訪ね来るもの

 望月より二日ほど早い、ふくらとした月がかる。その白々しらじらと明るい光は、黒く連なる山々の輪郭りんかくをなぞり、わずかに明るい空と、宵に沈む大地とをへだてていた。その頂より少し上を、帯のようにかすれた雲が影のように長く棚引たなびいている。山裾を埋めて広がる竹林たけばやしが、少し強めの風に波打ち、遠く葉擦はずれの音を潮騒しおさいのように響かせていた。


 その笹葉ささはのあいだを舞うように一人の鬼がけ抜けていく。


 忙しなく騒めく笹葉をかき分け、風の音に耳を塞がれながら、由羅ゆらは先ほど寺で見たことを反芻はんすうしていた。


 陽が西に傾こうという頃。

 由羅は珍しく、明るい内から寺にいた。高い天井のはりに寝そべり、よしが裏庭でほうきあやつる音へぼんやりと耳を傾ける。


 ひとりが当たり前であった。

 ねぐらで聞くものといえば、獣のたてる小さな音や、風の流れる気配の他なかったと言うのに。

 この所、家の中で物音がしていないと落ち着かない気持ちにさせられた。

 不思議なものだと苦笑する。

 人を避け、この荒れ寺へ住み着いたというのに、今ではその気配がないと落ち着かないとは。

 その後、不意に笑が消える。

 美のたてる物音へ慣れたように、いつかこの音が消えたとして。おのれは慣れたりするのだろうか。何も無かったかのように。


 遠く気配がして身を起こす。

 このところある種の飢えを抱えることが常となっている鬼は、感覚が異様に鋭くなっていた。今も以前ならそれほど気にも留めなかったわずかな人の気配に渇きを覚え意識を向ける。


 明らかによしの気配ではない。

 彼女と言えば相も変わらず降り積もる笹葉を片付けているらしい。どのように片付けようとも山の中、木の葉は毎日のように落ちるのだからきりがない。そう思うのだが彼女はそれを良しとしないようだ。

 箒を操り、近づいてくる気配に気づく様子もない。一定ので響く砂を掻くような音がそれを示していた。


 山門よりそっと近づいてくる気配に、由羅はその身を影へ溶かすようにしてようすを窺いに行く。物陰へ身を隠しながら現れたのは、見知らぬ二人の男だった。

 一人は翁、もう一人は……人ならざるものだった。どちらもよい身なりをしており、着こなしから野盗のたぐいには見えない。声を掛けるでもなく、庭を掃き清めている美を覗っている。


 妙なやつらが現れたものだ。

 裕福そうな者が賊を働くとも思えない。さりとて、迷った者が道を尋ねることもなく、見つけた人をただ眺めているというのもおかしい。それに、妖が共にいるというのも気になる。

 何をしに来たのやら。


 まさか、都の術師だろうか?

 ごく稀に人の中にも妖を殺す者がいる。由羅はまだ会ったことはないのだが、柘榴の古木に棲う呉公がそんな事を言っていた。

 緊張が漂う。


 由羅は二人の目的を知ろうと、漏れ聞こえてくる会話に耳をそばだてた。囁くように交わされる言葉から、彼らの訪ねた相手が由羅ではなく、美だと知って驚いた。


 美の仲間だろうか?


 だが、美の家族なかまはいつぞやかの弟を最後にいなくなったはず。あの娘の性格を考えると、隠しているとは思えないのだが。


 殺そう。

 そう思っていたのだが、迷いが生じた。

 もし、彼女の仲間で、それを由羅が殺したとしたら。美は何を思うだろうか?

