第4話 「ウーズ狩り狂想曲 4」

精神世界に潜るのは、いつでも夢の世界に落ちるのに似ている。

 原理的な部分だけじゃなくて、その導入部分に、人それぞれに似たパターンが現れやすいこともだ。

 俺の場合は、まるで特殊部隊の降下作戦のような落下シーンだ。

 薄い大気の中を、体という実態が風の壁や空気を切り裂く音を感じながら、どこまでも落ちていく。

 やがて体が地表に叩きつけられ、着地に失敗したときは、肉の風船のように酷くバウンドする。

 外の世界、通常物理法則の重力下ならたちまち落下エネルギーと衝撃で四散しちまいそうな体も、精神世界の中だから、

 深い穴に転げ落ちた「不思議のアリス」みたいなノリで、なんとか無事に落ちつく。

「いてて……」

 今回は久しぶりに失敗しちまったな……腰のあたりをさすりながら、俺は起き上がった。

 隣を見ると、済ましてクソメガネも立っている。

 ちなみにアリグラの導入部は、古い美術館や博物館、神秘めいた蔦で覆われた館なんかに、きしむ扉を開けて踏み込んでいくイメージだとか。

 まったく、この野郎は潜入シチュまでお上品にできてやがる。

 とはいえ、俺みたいに着地に失敗するたびに転げまわらなくていいってのは、ちょっぴり羨ましくもあるが。


 眠っているおっさんの中には、無音の夜の世界が広がっていた。

 夜、といったのは別に比喩的な意味じゃない。

 本当に、そこは夜の街だったんだ。ただし、人は誰もいない。

 俺がたっぷり100人ぶんの背丈はある、無数のビルの陰。街灯が静かに照らすアスファルトの路面は、夜気に冷たく冷え切っている。

 闇の帳に覆われた中、街灯とビルのランプだけが唯一の明かり。耳に届くのは、風がビルの林の中を通り抜ける時に立てる、かすかなうなりだけ。


 とことん無機質で冷徹な、まるで見知らぬ惑星の上にある無人の街みたいな、荒涼とした光景。

 まるで世界のすべてが墓の下で眠っているかのような、静まりかえった風景の中に、俺とアリグラは二人だけで立ち尽くしていた。

「ふぅん……」

「ジギー、あれを」

 アリグラが目ざとく気づき、指差した。

 それは、すべてが凍て付いているような静けさの中、遠くに明滅する明かり。巨大ビルの谷間にある、中程度のビルのものだろうか。

 救難のモールス信号のように点滅し続けるその灯は、まるで俺たちを誘っているかのようだった。

 ……まあ、実際にガルキに食われかけている「コア」が、俺たちの到着を無意識下で察して、

 半泣きで出してるSOSの“メタファ”である可能性は高いわけだが。

「どうやら、あれがこの世界の中心部みたいだな」

「そうですね。精神磁針マインド・コンパスでも、間違いないようです」

 アリグラが、手元の腕時計みたいな器械を覗き込みながら言う。

「とっととおっさんのアバター、見つけてやんねーとな」

 俺たちは、ひとまずそこに目的を定めることにした。


 目の前に広がるアスファルトの路面。その脇の歩道を、俺とアリグラは警戒しながら急ぎ足で歩いていく。

 不気味なほど静まりかえり、あたり一面が黒いビロードで覆われたような都心の夜にこだまする、二人分の靴音。

 文字通り、現代人の孤独を絵に描いたような風景。

 俺は思わずつぶやく。

「……ずいぶん、寂しい内面世界だな」

 良くも悪くも、都会は人と人とのつながりが希薄だ。それがいいか悪いかは、人それぞれの価値判断によるだろう。

 人とのつながりが深いってことは、それだけしがらみが多くて、不自由ってことだからな。

 俺はド田舎の海辺の町の出身だから、なんとなく分かる。ガキの時分、俺が悪さをすると他人の家の子でも構わず、本気で叱ってくれた雑貨屋のばあちゃん。

 通っていたのは子供が六学年全部で20人しかいない小学校だったから、みんな互いの家族構成から家の間取りまで知っていた。

