第3話 呼び方がロウリエ様からロウリィに変わりました
「ロウリィ! 仕事ほっぽらかして何やってるんですか!」
「何って水やりですよ、カザリアさん」
それは見ればわかる、と言い返したくなるのを私はぐっと堪えた。
つばの大きな帽子を被り、にこやかにこちらを向いた彼が手にしているのは見紛うはずもなくじょうろだ。そこから水が見事な流線を描いて花壇に降り注いでいる。
誰がどう見ても水やりでしかない。
ただ、私が聞きたいのは名目上一応領主であるはずの我が夫が、なぜ庭師の仕事を奪っているのか、だ。
私の釈然としない気持ちに気付くはずもなく、今日もこの夫はぽやぽやと首を傾げた。
「大丈夫ですか、カザリアさん? 少し息が切れているようですが」
「誰の、せいだと、お思いですか! あなたを探していたんですよ、ロウリィ!!」
ぜはあ、ぜはあ、と肩を上下させたまま私は叫んだ。
役人の一人に「また領主がいない」と泣きつかれたのは一時間も前のこと。
それから私は無駄に広い屋敷中を走りまわるはめになった。
なぜなら私の他には誰も彼を積極的に探そうとしなかったからだ。
行く先々で使用人に尋ねるたび「いつものことですよ」「そのうちお戻りになると思いますけどね」とのんきな答えが返ってくる。
それは決して仕事を放り出した領主に対する皮肉ではなく、かと言って懐が深いわけでもなく——よくも悪くも彼らは、よく似ているらしい。
この目の前にいる能天気な楽観主義者に。
「でも、今日の僕の仕事はもうないはずですよ」
「で・き・た・か・らっ! 呼びに来たんです!」
じゃなかったら誰がわざわざ屋敷を一周しますか! ……と叫びたくなる気持ちを抑え込み、「戻りますよ」とにこやかに笑顔を浮かべてみせる。
明らかに落胆した様子の彼は『フィラディアル宮廷の花』と褒めそやされていたはずの私の微笑みなど見向きもせずに、手にしていたじょうろを庭師の老人へ手渡した。
今、本当にひねりたくなったわ。
彼のふわふわとしてどこか気持ちよさそうな両頬をぎゅうっと。
思いっきり。
持てる限りの握力をもって。
「ほら。せっかく奥様が迎えに来てくださったのですから、今日のところは大人しくお戻りなさい」
「そうだね、ルーベン」
諭しつけるような庭師の物言いに、ロウリィはほやほやと微笑む。服についた土を払い、手を洗いに水場へと向かう。
どうやら本格的に戻る気になったらしいと安堵した私に、ルーベンが片目を瞑ってみせた。
「ありがとう、ルーベン」
「いえいえ、奥様も大変ですね」
「ほんっとうよ」
うんざりして溜息をつくと、ルーベンは穏やかな表情を崩さぬまま口元に拳をあてた。
隣からくつくつと控えめに漏れた笑声に肩の力が抜ける。
私はこの庭師の老人が嫌いではない。
いつも物腰柔らかく紳士的に接してくれるルーベンは、一緒にいると心地よく安心する。
この屋敷に来て早くも一週間たったけど、現時点で私が心を許しているのは夫よりも、むしろこの庭師の方な気さえしてくる。
そもそもロウリィの“訳のわからぬ説明”をきちんと順を追い説明してくれた恩人もルーベンだった。
ただ問題はルーベンが説明してくれたところで、その内容が相変わらず理解不能なものだったということだ。
ロウリィから聞いた一族——代々この地で長く領主の座についていたチュエイル家は、一年半前、王から領主の地位を剥奪された。
チュエイル家の横暴と横領の多大さに耐えかねた領民の嘆願が王の耳に届いたのだ。
ここまでは、いい。しかし、ここからが問題だった。
領地であったこのエンピティロで権力を奮い、融通をきかせることのできなくなったチュエイル家は、こともあろうかフィラディアル国王アトラウス陛下によって新たに任命された領主たちの暗殺をもくろみはじめた。
幸いなことに、これまでに死者は一人も出ていない。
けれども彼らは皆、毒を盛られ、刺客に襲われ、死ぬまではなくとも散々な目にあって王都へ逃げ帰ったのだという。
そこで次期領主として白羽の矢が当たってしまったのがロウリエ・アジ・ハルバシン・ケルシュタイード――後に、というより今現在私の夫となってしまったその人である。
もし陛下が私の夫になる人のことを事前に予測していたらこの采配を考え直してくれたかもしれないとも思う。
王妃候補であるリシェルの話し相手として昔から宮廷に出入りしていたこともあり、アトラウス陛下は私にもとてもよくしてくださっていた。
こうなった以上、考えたって仕方がないことではあるけれど。
ルーベンから説明を聞いた結果、ただ一つ、私にもわかったのはロウリィがエンピティロの領主として選ばれたのは彼の政治的手腕によるのではなく、彼の異常なまでの毒に関する知識によるのだろうということ。
常人が気づかぬ無色無味無臭の毒でさえ、彼はいとも簡単に見抜いてしまう。
口にするものから、身に着けるものまで、ありとあらゆるところに仕掛けられた毒を、ロウリィは「なんだかいつもと違います」という私からすると何とも根拠のない理由で回避することに成功し続けていた。
その数は、とうに両手の指の数も、さらにそれに足の指を加えた数も越え――まだ一週間しか経ってないのに、この多さ!
