蛍川
色とりどりの提燈が揺れる通りを、人混みに流されながら美は由良の背を追いかけている。由羅に手を引かれ、美は生まれて初めて都の祭りを見物していた。
あまりの人の多さに圧倒され、売り子の声に心を奪われてはこけつまろびつ歩みの遅い美を見かね、普段そんなことはしない由羅が手を貸してくれたのである。
元は何のための祭りであったかは知らない。
されど毎年この時期に、蛍狩りと称して夕涼みが行われていた。人が集まれば市が立ち、市がたてばさらに人が集まる。そうして年々賑々しく、川沿いの通りが華やぐのである。
「楽しいか?」
人に化け、顔を隠すように面をつけた由羅が半歩後ろを歩く美に尋ねる。人の波にもまれつつも、美は嬉しそうに顔を上気させていた。由羅を見上げた瞳に美しい明りを写して頷いている。
*
「お前。祭りを見たことはあるか?」
どういう風の吹き回しか。
昼過ぎにふらりと現れた由羅が、美にそんなことを聞いてきた。
「村の祭りであれば知っておりますよ」
「都へ行ったことはあるか?」
いいえ。と美が首を横に振る。
都はおろか隣の村へも出掛けたことはない。
「今宵、連れて行ってやる」
一方的に告げると、またふらりといなくなった。美は半信半疑に首をかしげつつも、日常の雑用を早めに終わらせて宵を待つ。
いつもより早い月の出のころ、由羅は姿を現して、美に雅な着物を渡した。平素からきている着物では祭りに行けぬと、衣を変えるように言われた。彼女によく似合う月草色の晴れ着に袖を通し由羅の許へ戻ると、彼は何も言わずにしばらくじっと彼女の姿をながめていた。
「似合いませんか?」
「遅い」
それほど手間取った覚えはない。されど由羅の不興を買ったと思い美は幾度も誤った。怒るでもなく少々ばつの悪いようすを見せた由羅は、彼女を傍らに招くと黒雲を呼び寄せた。
美は衣をまとった自分の姿の感想を由羅に聞いてみたかったのだが、彼はついにそれを言うことはなかった。由羅の腰に手を回し、夜空を横切るあいだ美は落ちぬようにしがみ付いていた。うれしいような、恥ずかしいような気持になり、美は顔を上げることが出来なかった。
ただ一度だけ、由羅が彼女の髪を撫でた。
落ち着かせるためだったのか。他の意味合いを含んでいたのかは分からない。それでも胸が高鳴ったのは隠しようもなかった。
祭りの明かりから少し離れた宵闇の河原に降り立つと、由羅は人へと姿を変えた。少し背が低くなり、角や長い爪が消え、髪が短くなった。一回りほど縮んだ姿は見目麗しい白拍子のようだ。
祭りの人混みに入った途端、すれ違うものが振り返る。
通りに威勢の良い声をかけていた物売りさえ、暫し呆けたように口を噤んだ。そんな由羅の前にはほんの少し道が開ける。
だが、美はそうもいかぬ。徐々に後れを取って由羅の背中に追いつこうともがいていると、振り返った彼が手を差し伸べた。
「遅い」
手をつかみ、人の流れに呑まれそうになっている美を助け出す。然り気無く自分の後ろへ引き寄せてその背にかばう。
難もなく人込みより救い出されてほっとしたと同時に、由羅の示した優しさに美はほほを染めた。いつだってこの男は彼女に無関心を装いつつも、大切なときにはいつも見ていてくれた。
鬼だと知ったときは驚いた。
でも、角があるというだけで、こんなに優しい鬼がどこにいるのだろうか。姿こそ異形ではあるが、これほど親切で頼もしい
彼が許す限りそばにいよう。
あの雨の降る夜にそう決心したのだ。
人の波を離れ、河原に広がる芒野原のふちまでやってきた。
さらさらと風になびく細い葉の波間に緑色の光のすじを引きながら蛍が多く飛び交っている。その仄かな明かりに照らされて美の横顔が暗がりに浮かび上がっては消えた。
「少しここにて待て」
由羅の声に振り向くも、既に姿はなかった。
