第2話


 あれは神奈川の平塚にいた頃だった。

 夏、過酷な工場での仕事を終えた俺は飲み屋に向かった。

 老夫婦が営んでいる小さなスナックだ。

 目的はビール。

 キンキンに冷えたジョッキ!

 黄金色に光り輝くラガーとなめらかな泡の黄金比!

 渇いた喉に耐え、炎天下を自転車でかけつけた俺は勢いよく扉を開いた。

 カラン。

 ドアベルがいつもより大きく鳴った。

 エアコンの心地よい冷気が俺を包みこむ。

 一番乗りして、のんびりビールを楽しむつもりだった俺は少しばかり落胆した。

 先客がいたのだ。

 奥の五席しかないカウンターの左端に小さな背中が見えたのだ。

「あら早いわね。お化粧中だからちょっと待ってて。最初はいつものでいいんでしょ?」

 スナックのママが化粧途中のスゴイ顔を半分のぞかせて言う。

「あ、それで」

 返事をしつつ、真ん中のスツールに腰かける。

 一つあけた左隣を見ると、なかりの高齢と思える小柄な老人がいた。

 視線がかさなったので一礼すると、老人も軽く頭をさげてくれた。

 俺はカウンター右すみに重ねてある灰皿をとると、タバコをとりだし火をつけた。

 乾ききった喉を通るタバコの煙はいつものようにうまく感じられない。

 タバコの半分ほどを吸った頃合いで、ママが太めの体を揺すりつつやってきた。

 両手には霜のついたジョッキグラスが握られている。

「はいおまたせ」

 ゴトッと重なる低音を響かせ、目の前に二つのジョッキがならぶ。

「今日マスターが用事で留守だからもうちょっと待っててね」

 そう言うとママは再び奥の厨房に消えた。

 隣にいる爺さんの手前、ニヤける顔を必死に抑えつつジョッキを手にとる。

 そして、可能な限り一気に喉へとビールを流しこむ。

 喉に圧力を感じるほどに。

 炭酸が喉の奥底で弾ける至福の感覚。

 半分ほどを飲み終え、恋人たちが繰り返す軽いキスほどの合間をおいたあと、一気に残りを飲み干す。

「ほぅ」

 隣を見ると、老人が感嘆の眼差しでこちらを見ていた。

 安っぽい優越感を感じつつ、俺はジョッキグラスをカウンターに置いた。

 そして再びタバコを手に取ると、ゆるりと紫煙を肺に満たした。

 ビールで潤った喉を通るタバコは格別に美味い。

 至福の感覚に感謝。

「生まれはこちらかね」

 老人の声に、あぁ、話しかけるタイプかと思い少々憂鬱になる。

 性格の暗い俺は、少しばかり酔いがまわらないとまともに他人と話せない軽度のコミュ障だ。

 まぁそれはともかく、老人に聞かれて会話が始まった。

 たわいもない会話の連続。

 二杯目にとりかかったところで老人が話を変えた。

「そう言えば……わしが子供の頃、山にサンカが住んで居てな……」

 俺はサンカと聞き、意味を認識した途端にビールを吹き出した。

 その時、俺は天からの教訓を得た。

 肺にビールを入れると、とてつもない激痛が走るという教訓を。

 肺胞が狂った激痛の悲鳴をあげる。

 間断のない咳を抑えるため、口もとにおしぼりをあてる。

「さ……サンカ……を……見たことが……」

 喘ぎながら絞り出す切れ切れの言葉。

 言葉を綴れずに俺は再び咳きこむ。

「ほぅ、サンカを知っているとは思わなかった。お若いのによくご存じで」

 爺さんがすっとぼけた声を繰り返した。

 クッソッ!

 クソッ!クソッ!

 この爺ィ、トンデモネーこと言いやがった!

 脳細胞がバチバチと荒れ狂った火花をあげる。

 火花のエッジには、山の民、漂泊、非定住、三角寛、偽書、五木寛之、フィクションといった単語が明滅する。

 現代では消滅してしまったと言われている山の民サンカ(その存在自体も疑われており、定義が困難)を知る人物が隣にいる!

