一人目 篠原佳代子

 どこかでセミが鳴いている。朝早くからお役目ご苦労様。だがオレとしては、もう少し静かに鳴いてくれるとありがたい。昨日は自主練習をしてたから寝るのが遅かったんだ。

 ミンミンミン、ミンミンミン……。

「あーもう! 静かにしてくれよ!」

 オレはタオルケットを乱暴にめくり上げて飛び起きた。夏独特の、このうだるような暑さにだけは耐えられない。その上、セミのやかましい鳴き声までプラスされては、おちおち寝てもいられない。

 シングルベッドの頭の方にある、小物収納スペースの上の目覚まし時計を見ると、まだ朝の六時。ただでさえ、変な夢を見て疲れているんだ。睡眠くらいゆっくり取らせてくれ。

「それにしても変な夢だったな。……あのピンク頭、名前は何と言ってたっけ?」

 寝ぼけ眼のまま、洗面所へ向かう。もう少し寝ていたいが、脳が覚醒してしまっている。

この状態で二度寝は無理だ。ここは男らしく諦めて、夏休みの宿題の見直しと筋トレにでも時間を使おう。

 オレは顔を洗い、歯を磨くと、リビングダイニングへと続くドアを開けた。

「なんだ、この臭い……?」

 まるで家が丸ごと焼けたような焦げ臭い匂いがする。それに混じって何かが腐ったような臭い、生ゴミの臭いが嫌な感じの黄金比率で混じっている。

 昨日までは何の異常もなかったリビングの空気が……今や完全に澱んでいる。

「やっと起きたんですかぁー? 朝ご飯、できてまぁーすぅ!」

 キッチンの方から元気のいい女子の声が聞こえた。この声は夢に出て来た、あのピンク頭の声だ。なぜこんなところで聞こえるんだ? オレはまだ夢を見ているのか? ……そんなオレの、夢オチという希望的観測は見事に外れた。

 キッチンには、確かに例のピンク頭がいたのだから。

「おはようございまぁーす! 意外と起きるのが遅いんですねぇー。だからぁー、わたしが朝ごはん作ってあげちゃいましたぁー! 感激でしょー? 十六年間彼女なしの喪男もおとこ君的にはぁー!」

 恩着せがましい言い方が、朝から腹立つ。彼女が身に着けている、母さんのお気に入りの水色のエプロンには、真新しいシミがいくつもついている。それどころか、あちこちに焼け焦げた跡すらある。

 それにしても、コイツには人を不快にさせる天賦の才能でもあるのだろうか? やっと昨日の事が頭の中に蘇ってきた。

 このピンク頭の名前は、確かエミリアだ。この見事なピンクの髪は地毛だと、確かに昨日聞いたばかりだ。

「朝飯を作ってくれるのは嬉しいけど、この異臭は何だ? 何を作ったんだ?」

 オレが早足でダイニングテーブルへ向かうと、足止めでも企んでいるのか、ピンク頭が立ちふさがる。

「いや、まだ最終調整が出来てないというかぁー、まだ見せたくないっていうかぁー?」

 困ったような顔で小首を傾げる。確かに女子なら誰がしても可愛らしい仕草だし、この外見なら許す男も多いだろう。しかしオレはそんなに甘くない。剣道男子を舐めるなよ。

「どけ」

 力を込めて押すと、エミリアはあっさり横に逸れた。そして、そこにあったものに茫然として声が出る。

「……なんだこれは?」

 俺はその惨状に泣きたくなってきた。

 炊飯ジャーの中の飯は水分が明らかに不足していて、米が焦げているだけだし、目玉焼きとおぼしきものは真っ黒に焦げて、並々たっぷりとソースがかかっている。

 サラダは見た目はまだマシだが、飾り付けてあるブロッコリーには明らかに火が通っていない。

カップから嫌なにおいのする朝の日課のコーヒーには、豆の産地からこだわっているというのに……。ドリップメーカーが壊れ、マグカップに入っている液体はもはやコーヒーではなく、ただの豆の出がらしだ。

 唯一まともな味噌汁は、ゴミ箱にレトルトの味噌汁の素が入っている。

 俺はあまりにも酷い惨状に頭を抱える。ダイニングテーブルを見回している間、バカなピンク頭は冷や汗をかいている。

「……お前、よくこんなベタな失敗できるな。ある意味凄ぇ……」

 呆れてものが言えないというのはこういう事だろう。小学生だってまだマシなものを作れると思う。

「ま、まあ……、作ってしまったものはしょーがないですよぅー。食べましょーよぉー! 見た目は悪いですが、味には自信がありますしぃー!」

 よくこの出来でそんなことが言えるな。そういう意味では感心する。


 + +


「やっぱり朝はご飯とみそ汁ですよねぇー!」

「……これはご飯じゃなくて米だけどな。味噌汁も、お湯の入れすぎで薄いし」

 俺の指摘に、コイツはブスッとするが、すぐに調子を取り戻す。

「ご飯のお供はやっぱり目玉焼きですよねぇー! 固焼き卵にソースをドバッ! これぞ日本の朝ですぅー!」

「……俺、目玉焼きには醤油派。あと焦げすぎなのと、ソースが多すぎて舌がバカになりそう」

「でっ、でもっ! サラダなら野菜を切って飾るだけ! これなら火も使わないし、安全ですぅー!」

「あのな、ブロッコリーは茹でるんだよ。硬くて食えない」

 ここまではっきり言ってやると、さすがのコイツも涙目だ。昨日は散々からかわれたんだし、このくらいはいいだろう。オレは最後にトドメの一言を放つ。

「あと、これはピーベリー豆の無駄遣い。母さんがいたら怒られてたぞ。オレもお前も」

 母さんは食材を無駄にするのは許さない性格だ。基本的には優しく、おっとりしているが、食べ物を無駄にすると烈火のごとく怒る。

「……そういえば、母さんは? また仕事か?」

 オレは冷蔵庫脇のホワイトボードを見る。

 うちの両親は共働きで、父さんは会社員で現在は単身赴任中、母さんはマイナー雑誌のライターをしている。彼女の仕事は不定期なので、このホワイトボードに予定が書きこまれる。