 土着の海神様を称えるフェスの夜、ガキどもみんなで集まって騒ぐ時間の楽しさ。

 夜空に弾ける花火に照らされ、思わずドキリとしちまう同級生の女の子の横顔と、伝統の民族衣装の図柄が浮かび上がって……

 都会には都会の気楽さがあるけれど、その逆の孤独や魂の憂鬱も、もちろんあるんだ。

 都会と田舎、どっちがいいかを選択式のマークシートで答えられると思うのは、本当のガキか、どちらかの生活しか知らない人間だけだ。


 ……ふと気づくと、隣でアリグラがぐちっていた。

「やれやれ、長年都会で、無味乾燥な社畜生活を送った果てがコレですか……まさに都会の闇、ここに極まれりだな」

 ちょっと内容は違うけど、同じようなことを考えてたらしい。おかしくなって、軽口を叩いてやる。

「へえへえ、お前の中身は、さぞ豊かで美しい世界なんだろうな?」

「ふん。僕の内的世界は、女性専用です。君みたいな無粋でガサツなオトコに、踏み込まれたくないな」

「ちっ、言ってろよ」

 ぶつくさしゃべくりながら歩を進めるうち、相手が知能ゼロのウーズだけのことはあって、まるで迎撃らしき行動もなしに、俺たちは目的地に到達する。


 それは高層ビルの林の中にぽつんと紛れ込んだような、中規模のごく普通の商業ビルだった。高さはさしずめ、20階はあるだろうか。

「オフィス・ビルですか……ふぅむ、たぶん、被寄生者の勤めてた会社ってとこかな?」

 アリグラが言う。田舎のじいちゃん家、放課後の教室、あるいは昔の彼氏彼女の部屋、どこかうら寂しい美術館や、財宝・秘宝が満載の博物館。

 そんなのを精神世界のコアに持ってる被寄生者なら、わりにお目にかかったことがあるが……。

「これが、今回の被寄生者のコアのイメージってわけか?」

 俺は呆れて、ビルを見上げる。やれやれ、よっぽどの会社人間なんだろう。

「まあいいや、とりあえず入ってみるか」

「了解!」

 正面玄関の自動ドアは開かなかったので、俺は愛用のバジュラの柄を取り出し、シャキンと伸長させた。

 大きく構えたところで、専用グラブ越しにイメージを送る――すると、たちまち先端に青い光がきらめいて、ハンマー状のヘッドが生まれる。

 そいつを振り上げて、そのまま思い切り打ち降ろす。

 これはこの精神世界ならではの現象だ。外の世界じゃさすがのバジュラもただの棒で、こんな魔法なんて使えない。

 でもまあ、人間の精神世界の中なら、俺のなけなしの才能――人並み外れて優れたマテリアライズ能力が役立ち、多少の形状変化が可能なわけだ。

 まったく、芸は身を助けるってヤツだね。

 一撃して派手なヒビをつけてからブーツの蹴りを見舞うと、ガラスは見事に砕け散った。

 アリグラが呆れたように肩をすくめたが、数に限りがあるスペル・バレットなんかを使うより、よっぽど効率的だろうが。

 現実なら警報装置でも作動するところだろうが、ここではそういうこともなく、中は完全に静まりかえっている。

「お~い」

 一応、声をかけてみるが返事はない。

「構造的には、とにかく上に行けばいいって感じかね、こりゃ?」

「そうでしょう。道があれば進む、山があれば登る、海があれば潜る。それが駆除作業の基本ですから。

 マインド・コンパス的にも間違いなさそうですね」

 アリグラが言う通り、特にコアが人工的な構造物の形を取っている場合、奥まったところにアバターが存在する傾向が顕著だ。

 よくあるRPGと同じで、お宝がダンジョンや危険な場所の奥深くに配置されてるのって、人間の意識下の世界にも、普遍的に通じる構造なんだよね。

 もちろん、ヤバいほど強力な魔物や邪悪なドラゴンが守ってたりするのも、お約束だけどな。

 とにかくまずは、そこに到達することが大事。

 早い話、コアの中から被寄生者のアバターを発見して、取り憑いてるガルキゲニマを駆除してやれば俺たちの仕事は一丁あがりってわけだ。

