009


「スゥ」


 誰かが呼ぶ声がした。


「スゥ」


 その声は、一定のリズムを保ちながらスゥを起こそうとする。


「スゥ」


 どこかで聞いたことのあるような、無いような――それでいて、どこか優しく温かいようなそんな感じをさせる声だった。だけど、スゥはその声の正体が誰なのか思い出せなかった。いや、思い出せないのではなく、知らないだけのかもしれない。


「スゥ」


 スゥは、その声に誘われるようにゆっくりと目を開けた。


「う、うん……」


 どうやら、気を失っていたようだ。


 スゥは、眠た眼を擦りながら、横たわる体をゆっくりと起こし辺りを見回すと、少し前までの暗い地下とは風景はガラリと変わり、きっとどこにでもあるであろう家庭の、きっとどこにでもあるであろう風景がそこにはあった。


「おはよう、スゥ」


 直ぐ隣には、見知らぬ女性が居た。


「だ、誰ですかッ⁉」


 スゥは、自分に掛かっている毛布を握り締め、それをピンと壁のよう張ることで、自分を守る体勢を作った。


「何を寝惚けているの、スゥ? お母さんが作った朝御飯が冷めちゃうから、早く着替えて来なさい」


 その女性は、そう言い笑顔を見せ立ち去って行った。


「……お母さん?」


 スゥは、混乱していた。


 さっきまで、クロードの店の地下に居たはずだった。それは、間違い。しかし、目を開けた次の瞬間、何故か温かい家庭の中に自分がいる。そして、自分のことをお母さんと名乗る女性がいる。


 だけど。


 スゥは、この状況が嫌だと言う、嫌悪的な感情を抱いてはいなかった。スゥは、幼くして研究所で育てられてきた。幼少期の一番親へ甘えたい時期に甘えることも出来ず、研究所を出れば獣耳のこともあり、自立して生きて来た。


 いや。


 そうすることを強要されて生きてきた――と言う方が正しいのかもしれない。


 だから。


 甘えたかったのだ――その分も余計に。


 スゥは、取り敢えず身近にあった服を見繕い、それに着替えた。


 ここは、子供部屋なのだろうか。


 ベッドに、勉強机に、おもちゃにと、それらは子供部屋のそれに違いなかった。親からの溢れんばかりの愛情を注がれた――まるで、それらが溜めこまれた容器のような部屋だった。


 子供部屋から出ると、朝御飯が並べられたテーブルを中心に、父親、母親、弟、妹の四人家族が食卓を囲んでいる光景がそこにはあった。母親同様に、父親の顔にも、妹の顔にも見覚えは無かった。


「おはよう、スゥ」


 だけど。


 父親であろう人物は、スゥに朝の挨拶を交わす。


「お姉ちゃん、おはよ」


 顔も知らない弟妹であろう人物も。


「お、おはようございます」


 スゥは、戸惑いながらも家族であろう人物たちへ朝の挨拶を交わし、一つ空いている自分の席であろうイスへと腰を掛ける。スゥは、朝御飯を食べながらその風景をぼんやりと眺めていた。


 新聞を読みながら、コーヒーを啜る父親。


 行儀良く御飯を食べる妹。


 食べ物を溢す弟。


 それを拭く母親。


 きっと、それはどこにでも有り触れた光景に違いなかった。


 けれど。


 スゥにとってそれは、初めて見る光景だった。


 本当の優しいや、温かいと言った経験をしたことの無いスゥにとって、それらが世間一般の家族と言うモノの形なのかどうか分からなかった。けれど、きっとそうなのだろうとスゥは思った。


 そう思うことにした。


 そう思うことで、そう言うモノに憧れるその気持ちを守りたかったのかもしれない。家族とはそう言うモノなのだと、そう在るべきなのだと。それは、確かに幸せだった。だけど、それは偽りの、偽掛けの、嘘っぱちの家族ごっこに過ぎないのだ。


 スゥは、そう思わずにはいられなかった。


 この人たちは、本当の家族じゃないからだ。


 そうだと知ってしまったからだ。


 父親にだって、母親にだって、妹にだって、ただの一人だって獣耳を生やす家族が居なかった。つまり、この家族はスゥの本当の家族では無いと言うことを示しているのだ。それに、こう言った光景に慣れていないスゥにとって、少しばかりそれは眩し過ぎた。


 気付けば、その様子を第三者的に見ている自分がいた。まるで、ふわりふわりと意識が宙に浮いて行き、家族が食卓を囲むのを上から見てるかのようだった。それが、ただの感覚的な錯覚だとスゥは思っていた。


 けれど。


 それは少し違った。


「え、あれ……私、本当に浮いてる⁉」


 スゥは、慌てて宙を掻くが、藻掻いても藻掻いても、その体はどんどんと軽くなっていった。そして、再び眩い光が体を包み込み、クロードの店のカウンターで俯せになっていたスゥは、大きな声を上げながら、勢い良く顔を上げた。

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