名無し少女と百目女
猫目 青
ナナシ少女
閉じた少女の目で分かるのは、暗闇だけだ。視覚を失った彼女の頼りはもっぱら鋭敏になった聴覚と、嗅覚と、触覚だった。
ほら、今でも彼女は風を肌で感じている。
さぁさぁ。
風が冷たく、夜が来たことを少女に告げてくれる。少女に名はない。呼び方があるとすれば、きっと『ナナシ』だろう。みんなは彼女をそう呼ぶし、彼女は母親から『名前』と言うもので呼ばれたこともなかった。
母親の腹の中にいるときは、『名前』をつけられていたかもしれないけれど。
そっと、少女は閉じた瞼に触れる。ぶよぶよとした感触は、瞼の下が空洞であることを知らせてくれる。ちょっと力を押すと、瞼の皮膚が空っぽの眼窩に入り込んでしまう。
ナナシには、生まれつき目がない。だから、誰も彼女に名前をくれないし、母親は山奥の神社に彼女を捨てていった。
その辺に落ちていた枝をやっとこさ拾って、彼女は何とか山道を下っているところだ。といっても彼女が目指しているのは、住んでいた集落ではない。
この山のどこかで開かれるという、八百万の神々の市場を目指しているのだ。
また、風が少し温かかった頃――たぶん夕暮れどきだ。お寺の鐘が、野良仕事に出ている集落の人間に落日を告げていたもの――ささっと、ナナシの前を通り過ぎる小さな気配があった。
気配は二つ。それがこんこん鳴きながら、こんなことを喋っていたのだ。
「一目連さまが、新しい目を新調なさりに夜の市場にくるらしい。お陰で、我らが主は大忙しだ。あの方の気にいる目は、そうはない」
「だから、百目女が呼ばれたらしい。百個も目があるんだ。一つぐらい、恵んでくれるさ」
「くれるかね。くれるかね。こんこん」
「くれなきゃ困る。くれなきゃ困る。こんこん」
しばらくこんこんと鳴き合いながら、二つの気配は通り過ぎていく。
「夜の市場……」
気配がすっかり消えたあとで、ぽつりとナナシは呟いていた。
夜の市場。一目連。たくさん目を持っている、百目女。
くれなきゃ困る。こんこん。こんこん。
ぐるぐると、あたまの中で気配たちの声が反響する。
――この穀潰し!!
自分を罵る母親の声を思い出す。
もし、自分に目があったら。その市場で、目が手に入るとしたら。
ぶよぶよとした眼をナナシは撫でる。つぅっと頬を伝う熱い涙がある。
こんこん。こんこん。
また、小さな気配がナナシの前を通り過ぎる。
こんこん。こんこん。こんこん。
たくさん、たくさん、急いだ様子で通り着ていく。
そっとナナシはかがみ込み、周囲の地面を手で探った。その手に当たるものがある。それが手頃な大きさの枝だと分かり、ナナシはほっと息を吐いた。
その枝を持って、立ちあがる。枝で地面を叩きながら、障害物がないかをたしかめる。
こんこん。こんこん。
ナナシの前を次々と小さな気配が通り過ぎていく。ナナシはそっと、その気配の後をついていった。
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