第四章 街灯下と逢瀬

———忘れたいことだって、わすれられないものさ。


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日が暮れてしまったことを、紘一は視認する。

夕焼けはとうに色を変え、夜を彩っていた。

妹との歩きながらの通話も最早切れ、家路を急ぐ。

……しかし、一会あいつもあの名前を言うのか。

思い出すのは終わる直前の通話、妹からの一言だった。

『———そうそう、せんちゃんにもよろしくねっ!』

一会は確かにそう言った。せんちゃん、と。

市ヶ谷家がこの町から引っ越したのは7年前。一会はその頃7つか8つだったはずだ。

……病弱だった一会は余り外には出歩かず、知り合いと言えばウチに遊びに来る双川か三條くらいだったはずだ。

では何故、

「あいつの口から俺すら覚えがない愛称が出る……?」

単に忘れてしまっているのだろうか。

ともかく、会えば分かると三條は言っていた。ならば、

「とりあえず明日は、見覚えのある姿でも探してみるかなあ……」

両手に重量を感じつつ予定を立てると、ふと気付く。

「……静かだな、田舎」

時刻的には17時が半分を回った頃。

南側のこの地域もさすがに真っ暗で、更には住宅のない通路故、一定間隔でしか置かれていない電灯の明かりだけが薄っすらと道を照らしていた。

「餓鬼の頃だったとはいえ、よくもこんな暗がりを普通に帰ってこられてたな、俺……」

今でこそ落ち着いてるが、7年前までは相当な悪餓鬼だったことを思い出す。

……確か、5人グループだったよなあ。


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紘一は、林のすぐ横の通路を、電灯の下で歩きながら、本日幾度目にもなる記憶の整理を始める。

……俺が小学生だった頃、いつもつるんでいた4人の男女。

クラスで一番足が速く、どんなふざけた提案でも笑ってノってくれた『馬鹿筆頭』双川・宗次。

この地域の旧家である獅子堂ししどう家と並ぶれっきとしたお嬢様であり、穏やかな性格と柔らかな笑みで、その本性を知らない男子からは相応の人気を博していた『泣き虫令嬢』三條・伊里栖。

そして、

「……あれっ?」

思い返すが、思い出せない。何故なのか、全く分からない。

2

無理やり掘り起こそうと思い出をめぐるも、残る2人だけがまるでモザイクを掛けられたかのようにもやがかって認識できない。

余りにも限定的な忘却だった。挙句、その靄を記憶の中で見続けるだけで気分が悪くなってくるというおまけつきだ。

歩道側によろけながら、紘一は思案する。

「こ、これってもしかして、俺が忘れてるだけでとんでもないトラウマ案件なんじゃないのか……!?」

『空き家』と書かれたボードの立ってある家の塀に背中を預けながら、気持ち悪さが落ち着くまで目を閉じ、深呼吸をする。

「はぁ……真実と向き合う為に目を逸らすなってか? もう子供じゃないんだぞ……」

呟いてみるが、返答などあるはずもない。代わりに聞こえてくるのは、

「──────」

「…………犬の遠吠え?」


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少女は、突如叫んだ黒獣を見据える。

前のめりの状態のまま、顔を地面に向けているにも関わらず、歪んだ音は全域に響いている。

それはまるで、何かに対して応答をしているようでもあった。

というのも、その叫び声には『音色』があったからだ。

甲高い叫声きょうせいに、わずかな抑揚と一定のリズム。それによく聞けば、僅かに音の間が存在している。

……これは……。

暗号。まさか、そこまでの知能も兼ね備えてるなんて。

少女は畏怖を抱く。しかし、脈動と共に吹き出し垂れ流れる血をそのままに、握りしめていた刀に対して更に力を乗せる。

もしもこの『発信』が、怪物やつの恐らくいるであろう仲間に届き、それがまさしく『仲間を呼ぶ』為の内容だとすれば最早手遅れだろう。

山の多いこの地域ではこういった音は良く響く。

何も知らぬ者が聞いても、単なる犬の遠吠えにしか聞こえないだろうが、

……それが同種ならば。

この刹那的な逡巡すらも自身を後手後手へといざなわせている現状なのだ。

文字通り、

……一刻の猶予もない───ッ!!

