二人目 竜ケ崎桃

 突然だが、オレの悪友兼親友は風紀委員に睨らまれている。

 理由は簡単。制服をきちんと着ない、校則は容易く破る、女性教師を口説く。他の理由を挙げていてはきりがないくらい、佐々岡健司ささおかけんじという男は色んな意味でだらしがない。

 その彼が風紀委員による服装検査の前に、オレに泣きついてきたところから話は始まる。



 その日は登校日だった。学校に行っても特にやる事のない健司と、部活で忙しいオレは珍しく、一緒に通学路を歩いていた。今日は剣道部の朝練が休みだからだ。

「陽は宿題終わったか? 俺は全然だ」

「一応、毎日少しづつはやってるかな。担任の西にしは怒らすと怖いし」

 よく、本当はやってあるのに敢えて『やっていない』という奴がいる。ああいう奴は何が目的なのか? 短時間でやり終えて周りの感心でも買いたいのだろうか? それとも、ただ目立ちたいだけなのか? オレには到底理解できない。 

 健司はそういうタイプとは違う。本当に全くやらない奴だ。

 始業式の後のホームルームで、先生に向かって堂々と、「一ページもやってません」なんて言える度胸の持ち主は、オレは健司以外には知らない。そして美人の先生が補習をする、となると手を叩いて喜ぶ。それは中等部時代から変わらない。

 だが、その日の健司は様子が違った。

 校門の前に『風紀』の二文字が書かれた旗がはためいていたからだ。

「……陽。お前、替えのシャツ持ってないか?」

「悪いけど、ないな」

 この風紀の旗は、風紀委員が服装検査時に校門に飾るものだ。いつもはそんなものなど一切無視する健司が、今日になって初めて怯えを見せた。あまり見せないその表情に、尋常ではないものを感じる。

 健司は今まで来た道を振り返ると、「俺、帰る」などと言い出した。いつもは風紀委員に進んで喧嘩を売る恰好をしているのに。当然、服装検査など全く恐れないのに。

 オレは健司のタンクトップの裾を握る。彼は転びかける。

「離せ! お前にはアイツが見えないのか?」

 健司が指差した方向を見ると、風紀委員長である竜ヶ崎桃りゅうがさきもも先輩の姿がおぼろげながら見えてきた。

彼女は、制服である青のラインが入った半袖のシャツに赤いリボン、濃紺のスカートは校則通りの膝丈という出で立ちだ。

 髪は黒髪ロングのストレートヘアを、穏やかな風になびかせている。鼻筋はシャープなライン、目は切れ長だがまつ毛が長く、形のいい唇も魅力的だ。

 オレが部活で忙しいように、彼女もまた風紀委員会の仕事で忙しいのだろう。普段は室内でデスクワークをこなしているためか、肌の色は透き通るように……とはいかないものの、かなりの色白だ。

「健司って竜ヶ崎先輩と面識があったっけ?」

 竜ヶ崎先輩は学園でも有数の美人だ。女好きの健司が飛びつかないわけがない。それなのに、健司は彼女を露骨に避けようとしている。オレにはそれが不思議でならない。

「……面識なら十分ある。あの女、俺のこの自慢のファッションを、けちょんけちょんにけなしたんだぜ? いくら美人ってもお断りだ!」

 健司にしては珍しく、女子の悪口を言っている。オレはそんな健司の反応が新鮮で、からかいたい衝動に駆られる。

「竜ヶ崎先輩って付き合ってる奴っているのかな? あれだけの美人なら男の一人や二人は言い寄ってるんじゃないか?」

 そう言って隣の健司をちらりと見る。健司はむっつりと黙り込んだままだ。本気で、竜ヶ崎先輩が苦手らしい。いや、それとも嫌ってるのか?

「……陽、くだらないこと言うなよ」

 健司はボソッとそれだけ呟くと、いきなりオレの胸元を掴み上げた。からかいすぎたか? でも、それにしては反応が変だ。

 普通、嫌っていたり憎んでいたりする相手がけなされた時に、こんな反応をするだろうか?