 おっさんの精神が不調なせいか、はたまたそれがただの精神世界の象徴的な物体だったせいか、エレベーターは故障中で動かないようだったので、階段を使うことにした。

「なんだか、匂うな」

「甘いような、酸っぱいような……」

「あ、お前も分かる?」

「はい」

「ウーズ……かな?」

 おそらくこれは、この低級ガルキが作り出す異臭。

 精神の外壁やコア自体を溶かす時に出るものじゃないかと思う。

「どうにも嫌な匂いですね。やれやれ、やっぱり気が乗りませんねえ。

 臭いガルキゲニマなんて、相手にしたくもないです」

「贅沢いってんじゃねえよ。今月も赤字にしてえのか」

「知りませんよ。事務所の細かい会計の気苦労はジギーに任せてます」

「お前のほうが計算は得意だろうが」

「計算は得意でも、お金にはちょっと無頓着なんでね」

「自分で言うなよ。これだから坊ちゃん育ちはよお……いいですか、お坊ちゃま。お金は一ティカでも宝ですよ?」

 なんだかんだいいつつ、妙に長い階段を慎重に上って、やがてようやく二階に到達しようかという時……

「上を、ジギー!」

 アリグラの声に見上げると、階段の踊り場の天井が、真っ赤に染まっていた。

 すぐに上から俺の目の前にだらりと滴り落ちてきたのは……もちろん、血っていうほどシリアスなシーンじゃないぜ。

「やれやれ、こびりついてるねえ、いろいろと」

 雑念や欲望のカケラを身にまとって、肥大化したんだろう。

 増殖後、体積を増し、寄り集まったウーズがだらだらと流れ落ちてくる。

 強い異臭を漂わせるそれを、カサ状に変形させたバジュラでベショベショと受け流しながら、俺は愚痴った。

「レインコートでも着てくればよかったぜ」

「……ついでに防臭グッズも、ですね」

 アリグラがスイーパー用の抗呪コートを頭の上で広げ、顔をしかめながらいった。

 甘い匂いは、いつしか耐え難い腐臭に変化しはじめていた。


 そんな風に、階段をどれくらい上がったか。

 もう、目の前には階段はなかった。代わりに、そこにあるのは鋼鉄製の扉。

「屋上、か」

「この先ってとこですかね……終着点は」

 息を整えて、俺は思い切りその扉を押し開く。

 その途端、ごう、と不気味な風が吹きこんできた。

 鼻をつく、ひときわ強い異臭。

「おうふ……」

 たまらず、俺は吐きそうになった。アリグラも、右手でしかめた顔の下半分を覆う。


 街の光はどこかに消え、黒いビロードのような闇で覆われた空には、真っ白くてバカでかい月が一つ浮かんでいるきり。

 薄青い雲間から、かすかな光があたりを照らしている。

 そして、そんな吹きさらしの屋上に広がっていたのは、異様な光景。

 赤い。見渡すばかりの赤い海。

 しかも、屋上を埋め尽くすウーズの塊は、たまに盛り上がったり泡だったりしながら、うぞうぞと蠢いている。

 さすがにこの光景には俺もドン引いたね。そして、その真ん中に、小さくうずくまっているものがある。


 それはゆっくりと起き上がり、こちらに向き直った。

 まるで……真っ赤な肉の鎧を着込んだかのように見える。

 かろうじて形が分かる頭部、顔のあごらしき部分から、だらりとウーズの塊がひとつかみほど、流れ落ちる。

 そして……ちょうど顔のあたりに、ひときわ赤くて丸い半球がひとつ、ぼこり、と盛り上がった。

 色がたちまち透き通り、中に黒い目玉のようなものができて、キロリ、とこちらをにらみつける。

 どうやらあれが、ウーズの本体の中心核ってわけらしい。

「ビンゴ。おっちゃんの“アバター”みっけ」

 アバターはその人間、個人の映し身だ。早い話、卵の白身・コアの中にはそのまんま、体のスケールを小さくした黄身、「もう一人の自分」がいるってわけだ。

 それは、ウーズの塊に取り憑かれた被害者の哀れな姿だった。

