雫―六世紀、飛鳥―

──お呼びでございますか、上皇様。

……いえ、私も上皇様に再び御目にかかることが出来たというだけで、こちらへ忍んで参りました甲斐があるというものでございます。しかし、上皇様が公務以外で他人に命令をなさる事自体珍しゅうございます。一体どうなされたのでございますか。

……なるほど、なるほど、話を聞きたいと。して、その内容とは。

……え、変若水おちみず、でございますか?

誠に残念でありますが、その話は私めとしてはなるべく伏せておきたいのでございます。あまり良い記憶ではございませんので。

お気持ちは存じております。しかし、変若水というものは万能の秘薬にあらず、どころか魔物にございます……。

……そのようなお顔をなさいますな。分かりました。ではお話だけはさせていただきましょう。あとは、ご自身で判断なさいませ。

……あれは、遠い遠い、何世紀も昔の事でございます──。


当時私めは二十歳から幾ばくも経たぬ年頃で、厩戸皇子様にお仕えしながら、朝廷に出仕しておりました。

まあその時代と言いましたら、蘇我嶋大臣おおおみ馬子殿と物部弓削ゆげ大連おおむらじ守屋殿が対立を深めていた頃でありまして、宮中の空気もそれはそれは険悪なものでございました。 渟中倉太珠敷尊ぬなくらのふとたましきのみこと──敏達帝がお隠れになりました時も、やれ猟箭がつきたった雀鳥のようだだの、やれ鈴を付ければよく鳴るであろうだのと言い争っておりましたが、その時のお話はまた後ほど致します。

その敏達帝がご存命の頃、都では疫病が流行しておりました。蘇我大臣殿も敏達帝も病に伏せられ、大きな騒ぎとなりました。

その折、物部大連殿は、疫病は三宝──仏法を擁立したためであると奏上し始め、仏殿に火を放ち、仏像を壊して川に捨てるなどの振る舞いをなさるようになりました。

……ここからは話に聞いたのみでございますが、仏殿を破壊する中、大連殿はある寺院で、古びた壺を見つけられたのだそうでございます。

それは、まるで海の底を写し取ったかのような、澄んでいながらもどこか吸い込まれそうな深い深い蒼の器であったと聞いております。口は粘土で封をされており、おいそれと開けられる代物ではなかったようですが、揺らしてみると水のような音がしたので、さては酒か何かかと思われたそうでございます。

物部大連殿は、一度壺を持ち帰り、側近であり呪術に明るい中臣むらじ勝海殿と中を確認なされたそうでございます。すると中臣連殿曰く、

「これは変若水と言われる秘薬で、美酒のようではありますが、絶大な力と永遠の命を与える神の薬でございます」

ということでございました。しかし大連殿は、

「そのような得体の知れぬ物など飲まぬ」

と変若水を拒み、大河に放るよう命じました。

その後、大連殿もまた疫病に罹り、 敏達帝は遂に病でお隠れになりました。

敏達帝の崩御後、物部大連殿はいよいよ蘇我大臣殿と対立を深めるようになりました。彼は穴穂部皇子を擁立し、物部の台頭を狙い始めたのでございます。

この穴穂部皇子という御方、敏達帝の葬儀の折、「何故に死する王に仕え、生きる王(自分)に仕えないのか」と憤慨するなど、皇位を強く望んでおりまして、物部の領地にて育たれた事もあり、大連殿にとってはこの上なく都合の良い擁立相手でございました。

廃仏派でありました敏達帝の亡き後、崇仏派である橘豊日天皇たちばなのとよひのすめらみこと──用明帝が即位され、大連殿はもはや後ろ盾の無い状態、穴穂部皇子の擁立には余程執着されておられたようでございます。

それを如実に伺えたのが、穴穂部皇子が、敏達帝の皇后である額田部皇女──後の炊屋姫かしきやひめ尊あるいは推古帝を犯さんと、敏達帝の殯宮もがりのみやに押し入り、三輪さかう殿に追い返されたという事件の時でした。皇子を追い返した逆という御方は、先帝以来の寵臣でございまして、物部大連殿とは廃仏派の同志、共に寺を襲った仲でございました。しかし、激怒した皇子が逆を殺せと命ぜられた時、大連殿は躊躇い無く承諾し、逆殿を斬殺致しました。この後穴穂部皇子は、額田部皇女や蘇我大臣殿に強く恨まれることとなりました。

その後、物部大連殿は、用明帝が三宝を奉じる事を欲せられた際、蘇我大臣殿の三宝を奉ずるべきとの言葉に大いに怒り、中臣連殿や群臣らと共に朝廷を去り、阿都──河内国にて挙兵したのでございます。

さてそんな折、私めは厩戸皇子様に仕えているという縁あって、蘇我大臣殿に物部の動向を探れと命ぜられたのでございます。私めはまず、かねてより怪しい怪しいと思うておりました中臣連殿の屋敷へ向かう事に致しました。

に紛れ、連殿の部屋に潜入致しました私の目にまず飛び込んできたのは、大量の書物と無数の小さな壺でございました。壺の中には、酒・銀の水・何かの植物の実・蛇のような物を干した物・芳香を放つ水・灰・そして大量の血が入っておりました。開かれた書物を見ますと、そこにはこう記されておりました。

「この薬酒を作るためには、酒、水銀、月の水に、花が落ちて間もない蓮の実、蛇の抜け殻、月読の名を記した呪符を太陽の火で焼いた灰、自分の血が必要となる」

この調合を見た時には、これは普通の薬ではないなとすぐさま直感致しました。それと同時に、私はなぜか、書物の文字に既視感を覚えたのでございました。

もう少し近づいて見てみようと思いましたその時、足音が近づいて参りました。私は、怪しまれないよう平静を装いつつ屋敷を後にせざるを得ませんでした。

私は、尾行されてはいないだろうと思いつつ、念の為木の陰で装束の上に着ていた奴の衣を脱ぎ捨て、すぐさま蘇我大臣殿の屋敷に向かいました。

大臣殿は、「なるほど、中臣が如何いかがわしい薬を作っておったのだな」と、しめたと言わんばかりにほくそ笑んでおりましたので、未熟な青二才でも、さては何か企んでおられるのだなと悟りました。

