第2話 プロローグ2


安倍晴之は、大学四年の夏休みを、昨年末に死んだ祖父の形見のキャンピングカーで旅して過ごしていた。


8人乗れるキャンピングカーに一人っきりなのは、細かい言い訳をすれば就活の忙しさがピークの時期であるとか、昨今の就職難のせいであるとかいくつでも付けられるのかも知れないが、端的に言ってしまうと彼の性格ゆえであろう。

本質的な部分で彼は群れるのを嫌う質である。

同様に、親戚をこの車に乗せるのも晴之にとっては御免被りたい。

彼自身、一族中では社交性の乏しい男とみられているし、それを良しとしている。


国立最高峰の工学部に所属し、実家は規模こそ中小レベルだが安定している企業を経営する一族。

そして見た目も人並み以上だ。

もし彼に誘われたら、少なくともデートくらいなら間違いなくつきあいたい、と考える女性は多いだろう。

そんな家庭の資産状況で、かつ恵まれた容姿でありながら、こうした旅行の助手席に乗せる女性がいないというのも、彼の特徴的な人格の一部だろう。




彼の祖父である安倍晴貞は戦中生まれだった。

規模は職人数人の町工場ながら、戦闘機の精度を要求される部品を手作りしていた精密加工職人の家に生まれた。

戦後、時代の変化に対応出来ないいくつかの工場や部品商などを買い取りつつ、柔軟にニーズに応じて自動車やバイクの部品、電化製品の部品、精密機器の部品などを手作業で仕上げるスペシャリストとして厳しい時代も乗り切ってきた。


晴貞には男3人、女2人の子供がいて、彼自身の引退と共にその5人に会社をそれぞれ分けて譲る形で身を引いた。きっかけは、妻の死だった。


「仕事が落ち着いたらどこか旅行に行こう」

いつもそんな話を妻とはしていた。

いつもは

「はい、期待しないで待ってますからね」

等と微笑んでくれた妻だったが、最後に

「そんなつもりもないくせに」

と、本気で怒られて以来、口にしなくなった。

そのときもう妻は自分の余命を知っていたのだった。


妻に呼び出されて病院に駆けつけると、無慈悲に医師から、末期の大腸癌で転移も認められる。余命はもう幾ばくもない、と聞かされた。

時が止まった気分だった。

その足でキャンピングカーを買いにいった。

セミフルコンと呼ばれる、ベース車体を切ってキャンパー部車体を接合した、ベーシックモデルでも1400万円を越えるキャンピングカー。これに考え得る限りの贅沢な装備を施し、電源部にはガソリン駆動のジェネレータを二機も積んでいた。