私は数えるのを早々に諦めることにした。
「はあ」
溜息を一つ吐き出して、近くで茂る花樹の大きな葉に手を伸ばす。
花のついていないこの季節。これだけ葉が生い茂っていると、このむしゃくしゃした気持ちと一緒に無性にちぎりたくなる。
プチリとちぎったその瞬間、泥を落とし終えたらしいロウリィが戻って来た。
「あ、カザリアさん。その紫陽花も毒ありますからね。ついでにいうとそこら辺に植えられている、そこのスズランも、チューリップもユリにも毒が……」
「――っロウリィ!!! だからそんな説明はいらないって、言っているでしょう!?」
これでは、おちおち花を愛でることさえもできないと、ぽやぽやした夫の毒談義を聞くと思う。
とにかくなんにつけても毒が関係していれば彼は毒にまつわる話題を持ち出してくる。
ロウリィの毒に対する知識が並々ならぬものにまでなっているのは、ひとえにただ彼が毒が好きだからだ。必要に駆られたわけではなく、愛しているからなのだ。
そもそも、ここの領主にさえならなければ、こんなぽやぽやした人物が狙われる理由もなかっただろう。
むしろ、放っておけば勝手に自滅してくれるに違いない。
「ルーベン、じょうろ」
「はい、奥様」
ルーベンはにっこりと穏やかな笑みを浮かべる。
彼から差し出された水が入ったままのじょうろを受け取り、ロウリィがいる方へと腕を大きく振りかぶり思いっきり投げる。
「あぎゃっ!」
ぼこっという景気のよい音に続いて、間抜けな悲鳴が庭の片隅に響き渡る。
じょうろは見事、目標の人物に命中したようだ。
「お見事! さすがカザリアさん、今日も鮮やかですねぇ」
ぽややんと笑いながらパチパチと称賛の拍手を送ってくるロウリィをキッと睨みつけ、私は夫の元へ大股で歩み寄る。
「ロウリィ! 感心している場合ではないでしょう!?」
「ああああ、苦しいです、カザリアさん。やめてくださいーーー」
そう言う割にまったく苦しそうな顔をしていない夫の襟元を掴んでガクガクと揺さぶる。
彼の後方。
「でも、カザリアさんが武術に秀でていて助かりましたぁ」
「武術を学んだのは私の大切なリシェルを悪い
「そんなの無茶ですよー……。殺気なんて普通わかりませんよ」
「言いわけ無用! 大体それもこれも、あなたがくだらない賭けなどするから!!!!」
そう。ほんとーうにくだらない、というよりも「何を考えているんだ!」と思わず叫びたくなるような賭け。これこそが訳のわからない、私には到底理解できないものだった。
領主として任に就いたロウリエ・アジ・ハルバシン・ケルシュタイードは、この地に着て早々、単身チュエイル家の屋敷に乗り込んだらしい。
ここまでだとどうも格好よく聞こえるのだけど、実際はただ耳を疑うような話だった。
彼はチュエイル家の当主に言い放った。
「賭けをしましょう。ずっと命を狙われるのも面倒ですから、期限を一年にしませんか? そちらが一年以内に僕を殺せたら、領主に戻れるよう陛下に言付けてお許しを貰っておきますので。でも、僕が生き残ったら諦めてくださいね。ほら、そうしたほうがどちらにとってもいろんなことの効率が良いでしょう?」
多分、いや、絶対、この夫はぽやぽやと言い放ったのだ。
結果、首謀者は割れていたものの表向きは徹底的な証拠を残さないよう進められていた暗殺計画は、この賭けによって領主公認となり大々的かつ大胆に領主の屋敷に刺客が出入りするようになった。
ロウリィが領主になってから、まだ半年。
つまり、期限まであと半年も残っている。
