夜は静寂しじまに満たされている。

 池に張り出した釣り殿の床に座り、大松おおまつは水面に揺れる月を眺めていた。

 先程まで騒がしかった館も今は落ち着きを取り戻し、皆も眠りについている。もし、起きていたなら、このような所に大松はいられなかっただろう。


 桂木かつらぎに山へ連れ出された帰り道、大きな蜘蛛に襲われた。あれが山に棲うと噂されている大蜘蛛だろうか?

 車を引く牛に襲いかかったのを、桂木が切りつけ、足の一本を切り落としたのだ。全く鮮やかな手際だった。大松には彼がいつ太刀を抜いて、どのように振るったのかも分からなかった。あの優男がそこまで腕の立つ人物だったとは。

 大蜘蛛は苦し気に悲鳴をあげ、複数ある瞳で恨めしそうに彼らを睨むと後ずさりながら木立の暗がりへと逃げていった。

 その後、無事に館へ帰りついたものの、妖の気に当てられたのか、大松は体調を崩してしまった。

 理由を知った女房にょぼうや家人が、やれ医者を呼べ、術師が先のと、蜂の巣をつつくような騒ぎになった。特に女房頭の黄梅おうばいは大松が眠りにつくまで枕元で見張っていたくらい、彼の体を心配していた。


「殿さま、いつまでもお若うは無いのですから少しはお体を労りなさいませ。桂木様も桂木様です。そのような恐ろしい山へ連れ出すとは、何をお考えになっているのやら……。あの山の主は執念深いと聞いております。追いかけてきたらどうするのです」


 神経質そうな細面に苦い表情を浮かべて、お小言を並べる。

 黄梅は大松へ仕える最も古い女房だ。

 正確には大松ではなく、嫁いでくるにあたって 常磐ときわが連れてきた女房であった。


 北の方は娘の朝路あさじを産んですぐ亡くなったのだが、黄梅は里に帰らず、朝路のために残ってくれた。

 妻の乳姉妹ちきょうだいは、嫁ぎもせず、それは苦労して赤子の朝路を育ててくれたのだ。

 今は美しかった黒髪も白が勝るようになり、お小言の多いうばになってしまったが。大松はこの口煩い女房を大切にしていた。今やたったひとりの家族なのだ。

 この所、妙に痩せたのが気になる。


 不意に、山寺で見た娘を思い出した。

 他人があれほど似るものだろうか?

 粗末な服をいていたものの、その顔、姿、立ち居振る舞いはまるで朝路そのものだった。


「のお、黄梅や」

「何でございましょう?」

「他人でありながら、鏡写かがみうつしのように似ている者などあり得ようか?」


 大松が呟いた問いかけに、黄梅はわずかに顔色を変えた。だが、直ぐに困った主をたしなめるような表情へと変わりため息をつく。


「それは……この世には似たものが三人いると申しますから、おるやも知れませぬね。されど、そのような理由わけの分からぬことをお考えなさいますな。体調のすぐれぬ時くらい頭を休ませて下さいませ」


 話はこれでお終いとばかりに立ち上がると、黄梅は部屋の隅にある燭台の灯芯を引き短く縮めた。明かりが落ち、部屋の四隅がじわりと闇に沈む。


 部屋を出ようと、黄梅の引いた戸の隙間から、青い月明かりが枕元に差し込む。少し背の高い細身の影法師かげぼうしが浮かび上がった。


「山寺で、朝路そっくりの娘に会うたのよ。そっくりどころではない。まるで娘を見ているようだった」


 退室しようと向けられた背に、大松は構わず話し続ける。廊下に出ようとしていた彼女の足が戸惑うように暫し止まった。次に振り返った時、表情は影になり見えなかったが、長く共にいる大松には、黄梅の雰囲気から、口に出来ぬ何かを含んでいるのを感じた。