少女は対峙へと跳んだ。


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「もう日も暮れてしまったなぁ」

皐月の視線の先、校長は窓の向こうを塗り潰している夜闇の空を見て呟いた。

時計を見れば短針が7の数字に差し掛かっており、粛々と仕事をしていた教師達も、各々の整理を終え既に職員室を後にしていた。

残っているのは皐月と校長、そして、未だ茣蓙の上で正座の刑に処されている懶惰芽と教頭先生だけだ。

校長は皐月に顔を向ける。

「キミ、まだ下校しなくて良いのかね?」

「我が家に門限の規則はありません。それに、今は校長先生のお話が気になりますので」

「ふむ……まぁ良い。他の者達は帰ってしまったし、ここにいるのはキミを除けば秘密を知っている者だけだしな」

ここで懶惰芽が震えながら手を挙げて、

「こ、校長室の冷蔵庫に入っていた秘蔵の高級プリンを食べたのは先生じゃありませんよぉー!」

「懶惰芽先生……これ以上罪を重ねるのは……我々の膝が……持たないッッ……!!」

教頭が必死こいて制止してくれるだろうから話を進めよう。

「……それで、転入生とはもしかして、市ヶ谷いちがや、という名前ですか?」

「おや、知っていたのかい?」

「いえ、先程たまたますれ違いまして」

そう言うと、校長は再び───今度は身体ごと向けて───窓の外に視線を送った。

「伍峰クン。キミはこの町……『井武須いむす町』にある言い伝えのことは知っているかね?」

「……生憎、僕は隣町出身でして、噂こそあれど詳しいことは」

「又聞きで構わないさ。当時流布されていた噂を話してみたまえ」

「確か、『この町の山の中に祀られている神様は、何かの代償と引き換えに、』

一息。

「───『何でも一つ願いを叶えてくれる』……というものでしたか」


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正座で二人の会話を聞いていた懶惰芽は、話の流れについていけてなかった。

もちろん自分が蚊帳の外なのもあるが、これはそもそも長時間の正座で脳の理解力が麻痺しているせいだ。

なので彼女は隣にいた教頭に小声で聞いてみた。

「教頭せんせー、どうしてこーいちくんの話から、いきなりこの町の言い伝えの話になったんですかぁ?」

そう言うと、彼は腕組みをして首を捻った。

「おかしいですねえ」

「ねぇー、ほんとですよぅ。遠回りな話題の導入は傍聴者ぼーちょーしゃを混乱させるだけなのに」

あ、せんせー今すごく格好良い感じですよ? ほめてほめて。

「いえ、この話を含めて懶惰芽先生には市ヶ谷くん関連の事柄を全て説明していたはずですが。数週間前に」

「……………………」

「分かりやすく書類にも纏めて」

「あ! い、今分かってて死体蹴りしましたね!? 先生がそんな意地悪していいんですかぁ!?」

「生徒じゃないのでノーカンです。というか本当に知らないなら口を挟まずにお2人の話を静聴しなさい」

知らないのではない。膝が痺れて脳の理解力が追いついてないせいなので大人しく聞くことにする。

見上げる視線の先、伍峰が口を開いた。

「それで、その噂と彼は何か、密接な繋がりでもあると言うのですか?」

「その通りだよ」

校長は臆面もなく言い放った。

「キミ達が幼少の頃に伝えられた『井武須の神』の伝説は、実在するものだ」

「……はぁ」

思わず間抜けな声が出てしまった。3人の視線がこちらに集まる。

「あ、いえ、気にしないで下さいっ!」

「構わないさ。君はここの出身ではないから、余りそういった信仰や昔話にはピンと来ないのだろう」

一息ついて、校長は口を開く。まるで聞く者を魅了せしめんとする語り部のように話し出す。

「……が初めて観測されたのは八百年以上前。全国行脚をしていた修行僧がこの地で山籠りをした時だ。それまでこの地は何人なんぴとどころか獣も踏み入らぬ、所謂"未開の地"いうものだった。古来より住んではならぬという風習だったのか、生物の本能が『得も知れぬ圧』を察知し回避していたのか……。どちらにせよ、初めて立ち入ったのが煩悩を捨てた坊主だというのは皮肉なものだな」

