夕凪という姫
炉端で火色が揺らめいている。
たとえ由良がいたとしても、気配を殺すことが癖になっている彼のこと。
居ても居なくても美には分からない。だから静かなのはいつもの事のはずだ。なのに、美は由羅がいないと思うだけでいつもより寂しいと感じてしまう。
風邪を引いているせいかもしれない。
咳をするも、労りの声をかける父も居なければ、背をさすってくれる母もいない。人恋しさに胸のうちが冷えるようだった。
ふと気が付けば、美は大きなしだれ桜の下にいた。
突然唐突に現れた風景に、美は内心ため息をつく。
--また、この夢だ。
由羅と祭に行ってからと言うもの、毎晩のように同じ夢を見るようになっていた。この桜の木の下にいるということは、美は囲炉裏の傍で寝てしまったに違いない。由羅が帰って来たらまた叱られる。
早く目を覚ませるように、腰をかけていた庭石から立ち上がった。庭の外れの門まで行けば、この夢から出られる筈だ。幾度となく見ている夢だけに、どこで夢が終わるのか分かっている。
しかし、今宵は違った。
いつも黒塗りの
「夕凪」
「朝路姫さま」
「朝路で構いません。姉妹なのですから」
見覚えはない。でも、この夢路の姫は自らを美の姉だという。
衣の煌びやかさや雅な雰囲気の差はあれど、顔や姿は瓜二つ。全くの他人と否定するには似すぎていた。
それでも、美はこの姫を姉と呼ぶにははばかられた。
「今宵は夕凪に、
突然姉妹と名乗られても、夕凪は急には受け入れられないのでしょうから。そう言って、美へ隣へ座るように促す。
「でも」
早く目を覚まさなければ、由羅が帰ってきてしまう。
そわそわと門の方へ目を走らせる美を引き留めるように姫は言った。
「どうか。私を夫のもとへ帰らせてください」
帰りたいのだ。でも、ひとりの力では帰ることができないのだと、悲しげな眼で訴える姫を、美は置いて行くことができなかった。
もう、すっかり見慣れた夢である。だが、姫から頼みごとをされるのは初めてだ。何度も同じ夢を繰り返すのは、何か理由があるのだろうとは察していたが、そこまで繰り返し夢路に現れてまで美に頼みたいこととは何であろう?
「姫さまの助けになれるかどうか分かりませんが、夢路であった縁です。お話だけでもお聞かせくださいますか?」
もとより心根の優しい娘である。
美は姫が悲そうな顔をするのを放ってはおけなかった。
姫が語りだした話は、まるで御伽草子のようなものだった。
遠い昔、大陸より飛来した一組の妖がいた。
夫婦であったその妖は、この地で穏やかに互いを慈しんで暮らそうと山間の隠れ谷に屋を構え、夫の宿る桜の根元へ妻の本体である砡を埋めた。長く沈黙の年を越え、ようやくその地へ根付くことができた。
稀に迷い込んだ人間に、谷の事を黙っている代わりに福を授けることはあったものの。それ以外は交流もなく、静かで幸せな日々を送っていた。
しかしある時、福を授けたものの中に強欲に目をくらませたものがいた。術者を連れ、夫が留守の隙に妻の砡を持ち出してしまう。夫が気付いて取り戻しに行った時にはすでに遅し、術者が砡へ
付喪神から発生した妻は身を損ねて死んでしまった。夫は嘆き悲しみ、かかわった人間を一人残らず根絶やしにした。それでも悲しみは癒えない。
苦しみもがき、土地を毒していると、山神が夫を諭しにやってきた。
そなたの妻はいずれ戻って来る。絆の強いそなた達だ。
妻の姿が変わっても見つけることは出来よう。
夫は待った。傷ついた妻の砡を本体の桜の下、抱き締めるように抱えて癒える日を待ちながら。
「私は人に生まれ変わり、夫の元へ帰るのです。そこで僅かな時を過ごし、寿命を迎えては、また生まれ変わって戻ってきます。なんども何度も。私の骸は夫の桜の根本に弔われます。そうして私は、再び妖へ生まれ変わる日を待っているのです」
朝路姫は愛おしげに桜の大木を振り返る。
「此処へ帰れない時もありました。気づきもせずに人として生を終えることも……。それでもこの人は私を待ち、私は来世でこの人を思い出す。次こそは共にいられると信じながら」
だが、記憶を持ったまま何度も転生するうちに、本来生まれ変わるべきであった人としての生が行き場を失い、澱がたまっていくように少しづつ積もっていった。そして、それはある時双子の妹として姿を現す。
「夕凪、貴女です」
独りになったと思っていた。
弟を失ったあの日から。
疑いはまだある。でも、向かい合う顔が、声が、他人ではない。
突然、目の前の朝路が、身を庇うように衣の裾に顔を隠し、桜の元へ逃げるように下がって消えた。
花びらの舞う虚空に溶けて消えゆく姫へ、美は呼び止めるように手を伸ばした。と、水面に触れたように景色が揺らいだ。
「おい。ここで寝るなと言うに」
強く揺さぶるような声に美は目を開けた。
いつの間にか寺の天井を見上げており、すぐ近くから覗き込むように由羅の顔があった。夢から目覚めたのだ。
眠っている間に帰ってきたのだろう。
少し不機嫌な由羅に、美は姫抱きに抱え上げられていた。奥の美の部屋へ連れていく所だったのかも知れない。由羅は襖を開けようとして、ふと、何かに気がついたように動きを止めた。抱き上げている美の額に頬を寄せる。
「お前、妙に熱くないか?」
「大丈夫です。な、何でもありません」
驚いて急に喋ったため咳き込む。
それを見て由羅は顔を顰めた。
「あんなところで寝るからだ」
「自分で歩けますからおろしてください」
部屋に入ると由羅は美を下した。しかし、立ち去ろうとしない。
美は自分が布団に入るまで見ているつもりなのかと思い。早々に布団へもぐりこんだ。先ほど抱き上げられたせいで赤くなった顔を布団をかぶり隠した。そうしながら、美は一人になりたくない寂しさと、気恥ずかしさから由羅に立ち去ってほしい気持ちの間で揺らぐ。
静かな時が過ぎ、美はもう由羅は立ち去ったものと思い。布団から顔を出した。襖の方を向くと、薄暗い部屋のなかで一対の眼が青く光っている。恐ろしさのあまり肩を震わせるとその影が呆れたような声を出す。
「まだ眠らないのか。とっとと寝ろ」
由羅だった。美の包まる布団の横で寝そべってこちらを見ていたのだ。
少女が再び布団の中へ顔をうずめるのを見届けると、ごろりと背を向けた。そっと布団より顔を出しようすを窺う。由羅はこのまま一緒の部屋で眠るつもりだろうか?
「……由羅さま。由羅さま」
声をかけてみるも返事はない。
そっと起き上がり、由羅の横顔を覗く。目は光ってない。瞑っているのだろう。美は上掛けを一枚取ると由羅の上にかけて布団に戻った。誰かの寝息が聞こえることが、これほど寂しさを紛らわせてくれるとは思わなかった。美は鬼の傍らで寝ていることも忘れて穏やかに眠った。
少女が規則的な寝息を立て始めたころ。
鬼の
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