カミはヒト、ヒトはカミ
どぼんと、川に落ちたと思ったときには遅かった。水しぶきが視界を過ぎ去っていき、ナナシは暗い川面に飲み込まれていく。あがろうと顔を水から出すと、百目に頭を押しつけられた。
「そぉの汚ねぇナリで市場に行くつもりかぁ? 少しは、体洗えぇや!!」
「うぅ!」
「うぁあ、服も汚ねぇなぁ。お前、こんなんでよぉく生活できてたなぁ」
嫌がるナナシの着物を、容赦なく百目が剥ぎ取っていく。
一目連に勘付かれると色々とまずい。人間臭いから少しはその匂いを取れと百目はナナシを近くの川まで無理やり引っ張ってきたのだ。
体なんてナナシは生まれてから洗ったことがない。そんなナナシをひょいっと担ぎ上げ、百目は容赦なく川に突き落としてくれた。
「ほれぇ、ほれぇ、にんげんの匂いとれろぉ、とれろぉ」
ナナシの頭を何度も川につけながら、百目は嬉しそうに声をあげる。苦しくて、ナナシは何度も頭を持ち上げようともがいてみせた。
秋になったばかりの川の水は冷たい。母親は、気に食わないことがあるたびに家の近くを流れていた川にナナシを突き落とした。
覚えているのは冷たい水の感触と、自分を飲み込むぬるりとした水の流れのみだ。
「やだ! やだ!」
嫌なことを思い出して、ナナシは悲鳴をあげていた。
「あれぇ、にんげんってこう洗うんじゃないのかぁ?」
そんなナナシの頭を百目はわしゃわしゃと撫でてきた。ぱちくりぱちくりと一つ目を何度も瞬かせ、百目は自分の両手を見つめる。
細長い五指をわしゃわしゃと動かしたあと、百目はにまっと口元に笑みを浮かべてみせた。
「こうぅか。こうかぁ!!」
細長い指で、百目は百舌鳥の巣のようなナナシの髪を梳いていく。百目の細い指は、上等なつげの櫛のようだ。彼女がナナシの髪に指を滑らせるたび、髪はするすると解けていく。
髪を撫でられる感触が気持ちよくて、ナナシは眼を細めていた。
こんな風に、誰かに髪を梳かしてもらったことなんてなかった。髪を引っ張られたことだったら、たくさんあったけれど。
「おぉおぉ! なんか、真っ直ぐになった!!」
百目が感嘆と声を上げる。ナナシが驚いて振り向くと、百目は嬉しそうに自分の一つ目を指差してみせた。
「鏡の代わりぃ! 見てみろぉ、見てみろぉ。にんげんって、水に入れるだけで変身するんだなぁ! 妖と変わんねぇ!!」
ぱちくりと瞬きする一つ目を、ナナシはじっと見つめる。そこに映る自分の姿を見て、ナナシはあっと声をあげていた。
艶やかな黒髪を纏った、何とも愛らしい少女が一つ目には映っているではないか。黒髪はぴったりと少女の細い体に絡みつき、形の良い乳房にも張りついている。一つ目を照らす月明かりが、少女の体を蒼く照らしていた。
「これが、私……?」
ナナシが自分を指差してみると、一つ目の中の少女も自身の体を指差してみせる。ナナシがぱちくりと眼を瞬かせると、少女も同じことをした。
「すげぇなあ! 私も昔はにんげんだったけどぉ、こんな風には変身しなかったぞぉ!!」
「百目さんが、人間だった?」
「うん、そだよぉ。つーかぁ、にんげんって死んだらカミになるもんだろぉ。最近はぁ、ホトケさまになるっつーけど、原理はおんなじゃあぁん」
「にんげんが、カミサマに?」
「最近のにんげんは忘れてるみたいだけどさぁ、にんげんは勝手に自然にあるそこらのもんから生まれてきたんだぞぉ。だからぁ、帝のご先祖なんてお伊勢様じゃん。お伊勢様って、太陽だろぉ。
ご先祖様のカミさま遡ればぁ、そのカミさまが貝殻だったりぃ、稲穂の神様だったりなんて日常茶飯事ぃ! にんげんは自然から生まれてぇ、死んだらカミになって万物動かしたりぃ、自分の子孫見守ったりぃ、稲穂の化身になって、生きてるにんげんに食われたりぃ、結構忙しいんだぜぇ。
で、その忙しさに飽きたら、またにんげんに生まれ変わんのぉ。にんげんってのは、生きて死んで、くるくる回って、世の中動かしてるんだよぉ!」
両手をがばーと広げ、百目は大声をあげてみせる。百目の一つ目は月明かりを帯びて、きらきらと輝いていた。
何だか百目は、楽しそうだ。
「でなぁ! でなぁ! にんげんだった私を育てたのはぁ、一目連様なんだぁ。私の家系はぁ、遡れはあのエロジジイィまで行き着くんだけどさぁ、これがぁ、私の代で絶えちゃってさぁ。見かねたエロジジイが私を引き取ったんだよぉ。
つーても、世話になってた家から私を誘拐しただけだけどぉ! 一目連様そんときから眼が見えなくてよぉ、そんなエロジジイを何とかしたいと思って死んでったらぁ、何か目玉集めるカミになってたんだぁ。見てみん、見てみん。私のぉ、目ん玉」
ナナシの眼の前で、百目はがばりと纏っていた着物を脱いだ。びっくりして、ナナシは両手で顔を覆ってしまう。
