第13話 堺へ 3


その日の夕餉は、随分張り切ったものが饗された。まさに山海の珍味といった豪華さに驚いたが、もっとも良之を喜ばせたのは、この膳に醤油が出たことだった。

「法橋殿……これは?」

「ああ、それは近頃紀州にて発明された醤醢ひしおで、溜まりたまりと申すものでしてな。未だ量が作れぬ故、特別な日にのみお出ししております」

溜まり醤油か、と良之は喜ぶ。

醤油はこの時代にはまだ存在していないのかと、あきらめていた良之だった。

それが、もしかしたら手に入るかも知れない。

少なくとも、製法についてはすでに現地でも理解しているものがいる、ということで、これはありがたかった。

「堺のあとで是非紀州に遊学に行こうと思います。もし作り元をご存じの方が居られましたら、お教えいただけませんでしょうか?」

「はは、おやすいご用にございます」

法橋は、まるで子供のようにはしゃぐ良之をみて、自分自身も嬉しくなったのか、柔らかく微笑んだ。

その姿に、法主も小さくうんうんとうなずいた。


翌朝、夜明けと共に良之主従は起こされた。

彼らはお勤めこそしないが、ほかの迷惑にならぬよう身支度を調え、朝餉を待つ。

やがて僧たちのお勤めが終わると、信徒たちもお堂に来て、各自朝の勤めを終えて解散する。


良之主従も朝食をいただき、出立の準備がととのった。

「おはようございます」

下間上野法橋が法主を案内して、客間の良之にあいさつして控えた。

「少将様、本日はよろしくお願い申し上げます」

法主が手を合わせ、頭を下げる。

「はい、できる限り」

良之も同じように頭を下げた。

「案内に二人、お付けいたします……こちらに」

法主が頭を下げたまま呼び出す。

「これは下間筑後法橋。こちらが下間虎寿」

筑後法橋と呼ばれた方は若々しい精力的な僧だった。法橋を名乗るという事は血統的にもエリートなのだろう。

虎寿、と呼ばれたのは幼名から分かる通り、まだ得度を済ませていない童子姿の少年だ。

この時代では、11-16才あたりで元服をする。


下間姓は代々本願寺の僧官、つまり幹部になる候補生の家柄なので、この虎寿もおそらく、将来は法橋からはじまる出世コースに乗るのだろう。

下間氏の祖とされる源宗重は、真宗の宗祖親鸞の内弟子だった。

一族が謀反を企てた門で宗重も処刑されそうになった。そこに居合わせた親鸞が、自らの弟子として出家させることを条件にして命を救ったという。

やがて親鸞が東国に下ると同行し、親鸞が庵を構えた下妻の地から下妻氏を名乗るようになったという。

それ以来、本願寺においては、武家で言うところの家老のような立場で代々仕えている。


「良くご案内なさりますよう」

「はっ」

「はいっ」

法主の言葉に二人はうなずいた。


本願寺を出て馬上の人になった良之主従は、河内久宝寺の地にある顕証寺へと向かった。

筑後法橋は意外、でもないが器用に乗馬をこなした。

だが問題は虎寿だった。

12-13才に見える虎寿は、大きな風呂敷を抱えている。片道二時間半ほどの行程とはいえ、馬にあわせて比較的早足で進む一行に必死で着いてきているが、もうじき、疲労で動けなくなるのは明らかだった。