 オレが予定を確認する前に、ピンクの頭のメシマズ女は何でもないことの様に言った。

「ああ、お母様なら朝早く出かけましたよぅー。何でもぉー、ヨーロッパで有名俳優のインタビューのお仕事とかでぇー、半年は帰らないって言ってましたよぉー?」

「……なんだって?」

 なら母さんはこの女子のことを知ったのか? 彼女は細かいことにはこだわらないから、同居も気にしないのだろうが……。

 でも、じゃあオレはこのアホなピンク頭よりも早く起きて、自炊するしかないのか? こんなメシマズ女に台所を任せるわけにはいかないし。

 オレが呆然としていると、追い打ちをかけるようにその原因のピンク頭が弁当箱を差し出してきた。

「朝食の余りではないですよぅー? 全部一から作りましたぁ! 陽さんの好物のから揚げも入れておきましたからぁー!」

「……お前、弁当まで作ったのか? 余計な事をしやがって……」

 あの料理を作ったコイツの事だ。弁当箱の中身は相当悲惨なのだろう。昼が来るのが怖い。

「さあさあー、部活は九時からでしたよねぇー? そろそろ行かないと遅刻しますよぉー!」

 リビングの壁のかけ時計は、八時半を示していた。部活が始まるのは九時からだが、部長の石橋先輩は十分前行動を部員に強いている。

「そういう事は早く言え!」

 俺は慌てて二階の自分の部屋に行くと、すぐに部活動が出来るように胴衣に着替えた。面や小手などの防具と竹刀をしまった鞄を慌てて肩にかけ、玄関先までダッシュする。

 それと、出かける前にこのピンク頭には釘を刺しておく。でないと、また余計なことをするに違いない。

「いいか? 余計なことはしなくていいからな? ただ部屋の壁のシミの数でも数えて、大人しく待ってろよ?」

 睨みつけながら凄んでやると、エミリアはニッコリと笑った。

「大丈夫ですよぅー!」

 その笑みには何かが起こりそうな嫌な気配があったが、部活に遅刻するわけにはいかない。

「いいか、絶対だぞ!」

 俺はそう言い残して、慌てて我が家を後にした。


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 オレの通う学校、私立桐芝学園わたくしりつきりしばがくえんはいわゆるマンモス校だ。小中高大一貫のエスカレーター式の学園で、生徒数もどちらかといえば多い部類に入る。オレは中等部からこの学園に通っていて、その頃から剣道部に所属している。

 うちの学園は、男女平等の精神が強い。

例えば、オレの所属する剣道部は女子禁制ではない。その証拠に、女子部員が三人いる。その逆の例としては、女子のものだという偏見がある手芸部にも、男子部員が十三人いるらしい。

「あっ、陽くん! おはよう!」

 玄関から出たオレとばったり出くわしたのは、幼馴染の早川恋はやかわれんだった。彼女は手芸部に所属していて、手芸男子は絶対流行る、と俺に日々力説している。剣道男子はもう古いそうだ。

「おはよう。恋は手芸部の合宿は終わったのか?」

 ここ数日は恋の姿を見ていない。彼女は手芸も趣味だが、ガーデニングや家庭菜園にも興味があるらしく、よく庭先に出ている。その恋の姿がここ数日は見えなかった。

「そう、秋の文化祭用の作品を作りにね。力作が出来たんだよ! 早く文化祭が来ないかなぁ!」

「恋の力作なら相当凄いんだろうな。お前昔から器用だし。……って、こんな話をしている場合じゃなかった! ごめん恋! オレ、これから部活なんだ!」

 軽く手を振って、恋と別れる。幼馴染ゆえ、オレが剣道にどれだけ本気で打ち込んできたかを、彼女はよく解っている。

「うん。怪我しちゃダメだよ」

 そう言って彼女はオレに向かって手を振った。その声は、鈴のような……という比喩とは程遠い、かすれ切っただみ声だ。


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 恋と別れてしばらく走ると、学園の校舎が遠巻きに見えてくる。

 家から徒歩二十分の距離にあるということも、オレが桐芝学園に通うことを決めた理由の一つだ。学校が近くにあるのはいろいろとメリットがある。現に、こうして遅刻せずに済みそうだ。

 そろそろ校門が見えてくるころだし、と腕時計を見ると、まだ九時まで十五分あった。

「良かった。これなら遅刻しなくて済むな」

 安心してペースを落として歩き出すと、いきなり後ろから肩を叩かれた。振り返るまでもなく、誰なのかは解る。

「おはよう、健司けんじ

「なんだ、バレたか」

 少し残念そうにオレの前に出た彼は、夏休みを満喫しているようで、もともと浅黒かった肌がますます黒くなっている。染めた金の髪も日焼けでもしたのか、若干赤銅色に見える。

「いつから気づいてた?」

「一つ前の信号を渡ったあたりかな。お前は気配まで派手だから」

「ちぇー。また陽から一本取れなかったか」

 彼は悔しそうに、わざと潰した学校指定のカバンを乱暴に肩にかけ直した。

 コイツのフルネームは佐々岡健司ささおかけんじ。中等部からの付き合いの、オレの悪友兼親友だ。

 小金井こがねいと佐々岡という苗字のおかげで席が近くになり、話しかけられたことが交流のきっかけ。価値観はあまり合わないが、なぜか一緒にいて落ち着く。

余計な事に踏み入ってこないところも気に入っていて、今日までの付き合いに至る。

「陽は部活だよな? 大丈夫かぁー? あのおっかねぇブチョーさんに怒られるんじゃねぇの?」

 健司は夏の制服である、青いラインの入った半袖シャツの下に、派手なオレンジのタンクトップを着こんでいる。更に、首から派手なシルバーアクセサリーもジャラジャラぶら下げている。

 もちろん校則違反だが、教師たちと風紀委員の生徒以外には受け入れられている。派手好きで目立ちたがり屋だが、見た目は遊び人系のイケメンなので、女子からの人気は高い。本人もそれをよく解っている。

「まだ十分前じゃないし。健司は補習か? お前はホントはやれば出来るんだから、わざと悪い点取るのやめろよ」

 健司も俺と同じ二年一組。うちの学校は成績のいい順に一組から七組までに別かれている。学園に入学するために必要な偏差値は中の上程度。理解力があれば一組に入るのは難しい事ではない。

「えー? せっかくの奈々子ななこ先生の化学の補習だぜ? あんな美人の補習になら、俺は夏休みすべてを捧げてもいい!」

 本気なのか冗談なのか、本気で判断がつかない。

 健司は女子にモテるくせに、なぜか告白されても一度も誰とも付き合ったことがない。理由を訊いても、いつも適当にあしらわれる。化学の柳奈々子やなぎななこ先生が好みのタイプなのかと訊いたこともあるが、ヘラヘラして答えたので真意が読めない。

