第六章 快晴朝と想起

​​───思い返せば想い募り。



         ●       ●                 


澄み渡る空に、雀が羽ばたいて飛ぶ。

白に染まっていた町は、陽の光を浴びて徐々にその姿を現してゆく。

朝だ。

年の瀬を思わせる静穏な空気に、心を安らげる者がいた。

時期が時期とはいえ被せすぎた毛布で身体が暑かったのか、無意識に下半身が下着だけになったパジャマ姿。

ベッドのすぐ隣、開けた窓の外から入ってくる冷たい風が、少女の身体と肺を引き締まらせる。

三條さんじょう伊里栖いりすの朝は早い。

井武須町において、獅子堂ししどう家と双璧を成す『二大旧家』の一人娘である彼女は、身の回りの世話を誰に任すこともなく、全て自分でやらなければならなかった。

というのも、伊里栖の母親​​───つまり三條家現当主​​───が、

入婿いりむこがだらしないと、結局は全部自分が仕事を背負しょいい込むことになるから、あんた将来ヘタレは絶対に止めときなさい。それでも私の娘だしダメ男に惚れるかも知らないから、出来るだけ一人の力で処理できるようになること」

という、さり気なくノロケの入った教育方針を掲げているからだ。

当然、侍女や執事の二、三十人は在籍しているのだが、彼等の主立った仕事は無駄にだだっ広過ぎる庭の管理と、家中の大理石部分の清掃にが大部分となっている為、料理や洗濯などを伊里栖が担当することもある。

無論一人でやっている訳では無いものの、目分量だとか裾の正し方だとか、日に日に家政婦としてのスキルが上がっているのは確かだ。いずれは主婦特有の義務感に身体が支配されてしまうかもしれない。

閑話休題。

それはそれとして、これは母から言いつけられていない、日課の一つだ。

毎朝、起きるべき時間に新鮮な空気を入れることで、昨日という倦怠感と布団に取りつかれそうになる自分を決別させる行為だった。

「んっ……んんぅ」

光陽を全身に浴びながら、大きく伸びをして三回深呼吸。町を一望できる程の高地にあるので、何物にも太陽は邪魔されない。

「……っ、はあ……」

決別完了。

頭の中もスッキリした。

昨晩、七年振りの再会を果たした昔馴染みからの「家出少女お持ち帰り宣言」を脊髄反射で叩き落としてしまったのだが、アレはいつも宗次そうじの奴がエロゲの話で絡んでくるから、ああやって打ち切っていたが故に素で出た対処だった。

だが、紘一は宗次ではない。流石にあの馬鹿と一緒くたにするのは酷い話だ。

馬鹿と言えば先日『おいやべぇよ! 母娘が同時に赤ん坊のさぁ!』というメッセージを受け取ってからブロックにしっ放しだった。もう十日くらいは放置しておこう。

ということで紘一には叩き落としてから三十分後くらいにそれとなく詳細を問うてみたのだが、結局既読はつかず終いだった。

もしかすると急用で、もう手遅れだったのかもしれないがそれはそれ。まあ気付いたら返してくるだろう。

そう考えつつカーテンを閉め、枕元にあるリモコンを操作してPCの再生ボタンを押す。

『画面の前の三次元たちぃーっ! こーんばーんはー!!☆☆ 今夜もスーパーネットアイドル・メイちゃんの生放送に来てくれてありがとーっ!☆☆☆』


         ●       ●                 


つけっぱなしだった画面から流れて来た快活な声の主は、今、巷を席巻している『ネットアイドル』というものだ。画面は、昨日の晩にも動画配信サイトでやっていたらしい生放送のタイムシフトだ。