「しかし……醜悪ですねぇ、どうにも」

 アリグラがまた、顔をしかめた。こいつはゴキブリを殺すのに火炎放射器を使いかねないくらいだからな。

 潔癖症だかなんだかしらんが、行きすぎだ。

「まあ、ぼやぼやしている場合でもないみたいだぜ」

 アリカ先生の見立て通りならしばらくは大丈夫だとは思うが、アバターが完全に侵食されたとき、現実世界の被害者が辿る結末は3つのいずれか。

 スリープ、ロスト、リ・ボーン。つまるとこ、アバターの自然治癒まで昏倒状態が続くか、精神世界が消し飛ぶか、精神の中核を失って化け物になるか……究極の3択だ。

 最初のルートはまだマシだが、二番目三番目は、俺ならキッパリ願い下げだ。

「とっとと駆除すっか。バックアップ、ヨロシク!」

「こんな時は、つくづく後衛でよかったと思いますね」

 俺はバジュラを構えて走り出す。

 足元では赤い海がもぞもぞ動いて俺の動きを妨げようとするが、ブーツは抗呪仕様。しょぼいウーズのからみつきなんざ、ハナから寄せ付けない。

 遠慮なくウーズを踏みつけて、とにかく走る走る。

 ちなみに踏んづけた感覚はニチャニチャではなく、どっちかっつーとプルプルした感じ。

 ガキの時分、海水浴でクラゲを踏み潰して遊んだときのことを思い出した。

 おっちゃんのアバターに近づくと、ウーズに絡みつかれて泥人形のようにも見えるそれは、うつろな声を上げた。

「ばるあああおおおお……!」

 威嚇してるつもりか。

 だが、暗い洞窟を吹きぬける風のようなその声を気にもせず、一息で最後の間合いを詰める。

「おりゃ!!」

 思い切り踏み込んで、大きく両手で構えたバジュラを振り下ろす。バキッと屋上のコンクリを割る音を響かせ、それはアバターの足元のウーズの海のただ中に突き立った。

 俺はそのまま、握った柄に全体重をかける。弓形にしなったバジュラが元に戻ろうとするのに合わせ、全身のバネを使って跳躍。

 一瞬後、俺はすでに数メルテ空中にいた。特殊素材でできたロッドを生かした棒高飛び。着地したところは……アバターの肩の上だ。

「おあああああ……」

 脚の間で、アバターの顔面部から盛り上がったウーズの眼がゆっくりと動く。

 操られているアバターは妙な叫びを上げながら、スローモーションのようなのろい動きでゆっくり腕を持ち上げ、俺を捕まえようとする。

 が、間に合うわけもない。

 バジュラをそのまま思い切り振り上げ……先端をウーズの眼に、一気に振り下ろす。

 ガッ! ぶしゅり。

 盛り上がったウーズの眼球が弾け、中から気色悪いどす黒い液体が飛び散った。

 まるでドブの溝ブタを開けたみたいに、強い異臭が漂う。

 間髪入れず、俺は親指でバジュラの柄をいじる。飛び出したスリットの中のスイッチを、ガチンと押し込んだ。

「そらよっ!!」

 バチバチ、電撃の爆ぜる音と同時に、スパークが飛び散る。

 「雷火」のスペル・バレットと同様の効果がある幻素エネルギーの塊を流し込んでやったのだ。

  複数の幻素を調合し、電気刺激で反応を加速させたことで生まれる衝撃と雷光は、青い大蛇のようにウーズの肉に絡み付いて弾けた。

 ちなみに俺には特別製のジャンパーと絶縁性もあるブーツのおかげで、まったく影響はない。

 直接的な威力には乏しい電撃を使ったのは、ウーズを攻撃するためというより、ショックを与えてアバターから引き剥がすためだ。

 あまり派手にやって、アバターを傷つけたくはねえからな。


 案の定、電撃を嫌がり、アバターを覆っていたウーズの塊はずるり、と剥がれ落ちた。

 まずは中身のアバターの頭、やがて全身があらわになる。

 偉大な宗教人や心を磨きぬいた英雄、大芸術家なんかのアバターはそれなりに洗練・昇華されており、見た目もどこか神々しいし綺麗な後光なんかを帯びてることも多いらしいが、