「夏休みは有効に使おうぜ。俺みたくナンパでもしてよぉー!」

「オレとお前の『有効』は違うからなぁー。オレは剣道が一番だし」

 価値観が違うのだが、健司は様々な話題を持っていて、話していて飽きない。学園の様々な噂話のほとんどを押さえている。主に色恋沙汰ネタを。

しばらくそうして歩いていると、部活の話になり、意外な事が彼の口から飛び出した。

「そうだ、剣道で思い出した! お前の剣道部に篠原しのはらちゃんって一年いなかったか?」

 いきなり篠原の話題が出てきて驚いた。健司は剣道には全く興味がないので、部活の話は全然していない。

「え? 健司、篠原のこと知ってんのか?」

「バッカ! 俺が可愛い女子を見逃すわけがないだろ? 篠原ちゃん可愛いよなー、剣道部の女子はみんなショートなのに、セミロングの個性的な髪型しててさぁー!」

 今はそんな呑気な話は聞きたくない。昨日の話題に上ったばかりだから、何かあったのかと勘ぐってしまう。

「篠原がどうかしたのか?」

 オレは平静を装う。あのアホピンク頭の事は話さない方がいい。ただ部活の後輩が心配な、先輩の立場で説明を求める。

「篠原ちゃん、剣道部やめるらしいぜ?」

「……なんだって? いきなりじゃないか……どうしてだ?」

 あの篠原が剣道部をやめるなど考えられない。彼女は一年生ながらも公式試合に出るほどの、部内でも有数の実力者だ。

 天才型というわけではなく、誰よりも真剣に剣道に打ち込む、努力家タイプ。他二人の女子が気にしている手の豆も、努力の証だと喜んでいた。

 その篠原が……部活をやめる? にわかには信じられない。

「俺も詳しい事情は知らねーけど、奈々子先生が言ってたぜ。職員室でも騒ぎになったとかなんとか」

 残念だとでも言いそうな健司。しかし彼はそれ以上は言わない。

「篠原が部活をやめるわけなんてない! きっとデマだ!」

 オレはとことん体育会系なのだろう。後輩一人に思わず熱くなってしまった。健司が冷静に言う。

「……それはそうと、いいのか? もう九時過ぎてるぜ?」

「え?」

 歩きながら話していると、校舎の方からチャイムの音が響いた。でもオレの腕時計は八時四十五分のままだ。……どうやら故障らしい。

「……ご愁傷様。この時間じゃ、校庭何周だろうなぁ?」

 あくまで他人事、とばかりに呟く健司をおいて、オレは剣道部の部室兼道場へと、全速力でダッシュした。


 + +


「遅いっ! 時間の乱れは心の乱れだ! グラウンド五週!」

 夏の熱がこもる部室に着くなり、石橋いしばし先輩はそうオレを怒鳴りつけた。たった一歳しか違わないというのに、大柄な体格をした彼の怒号には迫力がある。

「すみません!」

 オレは大人しく頭を下げるが、これで許してもらえるなどという事は、あり得ないと知っている。

「エースがその調子では、他のメンツの士気に関わるんだぞ!」

「はいっ! その通りです!」

 ペコペコと頭を下げる傍ら、オレは道場の隅に篠原の姿を見つけた。

 興味本位で剣道をやっている女子は色白だが、篠原の肌は小麦色に焼けている。更に、胴着の袖のあたりの肌の色がくっきりと違っている。それだけ真面目に練習に励んでいるのだろう。

 その篠原が、今日は胴着を着ていない。健司の言っていたことは本当なのか?

「――聞いてるのか?」

「あ、はい」

 篠原のことが気がかりで、石橋先輩の大声も耳を素通りしている。追及されなければいい、などと思ったが甘かった。

「よーし。ちゃんと聞いていたんなら、俺が何を言ったか復唱出来るよな?」

 ――しまった、墓穴を掘った! 

