んでいるようだし、ここは大人しくしておきたかった。
それに、秋人はちょっと考え事が頭に渦巻きだして、栄太との話どころではなくなったのだ。
(シャー、なんでもないみたいに挨拶をしたな。……叩かれたが……やっぱり、あっちはスキンシップがアグレッシブなんだな)
挨拶だけなら言葉でいいじゃないか。そこに後頭部にぺちんとやられては、生粋の日本男児である女性経験の全く無い秋人にとっては特別な意味のように捕らえそうになってしまう。
そうではない、これは単なる挨拶で誰にでもやるものだと、冷静に自分の中の感覚を冷ましながら、秋人は一時間目の準備を始めていく。
(考えすぎだったか? 昨日は逃げるみたいに別れたから、気にしているのかと思ったが……ううむ、分からん)
女心と秋の空という言葉もあるのだから、シャーの心持ちも風のように切り替わって流れていったのかも知れない。いくら考えようとも、その回答など得られるはずもなく、いつしか教卓には国語の教師が立っていた。
「亀山。教科書、英語が出てるぞ」
教師の声でハッとした。机に用意していた授業準備は、一時間目の国語のものではなく、英語の教材が出ていた。
慌ててそれを片付けて、国語の教科書を引っ張り出す。
クスクスと笑い声がした。女の子の声だった。いくつかの声がしたのに、たった一つの笑い声が妙に耳に響いた。
ちょっと特徴的な日本語ではないペースと息遣い――。
シャーの鈴のような笑い声が、秋人をさらに真っ赤にさせたのであった――。
そして、昼休みのこと。いつもは教室で食べる秋人だったが、人目をさけるように、栄太と共に体育倉庫付近まで態々やってきて昼食のパンを齧っていた。
「で……?」
「おう……」
栄太が興味津々に覗き込んできて、今朝の質問の回答を催促した。秋人も隠すわけではないのだが、説明することが不慣れなので、もごもごと口を動かしながら、ひとつずつ昨日の事を説明していった。
「……というカンジだ」
「な、なんだよそれ羨ましい! お前知ってんだろ!? あのシャルロット・フィリップスはうちの学年の、いや学校のマドンナだぜ!?」
マドンナとは古臭い言い回しだが、彼女の場合、アメリカ人の人気美少女という意味も込められ、『マドンナ』とされている。
栄太のいうとおり、シャルロットは、この学校の生徒が誰しも御近づきになりたいと考えているアメリカンガールなのだ。
黄金の美しい髪はさらさらと風に流れ、それを活発そうな性格を現すように、外側に跳ねたミドルヘアのクセっ毛。あれが昨日は、秋人の頬を撫でたのだろう。くすぐったさが今も頬に蘇ってきそうだった。
その大きく可憐なアクアマリンの瞳の光に見つめられれば、誰もが心を奪われるのではないかとも言われていた。
色々と校内では噂なシャルロットであるが、それほどまでに可愛らしい少女という事だろう。
栄太が羨ましがるのは当然ともいえるかもしれない。
「……でもおかしいんだよ。あいつ、オレの名前を知ってたんだ。オレを見つけて、『アキト』って言ったんだぞ」
「あっちじゃ名前呼びがフツーなんじゃね?」
「そうだろうか。お前、クラスのやつの下の名前、どのくらい言える?」
「……ほとんど言えん」
「だろう。日本じゃあんまり下の名前で呼び合う風習がないから、耳に入ってくるのはほぼ苗字だ。だから、覚えるんだったらカメヤマで覚えるのが普通だと思うんだが……」
「まぁ、そうだな。……じゃあちょっと実験してみねえ?」
栄太が面白そうな事を思いついたらしい顔でニタリと笑った。秋人はなにやら嫌な予感もあったが、シャーの事が気がかりであったから、栄太の『実験』に
手早く昼食を済ませた秋人と栄太はさっさと教室へ戻った。
栄太が自分の席に付くと、「実験開始」と小声で呟いた。
秋人は何をするつもりなのかと黙ってみていたが、栄太がシャーの席のほうへ向かっていくと、女友達談笑している中に入り込んで、なにやら会話を始めた。
「オッス、フィリップスさん。吉原さんもオッス」
