第三章 日暮れ後と押し引き
――その先が、真っ暗だけど。
● ●
月が出ていた。
白い月だ。
曇天に浮かぶ半月は、眼下にある白の森を、しんしんと照らしている。
その森の中、雪に埋もれた獣道を、人影が走る。
雪で覆われた地面に足跡を付けるのは、茶色のブーツだ。
土まで届かない程度の軽快な足音と足音の間には、一瞬と呼べる程の隙間を裏拍に、一定の速度を保っていた。
音の持ち主は、木々で覆われた空間を走り抜けていく。
青・黒・白で構成されたセーラー服にカーディガンを着た、薄桃色の髪の少女。
その手には、雪の色を反射させる、刃渡り75cmの長物があった。
日本刀だ。
● ●
夜月が照らす
口を閉じ、息を潜め、出来る限りの音を消しながら、その
少女の睨む先、恐らく肉眼では見えないであろうはずの暗闇の中に、確かに
……
平行に動く自分との距離感、そして襲いかかるタイミングを計りかねているのだろう。
少女は思い、そして確信する。
あれは、──あの黒い化け物は、確実に人に害を為すものだと。そして、
……アレは私に、確実の悪意を持っている。そして、殺意も。
だからこそ、
「会うのが、
心からの安堵を感じながら、少女はテリトリーに足を踏み入れた。
● ●
「──で? 何の用なんだよ?」
『もう、急かさないでよ。せっかくの遠くにいる妹との定時連絡なんだからさー』
日暮れの坂道を、紘一は降りていく。
その折、携帯電話に着信があり、名前を確認すると『非通知』と出たためイメクラ詐欺かと身構えつつ応答したのだが、スピーカーから流れる声の主はとても聞き慣れた妹であった。
「んなこと別に決めてないだろめんどくさい」
『もう、ひっどいなあ、紘一お兄ちゃんは』
「いつものことだろ?
妹の名前を呼ぶと、通話の相手は照れ臭そうに笑いながら、
『えっへへへ。で、どうだった? 昔懐かしい人に会えた? 宗次お兄ちゃんや、伊里栖お姉ちゃんは? 変わったところあった?』
「あー
『もう、つれないなあ、紘一お兄ちゃんは』
「いつものことだろ? 一会」
苦笑一つ。それから息が白いことに気付く。
……こりゃあ、今夜も降りそうだ。
その前に我が家へ到着したい所だが、
出来ればダッシュで帰りたいところだったが、
「帰ってから掛け直し、が難しいのが辛いところだな」
『共用の電話だからねー。私だけずっと使うっていうのは許されないよ。早く退院できればなあ』
「……そうだな」
『ふふ、何ー? もしかして同情してくれた? 妹冥利に尽きるなー、あはは』
一会の声からは、疲れや不安の色は一切見えなかった。
……俺が気にしすぎなのか? これは。
「……だって、怖くないのか? もう一生車椅子のままかもしれないんだぞ?」
『そんなこと気にしてたって仕方ないじゃん。病気ってそういうものでしょ?』
中学生にして悟りの領域に達していた。
気丈といえば聞こえはいいが、
……これ、単に事の重大さが分かってないだけじゃないのか!?
『あ、そうそう! 先生がね、ギター持参の許可くれたんだよ。中庭とかならお昼に弾いていいって!』
何か言う前に話題が変わってしまった。というよりも、
……そっか。
「まだ夢、諦めてないんだな」
『あったりまえじゃん! 私はシンガーソングライターで食べていくんだかんね!』
● ●
少女は先手を取るために、身を屈め、足に力を込める。
加速の態勢だ。
今まで
それは見事に成功し、平行状態であった黒獣と少女には、人1人分の差が生まれる。
……ここッ……!