 もしかして、竜ヶ崎先輩と健司には浅からぬ縁があるのかもしれない。そう思うと、オレは働きかけずにはいられなかった。

「健司……やっぱり学校に行こう」

「だから俺はサボるって……」

「いいからいいから!」

 思えば、この時のオレは一個目のフラグ珠を手に入れて、調子に乗っていたのかもしれない。嫌がる健司の背中を無理やり押して、校門へと向かう。

 案の定、竜ヶ崎先輩は健司の服装に目をつけた。

「……あなたには校則を破っている自覚はあるの?」

 竜ヶ崎先輩の冷たい声が健司に向かう。「だから嫌だったんだ」、と健司はオレに恨みがましい視線を向ける。けど、しょうがないじゃないか。お前が堂々と校則を破るのが悪い。

「校則三条、シャツは指定のものを着用。校則十条、ヘアカラーは全面的に禁止、校則二十五条、アクセサリー類は全面的に禁止……その他諸々。更にあなたは女性教諭にセクハラをしているようね。……なにか申し開きがあるのなら聞くけど?」

 竜ヶ崎先輩の顔立ちは整いすぎているが故、どこか人形を思わせる。その彼女に詰問される者は、たまったものではない。

 現に、あの健司がタジタジだ。

「制服のシャツは家が貧乏だから買えなくて……」

「シルバーアクセサリーを買うお金はあるのに?」

「……これはおふくろの内職のおかげで……」

「お母さんが働いたお金で無駄なことをするのね。……心底呆れるわ」

「綺麗な先生は口説かなきゃ失礼だろ? 向こうも死ぬ気でお洒落してきてるんだし!」

「……浮気性な男は嫌われるわよ?」

 竜ヶ崎先輩には健司の言い訳など通用しない。オレは心の中で、「負けを認めれば楽になるぞ」と健司に言いたくなった。それほどまでに竜ヶ崎先輩は手ごわい。

「とにかく、そんな乱れた服装で、校舎に入れるわけにはいきません。着替え直しなさい!」

 しかし、ついに健司は開き直ってみせた。

「なんだと? 俺だって今日が登校日だと知ってれば、こんな格好では来なかったぜ!」

 一触即発の空気だ。これはマズイ。ここはオレが間に入って……。

「あの……竜ヶ崎先輩? 今日は、コイツにしてはまだまともな格好なんですよ。普段はもっと酷い……」

 結果的に、言葉にして後悔した。竜ヶ崎先輩はスカート丈が一センチ短いだけでも説教すると有名だ。オレのこの一言が火に油を注いだことになった。

「普段はもっと乱れた格好をしているというの? この私の伴侶ともあろう者が!」

「は?」

 ――……は? 伴侶? それってどういう……。

 オレの疑問を無視して、健司は来た道を引き返し始めた。オレの弁護は結局、全くの無駄だった。


 + +


 登校日にやるべき事を終えて、オレは自分の席で荷物を整理していた。そこへ剣道部の仲間である丸山が話しかけてきた。まぁ、コイツは幽霊部員だが。

「今日は部活休みなんだろ? 佐々岡も帰っちまったみたいだし、俺と帰らねぇ?」

 丸山の横には五人の女子がいた。丸山は一言で言うと女たらしだ。話術に長けているので、隣の女子に事欠かない。

 俺はこういう、いかにもモテます的な奴は好きになれない。本人に直接言ったら、『嫉妬』の一言で片付くんだろうけどな。

「悪いけど試合が迫ってる。『居残って練習しろ』って石橋先輩に言われてるんだ」

 オレが丸山だけを見つめて言うと、彼は簡単に諦めた。丸山にとっては、五人もの女子と帰るところを見せつけること、の方が重要なようだ。ヘラヘラ笑う顔はだらしがない。