伊里栖は最近、彼女の配信を見ることも日課にしていた。

茶髪を一房ずつ両サイドに結び、現実離れした翠玉色の瞳が眩しい。そして目を引くのはスカート丈の短いメイド服だ。

三條家ではレトロスタイルなスカート丈の長い服装なので、伊里栖にとっては物珍しいタイプだった。

『今年ももう終わっちゃうねー。メイちゃんはやり残したことたくさんあるよぉ~。 え? それは何かって? そんなの決まってるじゃん! みーんなのこと、まだまだ幸せにし足りないんだもーんっ☆☆☆』

「……いやいやいや」

呆れつつも、豆挽きで珈琲を淹れる。

実際のところ、伊里栖は半分義務感でその日課をこなしていた。

というのも、小学校の頃に宗次に『びぃえる同人誌』を無理やり読まされ、裸の男共が抱き合う構図の見開きに大泣きして以来、そういった類のジャンルには苦手意識を持っていたからだ。

しかしそれでも果敢に配信を見ているのは、あのメイちゃんとやらが、今の校内のトレンドだからだ。

普段よりサブカルチャー知識の押し付けは馬鹿そうじからのものだったのだが、今回に限っては同級生の女子から教えられたものだった。

というのも、近年ではアニメや漫画などは広く若者に浸透しており、深夜にやっているようなアニメでもネットやテレビの情報番組で取り上げられれば一躍有名になるかららしい。

で、件の彼女もその情報番組で話題になったというわけだ。

……まぁ、注目を浴びるのも分かりはするけどね。

角砂糖を三個入れた珈琲を口に入れながら思う。

第一に、これは大前提の話だが、容姿が良い。

二重で、鼻は高く、丸顔であるが故に愛嬌も乗り、そして個々のパーツのバランスもいい。

スタイルに関しても、女性にしては少し高めで腰も細い。

そして性格だが、これは電波系ぶりっ子というのか、ハチャメチャな言動をとりつつも人を不快にさせない程度のキャラクターに収まっている。

嫌う人は蛇蝎だかつの如く嫌うタイプだが、本人が一生懸命であるからこそ、応援したくなるという心理だろうか。

『今日もたーっくさんのコメントありがとーっ☆ NG機能はホスト側だけ切ってあるからみんなのコメントは丸見えだぞお。……あっはははは!! ​えいっ☆』

何をしたんだ今。

考察とツッコミを終えた伊里栖は一杯を飲み干しながら、カップを机に置く。

やはりカフェインはいい。快晴の朝に程よく冷静さが迸る。

特にお気に入りなのはこの『コピ・ルアク』だ。別名Poo Coffee。

希少なものを必要以上に取り揃えることが出来るのは、富裕層の特権である。由来が由来だけに馬鹿には高度な変態と茶化されるが。

……なんで朝っぱらから馬鹿のことを四回も考えないといけないのかしら。

伊里栖は疑問に思ってから、それこそ昔馴染みの紘一に会えたからだろう、という自答が来た。

「……七年ぶり、か」


         ●       ●                 


伊里栖はPCの音声に耳を傾けながら、シャツ型のパジャマのボタンに手を掛ける。

「思い返せば、あの時からもう随分と経ったっていうのに……」

七年もすれば人は変わる。

紘一に対してそう言ったのは自分だ。

実際、泣き虫だったあの頃の自分はもう捨てたし、紘一も以前と比べれば瞭然に落ち着きがあった。馬鹿そうじ馬鹿そうじのままだが、下ネタに対するガチ度が上がったので変化と言えば変化になるだろう。

……そして、あの娘も……。

『せんちゃん』の名前を出した時、紘一の反応は妙に鈍かったことを伊里栖は不思議に思った。

……小学校時代、私達は同じグループでよく遊んでいたけど、その中でもせんちゃんと特に仲が良かったのはアイツだった……。

しかし、彼はその呼び名をまるで初めて聞いたかのような素振りを見せたのだ。

単純に忘れているだけかと思ったが、あれだけ時を過ごしたのだから、簡単に忘れられるはずもないのだが。

それに、

「あんな事件にも遭ってたのに、まさかね……」

そこまで思い至って、それ以上は脳がダメなサイクルに入る危険を感じたので、パジャマを脱ぎ捨て、PCの音声に集中することで邪念を振り払うことにする。

『みんなは、来年をどんな年にするのかな~? 嬉しいこといっぱい? 楽しいことたくさん? 目標に向かってひたすらレッツラゴー? いいねいいねっ、キラキラだよねっ☆☆

