鬼呼ぶ笛

「美、出掛ける。月が出るころ戻る」


あの日以来、由羅はいなくなる前に美へ姿を見せるようになった。

そうすると美がまたあの時みたいに微笑むからだ。それがどんなものなのかは言い表せない。されど、美にはそんな風に微笑んでいて欲しかった。


由羅は首に下げる小さな金の笛を美にくれた。

赤銅色の小さな丸み帯びたそれは、細かな彫刻が施され、表面に滴るような紅玉るべうすめ込まれている。言われなければ笛だとわからない。鬼を呼ぶ笛なのだと言う。無差別に鬼を呼ぶと厄介なので、由羅にのみ聞こえるよう妖力が込めてあるそうだ。


なぜ、突然そんなものを渡す気になったか。

以前、山の洞窟に住まう御前ごぜんに聞いた話を思い出したからだ。彼女が、数多あまた髑髏どくろを集めているのを見て聞いたことがある。そのようなものをなぜ集めるのか、邪魔なだけではないかと。すると御前はたおやかに笑って。


「女はどうしようもない者で、愛された証がほしいのよ。くししかり、かんざししかり。わらわの場合は、ほれ、御首級みしるしよ」


そう言って、御前を愛した者の未だ新しい髑髏を一つ手に取ってほほを寄せた。

美に首をくれてやる気は無いが、彼女が持つことで安心できそうなものを一つくらい渡しておくのもいい。


「何かあったら吹け。すぐ戻る」


試しに吹くといくつかの音が鳴り、心地よい和音が短い調べを奏でた。余りに美しい音色に嬉しくなって、もう一度吹こうとしたら凄い速さで笛を持つ手を由羅に捕まれた。その顔が眉間に不快そうなシワを刻んでいた。


「むやみに吹くな。うるそうてかなわん」


美には分からなかったが、由羅には耐えがたいほど大きな音に聞こえるらしい。本当に急用があるとき以外は吹かないように気を付けよう。そう心にとどめた。美はそれを首から下げると、大切そうに笛をふところへ隠す。


由羅がどこへ出掛けていくのか美には検討もつかない。しかし、帰ってくると着物が増えていたり、みたこともない菓子を気紛れに美へくれたり、砂金の袋が置かれていることもあった。

美のいだことのない良い香りが由羅の首筋から漂うときもある。

不思議だが、美は何も尋ねずに放っておいた。尋ねてはいけないことだと、気配から察していた。



そんなある夜のことだ。庭に大猪おおいのししが出た。

美が庭先で細々と世話している畑の芋を目当てに来たようだった。

ほうきで追い払おうとするも逆に怒りを買い。逃げた家の中まで追ってきた。部屋の隅に追い詰められて、恐ろしくなった美はとうとう鬼笛を吹く。

澄んだ波長の調べが響いた。


その音が切っ掛けのように猪が美の方へ突進してくる。

ぶつかると思った刹那せつな、ざっと黒い風が吹いて人影が美の盾になる。

それは猪の首根っこを無造作むぞうさにひっつかみ、振りかぶって戸の外めがけて投げつけた。猪のわめき声と、戸がめちゃくちゃに破られる音。それに何かが砕けて潰れる胸の悪くなるような嫌な音が立て続けに起こって静かになった。


怖々目を開ければ、すぐ近くに諸肌脱もろはだぬいだ由羅が立っていた。


「お前、本当に弱いな。猪にまで虐められるのか?」

「あ、ありがとうございます」


安心して力が抜けたのか、へなへなとへたり込んで礼をのべた。されど、見上げた由羅の姿にようやく気づき、肌をさらしている彼からどぎまぎと視線をそらして赤くなる。

初め由羅は、彼女がどうしてそのように赤くなるのか解らなようだった。しかし、顔を覗こうとする度逸らされる視線にやがて合点がいく。そのようすが面白かったのか、由羅はわざと美に見えるように近づいて顔を覗き込んだ。


「お前、近付けば少しは見えるんだな」

「衣を着てください! 何で裸なんですか!?」


「そりゃあ、お前の笛に逢瀬おうせを邪魔されたからだろうが」


つやめいた意味を含ませて由羅が耳打ちする。


逢瀬の意味がどこまで深いものか察しがついてしまった美は、湯気が上がりそうな勢いで赤みを増す。酒が入っているからかもしれない。由羅はそんな美をさらに揶揄からかいたくなった。美の顔から足元までをじっとりと舐めるように見たあとニヤリと笑い。


「お前、何でもすると言ったよな?」


と、獲物を取って食おうとする捕食動物のような瞳で囁いた。

すっと美の首筋へ指を滑らせる。


「え?」


吐息もかからんばかりに顔を寄せて瞳を覗き込む由羅から、すぐにでも目をそらして逃げ出したいと言ったようすで美はじわりと後退する。

由羅は顎を支えるように掴み、逃げようとする視線を捕らえた。

抱き寄せられて、美は赤い小鳥のように身をすくませる。


「お前のせいで甘美な夜がお預けだ。今から戻っても女は許してはくれまい。可哀想な俺を慰めてくれるか?」


抱きすくめ、甘い言葉を吐息に混ぜて囁く。

柔らかな美の髪に鼻を埋め耳朶じだに口づけをおとした。腕の中へ閉じ込められた少女は、目もくらむような恥ずかしさからか、それとも怖さのためか、小さく震えだす。由羅の肌に触れてはならじと両手を胸の前で握り会わせてどうしたら良いのかといったようすだ。由羅の方は、胸の内にもっと虐めてやりたい気持ちと、憐れに思う気持ちが同時に現れ戸惑った。

強く抱き締めたい衝動にかられ、柄にもなく照れ臭くなり、美から離れる。


「冗談が通じないやつだな」


由羅は美を放してやると着物を正して外へ出ていった。先程の猪が岩にぶつかって赤い水溜まりを作っている。そのおどろおどろしい水面に白い月がかっていた。

彼が去った後も少女は顔を朱に染めて、固まったまま自分の鼓動へ耳を澄ましていた。


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