愁い

雨の降る晩のことだ。珍しく由羅が寺にいた。

濡れ縁で柱にもたれて座り、どこで覚えたものか琵琶びわを爪弾いている。物憂げな余韻を漂わすその曲は、美には耳慣れぬものであった。されど、屋根より伝い落ちる雨垂れの、軒下に落ちてたてる音に良く似合うと思った。


「寂しげな音色ですね」

「異国の調しらべだそうだ」


淡々と音を奏でながら、由羅は言葉少なに答える。

一見面倒くさそうに聞こえる声だが、答えているという事は、それほど邪険にされている訳でもないのだろう。


「由羅さまは異国へ行ったことがあるのですか?」

「いや、無い」


弦を爪弾く手が止まった。手酌で酒を杯に継ぎ足しあおる。

美は傍らへ来て座ると酌をした。由羅は何も言わずに杯をとるとその酌をうけた。


何方どなたかに習ったのでございますか?」


由羅は返事をしなかった。


「異国からいらした方だったのですか?」


本当は、人の過去にずけずけと入り込むような質問をするべきではないのだろう。されど、由羅のまなざしは遠い昔へ想いを馳せるようだったから、良くないと分かっていても美は質問を重ねてしまったのだ。彼は相手のことは何も話していないが、美の女の勘が相手は女だと告げていた。由羅へこんな顔をさせたのはどんなひとだったのだろう。


再び調を奏でようとした由羅だが、娘があれこれ尋ねてくるので興を削がれたようだ。抱えていた琵琶を手放すと、美の膝へ頭を預けてごろりと横になった。思いもよらない由羅の行動に、美はたじろいだが、拒むことはしなかった。由羅は少し険しい顔をして、膝のうえから美をにらみ上げる。


「いちいち煩いことよ。黙って音曲に傾ける耳もないのか」

「申し訳ありませぬ」


「まぁ、いい」


そう言うと、わずかに煌めきながら落ちてくる雨垂れを見上げた。

あまりの静かなようすに、眠ってしまったのかと美が声をかける。


「このようなところで眠ってしまってはお風邪を召されますよ」


昔の事をあれこれと詮索するべきではなかった。そう思う。由羅にとって自分が過去のひとに妬くなど可笑しな話ではないか。

でも、知りたい。それを知って嘆くとしても、何故か知りたいと思ってしまう。


揺り起こそうと髪を撫でた手が凍りついたように止まった。

額の生え際の角に触れたからである。


優しく髪のうえを滑った手は角に触れ、さっと離れた。

再び確かめるように、冷えた指先が額のそれに触れる。その手がやがて細かに震えるのを、由羅は鬱々うつうつとした気持ちで感じていた。


悲鳴を上げるだろうか。

自分を振り払って逃げ去るのだろうか。


その時、己はこの娘を殺すだろうか?


もとは戯れに生かした娘である。

煩わしくなったら食らえばいいと安易に思っていた。

それが今、己の正体がばれて娘の反応を待ちながら、なぜか胸塞むねふさぐのである。人を食らうことなど日常茶飯事であったにも関わらず、鬼はこの瞬間に憂いを感じたのだ。


あぁ、あの夜と同じ。


遠い昔、異国の船より拐われてきた姫がいた。

由羅はたまたま、海乱鬼かいらぎのねぐらだった屋敷のうえを通り掛かったに過ぎない。されど、その屋敷より流れ出る玉響たまゆらな琵琶の音色に誘われて、座敷牢に忍びいったのである。


美しいその姫は、窓さえない暗い部屋の真ん中で、月下美人の花のようにはかなげに独り琵琶を抱いて座っていた。


姫は由羅に琵琶の旋律を教えて、楽しげに笑ってくれた。

初めて人と心が通った気になっていた。ところが、由羅が自分の正体を明かした翌日の晩。姫は酒に毒を盛った。


由羅は毒では死なない。

もがき苦しみながら、驚きに狼狽える姫に手をかけた。


由羅のことを、自分をさらってきた賊の一味と思ったのだろうか。それで油断を誘い、毒を盛った後逃げるつもりだったのか。または鬼と知り、退治するつもりだったのか。今は知る由もない。


美の膝へ頭をのせ、激しく地を打つ銀箭ぎんせんが、暗がりにわずかな光の線を引いて落ちる庭を眺めていた。


美の冷えた手は、再び由羅の髪を撫でさする。

まるで何事もなかったかのように。

優しく、優しく。


「お風邪を召されすよ」


にわかに強まった雨音のなか、由羅は暫しその目を閉じた。

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