総額2000万を越える買い物だった。

晴貞はそれを即金で購入し、納車を待った。

だが困った問題がひとつあった。

晴貞は免許こそ持っているものの、40代半ばからは専属の運転手の後部座席にしか乗る機会はなかった。

運転が出来ないのである。


昨年末に退職した、長年彼の専属運転手を務めた里長という男にも、晴貞は良く、

「お互い隠居したらどこか温泉にでも行こう。お互いの妻を連れて」

等といったものだ。

それを思い出し電話を入れてみた。

彼の妻が出た。

「2ヶ月前急に倒れて、そのまま意識は回復しませんでした」

あまりに予想外の返答に、言葉を失ってしまった。

その日のうちに秘書課全員に、

「一日でも早く引退する。最短で引退できるよう手を尽くしてくれ」

といった。

全員、突然の困惑で固まってしまった。

「妻が、末期癌だ。もう、長くない」

自然と瞳から涙がこぼれた。

この年まで、会社の部下達の前で一度たりとも涙など見せたことはなかった。

部下達は、死にものぐるいで、彼がいなくても会社が回るよう道筋を付けてくれた。


注文したキャンピングカーの納期は最短で、2ヶ月だと言われた。

だがキャンピングカーが完成する前に、妻の容態が急変した。

大腸癌が腸閉塞を起こした。骨と皮のよう痩せてしまった妻は、そのまま消えるように亡くなってしまった。




そのあと、キャンピングカーが納車された。

49日が終わっても、もはや自宅から出ることさえ億劫になって、彼はただ一日なにもすることなくテレビを見て過ごした。

そろそろ、車を動かさないとまずいかな。

そんな風に思えるようになったのは、もしかしたらやっと心の整理がついたからかも知れなかった。


だが、軽トラックならいまでも運転は出来るかも知れないと思うが、これほど大きな車体には自信がなかった。

会社から1人運転手を借りて旅をしようかと思ったが、さすがにそれは味気ない。

そこで一族を見回す。

大学生であり、就職活動が必要なく、しかも学業が優秀な孫の1人である晴之に白羽の矢が立った、というわけだった。

彼の夏休み期間を大きく割いてもらって、気ままなキャンプ旅行をしよう。

と言うことになった。

ほかの孫達にも全員声はかけた。

だが、あまりに無計画で長期間の旅行には、誰1人参加しようとしなかった。

皆、習い事やら塾やら、部活があるといっていた。


2人の旅行が始まった。

一日おきに、道の駅やパーキングエリアでキャンピングカーに泊まる。

そして、翌日は老舗温泉旅館で豪華な食事と温泉を味わい、酒を飲んだ。

さすがの無愛想な晴之も、三日もすると祖父と打ち解けた。

お互いにとって、心に残る旅になった。


京都、大阪と神戸では、祖父のコネを使って一流企業の工場や研究所を見学させてもらったりした。

名所旧跡を訪ねたり、祖父の知る名湯や名だたる名旅館のもてなしも楽しませてもらった。

そんな旅を、ついに鹿児島まで2人で続けた。


だから、年の瀬も近づく12月の初旬、晴貞が亡くなったと知らされたときには晴之は驚いた。そして自身でも意外なほどに動揺した。

心筋梗塞だった。


――もしかしたら自分は身内が死んでも悲しめないほど冷酷な性質ではないか?


晴之はそんな風に自分のことを思っていたのだ。

由来、晴之は他人の感情に頓着しない。

彼に心を寄せた少女は1人や2人ではなかった。だが、中学生の頃一度近所の幼なじみと、恋ともいえぬ曖昧な関係を築きかけ、


「あなたはやっぱり、冷たい」


そんな捨て台詞を残して去られた。

それ以来、晴之は自身のそばに女の影を置かなかった。

本人は人の世の機微に疎いと思い込んでいる。

だが、

「それは逆だ」

と晴貞は旅の途中で言った。


――お前は、聡い。


「聡いからこそ、ほんの小さな指の動き。目の動き。顔の小さな筋肉の動き。そんなもので何かを悟ってしまうのさ」


――それは人として欠点ではないのか?


というようなことを祖父に聞いた。

「そんなわけ、あるか」

祖父は大笑した。

「それは一種の感覚だ。嗅覚、触覚、視覚。そう言ったものの一種だ。だがそれは、誰もが持てるものではない。いつか……」

祖父は少し晴之を見つめ押し黙った。

「いつかお前が世に出たとき、それはお前を助けるだろうさ。それにな晴之」

息を継いで、祖父は続けた。

「同僚が出来、仲間が出来、上司やら部下が出来たら、孤独なんて言っている暇がなくなるさ。お前はやがて、人の上に立つ。それは間違いない。お前の能力や才能が、お前を孤独に朽ちることを許さないだろう」