「まったく、あなたのしょうもない賭けの巻き添えになって私が死んでしまったらどうするのですか?」
ロウリィを心ゆくまで揺さぶったおかげで大分気がすんだ私は彼を解放した。パンパンと両手を叩き、手についてしまった汚れを払う。
「ロウリィ……服がまだ汚れています。後で着替えて、洗濯に出しておきなさい」
よろよろ、ふらふらとしながらも、かろうじて踏みとどまっているロウリィは「わかりました」と首肯し、ぽややんと笑う。
「そうですねぇ、カザリアさんが死んでしまったら、きちんとお墓の前で手をあわせて謝罪はしておきますね」
「…………」
縁起でもないことをいつもの口調で言った夫に、一瞬言葉を失ってしまった。
「ちょっとは“僕が守りますから”とか言えないんですか!? 仮にも私の夫でしょう!?」
「でも、嘘は言えませんし、僕は毒に関すること以外は無力です!」
「そんな自信満々に断言するな!」
まあまあ、と庭師の老人は苦笑しながら、私たちの間に割って入った。
「のびている輩は私が屋敷の外にほっぽり出しておきますから、お二人はもうそろそろお戻りなさい」
「あ、よろしくお願いします」
気絶していた刺客の男を軽々と肩に担ぎ上げたルーベンに、ロウリィはひらひらと手を振る。
「では、カザリアさん。戻りますよ。友人から焼き菓子が届いていたのでお礼に一緒に食べましょうか」
「……毒は入っていないのでしょうね?」
「えっと、さっきは入っていませんでしたが、今はどうでしょうね?」
首を傾げて思案する夫の姿に、私はただ口をつぐむしかない。
「まあ、入っていたらわかるでしょう」
嫁いでからもう百回はついただろう溜息を今日もまた落としながら、ロウリィに促されて屋敷へと戻る。
今度こそはロウリィが抜け出さないようにと、執務室で我が夫を監視する。
幸いなことに出された焼き菓子には毒は仕込まれてはいなかった。その代わり、一緒に出されたお茶の横に置かれた砂糖壺の中には入っていたのだけれど。
「領主め、覚悟!」
威勢のいい掛け声と共に入って来た新たな刺客を足で引っ掛けて払いつつ、この屋敷はまさか刺客を雇っているのではないかと、菓子を食べながら私は真剣に悩む羽目になった。
王都に住む親友のリシェルから手紙が届いた。
今思うと嫁ぎ先がケルシュタイード家となり、夫の任地のエンピティロに行くことになったとリシェルに報告した時、彼女が大層驚いて、心配していた理由がよくわかる。
恐らくリシェルは陛下からこの地のことについて聞いていて予測がついたのだ。
私が置かれるであろう状況に。
それでも口に出せなかったのは、いくらこの国で一、二位を争う大貴族の姫である彼女とはいえ、他家の婚姻に口を挟む権利は持っていないからに違いない。
手紙にも心配が色濃く滲んでいて「そちらの様子や旦那様はいかがですか?」と遠慮がちに添えてあった。
こちらの様子や旦那様……。
報告したいこと――と言うより、聞いて欲しいことは山のようにあるけど、どれもリシェルの不安を煽りそうなので、やめておこうと思う。
だからとりあえず、呼び方がロウリエ様からロウリィに変わりました、とだけ伝えておくことにした。
できる限りリシェルには心配をかけたくない。
夫の呼び名が変わった理由が、彼を怒鳴る時に「ロウリエ様!」よりも「ロウリエ!」よりも「ロウリィ!」のほうが言いやすかったからだとか、そんなことはさすがに書けなかったけど。
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