 ……メイちゃんはね~、うふふっ!☆ なんと、来年になったらウッキウキでワックワクなことがたーっくさん待ってるんだあっ! だからねだからね、待ち遠しくてたまらないのっ!☆☆☆

 みんなっ、もーっと応援よろしくねっ!

 それじゃぁ今夜の一曲目張り切っていっくよー!!☆☆

 タイトルはーっ、​【堕天の救世主メヒア】』

「急にビジュアル系っ!?」

思わず突っ込んだが、流れてくる曲調はポップで如何にもなアイドルソングだった。

「……なるほどね、このアイドルが話題になるのも分かるわ」

苦笑しつつ、着替えのシャツに袖を通した時、ふと背後からひんやりと寒気を感じた。

そういえば窓を開けっ放しだ。

「いい加減寒いし、窓を閉め​​───」

振り返るとそこには宗次ばかがいた。


         ●       ●                 


宗次は、目の前で下着姿のまま硬直した幼馴染みを見た。

……ふっ、どうやら窓の外から逆さまの状態で降臨するというとんでもないイリュージョンに腰を抜かしたらしいな……!

双川ふたがわ・宗次の朝は早い。と言うよりも寝ていない。

昨日、家に帰ってからすぐさま積んでいたエロゲを片っ端から消化し、性神的にハイのままこの感動すら覚える気持ちを誰かに伝えたくてしょうがなかった。

まず、帰ってきたばかりの親友の家に行こうとしたのだが、新しい住所を聞き忘れていたため断念。他の男友達もこんな朝っぱらから家を訪ねられても迷惑だろうと考え、顔パスの伊里栖の豪邸に侵入おじゃましたのだった。

普通に天井裏から顔を出そうと思ったのだが、毎度それでは芸がないと思い、あえて窓からこんにちはしてみた次第だが、まさか着替え中に出くわすとは。

……ふむぅ。

水色の下着だった。クリーム色の斑点……いや、水玉模様か。上の方はシャツで全体像は見えなくなってしまってるが、

「いやー、やっぱ高校生になってもあんまし育っとらんなあ、お嬢様なのに」

「​​───」

物言わぬ像と化していた伊里栖が少し反応したかと思うと、空気がピリピリし始めた。

「……今、アンタに最適な処刑方法を3つの内から選ばせてあげるわ」

「おいおい、ちょっち気が早かぞオメェ。大体な、いくらセキュリティの固い屋敷住まいだからって、窓開けっ放しにするとか防犯意識緩みすぎじゃないか? お?」

「……屋敷の門から庭通り抜けてここに来るまでどれだけの距離と警戒挟むと思ってんのよ。それにここ、3階なんだけど」

「そぉぉれぇぇがぁぁ! 防犯意識が薄いって証拠やろうが! 性犯罪者はいついかなる時も己の欲を満たすためなら手段を選ばないっち、学校で教わったじゃねえかよ! まったく最近の女子高生はこれだから、もっとデリカシー持てデリカシー!」

「……いや、現在進行形で性犯罪者アンタだし、指差しながら言われても全く響かないし。っていうか何? 勝手に人の部屋まで押しかけて逆ギレ? 説教強盗か何かですか? うふふふふ……おまけに裸まで見てこの野郎……」