「そうでしょうか?」

「そうだ。人の世というのはな、そんな風に出来ているらしい」

晴之が、まだ不承不承に曖昧な表情を残していると、祖父は彼の目をじっと深くのぞき込み、まるできゃっと笑い声を上げたような無邪気な表情になった。

「俺がそうだった。まあ今に見てろ。俺が正しかったって、わかるさ」


あの日、物心ついてからわだかまっていた晴之の心のどこかが、ほぐされたような気がした。

冷たい、と公然と他人から浴びせられた言葉で固まっていた何かが、再び熱を持った気がした。

その何でもない会話が、祖父の亡骸の前で何度も何度も頭で再生される。

自分が泣いていることに、晴之は気がつかなかった。




焼香を終え、父の横に座る。

晴之はどうしても祖父との旅を思い出してしまう。


旅の途中、高速道路の単調な風景が流れる中、祖父が突然晴之に訊ねた。

「晴之、お前は今何を学んでる?」

「基礎工学と材料工学」

「基礎工学は何となく分かるが、材料工学?」

基礎工学というのは、現代のように複雑に多様化した社会の中で「全ての技術の根幹になっている技術を基に、工学全域を見渡した研究と開発が出来うる知性を追求」している。

基礎工学が学生に伝えようとしている内容は、晴貞にも分かる。

「材料工学は、物質の分析や、新素材の解析や開発」

「バイオとかか?」

「そっちは化学ばけがく。ウチの方は金属や無機物……セラミックとか」

「なるほどな。で、お前はこの先何になりたいんだ?」

晴之は、ハンドルを握りながら流れる景色の中でしばし考え

「やっぱり研究開発……かな?」

この青年にしては珍しく、言いよどんだ。なやんでいるらしい。

「ウチにはR&D研究開発部門がなかったな?」

「うん」

「他社に行くのか?」

「……とりあえず、院試を受ける」

「そうか。まあもし間に合うようなら、お前のために部門を用意してやりたいところだが……」

そう言いかける祖父に、

「精密の開発部があるから。それに、出来れば研究室に残りたい」

設備が違うからね、と晴之は言った。

精密というのは、晴之の父晴信が経営する安倍精密加工のことだ。

だが、やはり大企業とまでは行かない企業のことだ。

とても晴之の通う国立工大のラボとは比較にはならなかった。




晴貞は亡くなる直前に、遺言状を書き換えていた。

晴之には、アベグループHDホールディングという持ち株会社の株式31%と、このキャンピングカーが相続された、

これは、孫としては彼だけのえこひいきだった。

安倍家全ての企業資産と、全グループ企業の株式が管理されてる資産運用会社だった。つまり、晴之はいきなりそこの筆頭株主になる。

そして晴之の両親にそれぞれ10%ずつ。残りの49%を残る4人の兄弟とその配偶者達に残した。

晴之がその気になれば、即51%の議決権が得られる。


祖父の個人弁護士の山本弁護士が遺族全員の前で読み上げた遺言状には

「晴之と二人っきりの旅行は人生最後の愉快だった。つきあってくれた感謝が彼への相続を残す理由だ」

と記されていた。

不満は持ったが、それぞれの親族一同には返す言葉がなかった。


「晴之、ちょっといいか?」

晴貞の長男、つまり晴之の伯父にあたる晴良が、葬儀のあとの精進落しの会席で声をかけてきた。

「……親父がお前のためにって、本社ウチに研究所を作ろうとしてたの、知ってるか?」

晴之は首を横に振る。

「こんな話を今すべきじゃないとは思うが、一応伝えておく。親父の肝いりだから表だって反対する者は居なかったが、経営面でも、業績面でも、今ウチでは、あの規模の研究所は不要だと思っている。俺は次の役員会で、この話を止めるつもりだ。分かってくれ」

晴良は、硬い表情で晴之にそう伝えた。

「分かりました」

晴之としても何ら異論はない。そもそも、祖父が引退してからのアベグループに、晴之はなんの期待もしていなかったのだ。

手堅くはある。

だが、今のままではやがて先細り、いずれは厳しい国際競争と価格競争の波にのまれるような予感がしていた。

「お爺さまにも伝えたんですが、僕は大学に残りたいので」

晴之は先回りしてそういった。

「そうか」

顔をこわばらせたまま、晴良はうなずき、自分の席に戻った。

「……いいのか?」

小声で父が耳打ちした。

「大学のラボやメーカーの技研の方が俺にはむいてるよ」

そう小声で返して、晴之は目を伏せて笑った。その微笑に、晴信はどこかしら儚さを感じた。


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