「……」

 何も答えられずにいると、「五週追加」とだけ言われてしまった。グラウンドを計十周。それは、ほぼフルマラソンの距離だ。

「走ってきます」

 オレは持ってきた部活用のカバンをロッカーにしまうと、グラウンドへ向かって走り始めた。



 桐芝学園のグラウンドは一周約五キロある。

 グラウンドは、学園の初等部と中等部の校舎の外周を走る形になっている。更にこのグラウンドの外周に、高等部と大学部の校舎とキャンパスがあるわけだ。

いつもは全く文句を言わないが、今日だけは弱音を吐きそうだった。

「ふぅ、ふぅ……。あと何周だ……」

 真夏の、この炎天下を走るオレの身体は限界が近い。いつもは余裕を持って三十分前には部室に着いているのに。

今日はあのアホピンク頭が余計な事をしてくれたおかげで、こんな目に遭っている。目の前にアイツがいたら文句の一つでも言ってやらなければ気が済まない。

「お呼びですかぁー?」

 オレが初等部の水飲み場で一休みしていると、校舎の傍に植えられた茂みの中から、そもそもの原因がひょっこりと顔を出した。

 見間違いでも幻覚でもなく、あのアホピンク頭だった。

「……なんでお前がこんなところにいるんだ? 大人しくしてろって言ったよな?」

 神聖なる学び舎に、例のコスプレ姿で現れやがって、一体何のつもりだ。

「それはですねぇー」

 気づくと、またコイツはオレの頭に手を乗せている。

「接触感応はやめろ!」

 慌てて距離を取ると、コイツはおかしそうに笑った。

「大丈夫ですよぅー。陽さんがブチョーさんに怒られてた情けないトコロも、バッチリ見てましたからぁー。この状況はわかってますよぅー」

 この間の抜けた喋り方。間違いなく本物のエミリアだ。

「……それで、お前はオレの格好悪いところを笑いに来たのか?」

「とぉんでもなぁーい! フラグ立てが順調か確かめに来たんですぅー。ほら、わたしってぇー真面目ですからぁー。ところであと三周ですよぉー?」

 オレはこのピンク頭のコスプレ女を茂みの奥に押しやってから、また走り出す。

 グラウンドが熱を帯びていて暑い。コイツにはいろいろ訊きたいこともあるが、今はグラウンドを走る方が先だ。これ以上、石橋先輩を怒らせたくない。

「んもうッ! つれないんだからぁー!」

 ピンク頭の間の抜けた声を背中に浴びながら、スピードを上げていく。



やっとの事でグラウンド十周を終えると、もう十一時半になっていた。戻ってきたオレに、石橋先輩は厳しかった。

「遅い! 小金井は、いつもはそんなに遅くないだろう? 何をしていた?」

「暑さで頭がくらくらしたもので、休みを取っていたんです。ほら、熱中症とか怖いですし」

 オレにドリンクボトルを差し出しながらも、石橋先輩は声を荒げた。

「甘いっ! 剣士は隙を見せたら終わりなんだぞ? それでも我が剣道部の部員か? 情けない!」

 彼は自分にも他人にも厳しい。最近は、怒ったところを見ていなかったので完全に油断した。心の中でしまった、と舌打ちをする。

「あの……石橋部長」

 そんな時、助け舟が出た。朝から気にしていた篠原が、遠慮がちに石橋先輩に声をかけたのだ。

「ん? どうした篠原、稽古でもつけてほしいのか?」

 途端に石橋先輩の顔と声が優しくなる。

 誤解のないよう言っておくが、彼は女子に甘いわけではない。多分この学園で誰よりも剣道部を愛しているため、剣道に熱心な者には優しいのだ。

 今朝はタイミングが悪かっただけで、いつもはオレにもこんな風に優しく親切だ。

「いえ、そうではなくて……。あたし、剣道部をやめます」

 声が震えているように聞こえたのはオレだけではないのだろう。石橋先輩は二の句が継げなくなっている。予め聞いていたこととはいえ、俺も唖然とする。

「何か気に入らないことでもあったのか? 俺のやり方が不満なのか? お前の気に障ったのなら謝る!」

 石橋先輩は必死だ。篠原は剣道部の女子三人の中で最強で、部内では石橋先輩、剣道初段のオレの次に強い。女子で剣道初段なんて持っているのはこの篠原くらいだろう。

「石橋先輩はなんにも悪くないんです! ただ、あたしの都合が悪いというか……」

 普段は明るい篠原が、ここまで言いよどむなんて。一体、篠原に何があったんだ? よく見ると、篠原の手には退部届があった。すかさずオレは会話に割り込む。

「篠原、一緒にメシでも食わないか? 石橋先輩、そろそろ休憩時間ですし、篠原の事はオレに任せてくれませんか?」

 オレがそう提案すると、石橋先輩はすぐに飛びついた。我ながら上手いフォローだったと思う。

「そっ、そうだな。篠原、これはまだ受け取らないでおく。小金井と一緒にメシでも食え。一、二年のエース同士で会話も弾むだろうしな!」

 篠原は今まで張りつめていたものが切れたかのように、力なく頷いた。


 + +


「一体どうしたんだ? 何か悩みでもあるのか?」

 オレと篠原は道場の隅に陣取った。ここなら会話を聞かれる心配も少ないはずだ。

 あんなに一生懸命に剣道に打ち込んでいた篠原が退部届を出すなんて、よっぽどの事情があるに違いない。話しやすくなるように、弁当箱を開ける。

「小金井先輩に心配してもらうような事ではありません……」

 篠原は心ここにあらずといった様子で、ただの作業のように自分の弁当箱を開けた。中身は女子らしい野菜中心のヘルシーメニュー。特にほうれん草の和え物が美味そうだ。

「……男のオレ相手じゃ話しづらいかな?」

 オレの弁当は、やはりというか想像通りの壊滅的な中身だった。好物のから揚げは、どう見ても中に火が通っていない。いや、今はそんな些細なことはどうでもいい。

「そんな! 小金井先輩は、あたしの剣道の最大の理解者です! でも、だからこそ、言いたくないんです……」

 どうやらかなりのわけありのようだ。これ以上は踏み込めそうにない。どうしようかと考えあぐねているオレの耳に、聞き覚えのある声が聞こえた。

「そうなんですかぁー。それは大変ですねぇー」

 空気を全く読めない、いや、読む気のない間延びした口調で、エミリアはごく自然に道場の中にいた。

「おいっ! 何やってんだ! 部活のみんなにバレたら……」

 オレが慌てていると、篠原は唖然としてピンク頭を見つめている。

「……どなたですか? 小金井先輩のお知り合いの方ですか?」

 篠原はエミリアの頭を凝視している。そりゃ、オレも初めて会った時は同じくピンクの頭を見たけど。

「お知り合いでぇーすぅ。でも彼女とかじゃないですよぉー、安心してくださーい!」

 このアホピンク頭はその場で一回転すると、篠原にぺこりと頭を下げた。

「こんな朴念仁ぼくねんじん相手じゃ大変ですよねぇー。解りますよぅー!」

 いや、オレはまったく解らないんだが。大体、朴念仁とはなんだ。自分はアホなピンク頭のクセに。

「はぁ……?」

 篠原は反応に困っている。それと同時に彼女は不思議そうな顔をしている。

「小金井先輩、なんで誰もこの方には気づかないんですか? こんなに綺麗なピンクの髪なのに」

 そう言われて初めて気がついた。このピンク頭は一体どうやって誰にも気づかれずにここまで来たんだ?

「うふふぅー、内緒ですぅー!」

 エミリアの黒いマントが妖しく揺れる。そこに何か秘密があるような気がした。彼女はそれだけ答えると、石橋先輩と顧問の斎藤先生の元へ近づこうとする。

「おい待て! 何をしようとしてるんだ?」

 オレが首根っこを掴むと、前に進めなくなったピンク頭はバタバタと手足を動かす。

「ちょっとお仕事ですよぅー!」

 これ以上、オレの生活を引っ掻き回されてはたまったものではない。首根っこを掴んだまま、エミリアを引っ張っていく。

「篠原、ちょっと待っててくれ。このアホを捨ててくる。先にメシ食っててくれ!」

 オレはそう言い残して、道場から出ていく。

 当然の事ながら、何が起こっているのか理解できていない篠原は、ただぽかんとオレたちを見送った。


 + +


「……何のつもりだ?」

「何の事ですかぁー?」

 オレが怒鳴りつけても、このピンク頭はとぼける。この喋り方も今は最初の数倍癇に障る。要は、コイツが何をしても、オレは苛立つ。

「大人しくしてろって言っただろ? なのになんで学校にまで来てるんだよ! 篠原にも見つかったし……これからどうするつもりだ? 他の部員にも見られたかもしれないんだぞ!」

 そこまで一息で言い終えると、息が切れてゼーハーする。しかし、このピンク頭は何でもない事のように言った。

「大丈夫ですよぅー。わたしの姿が認識できるのはフラグ関係者だけでぇーすぅ。一応保険にこのマントも羽織ってますしぃー!」

 自慢するように黒いマントを翻すエミリア。気のせいか、漆黒のそのマントの所々が光っているように見える。

「そのコスプレ姿がどうしたって?」

「コスプレじゃ、あ・り・ま・せぇーん! わたしたちカンパニーの正装ですよぉー! このマントもケロケロ君と同じく、わたしのお仕事道具でぇーすぅ。この髪飾りにケロケロ君のデータを送信しておけば、わたしが認識を許した人にしかぁー見えないようになるんですよぉ―! 便利でしょー! 羨ましいでしょー?」