翌日、皇子様の宮に赴きますと、宮の舎人である迹見とみのおびと赤檮いちい殿に蘇我大臣殿が何やらひそひそと話しておりました。首殿は、宮中でさえ一言も発さず、表情も当時渡来しておりました舞楽の面のように眉一つ動かさぬお人でしたが、武芸においては群を抜いておりましたので、大臣殿自らがなさる相談となれば、内容は容易に想像がつくというものです。案の定、大臣殿は首殿に耳打ちすると、中へ引っ張っていかれました。

入っていいものか悩みましたが、仕事がありましたので、そ知らぬ顔を装って宮に入りました。

さて、この頃には、「中臣連が、怪しい薬を使って朝廷を転覆させようとしている」、さらには「中臣連が、押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこと竹田皇子を、像を作り呪詛している」という噂がまことしやかに囁かれておりました。物部大連殿が仏殿を焼いた後に流行り病に倒れた折、「仏罰が当たった」と噂されたことがありましたが、それからもお分かりになる通り、既に人心は廃仏派からは離れておりました。それゆえ、我々が細工せずとも、物部派を廃すべきとの声が高まったのでございます。

次の日の事でございます。

その日の都は騒がしゅうございました。なんと、件の押坂彦人大兄皇子の宮の門前で、人殺しがあったというのでございます。宮の門前と言いますれば不浄があってはならぬ場所、幸い非番でありましたので、急いで宮へと向かいました。すると確かに、むしろで覆われた亡骸が宮門の目前に横たわっており、おびただしい量の血痕が残っておりました。。

亡骸を取り囲んでおりました舎人達を説き伏せて筵を取りますと、それは無惨にも斬殺された中臣連殿、より正確に言えば、中臣連殿の首と、頭を失った体でございました。

しかし、連殿は、彦人皇子を呪詛していると噂される通り、仲は芳しくはございません。不思議に思っておりますと、舎人の一人がそっと、「実は連殿、皇子様に帰服しようとこちらを訪ねられたのですよ

」と教えてくれました。

「物部派の連殿が皇子様に帰服、でございますか?奇異なものですな」

「全くです。どうやら大連殿の叛乱計画が頓挫したようで。……あの方が仰せられた通りです」

「…ああ…」

私の脳裏にすぐ浮かんだのは、もちろん蘇我大臣殿でございます。

とりあえず迹見首殿には尋問をしておこうと、私は現場を後に致しました。

──今思えば、あの時気付いておけば、さらに言うと、自分の視界の端に写りました光景を信じておればよかったのでございます。しかし、信じられませんでしょう?

首を切り離された中臣連殿の手が、微かに動いただなんて──。


さてこの後、元来お体の調子が優れなかった用明帝が崩御されますと、物部大連殿は、穴穂部皇子を擁立して反旗を翻そうとしました。

しかしそれを蘇我大臣殿が見過ごすわけもなく、額田部皇女のみことのりを得た皇子の宮に軍を送り込み、これを誅殺致しました。さらに翌日には、皇子と仲が良かったというある意味理不尽な理由により、皇子の弟君でありました宅部皇子も殺害されてしまいました。憐れではございましたが、生きておられては穴穂部皇子の代わりに物部に担ぎ上げられる可能性も否定出来ませんので、蘇我大臣殿としては背に腹は変えられなかったのでございましょう。

かくして、物部大連殿は朝廷に返り咲く手立てを失いましたが、それでも物部は莫大な財力と武力を持つ大豪族であり、単独であっても脅威となりうる存在でございましたため、蘇我大臣殿はさらに物部自体を滅ぼそうと致しました。

……これは後から聞いた話なのですが、この時、常に蘇我大臣殿を後押ししておられました奥方の太媛が、なぜか「兄様を討つには遅うございました。今はもう兄様を殺めてはいけません。後で大変なことになりますでしょう」と反対されたそうでございます。

もしあの時大臣殿が太媛の忠告を聞かれ、別の判断をなされていたならば、少しは何か変わったのかもしれませんが、気付いた時には既に遅うございました……。

私は、多くの皇子や群臣と同じく蘇我軍の一員として参戦致しました。

無勢であってもさすがは物部、大連殿自らもほおの木へ上り、雨霰と矢を射掛け、我々の軍は多勢でありながらも追い詰められておりました。三度もの退避を余儀なくされておりましたが、皇子様が白膠木ぬるでを切り四天王の像を彫られ、御仏に祈願されたこともあり、我々に勝機が巡って参りました。しかしそれでもなお、物部大連殿はこれでもかとばかりに矢を浴びせてきており、味方はバタバタと倒れておりました。

