三ヶ峰の青鬼

 青楓が四方に枝を伸ばす森のなか。

 由羅はひときわ太い枝の上で、己の気配が木々に馴染むまで身を伏せていた。眼下には踏みしめられて自然にできた獣道が通っている。

 獣を狩る時は追いかけ回すより、現れやすい場所で待ち伏せた方が効率がいい。それに風の強いこのような日は狩りが楽だ。風の音が由羅の気配をたやすく消してくれる。


 獲物が現れるのを木の上で待ちながら、不意に美の顔が頭に浮かんだ。


 あの祭りの日以来、美がどこか虚ろなようすだ。いつも通りに暮らしてはいるが、ふとした時、物思いに沈むのである。


 それが妙に気になった。


 人の世に出て里心が呼び覚まされたのだろうか。

 思えば美は人里で多くの者に囲まれながら育ってきたのだ。あのように寂れた寺で一人過ごすのは辛いのかもしれない。


 人の世に返すべきであろうか。


 不意に頭をもたげた考えに自身驚いた。

 己の害になりうるものを逃がしてどうする?


 人は鬼を狩る。本来は殺るか殺られるかの間柄だ。

 鬼がいると知れれば兵を差し向けてくるだろう。鬼と共にいたと知れれば、本人が好むと好まざると、美も巻き込まれるに違いない。『手放すくらいなら殺すべきだ』と、鬼の本能が警鐘を鳴らす。

 にも関わらず、そうしたくないと思う己がいた。


 心の内を表すかのように、風に乱された青葉がざわざわと葉擦れの音をたてる。


 その時、木陰の揺れる獣道を、たった今鹿が辺りを警戒しながら辿ってきた。立派な角を持つ、背の白い班が美しい雄鹿だ。はぐれたのだろうか、たった一匹しかいない。



 物思いに耽っていても気配は分かる。

 枝の真下を通りがかった刹那、由羅はその背に飛びかかった。角をつかみ、鹿が声をあげる間も与えずに首を捻った。鈍く嫌な音が響き、それきり動かなくなる。


 由羅は鹿を肩に担ぎ上げると沢へ降りた。半分はそのままむさぼり食い、もう半分は皮を剥いで捨てておいた。そのうち臭いをたどり、狼か山猫が思いもよらない馳走にありつくだろう。

 美に持って帰っても良いのだが、あの娘は肉を余り好まなかった。代わりに魚を捕まえておく。


三ヶ峰サンガミネの青鬼が人を食べなくなったと言うのは本当だったのかねぇ?」


 鹿の流した鮮血が沢の流れに運ばれ渦を巻く、深い淵の畔に木こり姿の男が一人立っていた。塗り潰されたように白目のない瞳で由良を見つめている。『いい匂いだ』と鼻をひくつかせた。


東沼トウヌマウシオニがこの山に何のようだ」


 口許の鮮血を袖でぬぐい牛鬼に向き直る。

 拭いきれていない血が由羅の白い頬に紅い線を残していた。


桜屋サクラヤの主が近々嫁をめとるらしい」


《桜屋の主》とはこの辺りに出没する妖化しで、数年に一度美しい人間の娘を娶ることで知られる変わり者だ。


 妻に迎えてもただの人。

 妖化しからすれば瞬きほどの短い寿命である。先立たれるのは分かりきった事であるのに、それを知りつつ人の女を妻に迎えるのだ。



 かつての由羅なら愚かだと鼻で笑っただろう。

 だが今は笑えなかった。


「この前は立ち消えになったではないか」

「娘の代わりが見つかったらしい」

「ほう」


 数年前、婚礼に招待されたが、嫁になる娘が病死したとかで取り消されていた。


 娘を差し出した家は繁栄する。

 桜の館に住む妖化しは、娘を引き換えに幸運をもたらすと言われているからだ。だから娶る女に困ることは無い。化け物の妻にされると知りながらも娘を嫁がせるものは意外と多いのだ。


 己の繁栄の為ならば犠牲も厭わない。

 全くもって人の業とは恐ろしいものだ。


「ぬしも招かれておるよ」

「相分かった」


 婚礼の宴は盛大に行われ、辺りに棲う妖化しを招くのだ。由羅も何度か招かれたことがある。嫁いでくる娘の心中を察すれば気の毒なことだが、婚礼の宴はこの界隈では祭りのようなものだ。しばらくはこの話題で持ちきりになることだろう。


「おい、由羅どの」

「何だ」

「酔興も大概にせぬと他の者に舐められるぞ」


 妖化し達の力の均衡など獣と同じ、力があるか、無いかの一言に尽きる。弱れば下の者に取って代わられる世界だ。人を狩らずに妖力が落ちれば身を滅ぼすことになる。


「これしきで弱るとでも? 戯れに付き合えと言うならいつでも歓迎するぞ」


 言葉は穏やかであっても、放つ妖気は尋常ならざるものだった。あらゆる影が色を増し、木々が彼の存在を畏怖するように震え葉擦れの音をたてる。ほんの一瞬で引っ込められた不穏な空気に、牛鬼は『おっかねぇ』と肩を竦めて口の端に笑みを湛えた。


「ぬしのお遊びを邪魔するつもりは無いよ。まぁ、思い違いでぬしに手を出すやつには同情するがね」


『しかと、言伝てしたぞ』牛鬼は楽しげにそう言うと、淵の水にとけるように姿を消した。


 由羅は牛鬼を見送りそのまましばらく揺れる水面を眺めるともなしに見つめていた。


 人の娘を妖化しが嫁にもらう。

 そんなことが出来るのか?


 されど、桜屋の主はもう何度も嫁をもらっている。

 たとえ先立たれるとしても、寿命までの間、妻となった娘は幸せに過ごすことは出来るのだろうか。


 娘は一生怯えて過ごすことになるのではないか?

 先立たれ残される者に虚しさはないのか?


「詮無いことを」


 己は何を考えている?


 ため息と共に独り語散た。

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