 彼の脳裏に、弟のむくろを抱え、うつろな目をしていた美の姿がよみがえる。


「どなたかいらっしゃいますか?」


 突然、美が顔をあげた。

 感の良い娘である。人の気配に気が付いたようだ。

 あまり良くない目で遠くを見ようと視界をさ迷わせている。


「由羅さまですか?」


 こんな状況にも関わらず、己の名が最初に呼ばれたことへ内心笑が浮かぶ。

 その時、見知らぬ男のうち年老いた方が身を隠していた物陰から姿を現そうとわずかに動いた。その顔に何とも言えぬいつくしみと、深い悲しみが滲む。だが、もう一人の男が彼を止めた。


 その刹那せつな、鳥が鋭く鳴いて飛び立った。


 鳥へ視線が吸い寄せられる。

 つかの間、場にいる全ての者の動きが止まった。

 物陰に隠れる人も、箒を手に立ち尽くす少女も、暗がりに潜む鬼さえも。


 張り詰めた間が空き、静寂がそれを穏やかに埋める。最初に、辺りを窺うよう固まっていた少女が、緊張を解いて細く息を吐き出した。

 それから自分の勘違いを恥じるように微笑みを浮かべ、庭仕事の道具を手早くまとめると立ち去った。ふたりの男は声もなくそれを見送ると、静かに来た道を引き返していく。後ろ髪引かれるように、何度も振り返る翁の寂しげな目が何か言いたげに見えた。


 そこに来てようやく、由羅はゆるゆると息を吐きだした。我知らず息を詰めていたらしい。


 もし、あの男のどちらかが美の呼びかけに応えていたら?

 美を……連れていこうとしたら?


 上手く言い表せぬ不愉快な心持ちが彼を緊張させたのだ。


 きっと、縄張りを荒らされたからだ。

 獲物を横取りされそうになったからに違いない。

 そう納得しようとしたのだが、落ち着かない。それだけではない感情があったことを、由羅は無意識のうちかき消そうとしていた。


 胸のうちを焦がすような苛立ちと。

 何とも言えない。空虚な寂しさのような……。


 由羅は立ち去る二人を殺せなかった。

 人に塒を知られた以上、殺さなければならない。なわばりに断りもなく足を踏み入れた妖を許すわけにはいかない。

 それは長らく由羅が守ってきた約束事であり、それ故に他の妖にも恐れられ、この山に居を許されてきた。甘い顔を見せれば、他に取って代わられる。分かっている。それなのに。

 なぜか……美の目が触れるところでそれをしたくなかった。


 己が鬼だということを美は知っている。

 だが、少女は本当の意味で鬼を見たわけではない。目の前で人を引き裂いて喰らう由羅を見て、美はいつぞやかのように恐れずにいられるだろうか。

 ましてや、それが仲間だとしたら。


 無理に決まっている。


 それでも彼らを見逃すわけにはいかない。

 山を離れたのを見計らい、由羅は彼等を追っていた。たぶん都の者だろう。


 竹林へ徐々に木が混じるようになり、やがてまっすぐに伸びる幹ばかり目立つ暗い森へと変わって行った。大岩が転がる以外、下草も生えぬガランとした暗がりを由羅は苦もなく駆け抜けていく。


『小鬼や』


 不意に声をかけられる。

 急ぎの時に呼び止められ、内心舌打ちしたが、相手が誰と分かって足を止める。如何いかに名の知れた鬼であっても、素通りしていい相手ではなかったからだ。

 柱のような杉の幹が並ぶ中、隙間の暗がりに挟まれるようにしてほっそりとした女人が立っている。長い絹のような垂らし髪をまとめ、裾に艶やかな模様の入った黒い裲襠うちかけという、山には似合わない姿をしていた。

