第17話 堺へ 7


石山から船で、下間虎寿がやってきた。

「少将様。まかり越しました。このたび剃髪し、下間頼廉の名を法主様より頂戴仕りました」

「待ってたよ。これからよろしく頼みます。ところで、通名はあるの?」

「はっ。源十郎と」

剃り上げた頭も青々しい小坊主殿だ。

だが、得度の中で少し、人間的に成長したのだろう。どこかしら、ほんの前に別れた時より、表情が大人びて見える。

「うん、源十郎、いずれ官名を授けるけど、しばらくはそう名乗っておいて。お前は俺の近習にしたいけど、いいかな?」

「はっ。ありがたく」


実際のところ、良之は今でもあまり本願寺――浄土真宗は信用できないと思っている。

だが、少なくとも石山の証如らは人間的にも思想的にも問題はなかった。

そこに、虎寿改め源十郎のような人的なパイプが出来るのはありがたいことだった。

それに、なんと言っても、彼自身が聡く、かわいげがあった。

良之は元来、あまり子供に懐かれるたちではない。

それだけに、自分への好意を隠そうとしないこの少年に、感じるところがあったのかも知れなかった。

「皮屋さんに頼んで、この先の旅に必要な僧衣や荷物などを揃えておきなさい。終わったら、お千や阿子たちと一緒に、読み書き・算盤・茶の湯などを学びなさい」

「はい」

ひとまず京にいる間は、彼にも基礎学習を受けて欲しいと良之は考えている。


ひとまず、関白からの返信が来るまでの間、良之は銅座の候補地を探して歩くことにした。

まず、堺から船に乗り、海上から銅座の候補地を見て歩いた。

堺の商人たちは主から小僧に至るまで、そして堺を護る雑兵たちも含め、一人残らず食料生産業ではない階層になる。

堺が商業地として拡大するにつれ、元々この地で漁を行っていた猟師たちは移住を迫られ、堺の南に、湊という集落を作った。

消費地の直近であるため、その関係は良好だっただろう。

だが、人口に比べ消費が著しいため、ひとつ隣の漁師町も栄えた。

海上四キロほど南にある船尾である。

船尾は元々、石津川と三光川に挟まれた堆積地だ。

両川の運ぶ砂礫の量は多いようで、かつて太古の昔から沖だったとされる場所はすでに内陸になり、現在はさらに西の沖合に猟師小屋が建ちならんでいる。

良之は、この一帯に目を付けた。

船からの上陸はあきらめ、堺に引き返してから馬で見に行くことにした。

石津川の北岸には、古くからある寺社仏閣が多い。

特に川の名前の元になった石津太神社は、帝の後押しもある神社だ。

対する南岸は、石津川と三光川に挟まれた低湿地帯であるだけでなく、四ッ池と呼ばれる池を筆頭に、池沼が異様に多く、さらに川や海に運ばれた低湿地帯特有の地質のため、ひどくぬかるんでいる。