 女子も女子で、こんな奴のどこがいいんだ? ただ見た目が整っているだけじゃないか。女心というヤツは、オレにはサッパリだ。

「ふぅん。せっかくクラスでも可愛い部類の女子に声をかけたってのに。もったいないことするな」

 これには思わず、「ほっとけ」と言ってやりたくなった。そもそもオレはお前みたいに色情狂じゃないし。

「じゃあな、小金井」

「ああ、新学期にな」

 オレは、胸の中の不快感を深呼吸で外に逃がす。いつも剣道の時にやっている事なので、苦労はしなかった。気分が落ち着いたところで、道場へ向かう。



 エミリアが再び学校にやってきたのは、部活中だった。オレが竹刀を振っていると、例の透明になるマントをひるがえしながら現れた。

 今度はオレだけに狙いを絞っているのか、オレ以外には見えないらしい。こういう時には便利なものだと、新種の技術力には感心する。

「でぇー、どうなんですかぁー?」

「何が?」

 オレは何の事か最初はさっぱり解らなかった。しばらく考えて、エミリアと出会った時にケロケロ君から吐き出された、竜ヶ崎先輩の写真を思い出した。

「……まさか、竜ヶ崎先輩とフラグを立てろってんじゃないだろうな?」

「物わかりのいい人はぁー、嫌いじゃないですよぉー?」

 つまりエミリアは、あのおっかない竜ヶ崎先輩を口説けと言っているのだ。

「無理だ! ガードが固すぎる!」

「それを手助けするのがわたしのお仕事じゃないですかぁー。それに、前のフラグ珠の効力もあと半月ですしぃー。このままだと、早死にまっしぐらですよぉー?」

「なんだって? しばらくは持つんじゃないのか?」

 このピンク頭の能天気さにはついていけない。前は他人事だと思って適当に説明したな!

「フラグ珠はわたしたち新種たちの間でもぉー、未知の物質としてぇー、今現在も研究中なんですぅー! 上が知らない事をわたしが知っていると思いますかぁー?」

「じゃあ、竜ヶ崎先輩のフラグ珠を手に入れれば、その分だけ長生きが出来るってわけか?」

「はーい、多分そうですよぉー。あとぅー、最新のデータで分かったことなんですがぁー、本命と結ばれた人はぁー、長生きが出来るそうなんですぅー!」

「……本命、か」

 正直なところ、今のオレには本命なんていない。強いて言えばれんは『好き』だが、多分この感情は幼馴染としての『好き』でしかないのだろうし。

 だがこのままではオレの人生、何も成さないまま、剣道にこの身を捧げたままで死ぬしかない。それだけはご免だ。いくらオレが剣道馬鹿でもだ!

「エミリア、竜ヶ崎先輩はオレに好意を持ってるんだな?」

「はいぃー! ケロケロ君によれば八十三ですねぇー。十分に本命として狙える範囲ですよぅー!」

 命と先輩の気持ちを天秤にかければ、どうしてもオレの命の方が重くなってしまう。そんな自分を嫌悪しつつ、オレは竜ヶ崎先輩をどうにか攻略することはできないかと考え始めた。もちろん竹刀は手から離さずに。

 そして部活を終えると素早く家に帰り、晩飯の白米と肉野菜炒めと卵焼きを食べて、とっとと寝た。

 幸いオレは数多くある部活の中でも、かなりの過酷な練習を強いられる剣道部の一員だ。学校に行く理由などいくらでもある。そう自分を慰めると、明日、学校に向かう準備をしておく。

