匂い

今宵の月はさく

月のない夜の闇はすみを流したように濃く広がり、針穴から漏れる光のような星明かりがわずかにまたたいていた。その空を夜陰やいんにまぎれ黒雲こくうんをまとった由羅がんでいく。


やがて清流が交わるふちに降り立った。

淵を囲むように切り立つ断崖から、染み出た水の細い筋がこけの上を白珠しらたまの雫となって伝い落ちる。その苔が微光を放ち、辺りの風景をぼんやりと浮かび上がらせた。


清廉せいれんな風景でありながら、そこに漂うのは息の詰まるような鉄錆てつさびの臭いである。水辺によった由羅の顔にベッタリとした染みがついていた。それは衣の胸元や両袖にまでひろがっている。


そのまま水中へ滑り込むと、顔や手をこすり禍々しい染みを擦り落とす。次に水面へ顔を出したとき、黒い染みは消えていた。水面に仰向けに横たわり、燐光で緑色に浮かび上がった断崖に切り取られた暗い空を眺める。先ほどのことを思いだして顔をしかめた。

返り血を浴びるとはしくじった。

臭いのあとを残して歩くのは好きじゃない。犬を放たれて塒を突き止められるかもしれないし、会いたくもない他の妖が臭いに誘われて寄ってくるかもしれない。

ここ一帯には敵となるような妖はもういないが、外から来ないとも限らない。用心はしすぎて困ることは無いのだ。


体が冷えるまで泳いでいると岩影に魚を見つけた。

夜目のきく鬼には造作もないことである。一度気がつけば此処そこに見つけることができた。未だ力を持たぬ子鬼のころは、こういった人気ひとけのない沢で魚を取っていた。ここもそんな頃に見つけた場所だ。


不意に、美のことを思い出す。

あいつも弱いから鳥みたいに木の実ばかり食っているのだろう。



美が火の傍でうつらうつらとしていると、人の気配がする。

何処から入ったのか、天井の梁から由羅が土間に飛び降りてきた。一瞬何が飛び降りてきたか分からず小さく悲鳴を上げる。とっさに立ち上がって部屋の隅へ逃げこめばその背に声がかかる。


「またこの様なところで寝ていたか」

「あ、あのように高い梁から。危ないではありませんか」


お怪我はありませんかと問う美へ、由羅は何とも言い難いぬるい表情を見せる。

がこのようなところから帰ってくるとはとても思えないのだが、美は自分を何者だと思っているのだろうか?

由羅だと分かった途端、恐れる素振りも無い。かえって安堵している。


「おかえりなさい」


人を信頼しきった微笑みを見て、この少女の首に爪を立てたなら、この微笑はどのように変化するのだろうと物騒な想像をした。目があったのに何も言わないのをみて、美が再びなにか言おうと口を開きかける。

不意に漂う微かな異臭に眉をひそめた。

うっすらと、鉄錆のような嫌な臭いがしたのだ。


「やっぱりお怪我をなさったのですか?」


目をおぎなう為なのか、美は聴覚が鋭く、また鼻が利いた。

傷を改めようと近づいてくる美の目の前へ、遮るように笹の枝を差し出した。

枝には沢山の岩魚いわなが数珠つなぎになっている。まだ生きている魚の尾から滴る水とともに鮮血が筋を引いて垂れ落ちた。


「まぁ、魚の臭いでしたか」

「お前にやる」


そう言って、美の手に押し付けると、踵を返して部屋から出ていった。

着物の襟内に残った、魚のとは違う血の染みを手で隠しながら。


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