懶惰芽は校長の話を大人しく聞いていた。勿当然話している意味の半分は理解出来ていないが。

「もちろん、山に入った修行僧はその異変に真っ先に気が付いた。が、茸や実などは成っていたし、人っ子1人いないことは悟りを開く身としてはむしろ好都合だと考えたのか、特に疑問に持たず僧は道無き道を進んだ。何日も何日も、な。生い茂る木々の空に陽と月は日夜を繰り返し、空腹も気にせぬ、孤独も気にせぬと。場所が場所ならば、彼は本当に悟りの境地に達したのだろう。しかし、」

校長は真っ直ぐにこちらを見て、言う。

「​​───仏を信仰する身でありながら、彼は出会ってしまったのだなあ、神に」

言っていることが分からないのは、やっぱり膝が痺れているせいだと思う。


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少女は痺れを感じていた。

黒獣に抉られた腹の窪みからは絶えず血が流れている。

しかしその痛みに全身が支配されることはなく、むしろ眼前の敵に対する殺意が増していくばかりだった。

これは最近習ったことだが、アドレナリンという分泌液が身体を駆け巡っているのだろう。間違っているかもしれないが今はどうでもいい。帰ったら復習しよう。

姿勢は低め、刀を横向きに掴み、跳ぶ。

黒獣はなお叫びながらも、向かってくるこちらを右腕で振り払うように迎撃しようとする。

こちらを完全に見れていないにも関わらず的確に喉元を狙ってきた。

……本当に、恐ろしい相手。

しかしそれこそが狙い目だ。迫り来る爪に対し、直前でステップを踏み目標地点到達のタイミングをズラす。

……好機!

この瞬間を逃さず、己の唯一の武器である日本刀を深く突き刺した。

ただしそれは黒獣にではなく、奴の中心点よりも左にズレた、積雪の残る地面にだ。

「……!?」

怪物の困惑の唸りを聞き取る。仲間と共鳴することを止めさせられたのならそれだけでも僥倖ぎょうこうだ。

少女は突き立てた刀の柄を軸に、地面を蹴って反時計回りで回転。

そしてこの一貫の行動の最終目標地点​​───黒獣への足払いを成功させた。

遠心力で上乗せされた勢いには流石に逆らえないか、黒獣は前のめりの状態で空中に一瞬浮いた。

少女は回転の遠心力に身を任せ、自らも転がりながら乱暴に刀を引き抜く。

そして、身の自由が効かない怪物の脚の裏側、アキレス腱があるであろう場所に刀を振り下ろした。

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「僧は紛れもなく神と出会った。それは夕暮れ、黄昏たそがれ時、逢魔おうまが刻とも言う時間帯のことだった。

 ……はもはや生き物の形をしていなかった。不定形の腐った頭部を黒衣で覆い隠し、身体には無数の乳房を垂れ下げ、この世全てを嘲笑うかのように僧を見下ろしていた。

 を『化け物』ではなく『神』と判断したのは、当時の人間の未知への畏怖故であろうな。

 彼は勇ましくもに問うた。『貴公、何故此処に住まい唯在るのみなのか』

 かの神は答えた。『我は自らの力のみで人を呼び込めぬ。人が求めて漸く我と相見えるのだ。汝、この地を栄えさせたいのなら好きにすれば良い。我はただ待つのみ』と。

 そしてこうも言った。『汝、我を崇めるならば願いを叶えてやろう』……とな。

 僧は神の言葉通り、この山を聖地として栄えさせた。しかし民衆に神のことは伏せた。その意図は分からないが、このままひた隠しにされていれば、この言い伝えが今日まで語り継がれることもなかっただろうな。

