美という少女
板敷の部屋に数枚敷かれた畳のうえに、荒れ寺に似合わぬ豪華な布団が敷かれていた。その布団に埋もれるように痩せこけた少女が昏々と寝入っている。
傍らに寝ころび、肘をついて鬼は少女の寝顔を見つめていた。
青白い横顔にはすでに死の影が忍び入っている。あと数刻もすれば、少女は自分が上等な布団に寝かされていることも、傍らで鬼が見守っていることも知らずに息を引き取るに違いない。
鬼がおもむろに手を伸ばして少女のほほに触れた。
こちらを向かせて顔を近づける。ふうと息を吹きかければ、輝く霧のような息吹が鬼の口より漂い出て少女へ吸い込まれていく。それと同時に先ほどまで血の気のなかった娘のほほに血色が戻る。布団の胸が大きくあえぐように持ち上がり、虫の息だった少女が深く息を吸いこんだ。
そのまま気持ちよさそうにすやすやと寝息を立て始める。
鬼はそれを見届けると、そっと部屋から出て行った。
*
娘が夢の無い眠りから覚めると、辺りは真っ暗だった。
暗闇を恐ろしいと思ったことはない。視力の浅い娘にとって、それは慣れ親しんだ日常であるからだ。漂う静寂に寄り添い、気配を求めて耳を澄ます。
明暗の差は分かる。色も辛うじて見ることが出来るものの、うんと近づかない限りは形まで解らなかった。
柔らかな床の感触に身を起こせば、肩を滑り落ちる衣擦れの音がした。
手を当てればすべすべとした練り絹に触れる。布団の上、着物をかけられて寝かされていたようだ。このような上等な布に触れたことが無かったので、なぜ己がこんなもてなしを受けているのか戸惑う。
「起きたのか?」
気がつかなかった。
気配を感じなかったのだ。
部屋の出入り口にいつの間にか鬼が立っており、音も無く入ってくると部屋の隅の燭台へ明かりを灯す。鋭い指が灯芯に触れたとたんぱっと火がついた。明らかにおかしな火の点きかただが、娘には見えていない。
淡い火色だが、暗がりに馴れた目には眩しく、少女は目を細めた。鬼の横顔を白く浮かび上がらせた灯りは、周囲も仄かに照らす。影のように鬼の面を縁取る髪に気が付き、少女は首をかしげた。
「髪? 頭を丸めて無いのですね?」
「俺は僧侶ではない」
寺の主なら随分昔に喰ってやった。
心のなかで付け加える。女に目の無い生臭坊主、美姫に化けてちょっと色目を使ってやったら直ぐに堕ちてきたっけ。
不意に思いだし口の端で笑った。
そんなことなど知りもしない娘は、鬼が何も言わないので、何か気に障ることを言ってしまっただろうかと心配になる。
「ごめんなさい。お坊様では無かったのですね」
「お前の弟を葬ったのが僧侶じゃなくてがっかりしたか?」
「いいえ。弟を静かに眠らせてあげたかったから。手伝ってくれてありがとうございました」
頭を下げる娘に、鬼は手にしていた朱塗りの椀を差し出す。
中には柔らかそうな餅が琥珀色の密と共によそられていた。見えなくとも、鼻をくすぐる甘い香りに、遠に忘れていた感覚を取り戻す。 猛烈な飢えに襲われて生唾を飲み込んだ。
受け取ってよいものかと鬼を見れば、軽く頷いて美へ椀を押し付けるように渡す。震える手で受けとると夢中で匙を動かして口へ入れた。
優しい柔らかな甘露が身に染みていくようだった。
慌てて掻き込み過ぎて噎(ムセ)せてしまう。
「ゆっくり食え。誰も盗らん」
騒がしい事よとたしなめる。
椀の内へ次々と滴が垂れ落ちるのを見て、何事かと娘の顔を覗けば、俯けた面の頬に涙の筋が光っていた。涙を流しながら餅を食べているではないか。
それほどに空腹が辛かったのか。もしくは喉にでも詰まらせたかと思ったが、そうではなかった。
食べるのをやめて俯く少女へ、もう食べないのかと声をかける。
「口に合わなんだか?」
少女が違うと首を横に振るたび、きらきらと涙がこぼれ落ちた。
「弟にも食べさせてあげたかった」
大きく者繰り上げながら告げる。
「こんな美味しいもの初めて食べたから」
語尾が嗚咽に変わる。
まともなものを口にしたことで、感情が呼び覚まされたのであろう。家族を失った悲しみが今更ながら彼女の心に甦った。
それを冷静に見詰めて鬼は首をかしげる。
屍がものを食うわけではないのに、変わった娘だと思った。
己が助かり、腹を満たすことが出来たのだから良いではないか。
多くの者を騙し、その肉を喰らって生きてきた。
鬼は人を狩る生き物である。が、同時に駆逐される側でもあった。彼の獲物は賢い群の生き物なのだ。今のように力を持つまでは、死ぬような思いも何度か味わった。
力のないうちは目立たぬようにはぐれたものを狩り、暗がりに身を潜めて命を繋いできたのである。
獣のような弱肉強食の世界では、優しさなど弱さであり、それを見せればたちどころに死へ繋がる。彼女が見せた食べ物を分けると言う優しさも、この鬼からすれば、生き延びるために必要で貴重な食料を、自ら半分放棄する愚かな行動に他なら無かった。
己の力のみ頼りに、孤独を孤独とも思えぬような長い歳月を過ごしてきたのである。
その鬼に、娘の気持ちは理解しがたかった。
「ありがとう。ご馳走さまでした」
一通り泣いて落ち着いたのか、少し微笑んだ。鬼は娘の涙を、雨後の桜の花のように美しいと思った。
しばらく置いておくのも悪くない。
鬼は手折ってきた花を愛でる程度の興味がわいた。枯れるまでのあいだ、見ているくらいならいい。
面倒になるようなら、食べればいいだけの話だ。
少女は涙を拭い、ぼんやりとした記憶を手繰り寄せていた。弟の墓のそばで力尽きようとしていた気がする。けれど、今このように座って話が出来るのだから、あれは夢だったのかもしれない。
「あの、名を教えてださいませんか?」
鬼が少し首をかしげて、訝しげな顔をする。
名前など知ってどうするのかと問えば、恩人のなくらい知っておきたいと畏まった。
下手をすればとって食われていたかもしれないのに、恩に着るなど可笑しな娘だ。
呼び名くらいは教えてもいいと口を開く。
「......由羅(ユラ)だ」
「私は美と言います」
人の名前を初めて知ったかもしれない。
食べる相手の名前など、今まで気にしたことはなかった。
「休め」
そういい残して部屋をあとにした。
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