良之は右手を挙げて一行を止める。

「隠岐、虎寿の荷物を誰かに代わらせよ」

「はっ」

隠岐は、小者の1人に荷物を持たそうとする。ところが、虎寿にとっては大事なお勤め。

我を張って、荷物を渡そうとしなかった。

「虎寿」

「……」

幼いとはいえ、虎寿も相手が二条関白の弟御で三位少将だとわかっている。

頭を下げたまま、返答しない。

「直答を許す」

隠岐が声をかける。

「虎寿、そなたに大事な用をお願いしたい。良いか?」

「……はい」

消え入りそうな声で虎寿はうなだれたまま返事をする。

荷物を預けて、帰されるとでも思っているのだろう。聡い子だった。

「隠岐。虎寿を俺の前に座らせろ。虎寿。これから訪ねる光応寺殿のお話を俺に教えてくれ。お前が徒歩だと聞きにくい。俺と同乗して話すが良い」

ちら、と筑後法橋が厳しい視線を虎寿に送り、ふと良之に目を移す。

良之は、刺すような視線で筑後を見つめている。

筑後法橋もただの男ではない。文武に秀で、武家も逃げ出すほどの剛の者だった。

だが、一瞬、まるで気をのまれるように良之の視線に射すくめられた。

「法橋殿、よろしいな?」

やむなく筑後法橋はうなずいた。

「さ」

小者が虎寿から荷を受け取ると、すかさず良之が左手を差し出す。

つい、虎寿は充分の手をその手に伸ばした。

そのとき、良之の小者がさりげなく虎寿の腰を持って馬まで引き上げてくれた。


――立派な御方だ。


虎寿は訳もなく感動していた。ただ、感動していた。




片道二時間半ほどの道行きで、虎寿は訥々と、光応寺蓮淳のことを語って聞かせた。

第六世、中興の祖とまで謳われる蓮如の6男であること。

現法主証如がわずか10才で法主をつがねばならなかった時、彼が後見として支え、今日まで証如の心の支えであり続けたこと。

若い頃はとても恐ろしい人物だったが、近年下々にまでとても優しく接するようになった事。

87才になるが、倒れられるまではとてもお元気であったこと。

話しているうちに、徐々に虎寿の緊張はほぐれた。

緊張が去ると、虎寿は不思議な感覚を良之から感じるようになった。

それは、あるいは昨晩上野法橋がアイリから感じたものと同様だっただろう。

彼は、はっきりと良之のマナを感じ、それが自分の身のうちに染み込んでいくことも感じていた。

良之も、自身の身体から漏れるマナを虎寿が吸収していることに気づいていた。

2人は、穏やかに話を続けながら、やがて顕証寺に到着した。


顕証寺に着くと、筑後法橋が大声で寺の小者を呼び出し、良之たちの来訪を告げる。

証如自らの文を蓮淳に届けさせると、良之の臣たちに宿坊での休養を手配し、さらに、良之、隠岐、フリーデ、アイリの四名を庫裏に案内する。


しばらく待つと、庫裏から準備が整ったとの知らせが来た。


蓮淳は床に半身だけ起こした姿で来客を待っていた。

「二条三位少将です。私の臣の同士に方術にて病を癒やす者が居ります。法主様の願いにて、三位法印どのの診察に参りました」

「文を見た。かたじけなく」

老齢でかなり参っている様子が見て取れた。

おそらく、病と暑さ、それに不衛生な状況で危険な状況と思われるが、それを精神力で押し殺し、周囲に見せまいとしているのだろう。

「では早速」

「頼み申す」

良之はアイリに視線で指示を出す。

背後からアイリが回復魔法をかけ始める。

「む!」

蓮淳の重いまぶたが、かっと見開かれた。

アイリは、今までに見せたことのない疲労感を額や頬に滲ませている。

つっと彼女の頬に冷や汗が伝う。

だが、眉ひとつ動かさず魔法を使い続け

「終わりました。胃腸の衰弱が激しかったため全身が衰弱していましたが、おそらく大丈夫かと思われます。右肩と左足の股関節に深刻なダメージがありました。転倒による骨折でしょう。治療しました。腎臓と肝臓も癒やしました」

早口で良之に伝え終わると、ふうっとため息をついた。

「席を外して休ませていただきます」

とアイリが言うので、彼女が休める部屋を用意してもらった。

「いかがですか? 法印殿」

「……これはたまげた。こんなことが起きるものなのか」

法印はそっと立ち上がった。慌てて筑後法橋が支えると、

「……うむ」

と法印はその瞳をまっすぐみてうなずいた。

「悪い部分は方術で癒やしました。ですが、衰えた筋肉や骨までは何とも出来ません。どうぞ、適度なお食事と散歩などで徐々にお体を慣らしてください」

「法主様の文は読んだが、さすがに信じてはおらなんだ。じゃがこれは……これは味おうたものにしか分からぬ感動じゃ。かたじけない、少将殿」

「それは良かったです」

「……聞けば上野法橋、そして我らが法主様まで癒やしてもろうたとか。この恩義、愚僧らは誰1人忘れませぬぞ」

「そのお言葉が、何よりの宝です」

にこりと良之が微笑むと、やせ衰えた老僧の瞳は、再び炎を得たように強く光った。


良之たちが病床を遠慮し去ったあと、蓮淳は祐筆に自身の体験と結果を法主への報告として認めさせた。

署名を済ますと、それを控えていた筑後法橋へと手渡した。

「法主様によしなに。恢復を待ち、参上仕る」

「はっ」

筑後法橋は畏まってその文を預かった。


「フリーデ、魔法回復薬はありますか?」

「……はい。やっぱり。無理しすぎたんでしょ」

アイリは一気に大量のマナを使ったため、船酔いに似た症状で顔を青くしていた。

マナの枯渇で死ぬことはないものの、こうしてひどく足下がおぼつかなくなる。

めまいや悪心も起きるので、手っ取り早く回復させるには、マナポーションの服用が効果的だった。

フリーデからポーションを受け取ると、アイリは一気に全て呷った。

「ん……有り難うフリーデ」

空き瓶を返すと、フリーデはそのビンを再び懐に戻した。

懐にしまうように見せて<収納>に戻しているのだろう。


「さて、じゃあ行こうか」

アイリが回復して出てきたので、良之たちは出立の準備にかかった。

「筑後法橋殿。俺たちは途中から堺に別れます。法主様によしなにお計らい下さい」

良之は帰りも虎寿を乗せ、傍らを少し先行して進む法橋にいった。

「とんでもない。法印様からの言付かりもございます。何より、これほどの恩義を受け、礼も申し上げず別れて帰っては、愚禿たちが叱られます。ここは何卒お顔だけでも、御坊にお出し下さいませ」

