第5話 雅楽先輩と白い世界

 なにが起こったのか、まったくわからなかった。真っ白に染まる視界。一瞬にして音がなくなって、雅楽先輩の黒い傘がいやに目に焼き付いた。


「のほほん!」


 先輩の声と共に、皓い光に黒い傘が飲み込まれた。右手に温かい掌の感触を感じた瞬間、私は光に耐え切れずに目を瞑る。


──こんにちは、ウタ。今回はオマケつきね。


 耳元で鈴を振るような華やかな声が聞こえて、私は閉じていた目を開けた。

 そこは、真っ白な世界だった。雪景色とかそういうのではなく、ただただ白いのだ。なにもない、純白の空間。


「カガヒメ様、関係ない人間まで連れてくるのは困ります」


 繋いだ手の先に、雅楽先輩がいた。見たこともない怒りの表情で、先輩は虚空を睨みつけていた。


──いやぁだ、だって、ウタが。


 先輩の怒りに怯えることもなく、雅楽先輩にカガヒメと呼ばれた声の主は、華やかな笑い声をあげた。千の鈴を振るような、けれどもけしてうるさくは感じない不思議な笑い声だった。


「僕は仕方ないですが、彼女は関係ないでしょう! 早く戻してください!」


 苛立ちを隠そうともしないで雅楽先輩は怒鳴る。怒りの表情も怒鳴り声も、普段の雅楽先輩からは考え付かないものだ。


──無・理。もう連れてきちゃったし。ウタ、今回もよろしくね? 月が満ちたらいつも通り扉を用意しまーす。ノドカも、せっかくだから楽しんできて?


 自己紹介をした覚えもないのに、声は私の名を呼んだ。なに? なんなのこれは??

 クエスチョンマークに埋もれていく脳内に困った私は、助けを乞うように隣で威嚇している雅楽先輩を見た。雅楽先輩は声の主もこの状況もわかっている。わかっていないのは、この場の中で私一人だ。

 だが、状況を把握できないうちに、華やかな笑い声を残して声の主は消えたようだった。フェードアウトしていく声に不安を覚えていると、雅楽先輩がぐいと繋いだ手を引いた。


「先輩?」

「ごめん、のどか。きみは守るから、少しだけ付き合って!」

「は?」


 初めて名前を呼ばれた驚きで、雅楽先輩の言葉は意味を把握する前に私の耳を通り抜けて行った。


          ◆


 瞬きすると、一瞬のうちにまわりの風景が変わっていた。

 先程までの白一色の空間ではなく、そこは色鮮やかなステンドグラスに覆われた優美な広間だった。海外の教会みたいなその場所は、広さといい古さといい豪華さといい、どう見ても関東に存在しているとは思えない。


「ここ……どこですか」


 とりあえず私は傍らの雅楽先輩に訊いてみることにした。困ったときの雅楽先輩。調べようもないときは、知ってる人に尋ねるに限る。

 所在地を確認する私に、雅楽先輩はいつも通りの平坦な声音で、どう聞いても日本ではない地名を告げた。


「ディオシアだ」

「ディオ……えぇっ!?」


 ディオシア。それは雅楽先輩の異世界話の舞台である。

 私は黙って自分のほっぺたをつねってみることにした。痛い。痛いが、まだ実感がわかないので、隣の雅楽先輩のほっぺたもつねってみる。


「痛い?」

「痛いに決まってるだろう! のほほん、きみは突然なんなんだ」


 普段通りの雅楽先輩に安堵を覚えつつも、さっき耳にした呼び方が気になってしまう。


「さっき、ちゃんと名前呼んでくれましたよね? のど──」

「ストップ!」


 言いかけた私の口は、雅楽先輩の掌によってふさがれた。地味に痛い。あれか、ほっぺたつねったののお返しなのか。


「ふぇんふぁい」

「のほほん、この世界ではきみの名も僕の名も口にしてはいけない。名前は力を持つ。聞かれてはいけないんだ」


 口をふさがれたまま無理やり喋ろうとすると、真剣な表情の雅楽先輩に釘を刺された。そういえば常日頃そんな話をしていた気もする。


「いいか?」


 確認する雅楽先輩に、首を縦に振ることで意思を伝えると、ようやく手を放してくれた。


「で、なんで私までここにいるんですか?」

「どこから説明すればいいのか……」


 眉を寄せて険しい顔をした雅楽先輩は、少し首を傾げて話し始めた。

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