 その頃には、健司の様子がおかしかった事など、頭から吹き飛んでいた。


 + +


 今朝も風紀委員による服装検査が行われていた。

 風紀委員長である、竜ヶ崎先輩は今日も凛々しく指揮を執っている。彼女は俺に気づくと、早足で近づいてきた。

「君は……。あの佐々岡健司の友達、なんでしょ?」

 先輩の整った顔がオレの間近に迫る。やはり、かなりの美人だという感想を抱かずにはいられない。間近で見ると、花のような甘いいい匂いがする。

「……はい、そうですけど?」

 オレが恐る恐る答えると、竜ヶ崎先輩はオレの姿を無遠慮に見つめてきた。その視線が痛い。ついでに周りの視線も。

「ふぅん。意外と真面目そうな子と付き合ってるのね、アイツは」

 『アイツ』とは健司の事だろう。しかし、なぜ健司の事をこんなに親し気に言うのだろう。まるで長年の付き合いのように。……そういえば、伴侶どうこうの話も聞いてないな。

 彼女はそんなオレには構わず、平静そのものの声で言った。

「ええ……君は問題ないわ。行ってよし」

「はぁ」

 オレは納得できないまま剣道部の部室へと歩みを進めた。後ろを振り返ると、彼女の凜とした声が辺り一面に響き渡っている。



 剣道部の部室兼道場はまさに熱気に包まれていた。ただでさえ暑苦しい部室が、夏の熱気を孕んでいる。まさに地獄のような暑さだ。

「小金井先輩、タオルをどうぞ!」

 そう明るくタオルを差し出してくるのは、ついこの間まで選手だった篠原だ。彼女がマネージャーを務めるようになってから、剣道部の士気は格段に上がった。

 剣道の事を知り尽くしていると言ってもいい彼女がマネージャーになった事で、怪我をしても的確な処置を施してもらえるし、フォローも絶妙に上手い。

 石橋部長は残念に思っているようだが、オレはこれが一番良かったんだと思う。あのままでは必ずと言ってもいいくらい確実に、篠原は失明していただろうから。

 ただ、こうも思うのだ。オレに好意を抱かなかったら。オレのフラグが立たなかったら。彼女は今も竹刀を振るうことが出来たのではないか、と。

 それに、オレは篠原の純粋な気持ちを裏切るような真似をしてしまった。自分の寿命を延ばしたいばかりに。あの時、エミリアがオレに何かをしたのは間違いないが、彼女の想いを利用したような、そんな気分だった。

 もちろん長生きはしたいし、このまま死ぬなんてまっぴらだ。でも、だからって、純粋な後輩の気持ちを裏切っていいはずがない。

 竜ヶ崎先輩にも同じ思いをさせるのか、と思うと胸が痛んだ。オレはなんて男なんだ。篠原、オレなんか選ばなくて正解だぞ。

「……先輩? どうかしたんですか?」

「あっ、ああ。ありがとう、篠原」

 日に焼けた肌が健康的な篠原だが、その目はいずれ見えなくなる。彼女のところにも、エミリアのような奴が現れてくれることを祈りながら、オレは竹刀を振るい続けた。


 + +


 それは部活の帰りだった。風紀委員会が使っている、生活指導室の電気がまだ点いている。

 いつもはこんな事はないはずだ。オレのクラスの担任で風紀委員会の担当も兼任している西先生はエコロジストで、無駄な消費電力を極端に嫌う。そんな彼が消し忘れるはずがない。それならば風紀委員が残っているという事になる。

 まず最初に思い浮かんだのは、やはり竜ヶ崎先輩だった。あの人ならこんな時間、午後七時まで残っていてもおかしくはない。きっと風紀委員の仕事が溜まっているのだろう。今朝の服装検査で大量の生徒が違反していたし、彼女は真面目だと評判だから。

「……エミリア、いるか?」

 オレが呼び掛けても、エミリアは応えない。いや、暗闇は応えないといった方が正しいか。アイツが珍しく学校にいない今がチャンスなのかもしれない。

「ようし!」

 オレは乱暴に階段を上ると、三階にある生徒指導室のドアをノックする。ドアのすりガラスから漏れる、蛍光灯のぼんやりとした灯りが穏やかな雰囲気だ。同時にどこか薄気味悪い、ともいえるが。

「……どうぞ」

 この凜とした張りのある声は、間違いなく竜ヶ崎先輩のものだ。「どうぞ」ということは、入っても良いって事だよな? オレは思ったより滑りのいいドアを勢いよく開けてしまった。

「……ど、どうも」

 勢いよくドアを開けたものの、会話をどう繋ぐかまでは考えていなかった。竜ヶ崎先輩は興味深そうにオレを見ている。

「君は佐々岡健司の友達でしょ? こんな時間に、こんな場所で何の用なの?」

 そりゃあ、それは訊くよな。オレは背中を汗が伝うのを感じた。年上相手独特のプレッシャーは、体育会系の部活に所属しているせいか、かなり重い。

 それでもこの先輩とは話をしなければならない。他でもない、オレの命のために。それがどれほど相手を傷つける結果になったとしても。

「……竜ヶ崎先輩って、やけに健司について詳しいじゃないですか? 普通は名字で呼びますよね?」

 会話に困った時は、互いの知っている物や人について話すのが、きっかけ作りとしては使えるテクニックだと、フリーライターの母さんが言っていた。それを初めて試してみる。

「佐々岡健司……ね」

 どうやら食いついたようだ。ありがとう母さん。生き残れたら、来年の母の日には出来るだけ豪華なカーネーションの花束を贈るよ。オレがそんな事を考えていると、竜ヶ崎先輩の表情が変わった。