 おっちゃんのは……ホントに、ただの本人の映し身だった。

 ある意味、等身大で親近感が沸く、ともいえるがね。

 アバター本来が持つ光は失われており、ちょっとグレーにくすんでいるようでもある。

「やれやれ……」

 地面に倒れたそれを、抱き起こした。あとは、ウーズを防ぎつつ、この侵食されたコアから外に連れ出してやれば、精神世界がガルキの侵食から解放されて一丁あがり。

 つまり、この後のミッションはお姫様を連れて、無事にダンジョンから脱出せよ! だ。

 だが……

「ジギー!」

 アリグラの声の意図を察し、俺はおっちゃんの身体を抱えて横に転がる。俺たちがいた場所に、赤いウーズの奔流が、まるで触手のように伸びてきて叩きつけられた。

 そちらを見ると……さっき流れ落ちたウーズのひと塊は、すでに力を回復しているようだった。

 突き潰したはずの眼球が、再生しかけている。

 さらによく見ると、もぞもぞと動いてほかのウーズの塊を取り込んでいる。

 どうやら受けたダメージを、そうやって回復しているらしい。

 そこにオレンジ色の光弾が数発、まとめて飛来した。

 アリグラが、呪法銃からスペル・バレットを撃ち込んだのだ。

 その色から、じんわり広がる炎でウーズを焼くための焼夷系のスペル・バレット……だと思ったのだが……。

 予想に反して、それは地面のウーズの固まりに着弾するとともに、凄まじい轟音を上げて爆裂。

 ド派手な火柱を吹き上げ、挙句の果てに燃えたぎる火球の塊をあちこちに撒き散らす。

 俺はとっさにおっちゃんの身体を抱え込み、ジャンプ。

 爆風の勢いもあって、ごろごろとそこらを転がるハメになる。

 ウーズの塊には炎は効果覿面で、猛火に焼かれ、赤い海の体積が驚くほどの速さでみるみる縮んでいってるようだが……畜生め、TPOってもんがあるだろが!

 全身をウーズのカケラまみれにしながら、俺は叫んだ。

「アホ!ネズミの駆除にロケット弾かよ!」

「う~ん。オリジナル幻素ブレンドで改良したんですけど、ちょっと予想外の威力でしたね」

「てめえ、俺を巻き込むところだったじゃねえか!」

「大丈夫、君は煮ても焼いても、簡単には死にません。

 それに被害者のアバターをかばいつつ回避することも、すでに予想済みでした……まあ、別に予想が外れてくれてもよかったんですが」

「いっぺん、このウーズの海ん中に沈めるぞ?」

 なおもピーマン頭をののしろうとして、俺は顔をしかめる。

 ぐぐ、甘酸っぱい……ぐう……少しウーズの飛沫が口ん中に入っちまったじゃねえか……。


 そうこうしているうちに、おっちゃんのアバターは正常化したようだった。

 体全体が、ぼんやりと白く輝きはじめている。

「うう……」

 軽く頭を振りながら、起き上がる。本来の輝きは取り戻したようだが、まだ意識ははっきりしていないようだ。

「ようやく元に戻ったな。あんたは取り憑かれてたんだよ、ガルキゲニマに。

 何があったか知らねえが、気をつけたほうがいいぜ。

 ウーズ・タイプは、負の感情が淀み、溜った心に忍び込むのが得意な……」

「なぜ……目を見て話してくれない」

「ん?」

 あれ? おっちゃん、まるで聞いちゃいねえ。瞳があさっての方向を見ている。

「なぜ……私を避けるんだ。お前は私の妻だろう? 娘だろう?」

 なおも、ぶつぶつ言い募つのる。

 どうも、おっちゃんのアバター、正常化したってわけじゃないみたいだ。

「まだウーズの影響が残ってるんですかね……幻覚でも見てるらしい」

 アリグラも頭をかきながら言う。

「25年間、働いてきたのに! 家庭を大事に! 酒もギャンブルもタバコもやらずに!

 ……私はひたすら、働いてきたんだぞッ! なのに、なのに……!!」

 勝手に興奮をエスカレートさせ、ついに頭を抱えて叫び始める。

 「うわ……こういうの、やりづらいよね。そう思わね?」

 「はぁ? 見るからに、負け組のダメ人間じゃないですか」

 アリグラは道端の石ころでも見るような目で、おっちゃんのアバターを眺める。

 「……お前、もうちょっと人の心の痛みってもんを、分かるようにならなくちゃダメだよ?」

 野良犬にエアガン撃ち込んで喜んでる小学生を諭すような言い方で、俺が肩をすくめた次の瞬間。

 その時初めて、おっちゃん(アバター)はアリグラと俺に気づいたようだった。

 ゆっくりとこちらに向き直る。

「おっ、しゃんとしたか?」

 だが……

「なんだ? そんな眼で俺を見るなァッ! 目上の人間には敬意を払えッ!」

 アリグラがさらに眉をしかめる。

「はぁ? 人間のクズのくせに、敬意を要求するんですか?」

 ああ、この野郎! ぶち壊しにするつもりかよ! 