少女は左足を内側に捻り、そのまま体を右へと傾ける。
方向転換。勢いを止めず、黒獣の到達地点に向けて加速していく。
少女の眼は未だに敵から外れない。
6、7歩目の時点で、彼女は雪面に思い切り足を踏み入れる。
膝を曲げ、屈んでいた身を更に縮こませる。
そして、全身の
黒獣は予想通りに目標へと走ってきていた。
紅い眼が彼女を映す。
「グォォッッ……!」
「──ッ!!」
威嚇の咆哮に怯むことなく、少女は目前の化け物に向かって刃を振り下ろした。
● ●
「──あの、どういう状況なんですか、これは?」
夜の職員室。伍峰・皐月は、資料の紙束を抱えたまま尋ねる。
問うた先では、銀の長髪を後ろに束ねた男性が、懶惰芽と教頭を正座させていた。
横を見れば、英語担当のレイモンドが、数学教師の松山に慰められている。「私はレイモンド……私はレイモンド……」とか呟いてるが自己紹介に失敗したのだろうか。
そんなことを思っていると、銀髪の男性が振り向き、
「やぁ、伍峰クン。今日も遅くまで生徒会のお仕事をしていたのかい?」
と、笑顔で応えた。こちらも笑顔で、
「えぇ、校長先生。これで懶惰芽先生が怠けていたせいで溜まっていた課題は終了しました」
と答えると、校長の笑顔が引き
懶惰芽を見ると、涙目で手をバタつかせながら、
「ち、違いますよぉ〜! 怠けていたわけじゃないんです! ただちょっと太陽が眩しかったから……」
「その言い訳は自分自身の仕事に何の意味もないという不条理由であると捉えていいのか?」
「ふ、ふじょう……? と、とにかく、そんなことはないですよお〜!」
「そ、そろそろ膝を楽にしてよろしいでしょうか、校長先生」
喚く懶惰芽の横、教頭が小刻みに震えながら進言する。
「ふむ、それは一体何故ですか? 教頭先生」
「はい。実は私、膝を悪くしておりまして。これ以上の膝への負担はドクターが助走つけて殴りつけるレベルと判断できますので……」
「なるほど、そうだったのですか。それは確かに辛そうですね。分かりました。特例として教頭先生は立っていただいて構いません」
校長が後ろを向いた瞬間、天高く両腕を上げた教頭と、それを不満そうに見る懶惰芽だった。本当に教師なのかこの人らは。
教頭がわざとらしく膝に負担をかけない動作で立ち上がると、校長が回転椅子を持ってきた。
「それでは教頭先生。私の説教を聞く際にずっと立っているのもそれはそれで辛いでしょうから、是非こちらの椅子をお使いください。えぇ、問題ありません。──オーダーメイドですから」
そういうと、校長は教頭に座席と背もたれの部分に大量の剣山が埋め込まれた椅子を寄越した。
「……おや、どうされました教頭先生? また正座の体勢になられて」
「いえ校長先生。やはり自分、己の病には正々堂々と立ち向かうべきだと」
「そうですか、良い心がけですね? ですがそれなら尚更この椅子にお座りください。この椅子は全身のツボというツボをくまなく刺し……押してくれるので、きっとご病気を治す助けになりますよ?」
「ははははは、──ご冗談を」
「ははははは、──大真面目ですが」
教頭の姿勢が土下座に変わったところで、校長はもう一度、半目になっている皐月に向き直る。
「余計な雑務を増やしてしまって申し訳ないね、伍峰クン。君も来年は受験生だというのに」
「あぁいえ、生徒会長として選ばれた時点で相応の覚悟はしていましたから。前生徒会長の小川先輩が引き継ぎの際に、地獄の刑罰から解放されたかのような顔をしていたところから、こういう事態は予測していました」
「生徒の優秀さに関心すればいいのか、悪い方向で信頼されていることを嘆けばいいのか……」
ともあれ、
「説教中に話を割って入ってしまい、申し訳ありませんでした」
伍峰は深々と頭を下げる。校長は笑顔で、
「構わないさ、これは君にも関わるかもしれないことだからね」
その言葉に、皐月は顔を上げた。
「僕に関係がある、とは……?」
校長はなおも笑いながら、
「来年、君のクラスに入って来る転入生に関係することだ」
● ●
『かんけーないことはないでしょー!』
「んなこと言われたってなあ……」
電灯のついた路肩を、紘一は歩く。
左には林があり、暮れる太陽はその向きにあるので、隠れてこの周辺は夜に等しい暗さだ。
車も通らない夜道に一抹の寂しさを覚えながら、妹と他愛のない世間話を続けていた。
「確かにネットで演奏と歌を流せば、少しは注目されるだろうけど、それが俺の帰省とどう関係あるっていうんだよ」
『だーかーらー、“メイちゃん”なの! “メイちゃん”!』
「……うん、誰さん?」
思わず聞き返す。
『えー! お兄ちゃん知らないの!? 入院生活して自由時間少ない私より知らないなんて、いくら地味なお兄ちゃんでも流石にもぐり認定だよー!』
「流石にというかその言い草だと妥当……っていうか、地味とかいうなっ」
その突っ込みを無視し、えーっとねー、と電話の声。
『ネットで活動してる、所謂ネットアイドルっていうのなんだけど、すっごく可愛くてね! キラキラしてて、歌も踊りも可愛いの! もう中学生の憧れの的だよ〜!』
「おぉう、語るな……」
ちょっと引いた。ファン特有の饒舌というやつか。
『でね! でね! そのメイちゃんの大ファンの人が、動画内での環境音から住んでる気温とかアバウトな位置とかを特定してね! それが沙鞍馬市っぽいの!』
「えぇ……」
かなり引いた。ファン特有の粘着……というか妹がそんな危ないファンのいるアイドルを気に入ってるって複雑だよ。
「で、そのメイちゃんとやらの住所を割り出して、あわよくばサインが欲しいって、そういう魂胆か。……定時連絡とかそれらしい嘘ついてないで最初からそう言えよ」
『えー。だってお兄ちゃん、直球で頼んで叶えてくれたことないんだもーん』
「ッ……、それはっ、そうだけど」
一瞬、言葉に詰まった理由を、一会は言及しなかった。
「…………」
『……怒った? ごめんね。でも、今度は叶えてくれるって想ってるからね、 私は!』
一会は笑う。それは、紘一を、本当に信頼しているというような声だった。
『あ! あと、定時連絡は嘘じゃないよ。ついでだからね!』
思い出したかのように付け加えるな。
……ただ、
だとするならば、兄としてこう応えねばなるまい、と思う。
「……あぁ、分かってるよ。一会」
● ●
分かっていたはずなのに、と少女は歯を喰いしばる。
今、己の相手にしているモノは、敏捷さにおいて類を見ない。
少女は速度という面に関して、1度として黒光の獣に
……それなのに、私はさっき先回りが出来た。
つまり、攻撃のタイミングを見計らっていたのではなく、敢えて少女のスピードに並行するように調整し、
……私の先制攻撃を見越して、カウンターを仕掛ける準備をしていたということ……!
