二章

百足の樹

裏山の一角に大きな柘榴ザクロの樹が生えている。

いわおから枝葉が生えたような大樹である。たわわになる実は熟して裂け、紅玉るべうすのような赤い粒をまき散らしていた。とげの多いこの樹は登るに向いていない。しかし、幾年いくとせも生きた古木はその姿すら丸くなったとでも言うのだろうか。あまり棘を生やさなくなっていた。


その古木の葉影に埋もれるように由羅がいた。太い枝のうえ幹にもたれるようにして座り、柘榴の実をかじっていた。


雨の降る夜。由羅が鬼であることを美に知られた。

美は驚いたようであったが、彼を嫌うこともなく、取り乱しもせずに事実を静かに受け入れたのである。そして、それを知ったのちも、逃げることも避けることもせずに今までと変わりなく寺で暮らしていた。


鬼は鬼と言うだけで忌み嫌われるものだ。

猫の傍で眠る小鳥は居ない。それと同じで鬼とみれば人は逃げるものだと思っていた。それなのに美は逃げなかった。


なぜ逃げないのか。不思議なら直接美に尋ねれば済むことだ。それなのに由羅はそれを聞けずにいるのである。


退治する隙を狙っているのかと思えばそうでもないらしい。

ならば気にする必要もないと、それきり考えるのをやめたつもりだった。しかし、人里で狩りをしているとき。不意に美の顔を思い出すのである。邪気を払われたように殺める気も失せて、暫く狩りをしなくなった。


空腹であれば獣でも事足りる。人と同じものを口にすることも出来るのだ。

だが、鬼の性であろうか。無性に血を求め貪りたくなる衝動は常に抱えていた。狩りをせねばその衝動は日に日に強くなり、美にすら牙を突き立てたくなるのである。


ただひとつ、代わりになるものがあった。

それが柘榴の実である。味の如何ではなく、その身を口にすると飢えた獣のような衝動が和らいだ。不思議なことだが理由は分からない。


まだ力の弱い鬼に過ぎなかったころ。由羅はこの実をよく食べた。

それは狩りをする力も知恵も足りなかったからだ。それならわかる。しかし今自分がこの樹で実を貪っている理由は何であろう?


「おや。これは珍しい方がおいでだ」


白髪を垂らし、粗末な白い衣を着たおうなが由羅の居る枝を見上げて声をかけてきた。


「由羅の小僧ではないか。この実を食べる歳でもあるまいに」


さもおかしいといった様子で笑っている。

この老婆は柘榴の古木の洞に住む妖で蜈公ごこうと呼ばれていた。柘榴の樹は彼女の塒であるため、勝手に傷つけたりすると噛み殺されると言われている。ただ無類の酒好きであり、お供えさえすれば人間が実を採ることも許してくれるそうな。昔、顔に火傷を負った人の娘を癒したことから人々に敬われてはいるが、その本性がなんであるか伝わっているだけに恐れられてもいた。


「まだ生きていたのか」

「ほれ、この通り元気じゃよ」


両袖を広げてくるりとまわって見せた。媼が動くたびに何故か鎧の擦れ合うようなカシャカシャと言う音がわく。


「酒はもってないかい? ふもとの村が枯れてからあまり人が来なくなってね。寂しいもんだよ。挑んでくるやつも最近はいなくて退屈だ。昔はよく刀や槍を持った威勢のいい奴が名乗りを上げたもんだがね」


よほど退屈していたのか、昔を懐かしがっている媼に由羅は瓢を投げてやった。上手に受け取った媼は、栓を抜いて香りに顔を綻ばせる。


「あぁ、ありがたいね。命の水だよ」


大きなひさごを抱くように抱えて、木の根元に腰を下ろす。ちびりちびりと飲みながら、生き返ったようなため息をついた。どこから出したのか手足のついた干物をバリバリとかじりながら一人酒盛りを始める。


「いっぱしの妖がこんなところで大人しく柘榴をかじっているなんて、どうしたんだい? 人間どもに山狩りされるようなことでもしたのかい?」


この媼はずっと古い時代の妖で、小鬼のころからよく見知っている由羅を気に入っているらしく。近くに来ると何かと話しかけてきた。由羅の方も、まだ力のない若いころ何度か飢えをこの樹に救われていたこともあり、借りがあると思っているらしい。時より来ては酒をおいて行った。


「塒に住み着いたやつがいてな。血の臭いを嫌うのだ」

「女か? そうであろう?」


返事を返さぬ由羅に媼は図星であることを知り、楽しげな笑い声をあげた。


「その女に嫌われたくなくて狩りをせぬのか。それで小鬼のように柘榴を貪るなど可愛いの」


老いても女。勘の鋭い媼である。

内心舌打ちをして黙り込んだ。他人の恋路に触れて心浮き立つのか、媼は袖で口元を隠して楽しげにしている。昔はよく橋のたもとでかどわかしたものよと、媼とも思えぬ艶とした笑みを浮かべる。

柘榴を食べ終えるあいだ嫌と言うほど揶揄われ、いい加減うんざりとして立ち去ろうと腰をあげれば、媼は小僧よく聞けよと忠告をくれた。


「鬼は所詮鬼だ。人を喰らわねばいずれ力をなくすぞ」


言わずもがな。由羅は応えもせずに夜陰に姿をくらました。

柘榴の実は人の味がすると言われている。しかし、到底別物である。


寺に帰ると美が囲炉裏の傍で夜なべしていた。器用に草鞋を編んでいる。由羅の気配に気が付いて辺りへ視線をさまよわす。


「お帰りなさいませ」


うむと短く返事して囲炉裏の傍へ座った。

美が小首を傾げている様子に気付いて由羅が問えば、何かいい香りがするという。


「甘い香りがするのです。花のような、果実のような」


あぁ、きっと柘榴の匂いに違いない。

そう思っても由羅は口にすることはなかった。


「早く寝ろ」


一言だけ告げると、由羅は屋根近くの梁へ飛び乗って姿を消した。

先ほど呉広にからかわれたときに言われた言葉が妙に引っかかった。


『お前、その女に惚れたのだろう?』


胸の内に沸き起こった靄に、由羅はまだ名前をつけたくはなかった。つけたところで、無駄に終わると分かっていたからだ。


『由羅。それをひとは恋と呼ぶのじゃよ。哀れよの。たとえ想い合えたとて、人の身が鬼と結ばれれば死ぬしかないというに……』


梁のうえ、柱にもたれて見上げた煙逃がしの竹格子から、薄い二日月が虚空を切り裂くように白く輝いていた。

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