「ねぇ、小金井君。君は尽くしたいタイプ? それとも尽くされたいタイプ?」

 いきなりの質問だ。しかも恋愛関係とみて、多分間違いではない。これが何を意味するのかオレには解らない。何が地雷なのかも。ここは正直な気持ちを言ってみた。

「俺は……どちらかと言えば尽くされたいタイプですね」

 特に、女子の手作りの菓子をもらってみたい、くらいには憧れはあるにはある。……まぁ、相手にもよるし、時と場合にもよるが。

「私もよ。でも、私の好きな人も、尽くすよりも尽くされたいタイプみたいなの……」

 なぜ生徒指導室でこんな会話が繰り広げられるのか。けれど、竜ヶ崎先輩の好きな人が尽くすよりも尽くされたいタイプだということは解った。当然その『彼』はオレの事ではないのだろう。

好きな相手に直接そんな質問をぶつける勇気も度胸も、男のオレでもないのだから。

「なぜそんな事をオレに訊くんですか?」

 オレはそう言わずにはいられなかった。あの、風紀委員長としての厳しい一面を持つ竜ヶ崎先輩が、よりにもよって恋愛に悩んでいるようなんて、新聞部に持っていけばいいスクープだ。もちろんそんなつもりは毛頭ないが。

「君は人に喋ったりするタイプだとは思えないから」

 そう言って微笑んだ竜ヶ崎先輩は、まるで絵画の中の美しい貴婦人のようだった。

「……そういえば、前に健司に『伴侶』って言ってましたよね? あれってどういう意味なんですか?」

 風紀委員長が絡むとおかしくなる健司。その彼をしつこいくらいに服装チェックする竜ヶ崎先輩。二人の間には何かあるのかもしれない。オレには到底思いもよらないような、大きな事情とか、そんなようなモノが。

「……私と健司は幼馴染なの。昔はよく一緒に遊んだものよ。ある日、健司は私が十八歳になったらプロポーズするって言った。……でも肝心の私の誕生日が迫っているというのに、彼は私を避ける」

 あまりにも意外な話だった。竜ヶ崎先輩がそんなにロマンティストで、あの遊び人の健司がそんな事を言っていたなんて。

「きっと彼は忘れてしまったのよ。……だから私も諦めようって思うの」

「諦めるのは早いと思いますよ。まだ先輩の誕生日は来ていないんでしょう? いつなんですか?」

 竜ヶ崎先輩は俯いて何かを言いかけたが、再び顔を上げた。

「……九月九日」

 つまり、竜ヶ崎先輩が健司を待っていられる時間はあとわずかしかないという事だ。オレは自分のフラグのことも忘れて、竜ヶ崎先輩の語る幼い日の健司の事を黙って聴いていた。


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『まってよ、モモちゃん!』

 健司はわたしに追いつこうと、一生懸命に走る。けれど、幼少期の男女差なんてないと同じで、到底彼が追いつけるようではなかった。

『けんじが遅いのが悪いのよ?』

 わたしはわざと止まって、彼を待つ。やっとのことで追いついてきた健司は、頬を真っ赤に染めて、息が切れていた。

『モモちゃん、はしるの早いよー! 追いつけるわけがないじゃん!』

『……それでもわたしのことが大好きだって言ったのはどこの誰だっけ?』

 そう意地悪く囁くと、健司はすぐに負けを認めて、『ぼく』とだけ答えた。

『わかっているならそれでいいのよ。ねぇ、大きくなったらぷろぽーずしてくれるんでしょ?』

『……ぷろぽーずってなに?』

『……それは、ケッコンしてって男の人から言うことよ!』

『じゃあ、ぼくはモモちゃんにぷろぽーずするね!』

『ぜったいよ? 忘れちゃダメよ?』

 ――そう念を押したあの日の事は今でもよく覚えているわ。

 でも、あの時、幼いあの日から、どこか健司には『陰』みたいなモノがあった気がするの。得体の知れない『不気味さ』とでもいうのかしら? とにかく、私と健司は幼い頃からの幼馴染で、婚約者だった。


 + +

 彼女の話に出てくる健司は、今の彼からは想像もできないくらい、真っ当な少年だった。しかしどこか陰があったと彼女は語った。昔から今のような楽観的な性格ではなかった、という事だろう、きっと。

 やがて八時になり、規則通りブレーカーが落ちた。

「あら……時間、だったわね」

 完全な闇の中でも竜ヶ崎先輩との話のネタは尽きる事がなかった。

 やはり話題は健司の事ばかり。幼い頃の彼は、竜ヶ崎先輩の後を追ってくる、可愛い弟のような存在だったそうだ。大きくなるにつれて健司は彼女と距離を置くようになったという。