 俺が割って入る間もなく、おっちゃんのアバターは激昂してしまった。

「この若造が! なめるな!」

 アリグラをにらみつけ、両手を激しく振り回す。悲しいかな、拳にまるでスピードはなく、アリグラはひょいとそれを避わした。

 だがその拍子に、よれよれのスーツにくっついてたウーズのカケラが飛び散り……

 こともあろうに、奴の頬にぺちゃりと貼りついた。うわ。

 アリグラの形の良い眉がピクリ、と動く。

「まあ、待て待て、おっちゃんよぉ」

 俺は慌てておっちゃんに話しかける。

「落ち着きなよ、ほら」

「うるさいッ! オ……俺を尊敬しろぉぉぉ! 俺に優しくしろぉぉぉっ!」

 目を血走らせて叫ぶそんな姿を見て、俺はなんだか、すごく寂しくなってしまった。

 やっぱりさ、人生の先輩にはこう、それなりに胸を張っていて欲しいんだよな。

「ったく……しゃあねえな。ほら、しっかりしろ!」

 肩を手のひらでバンッとどやしつけると、ハッとしたようにおっちゃんの目が丸くなり、まもなく焦点が戻ってきた。

「う、うう……?」

 いちいち手間をかけさせんなよな。

 俺はころあいを見計らって、泣いてる子供を諭すかのような、柔らかい口調で話しかける。

「気がついたか? あんたはウーズ・タイプのガルキに乗っ取られてたんだよ……俺たちは、助けに来たんだ、分かる?」

「う……うるさい……俺を尊敬……しろぉ……!」

「なあ、一つ考えてみようや。なんでみんなが、あんたに優しくしてくれないんだと思う?

 それはさ、はっきりいっちゃうとね、アンタに価値がないからだよ」

「何……だと?」

「厳しいみたいだけどさ、世界の仕組みってのは、そうなってんだ。

 価値があるから、みんな優しくしてくれるんだぜ。面白いヤツって、人に好かれるだろ? あれはさ、面白いってことは、人を和ませるからだよ……

 つまり、価値があるってこと。美人がモテるのはなぜだ? 金持ちがチヤホヤされるのは? 同じことさ」

「……」

「人はみんな平等ってのは、最低限の部分だけだぜ。尊敬されたりチヤホヤされたいってんなら、それ相応のプラスアルファが必要……

 最低料金に加えて、チップを払ってやんなくちゃよ。せちがらいけど、この世界じゃ混じりっ気なしの好意とか善意ってのは、なかなかのレアアイテムなんだ……

 だから、みんなそういう話を美談にするんだろ? そういうことがありふれてたら、美談にはならねーさ」

「……わ、若造が」

「ね、根本的には他人に何かを期待するよりさ、自分に期待しようじゃない? 

 そのほうが精神衛生上、いいと思うんだけどね」

 これは若き日に職を転々とすること十数回、最後に定食屋の主人に落ち着いた、親父譲りの人生哲学。

 息子の目から見ても、親父はわりにダメ人間の部類に入る気がするが、

 そんな自分自身を受け入れ、立派に誇りを持ってタフに世渡りをこなしている。

 まあ、一種の開き直りともいうがな。

 だんだん、おっちゃんのアバターの目の焦点が定まってくるが――

「知った風なことをいうな! 私は、貴様らの倍も生きてきたんだ!」

 感情が安定しないらしく、またまたあっという間に激昂してしまう。

「まあまあ、気持ちは分かる、気持ちはね?」

 なだめにかかる俺をズイ、と横から押しのけ、アリグラが言う。

「僕が分かりやすく言ってあげますよ」

 あ、ハナシがこじれるから、お前は出てくるなっての。

「祈りは大事だが、救いがあるのが当たり前ではない。

 まずは自分で自分を助ける努力をしろ! 分かったか、このクズめ!」

 ビシリと指を突きつけて妙に偉そうに言い放つ……当然逆効果だ。

 乗り物や建物を乗っ取った立てこもり犯の説得に、コイツほど向いてる人材はいないだろう。

 キレた犯人に人質が全員殺され、犯人射殺で事件に速攻で片が付くこと、請け合いだ。

「どうしろって言うんだ……! 借金だってあるんだぞ!