「……はあ、わかりました」

行きと違い、やけに筑後法橋の表情が柔らかい。

なるほど、彼は彼なりに忠義心から良之のことを疑っていたのだろう。

良之の心を法橋も読んだ。

苦笑し、

「お詫び申す」

と手綱を離して右手だけで拝んで見せた。


途中、虎寿が居眠りを始めた。良之はその彼の身体を優しく護りながら、石山御坊へと戻っていった。




ここ数日、朝が早かったため、良之主従は昼餉のあと午睡を取らせてもらった。

さすがに騎乗は騎乗なり、かちは徒なりに疲労のピークだった。

夕刻。夏の炎天下を邸内で休んだことで、全員それなりに元気を取り戻していた。


夕餉のあと、良之、隠岐とフリーデ、アイリは、再び法主証如からの礼と酒膳を受けていた。

法主にとって蓮淳は、外祖父であり師であり、後見人であり、とても大切な存在だった。

我が身のみならずそうした精神的支柱を救われて、証如は溢れる涙を隠そうともせず喜んでいた。

本願寺としては、法主、後見の法印、そして坊官上座・奏者の上野法橋という首脳部の重鎮の命を永らえてくれた大恩人に、どのように報いようか考えていた。

「率爾ながら、愚禿らにとっては公達の方々が望むものは分かりかねます。とにかくは、金子をご用立て……」

それには、良之が首を振った。

「俺は金には困っていません」

「では、お困りのこととは……」

「人材です」

良之は言う。

「俺はこれから、帝のためにとある国の国司となり、そこで工業を興すつもりです。そこで働いてくれる人材が、喉から手が出るほど欲しいのです」

「ほう……どのような? 職人ですか?」

「ええ、職人も欲しいのですが、それより、俺の右手になり左手になり、目になり耳になる。そういった能力を持った人材が欲しいのです」

そのため、例えば堺、紀州といった本願寺にゆかりがある人材、あるいは技術者集団へのつなぎがお願いしたい、良之はそう改めてお願いした。

「その人材、例えばこの本願寺にも居りましたか?」

法主の問いに

「ええ、幾人かは。でも、法橋の方々はさすがにいただけませんよね?」

「申し訳ございません」

「実は、虎寿が俺にとっては欲しい人材の筆頭です」

「虎寿、でしょうか?」

法主も上野法橋もおどろいた。

「確かにあれは聡い子ではありますが、まだ元服も得度も済ませて居らぬ童でございましょう?」

法橋が問い返す。

「あの子は、もしかしたら、皆さんを治癒したあの医術が使えるようになるかも知れません」

「なんと!」

「断言は出来ません。素養があるとしか……」

「さようですか」

法橋が黙ったのを継いで、法主が訊ねた。

「もし少将殿にお預けするとして、虎寿はいかなる身分になりましょう?」

「そうですね……まずは近習。長じて才が伸びれば、ひとまず四位までは。それより、反対にもし彼をお預かり出来るとして、それは武家でしょうか? 僧籍でしょうか?」

良之の問いに、2人は顔を見合わす。

「それはいっそ、本人に聞くのがよろしいでしょう」


「お呼びでしょうか?」

もう床についていたのか、眠たそうな顔をした虎寿が、上野法橋に連れられて対面所にやってきた。

「虎寿。その方に大事な話がある。身をただして良く聞きなさい」

法橋が言う。緊張が伝わったのか、虎寿はすっと背筋を伸ばした。

それを引き取って法主が続ける。

「二条少将様から、こたびの一件でその方を臣下に取り立てたいとの仰せがあった。ただし、武家として仕えるか、僧籍で仕えるか、ここに残るかはその方の考えに委ねて下さるとの仰せじゃ。その方、よく考えて明日答えよ」

「お仕えしとう存じます!」

「虎寿。俺に着いてくるとこれからずっと旅の空だ。それほど楽な旅じゃない。仲間とも家族とも会えない。それでもいいのか?」

良之は、言ってはみたが、考えてみると彼の人生をすっかり変え、身内からも切り離してしまうことに気づいて、少し迷いが出ている。

「平気です!」

虎寿はすっかり眠気が引いた頭に、どんどんと血が上っていくのを感じた。


「最後に、虎寿。少将様に仕えるにあたり、その方は武家となるか、得度僧となるか? 選びなさい」

意外なことを言われ、虎寿は一瞬理解が遅れ、その後に戸惑いが来た。

「あ、あの」

数秒悩んで口ごもったが、虎寿ははっきり決めたようだ。

「得度を受けとうございます」


得度を受けるため、虎寿は引き続き寺に残ることになった。

「どこに行っても分かるようにしてるから、まずは堺の小西屋においで」

「はい!」

「法主様、法橋殿、お願いいたします」

「こころえました。こちらこそ虎寿をお願い申し上げます」

そうやってあいさつを済ませ一同は解散し、就寝した。

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