第10話 私と雅楽先輩とハプニング

「神様に……なるんですか? 先輩が?」

「負ければね。だから名前は大事なんだって」


 そういえば力のある人が名前を呼んだらなんとかって、先輩は言っていた気がする。そのせいでおかしなあだ名をつけられた私は、なんだかとばっちりを食らった気がする。もちろん、先輩の置かれた状況を思えば仕方ないのかもしれないが、少しくらいは文句も言いたくなってしまうのは許してほしいところだ。


「そのせいで私はのほほん扱いなんですか?」

「こっちの世界では、本名は隠すんだよ。さっきのアウィラだって真名じゃなくて呼び名だ。本当の名前は、本人とつけた人にしかわからないようになってる」

「私たちの世界では関係ないじゃないですか」

「普段から慣れておかないと」


 しれっとそういう雅楽先輩だったが、私は納得いかなかった。


「私がこっちの世界に来たのはたまたまで、ここの世界には向こうの知り合いはいないんだし、向こうの世界でくらいちゃんと名前呼んでほしいです」


 私がそういうと、雅楽先輩はびっくりしたような顔をした。本当にこちらの世界での先輩の方が表情豊かで感情が読みやすい。向こうでのあの淡々とした態度はなんだったのだろう。


「あぁ……うん。善処する」

「絶対ですよ?」


 念押しする私の言葉に、ノックの音がかぶさる。背後で控えめに鳴らされたその音は、アウィラさんがたてたものだった。


「***、*********」

「**……」


 入室してきたアウィラさんが何事かを告げると、先輩はそれに頷きかけた。頷こうとする先輩が、単純な行為であるそれを完遂できなかったのは──ひとえに弾丸のように飛んできたなにかのせいだった。


「!」

「!!」


 ドアに背を向けるように立っていた私ごと雅楽先輩に押しかかったそれのせいで、撥ねられるような衝撃と共に──幸いにも今まで撥ねられたことはないので、あくまでもような・・・であるが──わたしは雅楽先輩に圧し掛かるような形でぶつかった。


「…………」

「…………」

「リト! リト! おかえりぃいっ!」


 背中の上で何かが跳ねている。こんな状況でよくはしゃげるな、というのが第一の感想。

 そして雅楽先輩の目の色は、昔おばあちゃん家で食べたべっこう飴に似ているな、というのが第二の感想だった。

 焦点が合わないほど間近見えるのは、雅楽先輩の飴色の瞳だけだった。多分、先輩からも私の目しか見えていないだろう。

 生まれてこの方、こんな近距離で人の顔を見たことはない。ましてや男性の顔は。そして、まじまじと見るには、この距離は近すぎる。目しか見えない。


「い」


 合わさったそれを浮かせるようにして、私は声を出す。


「の……」

「いやああああああっ!」


 思わずグーパンチが出てしまったことを、責められる謂れはない。乙女のファーストキスは、ハプニングで失っていいものではないはずで、またそれが許されるのは少女漫画くらいだ。私は少女漫画の登場人物ではなく、また頬を染めてそれを受け入れるほどの度量もなかった。


「リト様っ!」

「わああ! リトっ!」


 私の拳は、どうも先輩のみぞおちにクリーンヒットしてしまったようだ。お腹を押さえて床に倒れ込む雅楽先輩に、もふもふハスキーなアウィラさんと、私の背中から転がり落ちた、悲劇の引き金の毛玉が悲鳴を上げた。

 悲鳴を……? ん?


「ええっ!?」

「おまえ! よくもリトをっ! 魔王の手先か!?」


 胸元に引っ付くようにして喚きだした毛玉は、暖かそうな紺色のローブを着たハリネズミだった。背中の針は逆立ってはいるが、着ているローブのせいで私に刺さることはない。ハリネズミのアイデンティティ台無しであるが、当人は気にしていないようだ。

 金色で星をイメージしたっぽい幾何学模様の刺繍がなされているローブをめくりたい気持ちを抑えながら、私は胸元からハリネズミをひっぺがし、掌に載せた。両手に少し余るくらいの大きさのハリネズミは、黒いつぶらな瞳をこちらに向けながら、キィキィと私に向かって怒りをあらわにしている。


「この偉大なる魔法使いセンウィック様が、消し炭にしてくれよう!」

「センウィック殿! おやめください!」


 だが、問題はそこではない。さきほど私はアウィラさんの言葉がわからなかった。アウィラさんと話す先輩の言葉がわからなかった。

 しかし、今はどうだ? 目の前のハリネズミの怒りの言葉はきちんと私の耳に届いているし、おろおろとそれを制止するアウィラさんの言葉も理解できている。


「言葉が……わかる?」

「なにを言っているのだ馬鹿め!」


 ぱちぱちと瞬きをして手の上のハリネズミを見ると、ハリネズミは小さな指を私に突き付けて偉そうに胸を張った。


「のほほん」

「先輩」


 状況が飲み込め切れていない私に、雅楽先輩が声をかけてきた。見ると、バツの悪そうな表情を浮かべた先輩が手を差し伸べてきたので、私はその手にぷりぷり怒ったままのハリネズミを手渡す。


「あの……さ」

「先輩、私、喋れてます? ああ、先輩に聞いてもわからないのか。アウィラさん、私の言葉、通じてますか?」

「あ……はい。先程までのノノ様の言葉はわかりませんでしたが、今のノノ様の言葉なら私でもわかります」


 強面ハスキー犬なアウィラさんは、実直そうな口調で頷いた。

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