その時、一本の鏑矢が放たれ、物部大連殿の首筋に深く突き刺さりました。

大連殿は、苦しげに呻くと、地面に落下致しました。

見れば、迹見首殿が大連殿がいる朴の木の根元で二つ目の矢をつがえておりました。

「よし、行け」

耳元で蘇我大臣殿が囁きました。

私は少し躊躇いながらも、剣を取って物部大連殿に走り寄れば、大連殿は土をつかんで立ち上がり、私に襲いかかって参りました。

手負いとは思えぬ力で組み伏せられ、負けるものかと抵抗致しましたが力及ばず、短剣を胸に突き立てられてしまいました。

胸部を激痛が襲い、目の前が霞んで参りましたが、漏れ出した自らの絶叫で正気に戻り、大連殿の矢を力任せに引き抜きますと、おびただしい量の血が噴き出しました。

私が体勢を立て直し剣を構えると、大連殿は私を鷹のような鋭い目で睨みつけましたが、私は見ていない風を装い、一息に大連殿の首を掻き切りました。

「……物部大連殿の首……討ち取ったり……」

蘇我軍が諸手を挙げて歓声を上げ、残党を追撃する中、出血で意識が薄れて息も絶え絶えとなっておりました。

「秦の、担架を出すから寝ていろ。倒れられたら厄介だ」

大臣殿から珍しく優しい言葉がかかりましたが、私は大丈夫です、と首を振りました。

「寝る前に首を洗って参ります、ご心配には及びません」

「そんなはずはないであろう!!心の蔵が見えておるぞ!!」

「ですが、別状はございませんよ」

私は、近くの池でも探そうかと大連殿の首に手を伸ばしました。

──すると、死んだはずの大連殿の生首がかっと目を見開き、鋭い目で睨みつけてまいりました。

「貴様等…、いつか必ず、後悔する時が、来るで、あろう…」

そう言い残すと、大連殿の生首はやがてぴくりとも動かなくなりました。

「どうした、早うしろ」

はたと我に返ると、皇子様や大臣殿、首殿が不審気に見つめておられました。

「今、大連殿の首が話しまして……」

「そのようなはずはあるまい。血を流して頭がやられたのだろう。そなたは寝ておれ」

大臣殿の言葉通り、私の意識は吹き飛ぶ寸前でございましたが故、地に臥せば途端に目の前が霞み、遂には気を失ってしまいました。


目を覚ました時には、私は山背国にございます実家の自室に寝かされておりました。

「ようやく気が付きましたか、兄上」

声の方を見ますと、弟の和賀が呆れ顔で立っておりました。

「丸一日眠っておられましたよ。全く、無茶しないで下さいよ」

無茶はしていません、ただ大連殿の反撃が予想外だっただけです……と言いますと、

「もう!またそうやって強がる!ちょっと傷見ますんで暴れないで下さいね!」

と、和賀は有無を言わさず、寝間着を剥ぎ包帯を外して参りました。

すると彼は、

「しかし良かったですよ。傷が浅くて」と申すのでございます。

そんなはずはございません。確かに私は短剣で胸を刺され、心の蔵が剥き出しになる深手を負ったはずなのです。

「何を言っているのです?兄上。心の蔵どころか、骨すら見えませんでしたよ。阿都から山背は遠いとはいえ、そんな短時間では治らないでしょう。……ほら、もう瘡蓋かさぶたが出来てますよ。あーでもこれ跡に残りそうですねー」

そう言うので半信半疑で自らの傷を確認し、凍りつきました。一歩間違えれば致命傷だったはずの深い傷が、丸一日ですっかり塞がり、血の一滴も流れておりませんでした。

「それにしても随分治りが早いですね。まあ兄上は昔から傷の治り早かったんですけどね。……そうだ、迹見赤檮殿が見舞いにいらしていますよ。お呼びしますか?」

少々戸惑っておりますと、何か包みを持った首殿が入って参りました。

「…………」

相変わらず、一言も話す気配がございません。

彼は一言も発さず、ただ、ちらりと和賀を見やりました。私は、ああこれは……と、和賀に粥でも作ってくれと催促し、部屋を出ていかせました。

和賀が去りますと、どこか首殿の周りの張り詰めた空気が少し和らいだようでございました。

「……大丈夫か、秦の」

彼とは主が同じ事もあり長い付き合いでございましたが、恥ずかしながら、声を聞いたのはこれが初めてでございました。

……首殿、少し八重歯気味でございましたね……。

「大丈夫ですよ。私傷の治り早いですから」

そう申しますと、

「……そうか。なら、なるべく早く皇子様に顔を見せろ。先日の戦の功で昇進したようだから、挨拶くらいはしておけ」

と言いましたので、大層驚きました。

正直に申しますと、つい先日の戦のことではございましたが、まるで夢の中であるかのように現実感が無かったのでございます。


ともかく、戦は終わり、大連殿の一族は太媛を除いてほぼ一掃され、残党の捕鳥部ととりべのよろず殿は、長らく抵抗しておりましたがやがて自害し、遺体は朝廷の命によりばらばらにされてしまいました。私と首殿は戦功により出世し、朝廷でも重く扱われるようになりました。今思えば、あの時こそ人生の春でございました。

しかし、朝廷の空気は決して清々しいものではございませんでした。中臣連殿の呪詛に当てられていた竹田皇子が、危篤となっていたのでございます。

皇子の病状は日に日に悪化し、母君でございます額田部皇女もすっかり憔悴してしまわれておりました。そして遂には、母君に先立ち若くして薨去されてしまわれたのでございます。

御臨終の際、額田部皇女は竹田皇子の遺体にすがり付かれて、おいおいと涙を流され、群臣もそれを咎めず悲嘆に暮れておりました。

──その時の事でございます。

二度と開かぬはずでございました竹田皇子の御目が、かっと見開かれたのでございます。

群臣は皆驚き慌てましたが、額田部皇女は、驚きながらもどこか嬉しそうでございました。

すると竹田皇子は、むくりと起き上がると……爛々と鬼灯のように赤い目を光らせ獣を思わせる鋭い牙を剥き出しにして、母君の首目がけ躍りかかったのでございます。

「皇女様、失敬!」

一人の臣下が皇女を突き飛ばし、自ら盾になりました。竹田皇子──だった何かはその臣下に噛み付き、首の肉をちぎり取ってしまいました。皇子の形をした化け物は、おびただしい量の鮮血を噴き出し顔面蒼白となった臣下の肉を貪り血を啜り始めました。

