思いの境

竹林がさらさらと涼しげな音を立てている。

冴えた月夜の晩である。相も変わらず咲き乱れる曼珠沙華まんじゅしゃげの赤い花をながめながら、濡れ縁に横になり酒を飲んでいた。

酒の肴に焼いた猪の肉を美が持ってきてくれた。


「俺は焼いた肉よりそのままの方が好きだ」


それはお前が食べろと言うと、美は傍らに腰かけて焼いた肉を一切れ口にした。余り好きではないのか表情を変えることなく咀嚼そしゃくしている。由羅が血の滴る獣肉を食べていると、臭いが気になるのか眉を寄せる。


「生で食べるとお腹をこわしますよ」


それでいて気遣わしげにこちらを伺う。


「この程度で体をそこねたりはしない」


酒をあおりながら美の手元の皿を見れば、先程からちっとも肉が減っていない。


「肉は好きでは無かったか?」

「いえ……はい」


そんなことは無いと言いかけて、やはり素直に答えた。 手のひらに視線を落とし、それから遠く墓のある方角へ顔を上げる。

弟のことを考えているのだろうか。


「自分だけうまいものを食べるのは気が咎めるか?」


美は首を横に振る。


「飢饉で食べるものが何もなかった時、差し出された肉をもう少しで食べそうになったのです」


美がこの寺に身を寄せるきっかけになった飢饉のときの話であろう。相次ぐ災害に実りが見込めず、多くのものが命を落とした。最終的には人が人を食らう地獄絵図だったそうな。


「知り合いだったのだな」

「はい」


たぶん、その肉は人が口にするのをためらうものだったのだろう。


「食べたとしてそれがなんだ。自分の命を長らえさせて何が悪い」


由羅はそれを何とも思わなかった。

鬼の生を受け、生まれてこの方そのように生きてきたのである。

それを恐ろしいとは思わなかった。人が植物を食べる。獣を食べる。それと何が違うというのか?


美が驚きに目を見開いている。

由羅がなぜそのように言えるのか、信じられないといった表情だった。


「考えてもみろ、その者はしんでいたのだろう? 命のない者を。もう二度と生き返ることのない肉塊を、まだ命ある者が生きながらえるために利用しただけではないか」


美の顔色が優れないのは月の光のせいだけではない。

白い顔に避難の色を浮かべて由羅を見つめていた。


「もし、お前がしんでまだ生きている者がそれを口にしたとしよう。お前は恨むか? 口にせねば生きられぬと分かっていても?」


美は困惑の表情を浮かべて目を伏せた。


「由羅さまは、それが親しきものであったとしても口になさいますか?」

「食うだろうな」


鬼に愚問というものである。

美は何とも言えぬ悲しげな表情をして由羅を見据えた。


「鳥や獣ですら仲間を口にすることはございませんのに、人の身がするのですか?」

「それは違うぞ。追い詰められればどのような生き物も鬼になるものだ」


「それでも」


視力の浅い目でありながら、濡ば玉の瞳に強い光を宿し美ははっきりと告げる。


「命が失われても、やはり人は人なのです。形がある限り。いえ、姿が失われてもなお、その方が生きていたという証がかけらでも、どなたかの心のうちにある以上は決して肉などではございません」


超えてはならぬ一線なのです。

そう、強く美は訴えた。


ならば、鬼の己がしていることは何なのだ。

悪か?


喉まで出かかった言葉を酒で飲み下し、遠く月を仰いだ。

所詮鬼と人とでは分かり合えぬ一線があるのやもしれぬ。狼と兎が仲良くなれぬのと同じことであろう。


どのように言われようが、由羅は由羅でしかいられないのだ。

しかしなぜ、自分はこれほどにうそ寒い思いに沈んでいるのだろう。

見えない傷の痛みを持て余していた。


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