 一重の涼し気な面は白く、紅を指した口元がより赤く見えた。その傍らに、いつぞやか廃れた里で由羅と共にいた女童が二人、女に手を引かれるようにして寄り添っている。


「いつぞやは娘が世話になりました。礼を言います」


 たおやかに笑を浮かべる。

 このような山中にいるよりは、大きな城の奥にいて、たくさんの女房にかしづかれていた方が似合いそうな女人だ。

 しかし、姿こそ人のそれだが、実際は『山の御前』と呼ばれるこの辺りでは古くから知られる妖のひとりだ。

 由羅を『小鬼』と呼べる数少ない相手でもある。


「このような所で会うとは驚いた」


 普段は滝の傍にある廃城から動かない妖が、森の中を歩いていることに驚いていると、山の御前は不機嫌そうに柳眉をついと上げた。


「娘を虐めた不届き者に、糸を引かせているところです」


 山の御前の子蜘蛛に手を出したのだろう。

 なんと馬鹿なことをしたものか。

 苛められた子蜘蛛は、自分をいじめた者に糸を付ける。その糸の行き先を追って姉蜘蛛が仇をうちに行くのだ。

 山の御前に目を付けられて無事で済むはずがない。同情さえ覚えた。


「カアサマ、トマッタヨ」

「ウチラ イクネ」


 御前の傍らにいた娘のひとりが袖を引く。

 由羅は嫌な予感がしてそれを止めた。


「待ってくれ。そいつはどんな奴だった?」


 ふたりの女童はお互い目を合わせたあと、由羅へ向き直り口を開く。

 彼女達 いわく、牛車に乗った2人の男で、妹が牛を見知らぬ妖に切られたのだそうな。


「ここは妾の土地。他の妖に口を挟まれるいわれはない」


 娘を傷付けられ、しかもその相手が妖だったという事が、山の御前をことさら不機嫌にさせているようだ。逆鱗に触れたのは、由羅の追っているふたりの内妖の方らしい。牛だけで済むなら放っておけばよかったものを。


「すまないが、人間は俺に譲ってくれ」


 突然の申し出に、山の御前が子首をかしげた。相手の糸を探るように由羅を見つめている。


「俺が先に見つけた獲物だ」


 少し気に入らなそうに眉を潜める母に傍らにいたもう一人の子蜘蛛が袖を引く。


「ユラサマ、イツモ ウチラヲ テツダッテクレル オカエシ」

「ワルイノハ アヤカシ」


 いつも獲物を譲ってくれる由羅の頼みだ。

 妹を傷つけた妖さえ殺せればいいのであって、人間は由羅へあげてもいいのではないか?

 そんなことを母に頼んでいるようだ。


 特に親切にしたつもりは無い。

 由羅にして見れば己よりも古くからいる大妖にご機嫌伺いをしたに過ぎない。無駄な争いは避けるに越したことはないのだ。

 それでも、子蜘蛛の娘は恩義に感じていたようだ。


 左右の袖を引かれ、御前は子等の我儘をたしなめるような顔をしてはいるものの、気持ちは遠に傾いているようだ。

 可愛がっている娘の頼みに甘い顔を見せる。


「困った子だこと。けれど、そうね。人が娘を虐めたわけでは無いですから。お前達が小鬼へお返しをしたいなら、そうなさい」


 娘たちは喜んで母の腕にすがり、頬を寄せながらどうだとばかり由羅を見た。自分たちが母にとって特別なのだと自慢しているようだ。


 人を食べ、不届きな妖を殺し、古くから恐れられている山の御前にも大切にしているものはあった。彼女が迎え入れ喰らってきた夫の無数の髑髏しゃれこうべ。それと、同じく数多にいる娘達だった。

 大半の娘は力の弱いうちに命を落とす。弱肉強食の世界では大妖の子も例外にはならない。どんなに子育んでも手元に残るのは一人か二人。

 この双子は今一番古い御前の子供たちだった。


 どれほどたくさんいても、彼女はその一人ひとりを覚えており、同じく愛していた。


『コノイト タグルトイイヨ』


 子蜘蛛のうちの一人が、由羅へ透き通った糸を手渡した。糸は月の光を受け、見え隠れしながら暗闇の向こうへと続いている。


「恩に着る。この借りは返すからな」


由羅に礼をいわれ、娘は俯いて指を遊ばせる。

もぐもぐと『イイヨイイヨ』と呟く娘の頭を撫でた。それを眩しいものでも眺めるようにしていた山の御前に、由羅は目礼をして糸を頼りに先を急いだ。

その後ろ姿をぼんやりと見送る姉妹を、もう一つの糸を握る娘が肘で急かす。


「ユイ、ウチラハコッチ」


 名を呼ばれ、由羅へ糸を手渡した娘がはっと我に返る。


「マッテヨ。 ササ」


 ユイは由羅が去った方へ小さく手を振り、もう一度母の腕を抱きしめた後、すでに歩き出している姉妹のササを小走りに追いかけた。


ゆいささ。手に余るようなら無理はしないで戻っておいで。母がなんとでもいたしますからね」


 まるで遊びにでも出かけるような様子で走り出す娘を、山の御前は心配そうに送り出した。そんな親蜘蛛の心配などよそに、姉妹は手を振りながら闇へ消えた。



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