「な、何という事だ……!」

従兄弟の変わり果てた姿に、厩戸皇子様さえ言葉を失っておられました。蘇我大臣殿もすっかり青くなっております。額田部皇女は卒倒してしまわれました。そんな中、首殿だけは剣に手を伸ばして臨戦態勢でございました。

……すると、でございます。怪物の餌食となったはずの臣下の目が赤く光り群臣を睨み付け、あの怪物のように、この世のものとは思えぬ絶叫を上げて首殿に飛びかかりました。

しかしそこは首殿、居合いで怪物を斬り捨ててしまいました。怪物は宮中に響き渡る絶叫と共に、首殿に倒れ込みました。

「やりましたか!?」

皆が皆、すっかり安堵しておったのでございます。

その時でございました。斬られたはずの怪物が牙を剥き、首殿の肩に噛み付かんと大きく裂けた口を開きました。

首殿はさすがにはっと息をのみましたが、呼吸を整えて斬り伏せました──が、横から飛びかかってきた皇子の顔をした化け物が、首殿の左腕に食らいつきました。

首殿がうっと小さく呻き、苦しげに表情を歪めます。私はすぐさま駆け寄ろうと致しましたが、その前に、首殿が怪物を鋭い視線で睨み、剣を怪物の後頭部に力任せに突き立てました。すると今度は、怪物は断末魔の叫びを上げ、ぴくりとも動かなくなりました。と同時に、もう一人の怪物も、全く同じ場所に傷が割れ、絶命致しました。

「首殿!大丈夫で……」

私は首殿に駆け寄ろうと致し、仰天致しました。

首殿の目が真紅に光り、口から覗いた牙は怪物のそれと同じであったのでございます……。


尋問すると、すぐに理由は判明致しました。

中臣連殿が彦人皇子に贈っていた「美酒」を、彼が飲んでしまったというのでございます。

というのも、中臣連殿の呪詛の正体というのはこの「酒」で、竹田皇子と彦人皇子に贈っていたらしいのですが、彦人皇子はきつい酒が苦手でいらせられるようで、美酒という触れ込みで贈られた「酒」を、それと知らずに舎人に分け与えられたものを、いつも首殿が代わりにともらい受けていたらしいのでございます。

しかし、と、大臣殿が首をひねりました。

「皇子様は、死後あのようになってしまわれたが、生前には何ら異常は見られなかった。なぜ迹見のには異常が表れたのだ?」

首殿の表情が少し曇りました。

「実は……中臣連を殺した時、私も共に殺されていたのです……」

私は絶句致しました。首殿は、既にあの怪物と同じ食人鬼と成り果てておりましたのでございました。

しかし彼は、人を食らうどころか我々を助けて下さいました。あれは何故なのですか?──そう尋ねると、事の顛末を話してくれました。

それは連殿を暗殺した時の事です。首殿は、連殿を斬り捨て、任務は終わったと思っておられました。

その時でございました。斬られたはずの連殿が突然起き上がり、突然の事に唖然とする首殿の胸を短剣で貫いたのでございます。

激痛に呻きながらも連殿の首を斬りますと、連殿は倒れ、ようやく動かなくなりました。

しかし、でございます。間もなく首殿は猛烈な顔面痛に襲われました。血だまりに写る自分の顔を見、彼は絶句しました。目が赤い光を放ち、口には鋭い牙が生えていたのでございます。同時に意識が薄れ、連殿の呪文のような声が脳内に響き、遂には連殿の遺体を美味そうだと思うようになってしまいました。

首殿のもはや消えかかった意識が思いつけたのは、「博識な厩戸皇子様に相談する」との選択肢のみでございました。皇子様を食べてしまうかも知れないという危惧すら出来ない状況でございました。彼は、眠りかけている自我を叩き起こし、連殿の声を振り払いながら、皇子様の宮へ足を引きずり引きずり行きました。

気の遠くなる道程、既に彼の心は獣のそれとなりつつございました。しかし、宮に到着し皇子様の御顔を見るなり、人間としての自我が戻り、宮へ着いた安心感と自分の浅ましい姿を皇子様に見せた罪悪感で頬に涙を伝わせました。

皇子様は、しかしただ優しく微笑まれ、首殿を抱き寄せられ、こう仰せられました。

「よく耐えた。私の血を飲め」

当然首殿は断りましたが、皇子様が楽になるからとしきりに仰せられるので、仕方無く従いました。

自分の浅ましさへの羞恥心で苦しくなりながらも、血の臭いで掻き立てられた食欲には勝てず皇子様の生き血を啜ると、なるほど確かに人間への食欲が嘘のように無くなっていきました。

こうして迹見首赤檮殿という男は、食人鬼として人間離れした身体能力を持ちながらも人間の理性も併せ持つ、非常に稀有な存在となったのでございます。

「なるほど。しかし、そのような事出来るならば、なぜ厩戸皇子様は竹田皇子様を助けられなかったのだ?」

大臣殿の疑問はもっともでございます。しかし首殿は、

「どうやら、一度も人を食らっていない『うぶ』でないと治せないようですし、血を飲ませた所で人間には戻せない、と仰せられていました」

と間髪入れず反論しました。

「成程。食人鬼騒動の発端は連というわけか……。おい秦の、連の屋敷をもう一度探索しろ。手掛かりがつかめるかもしれん」

……また家捜しをする羽目になってしまいました。


翌日、人影一つ無い連殿の屋敷へ侵入し、初回の探索で見つけた壺やら書物やらを洗いざらい拝借し、大臣殿の屋敷へ持ち込みました。

「この材料のような物は置いておいて、書物を重点的に調べましょうか」

まず概説。どうやら例の「酒」の正体は変若水というらしいという事が判明致しました。

次に材料。酒、水銀、月の水に、花が落ちて間もない蓮の実、蛇の抜け殻、月読の名を記した呪符を太陽の火で焼いた灰、必要に応じて自分の血……どれも、再生や不死の象徴でございます。