大雨が降ったりすると氾濫原になったり、高波が来ると打撃を受けるような土地のため、あまり大規模な寺社の進出は起きなかったようだ。


とはいえ、この地は太古から人が定住した痕跡がある。

細々と耕すものの話では、頻繁に土器などが出土するようだ。


この時代、後の紀州街道となる住吉参道は船尾まで整備されていない。

世が下って紀州街道が完成すると、ここに北畠顕家討ち死にの碑などが建つ。

北畠顕家は海岸に追い詰められて討ち死にしたので、この碑の位置は往事の海岸線をしる手がかりになるかも知れない。

それはともかく、堺の中心を貫く通りは、まっすぐ線を引くと住吉大社の参道へと連なっている。

その線を南に引き下ろせば、現在の紀州街道にほぼ相当する。

陸路としても海路としても、銅座を作り堺に棹銅を搬出するのに具合が良いだけでなく石津川と三光川を利用した環濠集落の形成にも利便性が高い。

さらに、東には熊野古道が通っている。

熊野古道を利用したこの地の開発、そしてその後の食糧供給路も確保できる土地だった。

良いことずくめのようだが、いくつも問題はある。

まずは干拓し、次に相当量の盛り土を行う必要がある。

先にも触れたが、この地は石津川と三光川に挟まれたいわば中州のような立地にある。

当然、土地の形成はこの両河川の氾濫による扇状地、沖積地であると想像された。

それは、太古以来人が住んでいた形跡が豊富に残されているにもかかわらず、現在は荒れ果てた氾濫原に甘んじていることで証明できる。


良之が銅座の候補地として船尾を見つけ、さらに周辺を探索して歩いていると熊野古道をわずかに南に下った先の地平線に山が見えた。

土地のものに聞くと、信太山という。

船尾からは約4kmほど南東に当たる。

もしかしたら、有力な盛り土の供給源になるかも知れないと良之は思った。


もう一つの候補地は、大雄寺跡だった。

浜寺の異名で親しまれた海岸沿いの巨刹きょさつだったが、応仁の乱で門前町もろとも焼失した。

だが、この場所は膨大なスペースこそ提供するものの、結局のところ良之の関心は引かなかった。

堺から遠くなりすぎることもあったし、そもそも、戦で焼けるというのは責め手があるという何よりの証拠に思えたからだった。


武野紹鴎に「銅座の候補地を見つけました」と伝えると、彼もまたいくつか候補地を選んでくれていた。

ひとつは、堺の南にある少林寺のさらに南東一帯。

もう一つは、先日南蛮絞りの評価をしに行った朝香山村にほど近い遠里小野おりおのだ。

双方、提案地を案内し合ったが、遠里小野の立地は非常に良かった。

だが、紹鴎は

「船尾は素晴らしいでんな」

と良之の見立てを褒めた。

「ただ、かなり金と時間がかかりまっしゃろな」

と見積もった。

農閑期に近隣の住民たちを銭で傭い、干拓をする必要があった。

「どないですやろ? 船尾を干拓するまでの間、遠里小野を使こてみたら?」

紹鴎の提案に、良之も賛同した。

こうして、まずは遠里小野の地で、銅座を開設することにして、準備方を紹鴎に一任したのだった。




そうしている内に京の関白から返信が届いた。

銅座の件、根回しが整った故、急ぎ参内するようにと書かれていた。


「じゃあ少し京都に戻ってくる」

フリーデ、アイリのみを連れ、残りは全員堺に残し、良之は京に向けて旅だった。

侍たちは堺では何らかの遊学が出来たし、小者たちも、もし読み書き算盤が出来るようになれば地位の向上が約束されていたので、必死で学ぶ者達が現れていた。

乗馬が苦手な家司たちもまた、この期間を利用して特訓に励んでいる。

望月荘からきた小者たちは、この時代の新技術である鉄砲の撃ち方修練に励んでいた。

これは、特に良之から命じられてのことだった。

隠岐を中心に家司や諸大夫からは安全上の理由から反対の声も上がったが、

「大人数だとかえって移動時間がかかる」

という理由で却下した。


堺から山崎までは船で向かう。

山崎までの船便は時間がかかるが安全性が高い。

堺からだと、乗り合わせにもよるが二昼夜で山崎まで着く。


山崎では、三好長逸・十河民部大輔一存らが、率いてきた一万八千の兵の撤収を行っていた。

「やあ、二条少将様ではございませぬか」

めざとい臣が伝えたのだろう。十河民部大輔が声をかけてきた。


「京へお戻りですか?」

「ええ。帝より参内を命ぜられまして」

良之が答える。

「ではお供をお連れでないのは……」

「上り船だと邪魔でして」

邪魔、という言葉がおかしかったのか、愉快そうに民部は笑う。

「豪儀な御方だ。我が岳父しゅうと様もそうであったが」

民部の妻は九条稙通の実子である。

植通の父九条尚経の娘が良之の祖父になった二条尚基に嫁いでいる。

つまり、良之と十河民部は九条尚経を通じた縁者はとこという事になる。

そのためか、民部は良之に親しみを覚えてくれているらしい。

「京から堺は、下りは早いですが上りは不便ですからね」

良之が苦笑すると、民部も

「さよう、さよう」

と笑ってくれた。

この時分。民部はすでに鬼十河と呼ばれるほどに名を上げているが、天文元年の生まれなので数え19、実年齢で18才である。

随分立派なもんだ、と21才の良之は感心せざるを得ない。

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