 その変な格好にも意味があったのか。てっきりコイツの趣味だと思ってた。

「失礼な人ですねぇー。わたしを一体何だと思ってるんですかぁー?」

「だから、勝手に頭の中を覗くな!」

 勝手に頭の上に乗せられていた手を乱暴に押しのける。

 太陽の下で見ると、ますますコスプレにしか見えない。革製の丈夫そうなベストに、黒いレザースカート。超ロングブーツとスカートの間の太もものバランスがいい、とは思う。けど感想はそれだけだ。

「とりあえず、夜まで待ちましょー。こんな事もあろうかと、フラグ球のサンプルを使ったんですよぅー。係長からはぁー『いざって時に』って言われてたんでぇー、今がその時かとぉー……」

 フラグ球のサンプルだって? じゃあそれがあればオレの命の灯も伸ばせるんじゃないのか?

「残念でしたぁー! このサンプルのフラグ球はイベントを起こすためにしか使えませぇーん!」

 またも考えを読まれた。再び手を振り払うが、このアホピンク頭は動じない。

「イベントっていっても、どんな? 言っとくけど、篠原の純粋な気持ちに何かするんなら、オレの命が関係してようと全力で阻止するからな!」

 オレが凄んでみると、このアホピンク頭は初めて真面目な顔をした。

「いいですかぁー? 今日の午後でーすぅ! 今日の午後にチャンスが来まぁーす!」

 言外に、それを逃したらフラグが立たないと言っている。その勢いに気圧されそうになるが、こっちだって伊達に武道を嗜んでいるわけではない。オレはエミリアを睨み返すと、きっぱり言ってやる。

「篠原が大変な思いをしているかもしれないんだ! オレの命はもちろん大事だけど、篠原の事は純粋に先輩として心配なんだ!」

 感心したような、満足げな顔をして、エミリアは再びどこかへ消えた。オレの脳裏に残ったその表情は、これまでになく真剣だった。……いや、昨日知り合ったばかりだけど。


 + +


 元いた場所に戻ると、石橋先輩と顧問の斎藤先生が真面目な顔で何やら話し込んでいる。その尋常ではない雰囲気で、篠原の退部の事だと簡単に察した。退部届は彼女に返され、保留扱いだ。

「今度の試合は――」

「どうにか篠原を――」

 二人の話は篠原個人を重視した話ではなかった。剣道部全体の問題を話し合っているようだった。顧問と部長という立場なら仕方がないと思うが、もう少し篠原の気持ちを考えてやってもいいんじゃないかと思う。

 これはオレが特に責任のない、一部員としてここにいるから言える事だろうけど。

 午後の練習は組み合っての試合練習だ。オレの相手は同じ二年の西岡という、剣道部に初等部からいながらも、才能がないと諦めている奴だった。

「よろしくお願いします」

「……よろしくお願いします」

 何度か戦ったことのある相手だから、癖はとっくに見抜いている。やみくもに打ち込んでくる初手をかわして、胴を一本。

「胴一本!」

 審判役の一年生が腕を振り上げる。

「……まいりました」

 西岡はあっさり負けを認めた。……こうもやる気がない奴がオレは苦手だ。特に熱血なつもりはないが、やる気がないのなら、練習が厳しい剣道部にわざわざ入部しなくてもいいのではないかと思う。

「オレは小金井と違って才能がないから」

 そう言い訳して、一年生に交じって素振りをしている西岡の背中には、何とも言えない哀愁が漂っていた。

 オレは何試合か連戦して、十勝二敗の結果を出した。今日は篠原の事が心配になって、気合が入らない。そういえば肝心の篠原はどこだ? 辺りを見回してみるが、彼女の姿は見当たらない。

「小金井先輩」

「うわっ!」

 突然背後から声をかけられて驚いた。気配がまるでなかったから、気づかなかった。ここまでの腕の持ち主は部内でも有数なので、相手は見るまでもなく解った。

「……篠原」

 なぜか篠原は今日の部活動を全然していない。いつもは自分から「ご教授お願いします」と、相手を探し回るのに。やはり彼女に何かあったのだ、と確信する。

「やっぱり何かあっただろ? オレはただ先輩として、お前が心配なんだよ。……何があったのか話してくれないか?」

 篠原は意を決したように、口を開こうとした。そこへ聞こえてくる大声。それは男子の野太いものだ。

「おい、大変だ! 篠原が通学に使ってるバスが運休停止だそうだ!」

 石橋先輩が大股で俺たちの方へ歩みを進めてくる。何かを言いかけた篠原の口は再び閉じられた。あと少しだったのに!

「ええっ? 本当ですか? ……どうしよう、あたし帰れないんですか?」

 篠原は当然不安そうな顔だ。彼女自身から前に聞いた話によれば、両親が離婚していて、父親に引き取られた彼女は、毎日三食の支度を一人でしているそうだ。

彼女が困っているのは、父親の食事を用意できないからに違いない。篠原はそういう奴だ。

「斎藤先生も近所のバスを調べてくださってはいるんだが、いかんせん乗客の少ないローカル線だからな……。汚い上に散らかっていてすまないが、今日はここに泊まったらどうだ?」

 自分のせいではないのに、真摯に篠原の心配をする石橋先輩は、やはり三年生だ。一歳しか違わないのに、この気遣いは尊敬する。

「部室にですか? でも、迷惑ではないですか?」

 篠原は遠慮がちに尋ねる。石橋先輩は胸を叩く。

「いいや、構わん! うちの大事な部員の事は俺に任せておけ! で、小金井。お前も今日はここに泊まれ」

 あっさりと言ってのけたその内容に、オレは驚くしかない。

「え? オレも……ですか?」

「いくら剣道初段だからって、女子だぞ? 一人でこの暗い部室においておけるか?」

 流石にそれはヤバいんじゃないのか? 仮にも男女だぞ? 俺はともかく、篠原は了承なんかしないだろう。そう思っていた。

「そうですね、小金井先輩が一緒なら安心出来ます!」

 篠原までどうしたんだ? いつもはこんなタイプじゃないぞ? 何かがおかしいと思ったとろで、昼間のエミリアの言葉がよみがえる。

『今日の午後でーすぅ!』 

 確かにそう言っていた。これがサンプルのフラグ珠の力なのか? ……バスを運休停止にし、篠原を帰れなくさせるなんて、無茶苦茶だ。

 混乱するオレをおいて、話は進む。

「この部室棟の三階には料理研究部の部室がある。斎藤先生が、あの部の顧問に話をつけてくださったから、夕食はそこで食べるといい。風呂は……悪いがシャワーで済ませてくれ」