思うと同時に返し刀が来た。右脚の先にある、
化物は蹴り上げる動作で、少女が刀を振り下ろすより先に、隙の出来た彼女の左脇を斬り裂こうとしていた。
「くっ──!」
思う壺と
何も出来ずに死ぬことなど許されない。
だから、彼女はその斬撃を受けることにした。
少女は今、宙にいる。人間的な動きでは最早、回避の暇はないだろう。
……だったら、衝撃を受け入れる!
来た。
骨と肉が軋む音と共に、少女の身体がしなる。
爪先は脇腹に深く刺さり、そこから鮮血が噴き出した。
吐血。しかし少女の眼は化物を捉えて離さなかった。
少女は、左手で黒獣の脚を掴む。金属のような筋肉質だが、微かにに脈を打っていた。
「ゲホッ! つ、つッ……か、まえ、たッ……!」
少女は、衝撃を受けてなお放すことのなかった日本刀を右手のみで持ち替え、突き刺す形で振り下ろす。
目標は喉元だ。
果たして対象は、両腕をクロスさせることでこれを防いだ。
……やっぱり。
少女は確信する。そして次の行動を選択した。
● ●
少女は、左脇腹に激しい痛みを感じた。
血が流れ、骨は砕け、内臓が潰れていることを実感する。
貧血により意識は
しかし、少女は眼を離さない。なぜなら、
……今ここで気を失うこと、それこそが敗けだから……!
戦いにおいて次はないというならば、其れは今を生き残れたからこそ、後に繋げられるのだ。
だから、少女は傾倒していく。
「──!?」
黒獣が、少したじろいだ素振りをみせるが、気に留める必要もない。
少女は、自身の左腕で脚をホールドしたまま──脇腹に突き刺さる爪を絶対逃がすまいとするように、むしろ深く深く
左脚のみで支えられていた黒獣の
化物は両腕を押し対抗する。全体としての能力は黒獣に優があると、少女は理解していた。
さらに、爪先を捻じり、体内にめり込んだ内臓と骨とをかき混ぜられる。
「かはっ……!グ……う、おえぇっ……」
少女の口から、血と胃液と、昼に食べたモノが吐き出される。あわや窒息する寸前だ。
少女の吐瀉物がかかっても気にせぬ、むしろ好都合とでもいうように、黒獣は口を歪ませる。
それと同時に、両腕の力に右手が負け、押され返していく。
「グォォァ……!!」
黒獣は歓喜の咆哮を吠える。今に、この糞生意気な餓鬼を嬲り殺せる、とでもいうように。
しかし、黒獣の歪みが失せるのを、少女は見ていた。そう、見ていた。
少女は確かに苦悶を浮かべていたが、その眼は決して黒獣から離れていなかった。
その紅い瞳は。
決して敵を見失いなどしていなかった。
● ●
黒獣が苛つくように唸ったのを、少女は見た。
そして、刀を押し返す力が更に増したことも。
……この化物には、愉悦も、苛立ちもある。まるで……。
考察は後でいい。だから、
「────」
少女は、右腕を思い切り引き、そのまま外側へと向けた。
行き場を失った力が、今度は前のめりに傾いていく。
「グォッ……!?」
黒獣は、今度とこそバランスを崩し、体勢を失った。
少女はその隙を狙い、左腕のホールドを解き、両腕と足を使って、爪を体内から抜き取る。
抜けた先、
視認している。
黒獣は前へとバランスを落としている。だったら次の狙いは決まっていた。
……アキレス腱ッ!
右手に持つ日本刀は未だ健在だ。
剣戟の音が鳴り響く中、日暮れが終わろうとしていた。
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