下着姿を裸とは奥ゆかしいな? しかし、ブツブツと怨念を溜めながら眼鏡を掛けるその姿は怒りが爆発する五秒前でこれはいかん。

宗次はフォローを入れるべく、すかさず言葉を挟んだ。

「い、いや待て伊里栖。確かに胸はあんま育ってないが壁よりマシなんだからまだええやろ! それに俺は、お前の魅力が別にあることを知っとるけんな!」

「……一応聞いてあげるけど、何かしら?」

宗次は一呼吸置いてから、親指を立てて断言する。

「​​───尻はいいぞ!」

言い切った直後、顔面に見事なヤクザキックが直撃した。


         ●       ●                 


冷気を纏った朝の町を、白い息を吐きながら歩く青年の姿があった。

市ヶ谷・紘一の朝は早い。

といっても、それは今日だけだろう。

……むしろ、昨夜あんなことがあってよく起きれたな、俺。

昨夜。

目の前でダイナミックなリストカットをやってのけたあの少女は、その後、「そろそろ門限だから」という、あまりにも日常的な理由で早々に帰ってしまったのだった。

呆気にとられた紘一はそのまま見逃してしまったのだが、別れの際、聞いた言葉を頼りに早朝から町に出ていた。

「……どうしても知りたいなら、明日の8時に鑓水やりみず公園に来て」

そう言い残し、彼女は帰宅した。

その後、布団や血が飛び散った筈のカーテンなどを調べたが、一滴どころかシミすらも残っていなかった。布団は少し甘い匂いがした。そんなことはどうでもいい。

紘一は考える。

昨晩の彼女の態度は、彼女自身のことについて納得してもらうために仕方なく説明したものであり、もしかすると、これ以上は関わって欲しくないのではないかと。

考えてみれば、自分が初めて出会った彼女は血塗れで大怪我をしていた。

彼女の言う通り、そして昨夜見た通り本当に『死なない』のだとしても、それほど危険なことがこの先待っているのだ。

だとすれば、下手に関わってしまえば死ぬ目に遭うのは自分かもしれない。

ならば、

「死なない程度に上手く関わればいい……ってのは詭弁かな?」

我ながらつまらない洒落だ、と思っていると、

「……ん? ここは……」


         ●       ●                 


紘一は気が付くと、林の入口前にいた。

住宅街から少し離れた、街灯の下。

昨晩、仟螺・旋と出くわしたあの場所だ。

……そっか、鑓水公園に行くにはここ通った方が近道なんだよな。

子供の頃の知恵を無意識の内に行動に移していたことに若干驚きを覚えつつ、周りを観察する。

林の入口と道路の狭間、朝日で溶けかけた雪とコンクリの境界線。

そこに明確な痕跡があった。

「……これ、擦ってるのか?」

紘一が注視すると、コンクリートに出来たばかりの『何かが引き摺られた跡』が残っていた。

それはタイヤ痕などではなく、明らかに、固い何かで引きずったものだ。

紘一はすぐに思い立つ。

「これ……あいつの刀か」

更によく見れば、その跡は細く、また途切れ途切れになっている。

察するに、あの旋という少女が『何か』に気絶するほどの力でぶっ飛ばされた際に、刀が地面と接触し、その時に折れたのだ。

記憶の中、気を失った彼女の横にあった、真ん中からパッキリ折れた刃。

だが、

「俺の部屋で手首を斬った時、あいつの日本刀は折れちゃいなかった……」

紘一が旋を抱きかかえ家に走った時、彼女は気を失ったままだというのに刀の柄を掴んで離さず、そして紘一は追ってくる紅い液体に気を取られ、折れた刃など一瞬で忘れてしまっていた。

