Planning 7 回想

         ◆ ◆ ◆


 初めて会ったときの印象は、かなり薄かったと思う。

 きっと、それはお互い様だ。何しろ高校一年の一学期も終わり。夏休み間近というそのときになるまで、同じクラスなのに一言も話をしたことがなかったんだから。

 関谷さんと初めて会話をしたのは、期末テストも終わり夏休みまでダラダラと授業を消化していたある日の昼休みのことだった。突然、田之上くんに話しかけられたんだ。

「戸隠くんもさあ、一緒にどうよ」

 その申し出に、正直僕は驚いた。田之上くんは同じクラスとはいえ、何となく違うグループの人間だったから。

「この夏をエンジョイしようよっ。たった一度きりの高一の夏だぜっ」

 そう言って肩を叩くものだから、僕は「何の話?」と聞いた。すぐ側で田之上くんたちが楽しそうに話していたのは知っていたけれど、僕は次の授業で当たる可能性が高かったので英単語を調べるのに必死で聞いてなかった。

「夏休みですよお。俺たち、海行こうって話してたんだ。やっぱ夏は海でしょう」

 僕としては何となく夏は山という気がしていたんだけど、別に海が嫌いなわけではないから「そう」とだけ答えた。田之上くんはそれを肯定と受け取ったらしい、ニヤリと気味の悪い笑顔になって「やっぱ海だよな」と小声で言う。

「じゃ、決まりー。これで三対三だからちょうどいいわね」

 そう言ったのは、吉祥寺さんだ。本当は校則で禁止されているはずだけど、うっすら化粧をしているちょっと派手な感じの女子。今も隣にいるけれど、いつも辰巳さんっていってこっちは割りと地味な感じの、眼鏡をかけている人と一緒にいる。二人とも声が大きいから、騒がしいって印象しかない。

「あー、俺、海行くまでに痩せるかなあ」

 横溝くんが腹を撫でて、田之上くんに「絶対無理!」と断言される。彼は、言っちゃ悪いけどデブだ。

「三対三って、もう一人は誰?」

 僕は気になったことを尋ねた。

「ああ、あいつ。ほら、窓際の、名前何だったっけ?」

 逆に聞かれてしまう。吉祥寺さんが彼女を呼んだ。

「関谷さーん。ちょっと、ちょっと」

 振り向いた彼女は、手招きする吉祥寺さんに「何?」と言いながら近づいてきた。吉祥寺さんが僕を指差して言う。

「夏休みのメンツが決まったから。ほら、自己紹介して」

 それは僕に言ったのか彼女に言ったのか、よくわからない言い方だった。だから、お互い自分に言ったんだろうと考えてしまった。

「戸隠です」

「関谷です」

 結果、見事に被った。

 四人が大爆笑する。

「やっば、受けるー。自己紹介が被るってどんだけだよ!」

 田之上くんが手を叩いて笑う。そこまで笑うことないだろ。

「ごめん」

「ごめんなさい」

 何となく関谷さんに悪いと思って謝ったら、彼女も同じタイミングで謝ってきたものだからまた被った。田之上くんが足をバタバタさせて笑う。だから、笑いすぎだって。

 僕は苦笑いになりながら、関谷さんに片手を立ててみせて謝罪の意思表示をした。彼女も苦笑して手を合わせている。つくづく被る人だな。

「あんたたち、サイコー! 思わぬニューフェイスを捕まえてしまったわ」

 吉祥寺さんが喜んでいる。僕はどうしたものかと彼女を見た。彼女も僕を見ている。だから仕方なく、「僕からいい?」と聞いた。

「どうぞ、どうぞ」

「戸隠です。よろしく」

「私、関谷。同じクラスなのに、全然話したことなかったよね?」

「そうだね。席も遠かったし」

「でも、被ってるし」

 横溝くんが茶々を入れ、田之上くんが手を叩いて笑う。周りがそんな調子だから、このファーストコンタクトは僕にとってかなり嫌な思い出になってしまった。同時に関谷さんに苦手意識みたいなものが生まれてしまったのは仕方ないことだと思う。

