第11話 魔王さまと悪魔さま
大地が、大気が震え、歪みと共に本来、有ってはならない質量を産み出す。
(アンジェのときと同じだな……?)
吾輩は、珈琲を置き、席を立つのだった。
「……姉様は、何処ですか?」
城門に寄りかかって居眠り半分、突如現れた存在に警戒半分。
「んー?」
竜眼を片目だけ開いたメイド、デルフィは、目の前の小柄な少女を見下ろした。
アンジェより少し下くらいの年齢か。肩に触れるか否かという黒髪を揺らし、申し訳程度の衣服と傷んだマントに身を包んだ少女は、頭二つは上のデルフィの顔を見上げるでもなく、ただ前だけを向いて再び、呟いた。
「姉様は、何処ですか?」
「さあ? ここにはいないわよ」
「そんなはずはありません」
少女は、初めてデルフィに顔を向ける。
「だって、ここには、魔王がいるんですもの」
その瞳は、何も映さず、深く、禍々しいほどに、暗かった。
「……!」
反射的にデルフィは、ノーモーションでジャブを左手で繰り出し、拳を打ち下ろす。チョッピングライト。続けざま左は手刀を横薙ぎに払い、遠心力に任せて右足を振り抜く。着地した右足を軸に、左で回し蹴りも放つ。
その全て、尽くが空を切った。
「へえ……」
デルフィは、両目を開け、竜眼に光を輝かせる。竜人形態とは言え、地上最強の生物の攻撃をスピード、フィジカルだけで回避出来るような存在は、この世界に在るわけがない。
「アンタ、何者?」
黒髪の少女は、無表情のまま、漆黒の翼を背に、堕天使の輪を頭上に顕現させ、片方の瞳から一筋、赤い、血の涙を流す。
『コレヨリ、ネエサマトオチテ、マオウヲコロシマス』
『おい、蛇野郎、応えろ』
目を閉じた吾輩は、自身の感情を昂ぶらせ、アストラル体となった精神を魂の檻へと向かわせた。
『チチチ……』
刻を止めた牢獄の中、青年の姿に巻き付く一匹の大蛇が鎌首をもたげた。
『貴様が堕ちる前に、彼女らのような片翼の天使は創造されていたか?』
蛇は嬉しそうに舌をチロチロと揺らし、蛇眼を細めた。
『ここから我を解き放つことだ。お主もいつまでも本体を魂から切り離しておるわけにもいかんだろう? 魂魄消失――ロスト――するつもりか?』
『黙れ、腹這いが。貴様の魅了――チャーム――の言霊は、俺には効かん』
『チチチ……ならば是非も無し。答える筈も無し』
『だろうな。貴様は人の嫌がることしかしない』
カッと見開かれた蛇眼が、邪眼となってアストラル体を見据える。
『邪眼――イビル・アイ――も効かんよ。ふん、答えないだろうな、貴様は。反応を見たまでさ。何も知らんな? その様子だと』
『人間如きが! 我をいつまでも封じていられると思うな! 我が神格が消えるまでに、朽ちゆく貴様の魂が保つとでも思うかッ!』
膨大な魔量の怒号を放ち、蛇は這いずりを増す。
『話は終わりだ、じゃあな』
『チチチ、神界からも魔界からも、目を付けられてしまったのだ。『神殺し』よ。さあ、どう足掻く?』
エルフのメイド、メルは魔王さまの肩に手を置き精霊の加護を与え続ける。擬似的な精霊憑依を行使し、魂を守っているのだった。
「ふーっ、すまんね。『コレ』をやっている間は、魂が虚ろになるんでな」
「いえ、深くは問いませんが……一体、何を?」
「まあ、いつかは、な。さあ、いこう。天使同士、引かれあってしまう」
瞳を開けた主の意図を読み取ったエルフは、頷いて立ち上がった。
人魚のメイド、ティーナは、ひしひしと身を冷やすような恐怖感に戦き、震えてしゃがみ込んだ。明らかに良くないモノが、城の側まで来ている、そう感じられたからだ。
「アナスタシアを、守ってくれたまえ」
耳元に届いた囁きに、弱気な人魚姫は、小さく小さく、勇気を振り絞るのだった。
眠りを妨げるほどの悪意だった。それは、親しき、愛しき人たちを害する類のものだ。
アナスタシアは、己の眠りを破る。たとえ、この身を太陽に焼かれようとも構わない!
「大丈夫」
静かで、穏やかで、海の波間に漂うような、安心感。
「魔王さまに、お任せしましょう?」
漆黒の天使、否、堕天使、或いは悪魔か?
天使の輪は反転しており、力の制御を外れ、漆黒の翼は、欲望のままに、世界に力を行使し続けている。
明らかに、害意、そして悪、と判断したデルフィは、全身に竜気――ドラゴニックオーラ――を纏い、魔王さま以外では初めて、ちょっとだけ本気を出した。
ハウリング。竜の咆吼は、魂を振るわせ恐怖を抱かせる。
フィスト。拳の速度は、世界のそれを超えた。
それでも、尚! 攻撃は当たらない!
(チィ! 物質界に顕現した天使って、厄介ね!)
そもそも、天使。天の御使いとは、神の代行者、でもある。世界の法則に縛られるならば、それは顕現する物質界に於いて、絶対的な力を意味する。
竜化するか? 世界の危機、という認証を得れば、私は、誰よりも強くなれる。赤毛を振り乱し、金色の竜眼が見据える。
「……アナタ、ダレ、デス?」
(アンジェッ?)
何故、ここにっ!?