紅い液体といえば、あれはきっと、彼女の腹部の空洞に位置していた血液又は肉片の塊だったのだろう。

それを思えば、別に慌てて逃げる必要は無かったのかもしれない。

……いや、あれは逃げる。誰だって逃げる。

そして家に帰ってきた後、一時彼女から目を離していた間に目を覚まし、相見あいまみえた時には折れた根元を納刀していた。

納刀の際、折れているのは確認しているはずだから、その後、派手な自殺を決める時に自然な動きで鞘から刀を抜き行動に移したということは、

「刀も身体と一緒で復活するのは不自然じゃないってことか……」

一応、折れた刃先を粗く探してみたが、少なくともこの周辺には落ちていないことはすぐに分かった。

「誰かが拾った可能性もあるが、まあ刀が元に戻る時に消滅するんだろうなぁ」

一般的に見れば前者の可能性しかないのだが、あんなものを見た翌日、どう考えても後者の方に考えの納得が行ってしまうのはもはや毒されたのか。

「あっ! そういや……」

昨晩、旋を抱える際に買い物袋を置いてきたことを思い出した。

気温はすこぶる低いが、幸い雪は降っていなかったため水浸しにはなってないはずだ。

しかしさっき探した通り、ここには雪と霜以外何もない。

……あちゃー。こりゃ誰かがゴミと間違えて持って行ったか。

生活必需品と一週間生きる為の食材がたんまり詰め込まれた二袋だ。

ビニールは大きく白い為、不法投棄の燃えるゴミと間違われた可能性は高い。

独り暮らし初めの月ということで親からの仕送りは多めだが、それでもこの出費は嵩むし、また隣町までわざわざ買いに行くのも面倒である。

「えぁっと、今日は何曜日だっけ……。つーかここの燃えるゴミ収集って何曜日なんだ? いやそもそもあれはこれから使うものでゴミなんかじゃねえー!!」

わー、っと動揺と混乱を身体全体で表現していると、

「あら、どうされたんですか?」

と、後ろから声を掛けられた。

少し高めの女性の声だ。

「あ、いや、お恥ずかしい。実はちょっと昨日ここで落とし物を……」

振り向くと、そこには背の高い美人がいた。


         ●       ●                 


……おお。

紘一は思わず心の中で感嘆を上げた。

自身の背は平均でも高い方だと自負しているが、目の前にいるこの美人は同じ位の目線でいるのだ。

茶髪がかった長髪で、翠玉の瞳が眩しい。

青のコートとその下に、寒くないのかロングスカートが見える。

つばの広い帽子はどこか浮世離れした、お忍びで城下を歩くお嬢様感を醸し出していた。

「落とし物? もしかしてこれのことかしら?」

その手には二つの大きな買い物袋があった。

「あー! それ! それっす! ありがとう御座います!」

素直に嬉しい誤算だったので全力で感謝し、受け取る。

「うふふふ、若いわねぇ」

「いやあお姉さんも十分過ぎるほど綺麗じゃないっすか! ……でも、どうしてこれを?」

「あぁ、ここの道、私の日課の散歩コースなのよ。いつもより早く目が覚めたからブラブラと歩いていたらたまたま、ね?」

「なるほどですね!!」

全力で納得するのは相手が美人だからではない。納得がいっているからだ。

……あ、そうだ。

「あの、この買い物袋を見つけた時、近くにかた……折れたナイフの刃先みたいなものって落ちてませんでしたか?」

「んー……お姉さんよく分かんないな☆」

「ですよね!! そうですよね!!!!」

全力で納得するのは相手が好みのストライクだからではない。納得がいってるからだ。

「……本当は、この散歩も禁止されてるんだけどね」

「散歩が禁止? どうしてです?」

お姉さんは少しかげりのある表情を見せ、

「実はね、最近この辺で怪しい人というか……不審者? が出没するらしいのよ」

「不審者、ですか?」

脳裏に浮かぶのは帯刀女子高生だが果たして。

「ほら、この辺は街灯が少なくて暗いでしょう? 夜中に女性が一人で歩いていると、少し後から雪を踏む足音が聞こえるんですって。で、振り返ってもそこには誰もいなくて。……でも、目撃情報があるのよ。一瞬、本当に瞬きの間だけだったらしいけど、大きな、人とも思えないような黒い影が見えたんですって」