 出会いがそんなだったから、彼女との仲が進展するはずがなく、僕は夏休みに六人で出かけた海でも、その後に行った花火大会でも彼女とほとんど話さなかった。まあ、女子とよく喋っていたのは田之上くんだけで、僕は横溝くんと喋っていることがほとんどだったけど。

 状況が変わったのは、二学期に入って遊び仲間が増えてからだった。

 この頃、男子は剣道部の佐野くんと所沢くんが時々加わるようになり、女子では関谷さんに引っ張られてきたバレー部の塩原さんと、辰巳さんが声をかけた大代さんというものすごく地味で、クラスでもほとんど空気のような扱いを受けていた人がたまに顔を出すようになった。

 人数が増えてきて田之上くんの絡みが弱まってくると、僕はときどき適当な言い訳を作って一人で家に帰るようになった。それは何となく、本当に何となくだけど田之上くんや吉祥寺さんのノリについていけないときがあったからで、それは多分、相性みたいな問題で、どっちかが一方的に悪いとかそういう類のものじゃなかったと思う。とにかく、たまに友だちづきあいをサボって一人で電車のホームに佇んでいると、かなりの高確率で関谷さんを見かけることになった。

 彼女は僕と同じ電車に乗り、僕が降りる駅より二つ手前で降りた。僕は彼女の存在に気づいていたけれど、彼女は僕に気づいていないらしく、一度も声をかけられなかった。僕も何となく声をかけなかった。

 そんな状態がしばらく続いて、木枯らしが吹くようになった頃。初めて関谷さんに好印象を抱く出来事が起きた。

 それは本当に何の理由もなく駅近くのファミリーレストランに皆で入ってダラダラ喋っていたときのことだった。確か、メンツは田之上、ミゾ、吉祥寺、辰巳さんの基本メンバーにプラス僕、関谷さん、佐野くんの七人だったと思う。奇数なのは間違いない。どう座るかで田之上がバカなことを言って佐野くんがツッコンだのを覚えているから。

 僕らがドリンクバーだけで喋り続けていると、通路を挟んだ隣の席にロングコートを着込んだオッサンが座った。オッサンは太っていて、頭の毛がなかなかに残念なことになっていて、僕は何となくオッサンに注目してしまった。

 オッサンはコートを脱ぐと、水とおしぼりをもってきたウェイトレスさんにせっかちそうに何か注文して、早速おしぼりを広げた。そしていかにもオッサンらしく、手を拭いた後、首を拭き、顔を拭き、そして――

 すっかり毛の薄くなった頭まで、顔を拭く勢いそのままに拭き上げてくれた。

 思わず「やりやがったな」と心の中で叫び、この決定的な瞬間を捉えた仲間たちがいないかとみんなを振り返った。今すぐこの思いを共有したい。オッサンをネタに笑いたい。そういう思いで振り返った先には、まったく別の話題で盛り上がっている人々がいた。どうやら、この中でオッサンのオッサンたる衝撃映像を捉えたのは僕ひとりだけだったらしい。

 少しガッカリして目を逸らそうとしたときだった。真正面に座っていた関谷さんが、クスクス笑っているのが目に止まった。田之上と佐野くんの漫才トークで笑っているのかと思いきや、僕の方をチラリと見て、そっとオッサンの方を指差す。僕は思わず「見た?」と口の形だけで聞いた。関谷さんは困ったような顔で笑いながら何度も頷いた。

 すごく嬉しかった。本当にどうでもいいことなんだけど、それを共有できた。そのことがすごく嬉しかったんだ。

 他の五人も笑っていた。でも、それは全然別の話題で、同じように笑っているのに僕ら二人だけが違うものを共有している。そのときようやく、僕は関谷さんに対するわだかまりみたいなものを払拭できた。

 すっかり暗くなってからお店を出て、バラバラと解散する。このまま駅に向かえば関谷さんと一緒だ。いつもは駅と逆方向に歩いて本屋やCDショップを覗いて時間を潰す。何となく彼女と二人になる可能性を潰しておきたかったからだ。