その頃には『可愛い』というより『格好いい』という形容が似合う男になっていた。……暗闇の中でも、竜ヶ崎先輩が微笑んでいることは容易に想像できた。

 ――健司、お前は何をやっているんだよ。

 オレは彼に心の中でそう問いかけた。実際、本当に、何をやっているんだアイツは。

「……そろそろ帰らないと。風紀委員だからってこの部屋を使っているけど、夜はやっぱり帰らないとね」

「そうですね。オレ、送りましょうか?」

 気を利かせて、何の下心もなく言ったつもりだが、竜ヶ崎先輩は遠慮した。

「……やめておくわ。剣道部のエースとどうこう、なんて学園新聞に書かれたらたまったものではないしね」

 それももっともなので、オレと先輩は校門で別れた。いつも威風堂々の先輩の背中が、今はとても小さく見えた。

 

 + +


「おーそーいーでーすーよぅー!」

 玄関先の三和土にエミリアが立ってオレを出迎えた。グルグルと彼女の腹の虫が鳴いている。

どうやらこのピンク頭は、腹を空かせてオレを待っていたようだ。

「先に食べてても良かったんだぞ?」

「食材を無駄にするなって言ったのは陽さんですぅー!」

 いつかの朝食を酷評した事を今でも根に持っているらしい。陰険な奴だ。

「はいはい、すぐに用意するから。……今日は生姜焼きでいいか?」

 オレが冷蔵庫の食材をチェックしていると、エミリアがにやりと笑った。

「陽さんってぇー、性格は悪いですけどぉー、料理の腕はいいんですよねぇー。きっとももさんみたいなタイプにはウケますよぉー!」

 俺が生姜をすり下ろしていると、椅子に座ったままメシマズ女が言いだした。

『桃さん』と聞いて最初は誰だか解らなかったが、竜ヶ崎先輩のことだと気づく。確かに彼女みたいなタイプは、きっと将来キャリアウーマンとしてバリバリ働くのだろう。想像してオレも少し笑った。

「ほら、出来たぞ。米は奮発して高いやつを使った」

 オレが生姜焼きをダイニングテーブルに出すと、ピンク頭が嬉しそうな声を上げた。

「こんな美味しそうな生姜焼きなんて初めてですぅー! 新種は食べ物を食べなくても数日は平気なんですけどぉー、これは別腹ですねぇー!」

 料理を褒められるのは気分がいい。たとえそれが簡単な生姜焼きでも。

 今のうちに詳しい話を聴いておこうと思う。

 このピンク頭はいまいち説明能力に欠ける。言いたいことは何となく察せるが、考えるのが面倒だ。こちらから質問責めにして、詳しい事を聞きだしておかなくては。

 なんといっても、オレの『命』がかかっているのだから。

「新種の事はある程度聞いたと思うけど、『亜種あしゅ』って何なんだ?」

 オレは自分の分の生姜焼きを白米に乗せながら食べる。

「……え? わたしぃー、『亜種』の事なんて言いましたっけぇー?」

 とぼけている様子もない。本当に覚えていないらしい。

「能力、確か『パターンチェック』だっけ? それを使ってる時に言ってたぞ。覚えてないのか?」

「わたしぃー、『パターンチェック』を使っている時にはぁー、意識がなくなっちゃうんですよぅー。なんというかぁー、別人格? みたいのが現れてぇー。

 『亜種』っていうのは新種の中でも、『悪質な固有の能力を持った者』のことですぅー。お兄ちゃんが言うにはぁー、わたしたちの両親を殺したのも『亜種』だったとかぁー……。だからぁー『亜種』は敵なんですよぅー!」

 エミリアは本当にすまなそうな顔をしながら説明した。きっと彼女の頭では語彙が少なすぎて詳しい説明は無理なのだろう。

 それにしても、その頭の悪そうな口調はどうにかならないのか? 両親の仇みたいなこと言ってるし、シリアスな話なんだろうけど、口調で台無し感が半端じゃないぞ?