そして効能。見れば、三種の変若水があるのだそうでございます。

一つは還暦を十度経たもの。これを飲んだ者は不老不死を得るといいます。外傷を与えたとしてもすぐさま再生するほどの生命力を持ち、肉体が寿命を迎えて死んだ後も、最期を看取った女の一人の胎内へ入り込み、そこから新たに誕生するのだそうでございます。

もう一つは熟成が不十分な変若水に血液を加えたもの。これを飲んだ者は、生存中は何も変わりませんが、死後は食人鬼と化し血の持ち主の命令により行動する下僕となると書いておりました。

脅威の正体が少し明るみになり、我々の中にもささやかな安堵が芽生え始めました。

しかし……残る熟成が不十分で血液を含まない変若水の部分、ここが丁度断たれており、読めなかったのでございました……。


それから五年、有難い事に、大きな騒動は起こりませんでした。この間に、大臣殿はさらに権力を振るい、自らが擁立する泊瀬部大王──崇峻帝を即位させ、大連殿亡き後、最早蘇我に逆らう者などおりませんでした。私も又順調に官位を上げておりました。

その一方で、異形故朝廷から去らざるを得なくなった首殿は、その代わりあの事件以来度々都を襲うようになっていた、中臣連殿の手により作られたと思しき食人鬼の討伐の為、新たに設置された鎮所の軍監に任ぜられ、私は将軍となっておりました。最初は皆鬼に怯えておりましたが、五年も経ち、首さえ斬り離せば退治出来ると分かればすっかり慣れてしまいました。鬼による死者は徐々に増えておりましたが、皆何事も無かったように日常に戻っておりました。

そしてこの時、西の方より大量の啄木鳥きつつきが飛来し、寺が襲撃されるという事件がございましたが、大連殿の霊をその当時皇子様が新たに建立なさいました四天王寺に祀りますと、とりあえずは収まりましたので、都は平穏を取り戻しておりました。

……しかしその水面下で、大臣殿と大王の不和は埋められぬ物となりつつございました……。

そんなある日の事でございます。朝廷に、大きな猪が献上されました時、大王は笄刀(こうがい)を抜き猪の目に突き刺しますと、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と仰せられました。それを、大王からの愛が薄れゆくのを感じておられました小手子こてこ妃が大臣殿に密告なされました。

大臣殿は激怒し、群臣に大王暗殺の旨を宣言されました。本来なら反対が大いにありますでしょうが、ここでも大臣殿に逆らう者はおらず、東国の調の儀式にて大王を殺害する運びとなりました。

刺客に選ばれたのは、大臣殿の舎人である東漢やまとのあやのあたいこま殿でございました。彼は純朴な好青年であり、大臣殿からも厚い信頼を得ておりました。

決行の時、私はその場には居合わせておりませんでしたが、話によると暗殺の際現場は大荒れしたようで、列席者の生死さえ情報が交錯し不明瞭でございました。大王は直殿により斬殺、小手子妃以下大王の妻子は行方知れず、そして実行犯の直殿自身も行方不明となっておりました。

直殿の行方は数日後に判明致しましたが、同時に大臣殿は激怒致しました。直殿は、大臣殿の御息女で大王の嬪でございました河上娘を奪い妻としていたのでございます。

実は、直殿と河上娘が互いを恋い慕っているのは、大臣殿を除いた彼を知る者の間では周知の事でございましたので、さして驚きは致しませんでした。しかし大臣殿にとっては一大事でございます。河上娘は容姿端麗で、大王亡き後も十分皇族に嫁がせられる存在、しかし舎人の手付きとあればもうそれは不可能となります。

大臣殿は、草の根を分けてでも直殿を捜すよう命じ、ついに彼を捕えました。哀れな功労者は、大臣殿の御息女を略奪した罪と大王暗殺の口封じの為に斬首に処せられる事となりました。

……この時大臣殿は、中臣連殿の屋敷で見つけた書物にございました空白の部分──血液を含まない変若水を飲んだ人間がどうなるかという事に興味を抱いておりました。そして目の前には、近々処刑する従者……。大臣殿が何を考えたのか、容易にお分かりになろうかと思います……。

私や首殿はもちろん、太媛も反対されたといいます。しかし聞き入れられず、直殿に死出の水として変若水が手渡される運びとなりました。

「首殿、これは良いお酒でございますね……」

悲しげでありながらも、差し入れされた変若水に純粋に頬を緩める、あの直殿の笑顔は、今でも忘れられません。

当日、処刑は呆気なく終わりました。河上娘が最後まで彼を弁護しておられましたが、遂に聞き入れられる事はございませんでした。

最期の日まで笑っていた若者の死は大変惜しいものでございましたが、食人鬼の討伐を生業とする者としては、血液を含まない変若水を飲んだ人間に死後どのような現象が表れるかを観察しない訳にはいきませんでした。私と首殿は息を凝らし首無しの遺体を見つめました。

その時でございました。首無しとなった直殿の胴体が起き上がり、独りでに自らの首を取り上げると元ありました場所に付け直したのでございます。

白い肌をさらに青くして悲鳴を上げる河上娘に対し、大臣殿は成功だとほくそ笑んでおりました。

血液を含まない変若水でも不死となると確証を得、実用を視野に入れた研究をする事となりました。直殿には処刑直前と同じように牢に入ってもらい、経過観察を致しました。

まず最も大切なのは食人鬼となるか否かでございますが、幸い鋭い牙や爪も見られず、凶暴化もしませんでした。さらに変化は起こらないか様子を見ましたが、首が繋がっていない事を除けば生前と何ら変わらず、目立った変化も見られませんでした。