 しかし、彼女には珍しく『早くお休みなさいませ』とだけ声を掛けると、それ以上は何も言わずに部屋を後にした。


 黄梅は何を言いたかったのだろうか。

 釣り殿の屋根に薄らと揺れる水影の 洸々こうこうとたゆたう月明かりに撫でられながら物思いに沈む。


 不意に視界の端を光の粒がよぎる。

 見れば、蛍が淡い緑の筋を引いて大松のそばを漂っていた。蛍は彼のまわりを飛び回ると、行きつ戻りつ誘うように廊下を往復する。

 誘いに乗ってみるのも一興と、大松は腰を上げた。すると蛍も待っていたかのように彼を先導して飛んでいく。


 ついた先は、朝路部屋であった。

 すべて片付けるには忍びなく、部屋は生前のまま保たれていた。此処そこに、朝路の暮らした痕跡がまだ残っており、大松はここにいると、まだ娘がいるような気がしてならなかった。

 その部屋へ蛍が入り込み漂っている。娘の魂が蛍に身を移し、大松の悲しみに応えるようにして現れたのかと思ってしまいそうになる。


 蛍の命は一晩限りと聞く。

 このような部屋に漂っていては仲間に出会えまい。大松はその小さな虫に哀れを感じ、外へ逃がしてやろうと近づいた。


「このような所で油を売る暇はあるまい? さぁ、蛍よ。宵は短い。表へ出よ」


 囁きながら蛍を捕まえようと近づくも、ふわふわと飛び回る蛍の動きに翻弄ほんろうされ、捕まえるに至らない。

 そうしている内に、大松は薄暗い室内で几帳の影にあった鏡箱を蹴倒してしまった。重い音とともに蓋が開き、鏡が転がりでる。

 大松は慌てて鏡を拾い上げた。傷のないことを確かめ、ほっと胸をなでおろす。元の箱へ収めようとして文に気がついた。紙の様子から随分と昔のもののようだ。


 朝路のものだろうか。

 隠すように収められていた文である。他のものには読まれたくなかったのだろうか。しかし、先ほど朝路と生き写しの娘を見てしまった今、恋しさが募る。会うのが無理なら、せめて生前の思い出だけでも。


 大松はそのような気持ちに負け、文へ手を伸ばした。


*


 小夜中、黄梅は物音に目を覚ました。

 彼女の部屋からほど近い、朝路の部屋から音がしたのだ。歳のせいか眠りが浅い。このところ悩みが深いせいか尚更眠りが浅かった。それで少しの音にも目を覚ます。

 黄梅は足音を忍ばせて、音の現況を探しに行くことにした。ほかの場所ならいざ知らず、朝路の部屋だ。もはや何一つ失いたくはない。

 大切な思い出の品々だ。


 黄梅は気の強い女人であった。

 それゆえ、おっとりとした北の方を支えるようにと、彼女付きの女房として幼い頃より共にいた。

 体も気も弱い北の方を妹のように守って来た。彼女が亡くなってからは、残された朝路を自分の娘のように育ててきたのだ。

 それなのに。もはや残されたのは空の巣のような屋敷と、同じく打ちひしがれている友が一人。


「殿さま!? このような所でどうしたというのです」


 黄梅がそっと覗いた部屋には大松が座り込んでいた。文を握りしめ、俯いた顔は影になりその表情をうかかい知ることは出来ない。


「殿さま? ……大松さま?」


 体の具合が悪いのだろうか?

 夜更けにこのような場所で……。また、夢でも見たのだろうか?

 朝路が病を得て、露のこぼれるが如くあっさりと亡くなってから、大松は幾度となく夜更けに目を覚まし、この部屋で月を明かしてきた。

 このところ、ようやくそれが減ってきたというのに。黄梅は古き友の背をいたわるように傍へ膝をつく。

 しかし、大松から発せられたのはそれを振り払うような声だった。


「黄梅、わしに隠していることはないか?」


 ただ事ではなさそうなその声色に、黄梅は狼狽えた。更に被せるように大松の掠れた声が続く。


「この文に書かれていることは真か」


 黄梅へ向けられた目は、様々な感情を含んでいた。苛立ちや悲しみそして困惑。


「突然そのように……何事でござりましょうか?」


 黄梅はそれを受け止められずに視線をずらした。

 ひとつ思い当たることがある。されどそれが、なぜ今更大松の耳に入ったのか?