 私は……もう……どうせ、ただの四十男で……人生やり直すことなんて到底……

 家のローンがあるし、小遣いは月に10000ティカだし……」

「そ、そりゃあ、大変だな。俺も儲かってねえから金の苦労は分かるよ、うん」

 俺はなんとかなだめようとするが……

「いや、私とあんたらは違う! いいよなぁ、若くてさ! 私の人生にはもう、何も残されてないんだ!」

 またも逆ギレするおっちゃん。

 アバターの輝きが、またグレーっぽくなってきている。しょうがねえなあ……。

「……まったく。なんで僕らが、こんな下らない負け犬に付き合ってなきゃいけないんです?」

 アリグラが心底うんざりした口調で言った。

「ふん! 上品ぶったお綺麗な顔しやがって! おおかた、どっかのお気楽な若造だろう!

 てめえらみたいなバカがいるから、世の中は悪くなる一方なんだ……社会の寄生虫め! 俺に詫びろ! 地べたに頭を擦り付けて謝れッ!」

 さらにヤケになったおっちゃんは、アリグラのほうに向き直り、叫び出す。

「ホントはな、先物取引で作った借金があるんだ、400万ティカも! 会社だって派閥争いに巻き込まれて先日、左遷された!

 私はもうダメだ……死ぬしかないんだよぉぉっ!」

 絶叫した瞬間、ガボガボゲボリ、と奇妙な音があたりに響いた。

 腹にまだ溜っていたらしいウーズのひと塊が、奔流となって吐き出されたのだ。

「うげっ」

 俺はあわやというところで身をかわしたが……ああ……その光景を目にした時、俺は……俺は……

 率直、こみ上げる笑いを我慢できなかった。

 一歩逃げ遅れたアリグラの顔が、おっちゃんの吐き出したウーズの本流を浴びて、真っ赤に染まっている。

「ぎゃははははっ!」

 その場で笑い転げた俺は……アリグラの歪みきった表情に気づき、「ヘウレーカ!」だか「ウォーター!」だかの意味不明な絶叫とともに、

 この場から走り去りたい衝動に駆られた。

 ガチャリ。

 アリグラの呪法銃の弾倉が回る音。なんかヤバそうな色のバレットを、詰めなおしてるよ?

「おい!! うわ、早まんな!」

 だってさ、後はアバターをなだめすかして、ここからどこか安全な場所に解放してやるだけで、自然に……!

「うるせえ!!  報告書にはこう書いといてやるさ! 対象のアバターはすでに侵食度が限界突破! 崩壊が自然発生したってね!」

 気取ったイケメン面が一転、悪鬼のような形相で吠えるアリグラ。

 間髪入れずホルダーから引き抜かれた呪法銃から、強烈な白と金色の混じりあったマズル・フラッシュがほとばしる。

「うおおおおっっ……」

 あの光の発色! 「ジハド」だ!

 アリグラの調合ラインナップ中、最大級の威力を誇るヤツ!

 畜生、本来、自分たちに防御壁を張ってから使うやつだろうが! 

 しかも多分、独自のアレンジとかを加えて強化してると見た!

 たちまち、恐ろしいスピードで膨らむ白い光の渦が、ぐんぐんあたりを飲み込んでいく。

(こりゃあ、ダメだ……!)

 俺はすぐさま直感した。この威力、この効果範囲じゃ、おっちゃんのアバターが崩壊するかもしれねえ。

 そうなりゃ、この精神世界全体が、あと数秒で消滅するだろう。

 そうすりゃ俺たちだってただじゃすまない。行き着く先は……最悪、ロスト!?

 体中に戦慄が走った。

 顔から血の気が引いていく。

 俺はイメージする。精神が消し飛び、廃人同様になった俺を、ベッドの横でお袋が泣きながら見守る……

 そして、少し痩せた肩に手を置いてなぐさめるオヤジと兄貴の姿……最悪だ。

 そもそもこのシーン、家族と一緒にハンカチで涙をぬぐう、憂い顔の恋人の席は空白のままかよ!?

(絶対に、イヤだああああッッッ!!)

 こう見えても、夢もやりたいことも掃いて捨てるほどある身だからな。

 俺は必死で作業ポーチの中に手を突っ込み、思い切り中身をまさぐった。

 が、こんな時に限って、目的のものがなかなか見つからない。

 以前、「大切なものは、いつでもしまうポケットを決めておけ」と言っていたのは、意外にマメなところもある俺の親父だったか……。

 やがて、ビリビリと空気を震わす轟音とともに、極太の白い光の十字架が出現。

 それはたちまちビルの屋上全体を包み込み、白い炎の奔流と光の嵐となって吹き荒れた。


【パート5 に続く】

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