さらに観察……といきたかった所でございましたが、吉野の方より食人鬼が襲来し、私達はそちらに向かわざるを得ませんでした。

想定以上に食人鬼が手強く、一掃出来た頃には既に七日が経過しておりました。直殿の事は気に掛かっておりましたが、今まで異常は見られなかったので特に問題は無いだろうと考えておったのでございます。変若水の実験と聞き好奇心を刺激された和賀も引き連れ、直殿の牢を訪ねました。

……始め私は、床を這う根を、役人が掃除を怠けたせいで生えたものだと思っておりました。和賀も同感だったようで、

「ここの役人は不精ですね」

などと文句を言っておりました。

さらに奥へ進むと、根は床に留まらず壁や天井にまで広がり始め、徐々に太くなっていきました。

そして最奥部──。

一瞬、いや、暫く我が目を疑いました。

獄中に張り巡らされていた根は、直殿の背中からその体を突き破って生えておったのでございます。

根の一部には鼠や百足などが絡め取られ、養分を吸い取られたのか干からびておりました。その目の片方には既に眼球は入っておらず、眼窩からはそのおぞましい姿に不似合いな可憐な笹百合の花が咲いておりました。

「なに……これ……」

そう小さく呟いた直殿の目は、恐怖に見開かれておりました。

その時でございます。背中の一部が赤く裂け、植物の芽が顔を出しました。芽は、流れ出る鮮血を吸収したかのように巨大な茎に生長し、大輪の笹百合の花を咲かせました。

背筋が凍りました。和賀に至っては吐き下してしまいました。

──経過観察は即刻中止、変若水の実用化計画も中断となりました。遂に不死が実現すると喜んでおった大臣殿は、すっかり落ち込んでしまいました。

直殿については、首殿の例に倣い厩戸皇子様の血をお借りし飲ませてみたところ、植物は少し小さくなり生長も止まりました。しかし、元の人間の姿には戻りませんでした……。

少し気分が戻った和賀を伴い、都の住まいではなく山背に帰る事に致しました。和賀を寝かし付けますと、私は直殿の事を頭から振り払おうと、半ば無心で書庫を漁りました。

すると、書物の隙間より、何やら木片が落ちて参りました。拾い上げてみますと、それは書物の木片でございました。

一目見て、心の臓が飛び上がる程驚きました。それは、断たれていたはずのあの書物の切れ端だったのでございます。

そこにはこう書いておりました。

「血を加えず、かつ還暦を十度経ておらぬ変若水を口にした者は、人知を超えた生命力を得るが、それ故に首を斬らずには死なず、安らかな死を迎える者はおらず。死した者は、死する前に望んだものの姿となる事が出来る。しかし、二度と人の形には戻れぬ」

──それだけでも恐ろしゅうございましたが、私はある事に気が付き、血の気が引きました。

その文字は、紛れもなく、私自身のものだったのでございます……。


その数日後の事でございます。今度は、五年前の戦の頃より逃亡を続けていた、物部大連殿の弟、贄子殿を捕縛したという知らせが入って参りました。

当初は処刑する手筈でございましたが、彼の姉である太媛の強い反対があり、助命される事となりました。

尋問には、大臣殿自らが当たりました。私も、万が一贄子殿が食人鬼と化していた際の護衛として御一緒致しました。

一通り通常通りの尋問を終えますと、大臣殿は変若水について切り出しました。

「貴様は、変若水という物を知っておるか」

大臣殿がそう問いますと、贄子殿は

「存じ上げております。姉が妙に変若水に詳しいので。幼い頃より、絶対に飲むな、特に血液が入っていようがいまいが、熟成がされていないものは絶対に飲むな、人間ではなくなる、と言い聞かされておりました」

なるほど、しかし太媛の知識はどこから得られた物なのでしょうか。

「よく分からないですけれど、本当に幼い頃から詳しかった事は確かです」

大臣殿はさらに続けます。

「では、変若水は飲んでいないのだな」

すると贄子殿は、悲しげに項垂れてしまいました。

「私は飲みませんでした。ただ……」

贄子殿の頬を涙が伝いました。

「ただ、兄上は……死後異形の者に身を堕としても良い、蘇我に対抗出来る力を得られるというなら何でもすると……私と万が止めましたが聞き入れて戴けず……勝海と共に……」

「何と……!」

そう叫ぶと、大臣殿は頭を抱え込んでしまわれました。大臣殿にとって最も脅威でございました物部大連殿と中臣連殿が、よりによって不死の化け物と化してしまったのでございます、その衝撃と恐怖となれば想像も出来ません。

私も迂闊でございました。連殿の遺体が動いたように見えた時、あるいは大連殿の首が物言った時、気の所為だと油断せずに何か対策を講じておれば、せめて二人を監視下に置けたやも知れません。しかし、時は既に遅うございました……。


──その後の大臣殿の焦燥と言いましたら、最早気がおかしくなったとしか思えぬ有様でございました。大連殿の呪いを恐れ、死を拒み、自らの権力を総動員し血眼になって熟成が完了した完全なる変若水を追い求めました。しかし、不完全な変若水ならば少ないながらも存在致しましたが、完全なる変若水は、どこを探しても遂に見つかる事はございませんでした。

大臣殿は、大連殿への恐怖を振り払うがごとく、まつりごとに没頭しました。額田部皇女を即位させ、一年後には厩戸皇子様を皇太子に立てました。さらに皇子様と手を組み、制度の整備を行ない大和を周辺国に恥じぬ立派な国に成長させました。私も、皇子様の御令息、山背大兄王様の教育を任され、さらに皇子様との関係は強まっておりました。