 ……何故、神の所在がこの界隈にに住む人間にのみ流布されたのか」

それは、

「​​───この地で度重なって起きる『集団失踪事件』が、この伝説を証明しているからだ」


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どれくらいこうしていたのだろうか。

紘一は謎の気持ち悪さが収まるまで、あの空き家の前でじっとしていた。

暮れなずむ寒さは厚着を貫通して紘一の身体を震えさせる。

本当はこのまま帰ろうと思っていたのだが、あの遠吠えがどうにも気になって仕方がない。

随分と反響していたので場所の特定までは出来ないものの、それらしい所までは近づいた。

住宅街から少し離れた、すぐ側には雪の積もる林の入口。

流石にその中へ突入する勇気もなく、紘一は街灯の下でポケーっと突っ立っていた現状だ。

「……いや、ほんとに何やってんだ俺は」

呟き一つも白い息として虚しく空に掻き消える。

……帰るか。明日もやる事はあるんだ。

そう思って、踵を返す。

返した。

その時。

紘一の脇腹に強い衝撃がぶち当たった。


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「ぐおぉッ、おぁぁっ!?」

思わず漏れた声は、衝撃に対するものと、それによって吹っ飛ばされ真横の塀壁に激突したものの二つだ。

「痛っ……てぇぇ……!! あぁ畜生、痛い痛い痛い……!!」

予期していない痛みとは人の語彙力をここまで下げるのか。

身体の両側面から成る打撲の激痛にのたうち回りたいところだが、その前に自分に衝突した物体を確認しなければならない。

……自動車か、自転車か? 何にせよ無灯火の時点で犯罪だこの野郎! ぶん殴ってやる!

怒りに任せて未だのしかかる対象を睨む。

まず目に入ったは刃物らしき光る金属だった。なんだよ畜生通り魔かよならこのことは不問にしてやるからすいません許してください。

刹那で浮かんだ命乞いは次に視界飛び込んできた現象によって頭の中から削除された。

それはあかい液体。それだけなら自分の血かと錯覚するところだが、蚯蚓みみずのようにうねっているのだから話が違う。

液体は吹っ飛んできた先から点々と散りばめられていたが、それらがそれぞれ生き物のように集まり、自分に未だもたれかかっている少女の元へ向かってくる。

「は? 少女?」

そう、少女だった。

紘一に激突した物体の真実。

右手に柄と鍔がついた折れた刀のようなものを握りしめ、腰についているのは恐らくそれを収める為の鞘。

腹は抉れ、右足は腫れており、口から血を流しながら力なく紘一に寄りかかる、薄桃色の髪の少女。

よく見ると、着ているのは来年から通う沙鞍馬高校の制服だ。

紘一にとって、色んな意味で最悪の状況が生まれてしまった。

……おい、何だこれ! 何だこの唐突なファンタジーは!? 身体まだ痛くて判断鈍ってるよ畜生!

頭の中で整理する間もなく、紅い液体が少女の身体へと突撃してくる。

「​​───ああああああッもう! 何なんだよ畜生ッッ!!」

紘一は少女を抱きかかえ、自分の帰路へと全力疾走する。

液体の速度は遅く、すぐにでも振り切れるだろうが構わず走る。というかそこまで頭が回ってない。

ただ今は落ち着ける場所にありたいと願わんばかりだ。

少女を抱えるために持っていた荷物は捨てた。せっかく隣町まで買いに行ったものがパァだが、背に腹は変えられん。

走り始めて数分、気がつくと、両サイドの痛みは感じなくなっていた。

前の学校にいた時に最後の授業で習った、アドレナリンという奴のせいだろうか。

また今度復習しておこうと思ったのは、彼が自宅に辿り着いてからのことだった。

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