 そう思ったが、今は触れないでおこう。彼女も余計な詮索をされるのは嫌だろうし。

「お兄さん、いるのか?」

 オレが兄の事を口にした瞬間、彼女の顔に笑みが零れた。きっと自慢の兄なのだろう。普段はただウザいだけだが、こうして見るとやはり可愛い。

「お兄ちゃんは入社五年目のベテランなんですよぅー! どんなにモテない人でも、お兄ちゃんにかかればモテモテでーすぅ!」

「それは……優秀なんだな」

「はいぃー!」

 エミリアはほぼ残さず生姜焼きを食べた。脂身を残しているのはコイツなりのダイエットか? こんなところは人間の女子と何ら変わらない。

「それで、『パターンチェック』ってのはどんな能力なんだ?」

 この質問にはピンク頭は言いよどんだ。言いたくないという事か? それとも単にバカすぎて説明不可能なだけか?

「……すみませぇーん。『パターンチェック』は星座と血液型のパターンを瞬時に解析して、相手との相性をよくする能力、だとしか知りませぇーん」

「意外とテレビの占いみたいな能力だな」

 オレが正直な感想を言うと、エミリアは首を左右に振った。

「いいえぇー。そう簡単なものではありませんよぉー。別人格に入れ替わっているのでぇー、その時の状況は知りませんがぁー、確かにそれで上手くいったカップルも多数いるのですぅー。でもぉー、上手くいかない時はぁー危険なんですぅー!」

「でも、所詮は占いだろ? そんなもんで振り回されちゃたまったもんじゃない。じゃ、風呂入るわ。汗だくだしな」

 オレはそう言いつけ、風呂を沸かした。その間、彼女は無言だった。


 + +

 