気が付けば、既に三十年余りの時が過ぎておりました。私は一向に老けず、首殿は相変わらず食人鬼と戦っておりました。化け物と化してしまいました直殿は、しかし河上娘に引き取られ、共に隠棲する事になりました。贄子殿は、御息女が大臣殿の嫡男蝦夷殿に嫁ぎ、蘇我家に入っておりました。そんな時の事でございます。

かねてよりお体を悪くしておられました厩戸皇子様の体調が急変し、危篤となってしまわれました。皇子様は聡明で政に明るいだけでなく、大連殿をはじめとする化け物に対抗しうる最後の切り札、朝廷に激震が走りました。皆、名医を呼び良薬をかき集め懸命に皇子様の看病に努めましたが、無情にも病状は悪化の一途を辿るばかりでございました。

ある日、私は皇子様の宮へ呼び出されました。

一室に招かれますと、そこには異様な光景が広がっておりました。床に臥しておられる皇子様の周りには、大臣殿の御長子であり法興寺の寺司てらのつかさである蘇我善徳ぜんとこ殿、元遣隋使である小野臣妹子殿、そして太媛と、まるで統一性が見て取れない面々が勢揃いしておりました。

「ようやく来られたか、秦河勝殿。噂はかねがね聞いておる」

なるほど、太媛は確かに大連殿と似て、凛々しい目の美しい方でございました。

「なぜ其方そなたがここに呼ばれたか、この顔ぶれを見て分からぬか」

正直に申しますと、まるで分かりませんでした。しかし、どこか見覚えがあり、胸の奥がざわつく感触が致しました。

「久々にお目にかかるな、秦河勝殿──否、酒公さけのきみよ。我はかつて物部と呼ばれていた者だ。……これで思い出したか」

私は思わずあっと声を上げました。同時に、今まで失っておりました記憶が朧げながら蘇って参りました。

それは私がかつて、秦酒という名の人間で、大泊瀬幼武尊──雄略帝に仕えておりました時の事でございました。

高句麗に派遣しておりました兵が戻って参り、朝廷に大陸に伝わるという不老不死の薬酒を献上しました。大王は重用しておりました、平群へぐりの大臣真鳥まとり公、物部大連目公、大伴大連室屋公、そして秦酒を呼び、薬酒を分け与えられました。さらに大王は、秦の民を中心に薬酒の製造を奨励、薬酒は神話霊薬の名を借りて「変若水」と呼ばれるようになり、永遠の富を求めていた豪族が争うように集めておりました。

しかしやがて、死後化け物に変じる豪族が急増し、原因の究明に当たった所、状況を見るに変若水によるものと見て間違いないという結論に至りました。

私は、変若水製造の最前線に立っていた為槍玉に挙げられ、流罪に処せという声が強まりました。しかし目公や真鳥公は、気が短い大王を制止出来る数少ない人間を手放すべきではないと庇って下さり、室屋公もそれに同意して下さりました。

大王は、私の責任は認めつつも、「変若水の製造を奨励したのはあくまで我、あれが広まったそもそもの原因は我にある」とし、共に変若水を飲んだ臣下達と、変若水を滅ぼす為乗り出されました。

そして我々は、死後記憶を保ったまま転生する自らの性質を利用し、今まで様々な人間に姿を変え、変若水を追い続けておったのでございます。件の書物は、私が変若水について情報を集積し、書き残したものでございました。

「其方は、河勝として転生して間もない幼い頃、洪水が起こり川に流されたと聞く。おそらくその時に記憶を失ったのであろう。何がともあれ、大王がお隠れになる前に記憶を取り戻して良かった」

驚くべき事に、厩戸皇子様の正体は、転生なされた大王だったのでございます。

「然るに。首や直を治せたのも、不死人であるが故である。……我も真に驚いた。大王も随分と成長されたものよ」

そう母のように微笑む様は、あの時の記憶に残る目公そのものでございました。そう言えば、妹子殿は室屋公の、善徳殿は真鳥公の面影を宿しておりました。

「我は、一度大王となって政であれを制しようとしたのですが、室屋公が転生なされた金村殿に酷い目に遭わされましてなあ、それからは大人しく臣下としてあれの制御に携わる事に致しまして、目ぼしい蘇我に入り込んだのでございまして。室屋公は……氏に関わらず大王の傍におれそうな家へ入っておられるようですな。前は確か三輪逆とかいう者になっておりましたな」

善徳殿が言いますには、穴穂部皇子の命で大連殿に殺害されたという三輪逆殿も、不死人だったのでございました。

「思えば、あの時我が蘇生したのを見て、あの小童が変若水に走ってしまったのかもしれんな……」

そう妹子殿が独りごちますと、太媛は優しく微笑みました。

「気にせずとも良い。其方は何も悪うない。守屋が化生の者に身を堕としたのは残念だが、あれは全てを知っておった上で選んだ道だ。悔いは無かろう。……しかし、守屋が馬子を殺そうとするならば、容赦はせぬつもりでおる。物部を壊滅させたのは奴だが、やはり長年添うておると情が移ってしもうてな……」

そうでございました。大連殿や連殿は既に不死の身、いつ都に攻めてきてもおかしくはございません。

「都を守る為にも、我々が化生の者の攻撃を防がねばならぬ。あるいは、馬子が変若水に手を出さんようにせんとな。幸い、酒公は鎮所の将軍だ。我は女の身故、兵に入れぬのでな。頼んだぞ」

私は、もちろん首を縦に振りました。大王の命が危ない今、化け物を防げるのは我々しかおりませんでした

臨終の際近くに女性がいなくては転生に手間が掛かる、との事で、我々は去る事になりました。去り際、皇子様が小さく「世話になった……」と仰せられたような気が致しました。そしてその翌日、皇子様は薨去なさいました……。