美の返事も待たずに行ってしまったが、待てと言われたのだ。美は視線を光の波にもどして彼が戻ってくるまで、その光景を楽しむことにした。
蛍の輝きは美にもよく見えた。
弓張り月の傾きが山入端にかかる頃。美は寒さを感じて身を縮めた。由羅はまだ帰らない。どうしたと言うのだろう。これ程待たされるなど。
不意に心細くなり辺りを見渡すも、暗闇に葉擦れの音が聞こえるのみで気配はない。
「由羅さま。由羅さま」
「そこに誰かいるのか?」
耳慣れぬ男の声に思わず押し黙る。
茅を掻き分け現れた男は上等な着物に身を包み、凝った細工の丸い虫かごを手にして美を見つめていた。
「朝路さま!」
男は美の顔を見るなり、そう声をあげた。
「あぁ。彼岸から戻ってきてくださったのですね」
明らかに人違いをしているらしい男を美は怖いと思った。優し気な微笑みをたたえてはいるが、その目奥は狂喜に輝いていた。傍へ来ようと前へ出る彼に会わせて後ずさる。その怯えた様子を見て男は悲しみに表情を歪めた。
「よもやお約束を忘れてしまったのですか?」
更に近よってきた青年に美は驚いて、踵を返すと
細長く硬い葉がまるで刃のように彼女の手足に浅い掻き傷を刻んでいったが、美は一向に止まる気配が無かった。
怖い。
「お待ちください! 朝路さま! 朝路さま!」
藪の影に座り込み息を殺す。その間にも背後よりあの見知らぬ男の声が近づいてくる。草をかき分ける音が途絶えたあたりだと、男が足を止めてようすを伺っている。その気配を感じて美はさらに身を縮めた。
胸元から下がる笛が紅玉に光を受けて濡れたように煌いている。
そうだ。これを吹いたら由羅が来てくれる。しかし、吹けば確実に見つかってしまう。美はお守りのように笛を握りしめどうするべきか迷っていた。
見つかってしまう。そう気持ちが焦れてきたころ。一陣の風が吹き渡り何か小さな生き物が美の傍より走り出て遠ざかって行った。それを彼女と見間違えたようだ。それを追って男も遠ざかる。
ほっと息をついたのもつかの間、目の前の藪が払われて身を固くする。
「美ではないか。待てといったのに何故このようなところで隠れている?」
由羅へ思わず抱き付いてしまった。不意を突かれた由羅は、美を抱きとめてそのまま尻餅をつく。
「どうした? 獣にでも追われたのか?」
何時もの彼女らしくない行動に驚きつつも、しがみ付いてくる美の背をなでる。
「大丈夫だ。何もおらん。怖いものなどないぞ」
まるで幼子に話しかけるように、繰り返し声をかけた。その穏やかな声色に美は徐々に落ち着きを取り戻して顔を上げる。
「申し訳ありません。独りが少し恐ろしくなりました」
あの男のことを話した方が良かったろうか?
でも、もし由羅が猪のときのように男を扱ったりしたら。それも恐ろしかった。
「もう帰りとうございます」
「祭りはつまらぬか?」
「いえ、この河原から離れたいのです」
「そうか」
由羅は美を助け起こして蛍の籠を持たせる。
『綺麗』と呟く美に、篭を開けるように促す。
「蛍が逃げてしまいますよ?」
「そのための蛍だ。囚われているか弱い命を救うことで『徳』を積むのだそうな」
他にも、逃がした蛍が彼岸の者に思いを届けてくれるとか、願いを叶えてくれるとか、色々あるらしい。人間の考えることは面白いな。と、由羅は言う。
美が篭のふたを開けると、待っていたように蛍は飛び立っていった。河原に集う他の蛍の明かりに混ざるのを見届けると、由羅は美を連れて帰途についた。
美は何を蛍にたくしたのだろう。
黒雲に乗り、運ばれていく間、足下に遠ざかっていく天の川のような蛍の流れを目で追っていた。
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