第一章 001


「乗車券を拝見します」


 帽子を深く被った男性乗客員は、慣れた手つきで乗車券を車掌へと渡す。老巧な車掌は、受け取った乗車券を改札鋏かいさつきょうでガチャンと鋏痕きょうこんを付け、再び男性乗客員へとそれを手渡した。


 それは、どこでも見かける券礼の光景だ。


「当列車のご利用有り難うございます。今日はまた、随分大きな荷物ですね」

「ええ、向こうに行った時につい、まとめて買ってしまうのでね」


 老巧な車掌は、帽子を深く被る男性乗客員へと話し掛ける。


「確かに、あちらでしか手に入らない物も少なくは無いですからね」


 その時のことだった。


「その子を捕まえてッ!」


 若輩な男性車掌は、声を荒げながら小さな子供を追い掛けていた。その子供の走る先には、帽子を深く被った男性乗客員の券礼を終えたばかりの、老巧な車掌が待ち受けていた。後ろからは、若輩な車掌が追い掛けて来ており、挟み撃ちと言う、その子供にとっては最悪な状況となった。


 しかし、子供は後ろの若輩な車掌に気を取られていたようで、前に居る老巧な車掌には気付いておらず、立っていただけの老巧な車掌の足にぶつかり、その場で尻餅を突く形となり、若輩の車掌の手により首根っこを掴まれ、呆気なく捉えられた。


「やっと……捕まえた……」


 若輩な車掌は大分追い掛けて来たようで、肩で息をしていた。


「何かあったのかね?」


 老巧な車掌は、事情を聞く。


「いえ、この子が貨物室に忍び込んで居まして。乗車券の確認を求めたら、突然逃げ出したので、ここまで追いかけて来たのですが……恐らく、無賃乗車ではないかと」


 老巧な車掌は事情を把握すると、その子供の目の高さを合わせ話し掛ける。


「乗車券は持っているかい、坊や? それが無いと坊やをこのまま汽車に乗せる訳にはいかないんだ。もし、突然声を掛けられて驚いて逃げただけなのなら、持っている乗車券を出してごらん?」

「離して、離して、離して――」


 老巧な車掌は、物腰柔らかく問い掛けるが、錯乱している子供とは会話は噛み合っているとは言い難かった。その後も、老巧な車掌はいくつかの質問をするが、その返答は離しての一点張りで、首根っこを掴まれたその子供は、逃げる為に体を激しく揺さぶり暴れていた。


 その性で、子供の被っていた帽子がゆっくりと地面へと落ちて行った。その時、初めてその場に居た者達はそれに気が付いた。その子供が活発な男の子ではなく、獣耳を生やした少女だったのだ、と。


「いやあああああああああああああああああッ! 離して、離して、離せッ!」


 帽子が落ちた途端にその子供もとい、その少女の抵抗は激しさを増した。その激しさに若輩な車掌もその手を放してしまった。少女は、慌ててその帽子を拾い上げ、深く被り直し、逃げることを諦めたのか、その場で頭を抱え込み、丸くなるようにしゃがみ込んでしまった。


「助けて下さい……、助けて下さい……、助けて下さい……」


 その少女は、声にならないような声で繰り返し、そう呟いていた。その少女の他人に対する恐怖心には異常なものがあった。


 きっと、その獣耳と言うコンプレックスの性で、酷い目に遭って来たのだろうと、その場に居た誰にでもそれを容易に想像させた。その様子に車掌たちが戸惑いを見せていると、直ぐ横で一部始終を見ていた男性乗客員は、ゆっくりと立ち上がった。


「いやあ、すみませんね。この子は、親戚の子で僕が預かっている子なんですよ。さっきから、姿が見えないなあ、なんて思っていたんですけど、こんな所に居たとは。この様子では、きっとどこかに乗車券でも落としてきたから、僕の所に帰って来辛かったのでしょう」


 今までその一部始終を黙って見ていたとは思えない会話であった。その男性乗客員の弁明が明らかな嘘であることを少女は分かっていた。いや、少女だけでなく、その場に居た車掌たちにも、それが嘘であるということは明快だった。


「一応、身分の証明が出来そうな物はありませんかね?」


 少女と男性乗客員との関係を疑う老巧な車掌は、そう問い掛ける。


「そうですね……」


 ポケットの中を探す素振りを見せるが、お互いの証明が出来る物なんて在るはずも無かった。それは、この二人が親戚同士などでは無く、紛れもなくこの場で初めて出会った、赤の他人同士なのだから。


 男性乗客員は腕を組み、暫し考える。

 そして、誰にも気づかれないようニヤリと小さく笑みを浮かべた。

 この手が在ったか、と。


「これでは、お互いの身分の証明にはならないでしょうかね」


 男性乗客員はそう聞くと、深々と被っていた帽子を脱ぎ、胸にその帽子を当て、紳士らしい振る舞いを見せた。


 そして、少女は目を丸くした。


 その男性乗客員の頭にも、少女と同じような獣耳が生えていたからだ。世界中なんて言えば大袈裟になるかもしれないが、どこを探しても自分と同じような容姿をした人なんてどこにもいなかった。


 しかし、今まさに目の前に居る人こそが、それに違いないのだ。

 それを驚かないことに無理があった。

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