 女子が風呂に浸かれないことも配慮するあたり、普段の男前な先輩でもデリカシーは持ち合わせている。オレは全く気づかなかったのに。篠原は一切文句を言わない。

「こちらこそすみません。石橋先輩は何も悪くないのに、ご迷惑をおかけしてしまって……」

 二人の会話に耳を澄ませているうちに、あっという間に今夜の予定が決まってしまった。

 オレも、ここまで言われては断れない。夜の学校に女子一人では、いくら有段者でも危険すぎる。

「小金井、これが部室のカギで、こっちが料理研究部部室のカギ、それからこれが――」

 オレは石橋先輩の話を、ただ黙って聞くしかなかった。


 + +


 六時になり、部活動も終了の時間だ。他の部員は素早く帰り支度を済ませ、帰路に着こうとしている。

「じゃあ俺も帰るが……いいか、もし篠原に何かしてみろ? その時はいくら温厚な俺でも、黙ってないからな?」

 石橋先輩はそう強調し、オレに釘を刺した。オレだって、篠原にやましい事などするつもりなど、一切ない。

「篠原の事は任せてください。……退部の理由もそれとなく訊いてみます」

 最後の方は小声で先輩の耳に入れる。先輩も、朝からそれが気がかりだったのだろう。「お前は篠原と親しいからな、頼んだぞ」とオレの背中を力強く叩いた。

 外はまだ明るい。夏は時間の経過がわからなくなるから、どちらかといえば苦手な季節だ。

 ちらりと篠原の方を見ると、彼女は部室に備えつけてある、非常食のジャガイモを探し当てていた。今夜の食事はジャガイモで間違いない。

 オレの視線に気づいた篠原は、申し訳なさそうに笑った。そんなに気にすることではないのに。むしろオレの都合に巻き込まれた、被害者なのに。

「みなさん、お帰りですねぇー。チャンスですよぉー!」

 あまりにも場違いな、空気の読めていない声が、がらんどうになった道場に響いた。すっかり存在を忘れていた。あのアホピンク頭は、当然のようにここにいた。

「……ああ、昼間の。えと、小金井先輩の関係者さんですよね?」

 篠原は遠慮がちに声をかける。こんな奴相手に気を遣わなくてもいいのに。

「そうですがぁー、あなたの関係者でもありますよぅー!」

 放っておくとフラグのことも口走るとも限らない。オレは慌ててこのピンク頭の口を塞ぐと、道場から出た。篠原には「ちょっと悪い」と断ってから。

 彼女は先に料理研究部の部室に向かうと言った。

「……何のつもりだ? 篠原が帰れなくなったのも、お前の仕業だろ?」

「もちろんそうでぇーすぅ! だってぇー陽さんったら、全くフラグ立てに集中しないんですもん!」

 いかにもオレが悪いと、エミリアは唇を尖らせる。女子のこういう仕草は好きだが、コイツがやるとただ腹が立つ。

「部活に打ち込んでたからな。オレの青春は剣道に捧げると決めてるから」

 オレがそう宣言しても、コイツはせせら笑うだけだ。頭に手を乗せるまでもなく、断言してくる。

「まーたまたぁ! この世に恋愛に興味のない男子なんていませんよぉー! うちのカンパニーでもそういう結論が出てまぁーすぅ!」

 コイツは本気でオレにフラグを立てさせたいらしい。他にも色々と突っ込みたいことはあるが、真面目に相手をするのもバカらしい。

 確かにオレだって、長生きしたい。でも、篠原の気持ちを踏みにじりたくない。命より大事なモノだって、この世には沢山あるはずだ。

「それで、学校にオレと篠原を二人きりにして、親密にさせようって魂胆か? ずいぶん簡単なお仕事だな」

 わざと嫌味を言っても、コイツは全く堪えない。このメンタルのタフさは、見習うべきなのかもしれない。

「話はそう簡単じゃあありませんよぉー? わたしにはぁー、今回の事情がわかっていますしぃー。だからこそ、いざという時のためのサンプルフラグ珠を使ったんですよぉー?」

口調こそ軽いが、言っていることは結構重い。思わず詰め寄っていた。

「……それはどういう意味だ? そういえばお前、篠原の頭の中を接触感応してたよな? 事情って何だよ? オレのフラグを立てるのが仕事なら教えろよ」

「それを突き止めるのが、あなたの役目ですよぉー? フラグは自力で立てないと意味がないんですぅー。じゃ、邪魔者は隠れてますからぁー、頑張って好感度を上げてくださいねぇー!」

 ちなみに、と彼女は一言「ああいうタイプはストレートが一番なんですよ」などと余計なアドバイスだけよこした。大きなお世話だ!

 アホピンク頭がマントを翻すと、その姿が闇に溶けた。例の特殊なアイテムの力だ。

「どうしろってんだよ」

 オレにはどうすれば正解かなんて、全くわからない。ストレートが一番と言われても……。

「先輩! 夕食にしましょう!」

 道場の入り口から篠原の声が聞こえる。オレたちが話し込んでいるうちに、ジャガイモの調理が終わったらしい。ちょうど腹も減ったことだし、あのアホピンク頭のことは頭から追い出して、彼女と一緒に料理研究部の部室に向かった。


 + +


 料理研究部の部室は、部員がほとんど女子という事もあってか、綺麗に整理整頓されていた。食べ物を扱う場所なので、当然、衛生面も完璧だ。

 オレと篠原はテーブルを挟んで、向かい合って席に座っている。

「食材がジャガイモとマカロニと、キュウリが冷蔵庫にあったので、ポテトサラダを作ってみました。お口に合うといいんですが」

 ポテトサラダの他には、そのままシンプルに蒸したジャガイモもある。普段から料理の習慣がある篠原の作ったものは、見た目も味も完璧だった。

「うん、美味い。ポテトサラダの隠し味はリンゴか?」

「はい。ちょっと痛んでたんですけど、アクセントにちょうどいいかと思って、入れてみました」

 オレもよく自炊するから、料理の話題はちょうどいい。朝と昼の飯が激マズだったこともあり、オレは箸が止まらない。

 篠原は蒸したジャガイモにバターと塩を振りかけて、じゃがバターにしている。

「篠原はバター乗せる派なのか。オレは塩だけ派だな」

 そう言いながらオレは、味塩の小瓶をジャガイモの上で傾ける。

「意外ですね。あたし、てっきり小金井先輩はバター乗せる派だと思ってました」

「オレは篠原はもっとヘルシー志向だと思ってたよ」

 食事の会話だけでも思ったより弾むものだ、と初めて知った。ある意味では、あのピンク頭も空気を読んだのだろうか?