 そして長かった夏休みも終わり、九月になり、始業式当日。オレは学校指定の青いラインの入ったシャツを着て、軽いカバンを準備した。

「陽さんも二学期ですかぁー!」

 そう呟きながらベッドから出たばかりのアホピンク頭を尻目に、朝飯を作る。今日は卵が余っているから目玉焼きとフレンチトーストだ。

「いいにおいがしますぅー。これってふれんちとーすとですかぁー?」

 寝ぼけたピンク頭が階段を降りてくる。全く呑気なものだ。

 登校日のあの日から、オレの寿命は確実に減っている。オレの寿命増やすためにいるコイツが、オレの足を引っ張るとは本末転倒もいいところだ。

「ほら、フレンチトーストと目玉焼きだ」

 オレはいつかコイツが作った目玉焼きとの差を見せつけてやるつもりで、皿を掲げる。

 このメシマズ女はその途端に目覚めて、「美味しそうですぅー!」と嬉しそうな声を上げている。

「やっぱり陽さんってぇー料理研究部に入った方がよかったんじゃないですかぁー?」

 フレンチトーストを齧りながら、ピンク頭はそんな事を言ってきた。

「ふざけるな。オレは剣道一筋って決めている!」

 つまらないですぅーと彼女は膨れたが、そんな事は俺には関係ない。

もう学校に来られてはたまらないので、絶対に学校には来るなと釘を刺しておいた。……コイツに聞く耳があればだが。

 篠原の時は助かったが、今回もそうとは限らない。オレは通い慣れた道を急ぐ。


 + +

 健司と朝早く会うのは珍しい事だった。しかも、彼の手には赤い薔薇の花束があった。

「お前……それ、どうしたんだ?」

「買ったんだよ。他にどうやって手に入れるんだ?」

 いつもとは対照的に、制服をきっちり着こなしている健司は格好良い。普段からそうしていればいいのに。

 シャツにはアイロンを当ててあるらしく、縫い目のラインがきっちりとしている。それに。いつものシルバーアクセサリーは一つもない。

 これは天変地異でも起こる前触れか? オレだけではなく、他の生徒も健司を凝視している。やはりこの健司は目立つ。元々こんがりと焼けた肌が人目を引いていたけれども。

「俺、覚悟を決めるわ」

 一瞬、何を言っているのか理解できなかった。校門が間近に迫る。そこには見慣れた『風紀』の二文字が空中で踊っている。

「よぉ」

「あら、やっと決めてくれたわけ?」

 健司と竜ヶ崎先輩の間には、二人にしか解らない空間が出来ていた。風紀委員の目も釘づけだ。オレにはこれから起こるであろうことが何となく予想出来た。

 健司は薔薇の花束を彼女に捧げ、膝を折った。それはさながら、中世の騎士が姫君に対して礼を捧げる図に似ていた。

 竜ヶ崎先輩は瞬かせた後で、目を細めてニッコリと笑った。

「……そう、プロポーズしてくれるのね、私に」

 その一言でオレを含む周囲の人間が固まった。いや、確かにオレは話を事前に聞いていたけれども。まさかこんな……白昼堂々とは。予想の斜め上をゆく健司らしい。

「プ、プロポーズぅー?」

 周囲から驚きの声が漏れる。

 薔薇の花束を手にした竜ヶ崎先輩は俺が今まで見てきた彼女のどの姿よりも美しかった。まるで一枚の絵画のように。

 オレは内心でどこかホッとした。

 健司はずっと健司で、彼女いない歴イコール年齢仲間だと勝手に思っていた。しかし、前に竜ヶ崎先輩から聞いた話の中の彼はオレの知る健司とは全然違った。        

これが本来の健司なのだろう。彼は照れ臭そうに鼻の頭を掻いている。

「俺もお前も尽くされたい同士だからな。上手くいくかは解らねーが……俺と付き合ってくれるか?」

「もちろんいいわ。ずっと待ってたんだもの、今日この日を。そして……この薔薇は私の部屋に飾っておくわ。ドライフラワーになっても、ずっとね」

 校門の前で繰り広げられる二人の世界。そこに割り込める者など一人もいない。かくいうオレもそうだ。

 明日には、この二人が付き合い始めたというスクープが学園中を駆け巡るであろう事は確実だ。……でも、それはそれでいいんじゃないかと思う。どうしても目立ってしまう二人だから。

「あちゃー。ケロケロ君も中古だからかなぁー?」

 校門の前にケロケロ君を手にしたエミリアがいきなり出てきた。それも頭から。

「うわぁぁ!」

 周囲の人間が白い目でジロリとオレを見る。首しかないピンク頭の姿は例のマントのせいで、他の人間には見えないのだ。

「そんなにびっくりする事はないじゃないですかぁー。そろそろ陽さんが告白している頃だと思ったらぁー……」

 その瞬間、ケロケロ君が光り輝いた。ケロケロ君の舌から出てきたのは、ビー玉くらいのサイズの淡いブルーのフラグ珠だった。

 エミリアは躊躇うことなくそれを拾い、空に透かしてみる。

「フラグ珠……といっても、あと半月寿命が延びただけですね」

「なんだって? たったの……半月?」

「これも普段の行いのせいですよぉー?」

「俺は普段から品行方正だ!」


 + +


 健司と竜ヶ崎先輩は幼馴染だった。それが竜ヶ崎先輩の転校で離ればなれになったそうだ。その別れの時に、健司が渡したのが、四葉のクローバーで作った婚約指輪だったらしい。

竜ヶ崎先輩はそれを親に取り上げられるまで離さなかった。枯れる前に押し花にして栞にしたそうだ。それは今でも読書の友として使っているらしい。

 彼女が父親の転勤が終わって戻って来たのは一年前で、健司はどこかやましいところがあったのか積極的には関わらず、彼女もまた可能な限り関わろうとしなかった。

しかし、小学三年生の頃に書いたという文集で、お互いに結婚すると書いていたそうだ。

その事を彼女ははまだ覚えていたらしく、何度も健司にアタックしたらしい。オレに対するあの態度は、彼の気を惹くため、だったのだろう。真面目すぎて不器用な竜ヶ崎先輩らしい。

 

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「じゃあなんで、フラグ珠が出てきたんだ?」

 オレは自分の部屋でエミリアに問う。健司一筋なら、オレの事なんて歯牙にもかけないはず。このくらいは、疑問に思って当たり前だ。

 エミリアは母さんが通販で買ったバランスボールに乗りながら答える。

「それはぁー、多分ぅー、陽さんが健司さんに近いところにいたからぁー、でしょうねぇー」

「なんだそれ」

 確かに好意を向けられていると思ったのに、あれは勘違いだったのか? 

なぜか虚しい、しかし悪くない気分で一階に降りると、エミリアが声を弾ませながら「今夜はステーキがいいですぅー!」と叫ぶ声が聞こえた。

 俺のフラグを巡る物語はまだまだ終わらないらしい。

「食わなくてもいいんだろ? 少しは遠慮しろ!」

 オレは自分のフラグが立たなかった事に少し腹を立てて、エミリアにそう怒鳴っていた。  

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