 全身の産毛が逆立ち、ジョッキを持つ手が軽く震える。

 数分後、ようやく咳のおさまった俺はジョッキをカウンターに置くと次のタバコに火をつけて気を静めた。

「サンカとはどういうご関係だったんですか?」

 できるだけ平静を装った声をだす。

 ウーロンハイのグラスの縁に口をつけ、チュルルと酒をすすったあと、爺さんの皺で覆われた唇がひらいた。

「わしの明治生まれの父親が変わり者でね。サンカの一家と親しくしていたんだよ。時おり、父親がサンカの家に連れていってくれるのが楽しみでならんかった」

「家!?サンカは家に住んでいたんですか?」

「ん?何を驚いているのか分からないけど、そりゃ家に住んでいたよ。そういえば家で思い出したが、その家には床暖房があってな。冬の寒い時期でも暖かくて嬉しかったかったのを覚えてるよ」

「あ…そうなんですか」

 眉唾モンなのかなと思い少々落胆する。

 サンカは基本的に定住せず漂泊する人達だと思っていたからだ。

「サンカの子供に女の子が一人いてな、まさに百合の華のような人だった……」

「ホレてたんですか?」

 俺がちゃかすと、爺さんは遠い目をして、「ウン惚れていたな」と言葉を続けた。

「サンカの伝統か知らんが、正座の習慣がないせいかスタイル良くてなぁ」

 正座をしない習慣。

 床暖房……つまりはオンドルのある家での定住。

 多分間違いない。

 大陸から移住してきた家族なんだろう。

 そこまで想像した時、ひどく嫌な予測が脳裏をよぎった。

 問題は爺さんの年齢とこの土地だ。

 明治生まれの父親がいると爺さんは言っていた。

 爺さん自身はどう見ても百をこえているとは思えない。

 八十か九十といったところだろうか。

 とするとあの未曾有の大災害を幼少期に経験したか、その数年後には生まれていることになる。

 関東大震災。

 場所は神奈川。

 あの、流言により起こる悪夢のような人災……。

 サンカだと爺さんが思っていた家族はその人災から逃れて平塚の山奥に住み始めたのではないだろうか。

 いやな想像をしてしまい、残った二杯目のジョッキを一気に飲み干す。

「大丈夫かい?」

 心配げな老人の声がする。

 反省。

 険悪な顔をしていたせいで老人に気を使わせてしまった。

 何から話したらいいだろう。

 いや、こんないやな話をして老人の暖かな思い出を汚していいはずがない。

 俺は話の聞き役に徹っすることにした。

 話題をサンカからずらしながら。

 新しく頼んだビールを味わいながら、やっと回り始めた舌を頼りに老人との会話をすすめる。

 ガランッ!

 ドアベルが急に耳障りで大きな音をたてた。

「あっ、ズリィ!先に来てるし」

 振り向くと会社の同僚が数人いた。

「失礼します」

 元陸上自衛隊員の同僚が老人に断りを入れ、俺の首にぶっとい腕をまわすと俺の体ごと奥のボックス席へと引きずっていく。

 俺が腕の隙間から小さく頭をさげると、老人は笑って枯れ枝のような右手をひらひらとさせた。

 引きずられつつ、頭の片隅で同僚たちに感謝する。

 酔いが回った俺は毒を吐く。

 普段抑えられた暗い情動がアルコールを媒介して漏れ出すのだ。

 爺さんに対してべらべらとしゃべってしまったかもしれない。

 席についてしばらくするとママが酒とつまみを用意してくれた。

「明日は休みだ!飲むぞ!」

 元陸上自衛隊の掛け声で飲み会が始まる。

 俺の目的はとことんビールを飲むことだったし、他はカラオケやこの後マスターの運転でやってくる新人のホステスだったりといろいろだ。

 二曲目のカラオケが入った直後、背後でカランと小さな音がなった。


 悔恨の音。


 爺さんのいた方を見ると姿がない。

 凍りつく俺。

 だが顔には出さない。

 平然とした面皮の内側では情けない表情を浮かべた俺がいる。


 老人と話すべきだった。


 ああ、そうだよなと思う。

 サンカの家族が大陸の人だというのは俺の想像、いや妄想に過ぎない。

 こういうのはどうだ?

 家族はサンカで、大陸から来た人々の家をもらい受けた。

 明治期、戸籍制度が確立していく過程で失われていく最後のサンカ。


 その家族の話を聞く機会を永久に失ったのだ。


 俺はビールをやめると、空いたジョッキに氷をつめると焼酎をなみなみと注いだ。

 周囲が奇異な視線を向けるのにはかまわず、一気に酒を飲み干す。

 アルコールが全開で血流を駆け巡る。

 麻痺してゆく大脳の片隅で一人の美しい少女を思った。

 一世紀近く前、彼女は平塚の山間の家にいた。

 あの時代だ。

 戦争、敗戦、復興、爛熟……。

 彼女はどんな人生を送ったのだろうか。

 だが、そのことを知るすべはもうない。

 老人と会うことは二度となかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る