「そういえば、前から気になってたんだけど、篠原のその髪型って邪魔じゃないのか?」

 オレは前から、篠原のセミロングのストレートの髪を左右から少しづつ取って、中央で纏めた髪型が気になっていた。どう考えても剣道には不向きだ。

「邪魔って……酷いですよ。これはあたしの好きな漫画のキャラクターの真似です」

 剣道一筋のはずの篠原の口から、漫画なんていう単語が飛び出してくるとは思わなかった。そのまま笑って、彼女は続ける。

「少女漫画なんですけどね、主人公が剣道の達人で、お隣の年下の男の子に稽古をつけたりするんです。あたしもそれだけ強くなりたいっていう、願掛けみたいなものですね」

 篠原は照れながらそう答えた。あまりにも単純で、それが素直な篠原らしくて、オレは笑ってしまう。

「そういえばオレも、剣道を始めたきっかけは時代劇だったな。……オレたちって同類なのかもな」

「先輩もあたしのこと、笑えないじゃないですか!」

 オレたちは、互いに剣道の道を歩むきっかけが近かったことを笑いあった。ホカホカのジャガイモは熱すぎたが、それが逆にいい。実に美味い。

 楽しい食事の時間はあっという間に過ぎ、オレと篠原は二人でジャガイモ二キロ相当を完食した。

「あたし、お腹いっぱいです」

「オレも。篠原のアレンジが上手いから、つい食いすぎた」

 いざ食事が終わってしまうと、話題がなくなってしまった。今がチャンスか? オレは篠原の目を見て話しかけた。

「……篠原、お前あんなに頑張ってたのに、なんで剣道やめようなんて言い出したんだ?」

 当り障りなく話しかけたつもりだった。しかし、オレの言い方が悪かったらしく、篠原はくちびるを噛んで下を向いてしまった。

「……それは……」

 もどかしそうに首を振る篠原。沈黙に包まれる室内。いたたまれなくなったオレは「ごめん」と謝り、廊下に出た。外はもちろん、中も真っ暗だ。

「オレも空気読めてないのか?」

 誰に問いかけるでもなく自問自答していると、闇の中から声がした。

「そうですよぅー。ほんっとーに仕方のないひとですねぇー!」

 黒いマントを翻して、やれやれとでもいうように、ケロケロ君を両手で持ったエミリアが姿を現した。

「……オレじゃ篠原を助けられないんだ」

 我ながら情けない声が出た。

 エミリアはそんなオレを一瞬憐れんだかのような目で見た後、急に目つきを変えた。どこかに違和感を覚えつつ、彼女を見る。

「本当に、駄目な奴ね」

 そこにいたのはエミリアであってエミリアではない誰かだった。あのウザい口調はなくなっている。代わりに冷めた目をした、どこか傲慢な表情の女子の姿がそこにはあった。

「篠原さんの気持ちが理解できないわね。こんな男のどこがいいのやら」

「エ、エミリア?」

 エミリアは、明らかにオレを見下した目で睨みつけた。いつもの――といっても昨日出会ったばかりだが――彼女とは顔つきも態度も、何より口調が全然違う。

「わたしの能力を使う時が来たようね。頭を出しなさい」

 何やら合言葉を唱えたかと思うと、その手がオレンジに光った。新種というのはどんな人体構造をしているのだろう。

 オレはただエミリアの言う通りに頭を下げ、彼女の手が頭に触れるよう屈んだ。

「パターンチェック!」

 そうエミリアが呟くと、頭の中に解読できない謎の文字列が無限に広がった。

……なんだこれは!

 溢れだす情報で頭がどうにかなりそうだ。目の前に広がる文字列からは、鋭い痛みを強く感じる。頭が割れそうに痛い。しかし、割れそうな痛みの次にあったのは、心地よい熱だった。

「……終了。あとはあんた次第よ。行きなさい」

 エミリアはオレにそう命令すると、闇の中へと消えていった。

 残されたオレは、熱に導かれるように料理研究部の部室へ向かう。まるで悪夢から醒めたかのような、スッキリとした答えが脳裏に刻まれた、ような気がした。



 オレはいまいち意識がはっきりしないまま、料理研究部の部室へと戻った。篠原は後片付けをしている。

「篠原」

 オレがそう声をかけると、篠原はこちらを振り返った。

「何ですか?」

「一手ご教授してもらいたい」

「え?」

 オレは何か言わされているような気がした。これがまるで自分の意志で言っているのではない……そんな気がする。

「……ご教授なんて。逆にあたしが先輩からご教授してほしいくらいです」

 水が流れっぱなしの水道の音が、今は酷く耳障りだ。

「じゃあオレも洗い物手伝うから、終わったら道場に行こうか」

 よほどオレの勢いは鬼気迫っていたのだろう、彼女はただ「わかりました」と了承した。

「でも、手加減はなしですよ?」

 篠原がそう悪戯っぽく笑うのを、オレは嬉しく思った。笑うという事は、剣道自体を嫌いになったわけではないはずだから。


 + +


 道場に戻ると、やはり一面は真っ暗だった。元々桐芝学園の部活動時間の上限は決められており、夜の八時にはブレーカーが落ちるようになっている。しかし、オレと篠原くらいのレベルになると暗闇でも互いの気配くらいは察せる。

 オレたちは竹刀を構え、三秒カウントで打ち込みを開始した。最初は篠原が面を狙ってきたが、オレはそれをかわすと、彼女の腰に素早く胴を入れる。

「……さすがは小金井先輩です。一筋縄ではいきませんね!」

 篠原の声は弾んでいた。どう考えても、この闘いを楽しんでいる。

「……次、いくぞ」

 今度は胴を狙ってきたが、オレは竹刀でそれをいなす。暗闇でも、オレは夜目が利くので問題ない。またオレが一本入れた。篠原は暗闇の中で悔しそうな顔をしているに違いない。その事は、普段の様子から容易に予想出来た。

 オレは今日の篠原の剣筋に違和感を覚える。いつもは鋭くこちらの隙をつくように打ち込んでくる剣筋が、今日はそんなことがない。まるで別人のようだ。

 そんなことを思っていた次の瞬間、篠原がオレに向かって倒れ込んだ。あまりにもいきなり。

 オレは慌てて篠原の顔色をチェックしようと、明かりを探す。その手を、他でもない篠原が阻む。

「……明かりはやめてください」

 篠原らしからぬ、か細い声だった。オレは仕方なく彼女を道場の床に座らせた。

「やっぱり……小金井先輩には隠し事は出来ませんね」

 篠原は観念したように言った。頑なに退部しようとした理由を話す気になったのだろうか?