「ちょ、百目さん」
「気にすんなぁ! 女同士じゃんかよぉ。このぉ!」
恥ずかしがるナナシに、百目は弾んだ声で応えた。
「ほぉら、恥ずかしがらずにぃ、見てみぃん。見てみぃん」
両手の指を開いて、ナナシはその隙間から百目の様子を窺う。
するりと、百目が着物を川に落とす。赤絣の着物は、ゆったりと水面に落ちて、水の中に沈んでいった。
百目の裸体が、月光に照らされる。百目が包帯を丁寧に外していくと、月光に照らされた無数の眼が顕になる。
ぎょろぎょろ。
白い体に穿たれた無数の目玉たちが、てんでんばらばら好きな方向を向く。その目玉たちは示し合わせたようにナナシを見つめてきた。
びくりとナナシは肩を震わせていた。
だが、同時に奇妙なことに気がつく。ぴくりとも動かない目玉が、いくつもあるのだ。その目玉たちは月光に輝くこともなく、瞳孔を開いたまま正面を向いている。
どうも、百目についた眼のいくつかは見えていないようだった。
「百目さん、その……」
「私の仕事はなぁ、盲の人間を癒すことなんよぉ。盲の家族が生まれるとなぁ、自分の目と引換にぃ、その盲を直して欲しいって身内が出てくるんだわぁ。そんな人たちの願いがぁ、私に力をくれたんさぁ。
一目連様の末裔ってのがぁ、決め手だったみたいでさぁ、死後にちっちゃい村の衆が私のことをカミとして祀ってくれたんだぁ。盲を癒す神様だぁてなぁ。一目連さまの目を治したかった私にはぁ、ぴったりの転生先って訳だぁ」
にぃっと一つ目に笑みを浮かべ百目は言葉を続ける。百目は、自分の体についた目玉たちを愛しげに見下ろしてみせた。
「この目はさぁ、盲たちの目玉なんよぉ。穢れた盲たちの眼を浄化してぇ、見える目にすんのが私の役目。その眼を、祈りと引き換えに、見えるようになりたいっていう盲たちに分けてやんのよぉ。祈りが目の穢れを払ってくれるからなぁ」
百目は体についた目玉たちを優しく撫でる。
ぎょろり。
応えるように、目玉たちは百目の顔をいっせいに見上げてみせた。そんな目玉を見て、百目は悲しげに一つ目を曇らせてみせる。
「でもなぁ、最近こいつらの穢れが取れにくいんだわぁ。キンダイカってやつのせいかなぁ。ひとが祈りをくれなくなったんよぉ。私たちのことぉ、ただの想像の産物だって言いやがんのよぉ。そのせいで、私は零落して妖怪になった。なんか、さみしいよなぁ、それって……」
そっと百目はナナシを見つめる。百目の一つ目は、なんとも寂しげげな光をあたりに投げかけている。
「魂とかぁ、心とかぁ、カミとか、眼に見えんもんはぁ、信じられないと小さくなって消えてしまうんだよぉ。そこにはただぁ、肉の塊みたいな世界が残るんだよぉ。それってさぁ、生きてるのにぃ、死んでるってことだぜぇ。寂しいよぉ。そんな世界は……。でもぉ、にんげんたちはぁ、ゆっくり私たちを忘れようとしてんのよぉ。仕方のないことだけどなぁ……」
きらり、きらり。
笑う百目の一つ目は、なんとも悲しげに輝いている。一つ目は、まるで泣いているようにみえる。
「百目さん……」
「だから、お前は私のことぉ、忘れないでなぁ。祈ってくれなぁ。その祈りがさぁ、他の人の眼を見えるようにしてくれるんよぉ」
にっと口元に笑みを浮かべて百目は締めくくる。それでも、百目の一つ目から寂しげな色が消えることはない。水を含んだ黒髪をゆらし、ナナシは百目に飛びついていた。
「おぅ、どうしたぁ!?」
「忘れないよ、私……。この眼をくれたのは、百目さんだもん……」
ぎゅと百目を抱きしめ、ナナシは彼女の胸に顔を埋めてみせる。水に濡れた百目の体は、それでも温かかった。びっくりたように瞬きをする胸の目玉たちが、少しばかりくすぐったかったけれど。
「かわぁいいぃ!!」
「うぁ!」
がしりと、百目がナナシを抱きしめ返してくる。びっくりして彼女を見つめると、ナナシは一つ目を嬉しそうに輝かせていた。
「ほぉんと、お前みたいにかわぃぃにんげんのガキに会うのは久しぶりだぁ。かわいいぃなぁ、かわいぃなぁ!」
「ちょ、百目さんっ!」
百目は嬉しそうにナナシの頭をぐりぐりと撫でてくる。撫でられた部分が妙にくすぐったくて、ナナシは声をあげて笑っていた。
「くぁぃぃなぁ! かわいぃなぁ!」
「やめてよ、百目さんてばっ!」
お返しとばかりに、ナナシは百目の胸にぎゅむっと顔を埋めてみせる。おぅっと百目が妙に艶っぽい声をだしてみせた。
「ちょっ、何をしているお前らー!! こんこん!!」
そんな二人を、怒鳴りつけるものがあった。びっくりして、ナナシは岸辺へと顔を向ける。
真っ赤に顔を染めた白狐が、ナナシたちを睨みつけていた。
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