「黒い、影……」

「えぇ、怖いわよねぇ? だから家の人も心配しちゃって。あんまり一人で出歩くなよー、って。ちょっと過保護だとも思うんだけどね」

「ハッハッハご安心ください。お姉さんの身はこの私めが命に代えても守護まもりますよ!」

お姉さんの表情が一層翳りを見せていたので、少し明るめに返事をする。

「まあ嬉しい! でも二つの買い物袋を提げている手がちょっと震えてるわよ?」

いかん、見栄を張ろうと片手だけで持ってたのは逆効果だったか。

「うっふふふふ……でも、勇敢な青少年が豪語してるんだもの。頼りにしてるわよ? じゃあ、滑るから足元に気を付けてね」

そう言って、美人のお姉さんは去って行った。

遠ざかる姿をよく見ると、履いている靴は外見からは分かりにくい、所謂シークレットブーツらしいことに気付いた。

「……お姉さんも見栄っ張りなんだな! 可愛いな!!」

全力で納得するのはちょっと脈アリじゃないかと思ったからではない。と信じたい。


         ●       ●                 


溌剌はつらつ少年が来た道を走って戻っていく姿を角から見届けながら、女性は呟く。

「7年前に起きた、通算36度目の児童集団失踪事件。選ばれたのは市立・斜実はすみ小学校四年一組。年に一度の全校遠足で山登りをしていた際、担任を含まない計35人だけが忽然と姿を消した。その内……生還したのは、たったの四人」