「……なぁ篠原、なんで退部なんてしようとしたんだ? お前は誰よりも、真剣に剣道に打ち込んでた。それは剣道部の誰もが知ってる」

 オレは辛抱強く篠原の次の言葉を待った。しばらくして、すすり泣くような声が道場内に響き渡る。実際に彼女の声は泣き声だった。

「……一週間前の事です。目の調子がおかしかったんです。それで病院に行きました。お父さんには心配させたくないので一人で。そこで言われたんです。……若年性緑内障だって」

 オレはそれを聞いて声が出なかった。緑内障といえば目が見えなくなる病気だ。でも確か、それは四十代以上が罹るはず……。

「先生は、おそらくあたしが剣道で面を食らったりすることで、視神経が傷つけられたんだと言ってました。……本当は、今もよく見えないんです」

 それでオレは、あんなにあっさり勝てたわけか、と納得した。

「これ以上剣道を続けたら、完全に見えなくなるかもしれない、って言われたんです。あたしはショックで……悔しくって!」

 オレが篠原と同じ立場になっても、同じ気持ちを抱くだろう。それほどまでに俺たちにとって剣道は大事なモノだったし、彼女にとってはオレ以上に大事なモノだったはずだ。

「先輩……あたし辞めたくないです! もっともっと強くなりたい! いや、強くなりたかった! でも、もう無理なんです……!」

 篠原の悲しみようは、剣道を愛するが故だった。オレはどう励ましていいのかわからずに、ただ篠原を抱きしめた。

「……? 先輩?」

「オレの口からは、とてもじゃないが『やめろ』なんて言えない。けど続けていい、とも言えない。どうして、オレはオレなんだろうな。無力なオレなんだろうな……」

 オレは偽らざる本音を言った。これにはエミリアは関係ないだろう。アイツがオレに何かをしたとしても、オレの本心を操れるはずなどないのだから。

「……やめたくないです! あたし剣道が大好きです! それに、小金井先輩のことも大好きです!」

 さらにきつく抱きしめると、篠原の動きが完全に止まった。彼女の心臓の音がダイレクトに伝わってくる。……胸がドキドキして、苦しいくらいだ。

「……やめなくていい。マネージャーが足りてないんだ。選手がダメなら、マネージャーになればいい」

 我ながら、どこか自分の声ではないような甘い声が出た。これはエミリアのせいか? 

「……マネージャー」

「篠原が部室にいるだけで、元気になれる奴は沢山いる。石橋先輩も斎藤先生も、お前を目標にしてる一年生たちも。……もちろん、オレも」

「……先輩」

 篠原はうるんだ目で俺を見上げると、いきなりくちびるを近づける。驚いて動けないままでいると、自分のくちびるに柔らかさを感じた。……初めての触感だった。

「先輩……あたし、ずっと前から先輩の事が好きでした」

 篠原はそれだけ言って、オレの腕の中で崩れ落ちた。声ははっきりしていた。その閉じられた目元の、まつげの長さについ見とれる。

 って、こんなことをしている場合じゃない!

「おっ、おい篠原? どうしたんだ? 篠原ぁー!」

 オレがしゃがみこんで篠原の顔色を確かめていると、そこにピンク頭、もとい、エミリアが現れた。手にはケロケロ君を携えている。そのケロケロ君から、淡いオレンジの光がはみ出している。

「上手くやりましたねぇー。じゃーんっ! フラグ珠、一つゲットですぅー!」

 エミリアの手には透き通ったオレンジの、大きめのスーパーボールくらいの大きさの珠があった。

「そんなことよりも篠原だ! 救急車! 早く!」

 ぐったりとしている篠原が心配で、オレは慌ててエミリアに指示を出す。が、エミリアは全く言う事を聞かない。

「大丈夫ですよぅー。フラグが立ったばかりの時はぁー、その人間によってはフラグ珠にエネルギーを吸い取られちゃうんでぇーすぅ。篠原佳代子さんはそのせいでしょーねぇ。放っておいても大丈夫ですよぉー。……『亜種あしゅ』でもない限りぃー!」

「でも……」

 そんな説明では到底納得出来ない。オレがなおも食い下がろうとすると、エミリアはたった今出てきたばかりのフラグ珠をオレに見せた。

「はーい、これを持ってみてくださいなぁー!」

 エミリアは有無を言わさずフラグ珠をオレに手渡す。それは見た目の割には重量があり、片手で持つのも一苦労だった。

 しかしこの珠に触れていると、今までの疲れが一気に吹き飛ぶ。全身が軽く、頭もスッキリ冴える。

「これが……フラグ珠の力?」

「はーい。それだけで約一ヶ月分ですねぇー!」

「一ヶ月? たったのそんだけかよ!」

 言いながら、篠原を優しく横たえて大きめのタオルをかけてやる。初めてのキスの相手。しばらくの間は、まともに彼女の目がまともに見られないだろう。

「相手からは想われていたようですけどねぇー。……あっ、好感度九十四! 今まで見てきたひとの中でも最高値ですよぅー! 陽さんが初めて担当する人間ですけどぉー! ……陽さんは相手の事を何とも思ってなかったんでしょー?  だったらこの程度ですぅー!」

 オレはがっくりとうなだれた。確かに篠原との仲は恋愛感情とは無縁だった。ただの、大事な部活の後輩。そう、ただそれだけ。しかし、彼女の気持ち――好意は大切にしようと思う。あくまでも先輩としてだけど。

 

 + +


 それから数日後。結局、篠原は剣道部をやめないでいる。

 元エース選手ということもあり、彼女のマネージャーとしての働きは申し分なかった。選手が怪我をすれば的確な処置を施し、試合の進行具合で誰を出すかを石橋先輩と話し合ったりしている。

 フラグが立ったことで、もっと言えばフラグ珠が出てきたことで、彼女のオレへの想いはすっかり消えているらしい。エミリアがそう言っていたが、詳しいことは話してくれなかった。

それが悲しい事だとは思わない。篠原はきっと吹っ切れて、スッキリした気分で部活に参加しているに違いない。根拠はないけれど、オレはそう思う。晴れ晴れとした彼女の笑顔が、その証拠だ。

 今日も剣道部部室兼道場には、威勢のいい声と竹刀のぶつかり合う音が響き渡っている。

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