 でも、今日は違った。あのオッサンのお陰で少し彼女との距離が縮んだような気がしていたので、そのまま駅に向かってみる。ただ、関谷さんに声をかけて駅までの道のりを一緒に歩くつもりはなかった。「じゃあ」と店を出るなり一番に歩き出す。「お疲れっ」と佐野くんの声が背中に飛んできた。

 急ぎはしないけれど、かといってゆっくり歩くのも変な気がして、何とも中途半端な速度でタラタラ歩いた。ようするに、関谷さんが追いついてこないかと思いつつ、それを期待していると思われるようなスピードにはしたくないという実にちっぽけなプライドが歩く速度に表れていた。僕は何度も振り返りたい欲求にかられ、それを必死に抑えて駅までの道を歩いた。

 そして、予想以上に早く駅が見えてきたとき、信号も何もない道の途中で僕はパッタリ立ち止まってしまった。サラリーマンらしき人が僕のことをチラッと振り返って追い抜いていく。自分でも説明のつかない焦燥感に駆られ、それでも結局振り返ることができず、また足を踏み出した。

「戸隠くん」

 そのとき、すぐ側で声がした。誰なのか、当然わかっている。でも僕はこの期に及んでまだ格好つけることしか考えておらず、「誰だろう?」と不思議に思っているという顔を作って振り返った。

 関谷さんが、触れようかどうしようか思案中という感じの、ものすごく半端な高さに手を挙げている。彼女は僕の顔を見て、安心したように笑った。

「あ、関谷さん。こっちなんだ?」

 我ながら白々しい台詞を吐く。関谷さんがコクリと頷いた。

「戸隠くんも、こっち?」

「うん。あの駅から電車。関谷さんは?」

 知っているくせに尋ねる。

「私も」

 彼女の返事は短かった。僕は何と返せば良いのかわからず、そのまま歩き出す。関谷さんが隣、一歩後ろくらいを歩いた。

「……さっきのオジサン」

 黙って歩くのも変な気がしたので何か喋ろうと思ったのだけど、話題といえばこのくらいしか思いつかない。ただ、あのオッサンのことがあってすでに一時間以上は経っていたので、「さっきのオジサン」だけで通じるかどうかは疑問だった。しかもそのことに、言った後で気づいた。

「キモイよね。顔拭くのもイヤなのに、そのまま頭までいっちゃうんだもん。ビックリしたよ」

 ところが関谷さんはわかってくれた。スムーズに返してくる。ホッとして、僕は「そうそう」と苦笑した。

 それをきっかけにして、意外なほど話は繋がっていった。最近よく観るテレビ番組や好きな歌手、芸人、先生の気になる癖だとか、とりとめのないことばかりだったけど、関谷さんと僕の感性はけっこう似ていて、たまたま観た深夜の番組で一度だけ見てすごくツボに入ったマイナー芸人のことを話すと、何と彼女もその番組を観ていて、同じようにツボだったと言ってくれた。『あいつはきっと売れるよ』『そのうちゴールデンに出てきたらどうする?』と勝手に二人で彼の批評をし、笑った。

 改札を抜けて電車を待つ間も、僕たちは喋り続けていた。ほんの数時間前までほとんど話をしたことがなかったとは思えないくらい自然に会話が弾み、電車に乗り込んで彼女が降りる駅につくまでずっと喋りっ放しだった。

「それじゃ、また明日」

 ホームに降りると、彼女はそう言って笑顔で手を振った。僕も「じゃね」と軽く手を挙げて応じる。ドアが閉まって電車が走り出しても、彼女のことを目で追っていた。

 それから二駅。自分が降りる駅につくまで、気持ち悪い話だけど僕はニヤニヤし続けていた。何がどうと説明しようがないけれど、とにかくニヤニヤしていた。本当、周囲の人間はアブナイ人だと思っただろう。