 まさかその手紙に? そんなものが何故朝路の部屋に?


「これは、そなたの筆であろう?」


 差し出された文を受け取り、黄梅は焦った。

 遠い昔、黄梅がとある姥に宛てた文。彼女が生涯口を閉ざし、あの世まで持っていくはずだった秘密の……ここにあるはずの無い文がそこにあった。


「夕凪とは、誰のことだ」


 その名を聞いて黄梅は狼狽えたが、口を固く閉ざしたままそれに耐えた。


「知っているであろう。常磐と共にわしを騙していたのか」


 大松は山寺の娘が誰であったのか、にわかに理解した。あれほど似た娘がいるはずもない。大松は文を読み、ほぼ確信を持って黄梅に対峙していた。

 ただ、その口から聞きたかった。

 今の今まで自分のみが知らされないでいた本当のことを。なぜ、妻と友は自分に打ち明けてくれなかったのかを。


 黄梅は青ざめた顔で床の木目を見つめていたが、ついに意を決したように面をあげた。


「始めに申しておきまする。これは常盤ときわさまも知らぬ事。わたくしと産婆のみが知る事実でございますれば、北の方様に罪はございませぬ」


 久しぶりに聞く妻の名に、大松は肩の力を抜いた。怒りをおさめ、自分の話を聞こうとする主の態度に、黄梅は語り始めた。



 常盤さまが身篭られたのはふたりの姫君でございました。ところがお産のおり。かなりの難産のため、二の姫はお生まれでた時にはもう息が止まっておりました。常磐さまは産後の容態が落ち着かず、危のうございました。気を落とすことを告げては命に関わりそうでしたので、わたくしと産婆は二の姫の事を誰にも告げず、一の姫のみお生まれになったと言うことにしたのです。


 ところが、お弔いをして墓に収めようという時になって、二の姫が息を吹き返したのでございます。


 わたくしたちは迷いました。

 今さらもう御一方産まれていたなどと言えない状況になっていたからです。そこでわたくしは、お子がお生まれになった時にと、大松さまが考えていた名前の中から《夕凪》の名を頂戴して二の姫に名付け、産婆の親戚の者へ託したのでございます。


「浅はかでございました。あの時申して居ればこのような事にはならなかったものを……」


 一度口を開けば、本当は聞いて欲しかったのだろう。身を細らせるほど悩んでいた気がかりを喋り出した。

 夕凪のその後が気になり、陰ながら見守っていたのだが、里が飢饉に見舞われ、二の姫が行方しれずになってしまったこと。その後、方々探しまわっていたこと。大松から聞いた姫が夕凪であるとすぐに分かったこと。


「いかような罰もお受け致します」


 黄梅はすっかり話し終わると、肩の荷を下ろしたのか力の抜けたように頭を下げた。


 確かにあの時、姫の誕生と常磐の容態とで屋敷は騒がしく、大松を含む家のものは気が立っていた。まだ若い娘であった黄梅は、手に余る問題で孤独に悩んだのかもしれない。


 常磐が産後の肥立ちが悪く、そのまま亡くなったことによって、二の姫のことは更に深く秘されていったのだろう。


「そうであったか……。知らぬ間に苦労かけたな」


 黄梅は袖で顔を覆い絞るように鳴き声をあげた。

 その肩をいたわるように撫でさする。


「しかし、喜べ黄梅よ。あの山寺の姫は夕凪に違いない。常磐と朝路が巡り合わせてくれたのよ」


 そうとしか思えなかった。

 蛍川の縁で、妻と娘が妹を安じていたに違いない。蛍が文の在処を教えてくれたのだから。


「さぁ、姫を迎えに行こうではないか。愚かな父を許してくれるなら共に暮らしたい。姫に必要なものを見立ててくれるか?」


『はい』と、赤く腫れた目を黄梅は綻ばせた。


 あいに浸されたような宵闇の中、丸く切り取られた手燭てしょくの明かりの下、安堵の涙にくれるおきなおうなの話に聞き入っている者がいた。


 気配もなく、屋根の縁から下を伺っていた鬼は、翁を引き裂こうとしていた爪を納め、屋根伝いに姿を消した。


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