咄嗟に虚ろな瞳の彼女を庇おうと動いた竜でさえ、天使の動きに、一歩及ばない。
「ミツケタ、ネエサマ」
堕天使の少女は、口元だけ微笑み、背の片翼を激しく振動させた。
「イッショニ、マオウヲ、コロソウ?」
栗色の髪を結わえた、赤いリボンが弾け飛ぶ。
アンジェはその言葉に、限界を超え、封印を破り、天使の輪を顕現させ、背中から片翼の光を放った。
光の天使と、闇の堕天使とが、ここに、相見える。その存在の放つ魔力の衝撃は膨大で、周辺にある物質を塵に変え、世界の維持さえ危うくさせる。
『サセナイ……ッ!』
「デルフィ!」
「魔王、ちゃん?」
「チィ、間に合うかっ? もしものときは、頼む……!」
「何を言って……?」
「頼む、ディー」
「ふーん?……ずるい、こういうときだけ」
吾輩は、暴走した二対の天使の間に割って入り、我を失ったアンジェに語りかける!
「同調――シンクロ――しろ! アンジェ! 相反する力同士、ぶつけ合っては駄目だ! 抱擁を頭に思い浮かべろ! わかるかっ?」
堕天使は、ようやく見つけた天使、己が半身を堕とそうと、微笑む。
「マオウ、サマ……?」
天使は、堕ちし者に、手を、差し伸べる。触れた指先から、温かさを感じ、身を寄せ合って、抱き合う。
光と闇、相反する膨大な力が、混ざり、溶け合い、そこに世界を喰らう『虚無』を産む。
「アンジェ! 優しく! 世界を! いや! 目の前の妹を! 変えろッ!」
同調した堕天使の心が、天使の中に流れ込む。
「あいっ!」――愛――
イタイ! 痛い! イタイ! 一緒にいたい!
「魔王さまあっ! この子、泣いてますですうッ!」
世界を滅ぼすほどの、力。光と闇の融合、加えて、堕天の反転、そのエネルギーを以て、吾輩ごと内なる蛇を屠るつもりか。神よ! 悪魔よ! だが、都合良くはいかぬのが世界でな!
「良し! メル、手伝え! 世界の力を使う!」
「精霊憑依ですねっ!」
地水火風、そして、この世に遍く精霊たちよ! その力、世界を、示せ!
『精霊憑依――ポゼッション――エレメンタル・フルドライブ!』
まだ、足りないか! 蛇野郎、力を貰うぞ!!
――人の身が神の力を奪うか、不遜なり――
「メル!」
「暴れ回る精霊を、これ以上はっ!?」
「何とかしろ!」
「了解! どうにかしますっ!」
『オーバードライブッ!』
消えよ、原罪――オリジナル・シン――汝の名は男。罪を濯ぎ、東の果てより炎の剣を持て。汝の名は女。命を宿し、イチジクの葉にて罪を隠せ。おお、神よ、我は命の木より知恵の実を囓り給う。神の子よ、身を打つ呪いの苦しみに、世界の祝いの福音を!
『楽園追放――パラダイスロスト――ッ!』
それは、『神殺し』の魔法――オリジナルスペル――。
人のみが神を持ち、人だけが神を殺せる、世界に一つだけの……絶望の中の希望。
「ア……!?」
光に、包まれる。
堕天使は、消えゆく意識の狭間で、己の中の神、課せられた罪が消え去るのを感じていた。存在意義と言い換えても良い。それは恐ろしいことだ。罪を、命を、上位の存在に委ねずに、この身は、どう在れば良い? どう生きれば良い?
そっと、前髪を撫でられる。
堕天使は、子守唄を耳にした。優しく世界に在れ、と囁く音階だった。
「嗚呼、アア、ああ……」
涙とは、こう流すものなのだと、初めて、知った。
光と闇の接触で反作用を引き起こし、加えて天使の堕天をトリガーとして、世界崩壊の虚無を産み出そうとした堕天使も、眠りの中だ。
「ラ、ララ……♪」
眠りを誘う歌声は、小さく、穏やかで、柔らかい。
天使の座した太腿に頭を乗せる堕天使の、何と、安らかな寝顔か。
「主殿……魔王、貴方は……いえ、でも……」
メルは、吾輩越しに『世界』に触れたエルフは、激しい消耗にその場で崩れ落ちる。
「無茶しちゃって……魔王ちゃんもね」
そのまま意識を失ったメルをお姫様抱っこで持ち上げたデルフィは、魔王さまにウィンクを寄越して城の中へ消えた。
やはり、精霊憑依にホムンクルスの身体は耐えきれなかったか。朽ちていく身体から吾輩の魂は新しい器へと移る。おっと、寄り道をするか。
『おい、蛇野郎。どうだ、足掻いてやったぞ?』
少しだけ、蛇の身体が小さくなったか。
『我より力を奪ったな? しかし、魂の枷を少し緩めてしまったぞ? いいのか?』
蛇眼が三日月よりも鋭利な弧を描く。
『なぁに、その分、こっちの力も強くなってる。綱引きだな。我慢比べといこう』
『我を解き放てば、神魔尽くを制してみせように』
『はっ、翼を剥がれ、手足をもがれ、地を這う獣に成り果てても、まだ覇を唱えるか。神の敵対者よ』
『覇では無し。我は、この世の全てを愛しているのだ』
『全てを統べて、か? 妄執と呼ぶんだよ、それを』
『チチチ……人の子よ、熟さぬ果実より青きことよ』
チロリ、と先端の裂けた舌が、まるで世界を舐めるように蠢くのだった。
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