コートのポケットに入れられた何かを上から撫でながら、

「従来通り1週間以内に発見された3名で、今年は終了だと思われた。しかし三ヶ月後、山へ川釣りに赴いた住民が偶然​​───あるいは必然的に、最後の生還者を発見」

濁りある、曇りなき瞳で、

「史上初、異例中の異例がこの村で誕生した……ってね」

少年の背の先にあるものを微笑みで見据えていた。


         ●       ●                 


日の出から少し断ち、曙が青に染められていく。

雲の少ない空は、まさに冬を思わせる澄んだ太陽光をもたらしていた。

冬至を越えた12月末、日の出る時間は短くなったものの、山から顔を出す光が街を照らすのは変わらない。

かといって、気温が上がらないのであれば、それは太陽が出ても出なくても同じなのではないか。

……さぶ。

そんな意味のない議論を脳内で展開しつつ、仟螺・旋は音楽プレーヤーの曲を聞き流しながら、待ち人を待つ。

流れる曲はロックバラード。同級生におすすめされて聴いている洋楽だ。

鼻と口元を丸ごと覆うネックウォーマーで何とか暖かい息は出来るが、顔上半分がどうしようもない。

大人しくかじかみを受け入れ、両手をカーディガンのポケットに突っ込む。

手袋をしていても、冷気が貫通するのは理不尽の極みだ。

……今度、革製の手袋買いたいな。

じっとしていても身体が固まるだけなので、リズムに乗って上半身をちょっぴり前後に揺らしつつ右膝を曲げ足踏みする動き。

揺れるたびに刀の金属音が煩わしいがこれは御愛嬌。

時間は予告した刻限より10分前。

ふと横を見ると、花壇の横に座っている、縞模様の小さな猫がこちらを眺めていた。

鈴のついた首輪がある。飼い猫が家出をしているのか。

手袋を脱ぎ、しゃがんでから、ちょっとした好奇心で顔に手を伸ばす。

誰かの飼い猫は何をされると察したか、威嚇の形相で手の甲を引っかいてきた。

「っ」

思わず仰け反り、傷を確認する。

三つ分、しっかりと刻まれ血がにじむ。

声を上げるほどではないが、やはり痛い。

気がつくと、猫はどこかへ行ってしまったようだ。

ため息もう一つ。立ち上がり、もう一度手の甲を確認してみると。

出血は止まり、巻き戻しのようにゆっくり傷が小さくなっていく。

手袋をはめ直して、空を見上げた。

……来なければ僥倖ぎょうこう。もし来たら……。

見せなければならないだろう。そう約束した。

そしてきっと、彼は来る。何処かで確信していた。

だからこそ、この公園を指定したのだ。

「ここならきっと思い出す。……」


         ●       ●                 


紘一は再び、来た道を走っていた。

別嬪のお姉さんから譲り受けた買い物袋二つは、流石に嵩張る為、全力ダッシュで家まで戻って置いて戻ってくるシャトルランを決めたのだ。

当たり前に失礼だが、人間一人抱えて走るより何倍も楽であった。

……ただ卵はダメになってる気がするなあ……!

割れていたら今日の夕食はスクランブルエッグ確定だが、それよりも約束の時間が優先事項だ。

今しがたスマホの時間を確認したら五分前だった。学校であればもう厳重注意圏内だ。

南に行けばいくほど日本人はルーズになっていると聞くが、子供の頃の井武須ここはどうだっただろうか。

それに、出来るだけ知られたくない秘密を持つ彼女だ。

「待っててくれてる可能性が低いことも考慮しないとなぁ」

しかし、例の入口を抜けた先、朧気だった過去の景色がハッキリとして行き、もはや道を確認しないまま、足が勝手に行き先へ辿り着こうとしていた。

……記憶とは、時が進むごとに曖昧になっていく反面、『今』に活かすとなったら瞬時に使える最も便利な道具だ。

昔そんなことを誰かが言っていたことを思い出しながら走っていると、子供の頃に公園で遊んでいた回想が徐々に膨らんできた。

記憶の断片が一つ一つのピースとなって、パズルとして完成していく。

「……そうだ」

鑓水やりみずは俺達四人の遊び場、もっと言えば縄張りだった。

ジャングルジム。

鉄棒。

滑り台。

バネ動物。

雲梯。

敷地を取り囲むように植えられた木でさえ。

全てが当時の紘一にとって魅力的で、そして3人の友達さえいれば一生遊べる気がしてた。

紘一の、青春そのものだ。


         ●       ●                 


今となっては恥ずかしい過去だが、当時の俺はガキ大将だった。

幼稚園の頃から特撮ヒーロー番組をよく見ていて、その影響でヒーローの真似なんかもしていた。

体の弱い妹という守るべき存在が身近にいたこともあり、俺の中の英雄ヒーロー精神は非常に高いラインにあった。

誰かの助けになりたい、大切な人を守りたいと。

しかし、幼稚だった頃の体では人助けなんてボランティア程度でも満足に出来ず、友達を悪に見立てた「ごっこ」をやるのが精一杯で、そのことにやきもきしていた俺は、そんな「ごっこ」でも容赦なく殴る蹴るをやっていた。