「何かよう?」
友人のほうの吉原ともえが返事した。シャーはきょとんとした顔で栄太を見つめ返した。
「いやー、もうすぐ夏休みじゃん? オレ、今年の夏は遊びまくるって決めてんだけど、良かったら一緒にあそばないかなって」
「なんで?」
「ほら、高校一年生ってまさに青春真っ只中じゃん? 三年になるたびに、今度は受験が迫ってくるし、一年で思いっきり遊んどかないとソンするっしょ?」
「いや、だから、なんで私たちがあんたと一緒に……」
饒舌な栄太のトークに切り込んでいくともえだったが、その質問にシャーが割り入った。
「ドコいくの?」
「あ。あー? 色々! 海とか山とか、遊園地とか? プールも面白いかも……」
要するにほとんどノリで決めるんだな、と遠くで聞いていた秋人は半ば呆れながら聞いていたが、シャーがこの話題に食いついてきた事に少し驚いた。もし、栄太の誘いに乗ってくるのなら、よりシャーの事を詳しく知ることができるだろう。
「ちょっとシャー。まさか行く気なの?」
「ん? んー。気になったダケ」
「そういわずに、一緒にいこうよ。カラオケとかすぐそこのでもいいし……」
誘うために、栄太がハードルを低くしようとしたが、その言葉を聞いて、シャーは明らかに興味が薄れたらしい。
「じゃあ、ヤメル」
「ええええっ、なんでっ?」
急に興味をなくし始めたシャーに栄太は慌てて食い下がった。
なぜと問うても、シャーはもう口を開かなかった。吉原が掌をふりふり、栄太を追い払う仕草で会話の終了を伝える。
「はいはい、残念でした。ナンパは余所でやってよ、ほんとシャーがどんだけ迷惑してると思ってんの?」
「ナンパじゃなくて……。いやこれ、ナンパになるのか……? うーん、でもちょっとは興味あったんじゃない?」
「しつこい男は嫌われるよー」
完全にシャーを護るようなともえの返しに、もう乙女心は押しても引いても動かなそうだった。
栄太も一端ここは退却するしかないな、と諦め身を引こうとした。が、去り際にひとつだけ、『実験』を開始した。
「ところでさ、フィリップスさん。オレの名前、しってる……?」
「Ah……? キムラクン」
シャーは栄太の胸についている名札を見ながら言ったのを確認した。それで栄太はそのまま「お邪魔しました」と静かに去るのであった。
よれよれと自分の席に帰ってきた栄太を気遣って、秋人は「お前、色々すごいよ」と励ました。
女子にあそこまでざっくばらんにナンパする友人に、自分にない物をもっているなと素直に感心していたが、半分慰めも入っていた。
「いや、言われて気が付いた。これ、ナンパだったんだな。なんか、ハズかしーわ、オレェ……」
気が付いてなかったのかと、秋人は遠い目で友人を見ていた。栄太の純粋に夏と青春をマンキツしたいという願いは、邪なものではなかったようで、そこもまた、秋人は内心評価してあげた。口には何も出さなかったが。
「……ナンパはダメだったが、実験はとりあえず完了だ」
「……実験というより、ほとんど直球体当たり検証になってなかったか」
「オレの名前はキムラクンだった……」
「まぁ、……木村くんだ」
真っ白な灰のような姿で、口からなにやらエクトプラズマのようなモノを吐き出しながらキムラクンは確認するように続けた。
「お前は、アキトで呼び捨てだったんだって?」
「おう……」
「夢じゃね……?」
「……今朝もそう呼ばれたのを、お前も聞いてたよな。キムラクン」
「……夢も希望もない……」
かくして実験は終わりを告げた。
その結果、秋人は更なる謎が生まれた。
(――なんでオレの名前を……アキトと呼んだんだろう――?)
ちらりと金の風を盗み見た。
友人と朗らかに笑う少女は、キラキラしていた。光の中で眩すぎて、秋人には彼女がしっかりと見えなかったようにも思えた――。
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