 家に帰ってから、重大なことに気づいた。関谷さんとケータイ番の交換するのを忘れていたのだ。そう。一緒に遊ぶようになって四ヶ月ほど経っていたのに、僕らはまだお互いのケータイ番を交換していなかった。明日、一番に聞こうと決心し、携帯電話を机の上に置いたものの、ひょっとしたら彼女からかかってくるのではないか? 実は吉祥寺か辰巳さん辺りに番号を聞いていたりしないかと淡い期待を抱いてしまい、その次に、むしろ自分から吉祥寺に電話して番号を教えてもらおうかと考え、それから吉祥寺に何と言って説明しようかという問題にぶち当たり、結果、僕は携帯電話を見下ろしたまま、時計の針が一二時を回るまであれこれと悶え続けたあげく、やっぱり明日(というか、日付が変わっていたので今日)、関谷さんに直接聞こうという結論に至った。

 ついでに言うと、その夜はなかなか寝つけなかった。何だか目が冴えてしまって全然眠気がこなかったんだ。いや、関谷さんのせいとかそういうんじゃなかったと思うけど。きっとドリンクバーでアイスコーヒーを飲みすぎたんだ。

 翌朝、僕は電車の中で彼女と会ったときのことを想定して、どういうふうに話をケータイ番の方に持っていこうかと真剣に考えていた。

 彼女は、駅のホームの昨日降りた場所に立っていた。ドアが開く前に僕に気づいたらしく、ちょこっとだけ会釈する。ドアが開き、彼女が乗り込んできた。押し潰されるほどではないけれど、混雑している車内のドア近くで、僕らは寄り添うような形になる。

「おはよう」

 まず、朝の挨拶をした。関谷さんも「おはよう」と返してくれたけれど、何故か彼女は俯いている。こっちを見てくれない。

「あ、あのさ……」

 色々シミュレーションしていたはずなのに、次の言葉が出てこなかった。困る。特に彼女がこっちを見てくれないのが気になる。もしかして昨日、盛り上がっていたのは自分だけで、本当は関谷さんは楽しくなかったのかな。調子を合わせてくれていただけなのかな。と、あれやこれや考え出すと、一気に気持ちが沈んだ。うわ、死にたい……。

「……ご、ごめんね」

 ところが、関谷さんが急に謝ってきた。俯いたまま言う。

「あんまり寝てなくて……。もう、顔ひどいから。見せらんない……」

 ガタゴトと揺れ動く電車の中、自分の胸の辺りから聞こえてきた小さな囁き声。僕はそれだけで、精神的泥沼から救い出された。

「僕も、あまり眠れなかったんだ」

 だからなのか、つい、そんなことを口にしてしまった。言った後で、「だから何だ?」と自らツッコミを入れる。うわ、しまった。これはフォローにも何もなってないじゃないかっ。僕のことなんかどうでもいいんだよっ。何言ってんだよっ。

「昨日は、寝苦しかったよね」

 関谷さんはダメダメな僕の発言にも返事をしてくれた。見下ろすと、車内が暑いのか顔が少し赤くなっている。僕は周囲を見回した。暖房の利いた中にこれだけ人が詰め込まれているんだ。外の寒さと温度の差がありすぎる。

「大丈夫? 暑くない?」

 囁いた。関谷さんは「ん?」と小さく声を洩らしてから「大丈夫だよ」と答える。でも、僕は早く彼女をこの暑苦しい空間から解放してあげたくて、もっと速く走れと、まったく無意味な念を吊り革から電車の中へと送り込んだ。いや、とにかく、そのくらいの気持ちだったという意味です。

 電車を降りて学校へ向かう道すがら、関谷さんが携帯電話を取り出して、でも何をするでもなく弄んでいたので、チャンスと思いケータイ番のことを切り出した。彼女はすぐに「そういえば、交換してなかったね」と言って赤外線ポートを僕のそれに向けてくれる。万が一、断られたらどうしようと頭の片隅で多少、いや、実はけっこう心配していた僕は、あっけなく手に入った彼女の番号とアドレスを画面に表示させて、本当にホッとした。

 それから関谷さんとは、何となく登下校を一緒にするようになった。約束したわけじゃない。朝はたまたま同じ電車の同じところに乗車するだけで、帰りも教室を出るのはバラバラで、たまたまどちらかが相手の背中を見かけたら、駆け寄って並んで帰るだけだ。田之上たちとも今まで通り遊んでいたし、二人だけでどこかに行くってことはまったくなかった。

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