そうしている内に、子供内の暴力ヒエラルキーで上位に達し、いつしか恐れられるようになったんだ。

自分の望んだヒーロー像と真逆の立場になってしまったことを激しく動揺したが、それと同時に、周りから向けられる畏怖の視線が妙に心地よかったのも覚えている。

実際、目の届く範囲でイジメなんて起きなかったし、喧嘩ごととなれば俺が向かえばすぐに収まった。

圧倒的な暴力での治世。

世界征服を企む悪の親玉そのものだが、そんな世界でも悪くは無いかもしれない、という勘違い。

その頃から仲の良かった双川と三條とも距離を置いていた。それでいいと思った。

孤独でも、ヒーローは人を守れると。


         ●       ●                 


だが、安寧の位置に腰を下ろしていた「孤高ぼっち」の俺に挑戦状を叩き付けてきた奴がいた。

何処どこだかの遠い地方から引っ越してきた転校生。

「女なんかに本気は出せない」と言えば、次の日には肩まで髪を切り揃えてきた。

「ヒラヒラした服で戦う気か」と言えば、その場で脱いでタンクトップになった。

当時も今でも思った。「こいつ、ただの馬鹿だ」と。

しかし、難癖を付ける部分が無くなった俺が苦し紛れにからかった苗字の部分が逆鱗だったのか、そいつが無言で掴みかかって来て、そこからは取っ組み合い。

力の差は歴然で楽勝だとタカをくくっていた。

だけどそいつは、何度組み伏せられてもすぐに立ち上がって向かってきた。

絶対に諦めなかった。

みんなの笑顔を守るヒーローになることを諦めた俺と……違って。

先に折れたのは俺だ。

そいつも俺も、疲労困憊でぶっ倒れた。

少年漫画みたいだな、と思いながら、俺は言った。

「これからはお前がヒーローだ。何が望みなんだ」と。

するとそいつは首を横に振りながら、

「私はただ、あなたと友達になりたかったんだ」

そう言って笑った。

呆気に取られた俺の顔はさぞ滑稽だったろう。

ヒーローだとか治世だとか、そんなもんが一気に馬鹿らしくなって、俺も続いて笑っていた。

それが小学二年生の頃。

それから斜実小の暴力ヒエラルキーは完全に崩壊し、成長期を迎えて行くに辺って周りの人間関係も変わっていった。

でも、三條と双川、そして新しい友達を加えた俺達のグループは変わらず子供のまま、「いつも」という最高の青春を楽しんでいた。

今向かう公園は、そんな俺の思い出の塊だ。

先ほどお姉さんと話した​​───仟螺・旋と初めて出会ったあの道を通れば近道になると、最初に見つけたのも俺だ。

彼処あそこが俺達グループの待ち合わせ場所だった。

そして、記憶の断片を整理していくうちに思い出した、最後の友達。

俺を外れたレールから引き戻してくれた恩人。

女の子のくせに、いつも馬鹿みたいにはしゃいでは身体中を泥だらけにしていた。

現実離れした薄桃色の髪と蒼い瞳が印象的で。

何よりもそいつの笑顔は、​​───太陽のように輝いていたから。


         ●       ●                 


紘一は気が付くと、足を止めていた。

太陽が登ってゆく空。

車が通ったことによって半端に溶けた雪の道。

隣には木と灌木かんぼくが交互に植えられ敷地を囲っている。

ここは鑓水公園の裏側だ。

そう、近道を利用した場合、表の門前にはここを通らなければならないのだ。

従って、待ち人に会うには公園の中から出向くしかない。

のだが。

「……あ……」

そこに、彼女はいた。

茶のブーツ、紺のニーソックス、どう見ても学生スカート、手を突っ込んだカーディガン、ネックウォーマーで顔が半分隠れているものの、薄桃色の長髪と腰元にぶら下げた日本刀は間違えるはずもなかった。

仟螺・旋だ。

だが同時に、紘一の身体に震えが来る。

寒さのせいではない。悪寒に近いものだ。

……気付いてはいけないことに気付いてしまう気がする。

言葉の重複に気付けない程の動揺が隠しきれない。

そんな動きが目の端に映ったのか、彼女はこちらを視認してからネックウォーマーを下ろす。

は、と白い息が漏れ、耳についていたイヤホンを取り外す。

カナル型なので音はよく聴こえないが、きっと寒さを紛らわす為に聴いていたのだろう。

イヤホンのコードをポケットに入れると、こちらに向き直る。

そして、

「……やっぱり。こっちから来ると思ったから、待ってて良かった。​​───紘一」

表情ひとつ変えずにそう言った。

「​​───ッ!」

その瞬間、全てが合致したかのように、紘一の頭は熱を帯びた。

そして導き出した勢いで、キョトンとする仟螺せんらせんの顔を指差し、叫んだ。


「ああぁ​​────っ!! お前、""かあああああああああ!!!!!」

午前8時丁度、紘一の側頭部に見事なハイキックが炸裂した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る