その後、食人鬼の攻撃は苛烈を極めました。元々不死でございました私と首殿は生き残りましたが、ほとんどの人間の兵はこの時戦死してしまいました。

しかし、五年後、不思議な事が起こりました。大臣殿が倒れたという知らせと時を同じくして、食人鬼の襲撃が嘘のようにと止まったのでございます。

皆は、遂に食人鬼を滅ぼしたと舞い上がりました。しかし病床を訪ねた際、大臣殿は

「おそらく守屋が止めたのであろう。弱っている所にはつけ込まないとか言ってな。奴はそういう余計な節介を焼く男だからな……」

と苦笑しておりました。

「だが、最近屋敷で守屋らしき幽霊を見る事が多くなってな。これが私と目が合っても何もしないのでな、逆に不気味なのだ」

その顔は以前にも増して老け込み、すっかり憔悴しておりました。

「皆気の所為だと言うが、私はこの目で見ておるのだ……。守屋が、守屋がずっと私の方を見ておるのだ……!!恐ろしい事だ……。何がしたいのだ奴は……!!」

あまりにも恐れるので、大連殿をこの手で殺めた私が、様子を見る羽目になりました。

件の柳の木の下に、確かに大連殿だった者の影が見えました。顔は生前と同じでございましたが、その手足は完全に鳥のそれに変形しており、背中には啄木鳥に似た羽が生えておりました。

「もし、大連殿」

そう呼び掛けると、大連殿はこちらをじっと見つめました。

「何をなされておるのですか。大臣殿を殺めるおつもりならば、先に私が相手致しましょう」

すると、大連殿は首を横に振りました。

「我が恨むのは三宝のみ。雀……馬子にも都にも恨みは持っておらぬわ。我はただ、雀が危篤だというので見てやろうとしておっただけだ」

それならば、あの食人鬼は何だったのでしょうか……そう聞くと大連殿は不機嫌そうに顔を顰めました。

「確かに我と勝海は変若水を飲み、首と竹田皇子を鬼にした。さらに啄木鳥となり寺を襲った。しかしそれ以外は何もやっておらぬわ!」

彼は、拳を震わせて声を荒げました。

「あの変若水は魔物だ!不死を餌に人を虜にし、寄生しては独りでに子孫というべし化け物を 増やし、宿主に人を食らわせては再び子孫を増やす……。あれ自体を捨てても、また他の人間を狂わせ自らの複製品を作らせ、新たな宿主を引き摺り込む……。寺院にあった変若水も、おそらく欲に目がくらんだ僧が作った物であろう。あれは薬酒などではない、忌まわしい人を惑わす化け物だ!我が三宝への攻撃をやめたのも、変若水という更なる脅威が現れたためだ……」

愕然と致しました。まさか敵がそのような得体の知れない存在だとは想像も致しませんでした。

「このたび我々が群れを倒した時点で、大方都周辺の鬼は全滅した。おそらく、暫し鬼は襲撃して来ぬであろう。そうなると変若水を媒介し得るのは人だ。よって、我々が関与出来るのはこれまでだ。後は不服ではあるが貴様等に託すとする」

大連殿の姿が霧に包まれ、徐々に薄らいでいきました。

「最後に一つだけ言っておこう……」

霧は段々と濃くなり、すっかり大連殿を覆い尽くしておりました。

「蝦夷……雀の倅には注意しろ……」

そう声がするや否や、霧と共に大連殿の姿は霧散しました。

それとほぼ同時に、大臣殿逝去との事で屋敷がざわつき始めました。


その数日後、私の住まいに、殯に付していたはずの善徳殿が駆け込んで参りました。

私は、大連殿の言葉を思い出し、胸騒ぎが致しました。

「蝦夷が……蝦夷が変若水を……!!」

すぐさま蝦夷殿が住む屋敷へ向かいますと、丁度太媛が蝦夷殿を問い詰めておりました。

話によりますと、大臣殿が病に倒れた頃より蘇我への風当たりが強くなり、思い詰めた彼は、嫡男の入鹿殿に酒と偽り、変若水を飲ませ、自らも手を出してしまったというのでございます。

「人知を超えた生命力を得るが、それ故に首を斬らずには死なず、安らかな死を迎える者はおらず」

何も知らずに、最近仲良くなった山背大兄王様と遊ぶ入鹿殿の姿に、自らが記した言葉が重くのしかかりました……。


その後、成長した入鹿殿は、蝦夷殿の期待を背負い権勢を奮いました。蝦夷殿は、蘇我への風当たりを避けて縁のない田村皇子を立て息長足日広額天皇おきながたらしひひろぬかのすめらみこと──舒明帝とし、山背大兄王様を擁立しておりました叔父の境部摩理勢殿を攻め殺しました。さらに入鹿殿が跡を継いでからは、宝皇女が擁立され、皇子様は孤立致しました。

この頃、入鹿殿は「皇子様を巻き込みたくない」と独白しておりましたが、真意は定かではございません。しかし、この後、入鹿殿は皇子様を捕らえようと宮を襲撃し、争いを避けた皇子様は、逃亡先の生駒で一族共々自決なさってしまわれました……。

皇子様の関係者は都を追われ、私も逃亡せざるを得なくなりました。私は播磨の坂越へ漂泊し、終の住処と決めました。この時、都の知らせは入鹿殿が権勢を奮っているというものばかりでございましたが、私は死の直前まで、蘇我に珍しく裏表が少なく政の駆け引きが苦手な入鹿殿が気掛かりでなりませんでした。

私が坂越で死んだ直後、入鹿殿が天皇の面前で葛城皇子と中臣鎌足に殺害され、蝦夷殿はその翌日に邸宅に火を放ち自害したといいます。入鹿殿の首はその後、独りでに飛び、祟りを起こしたという噂を聞きましたが、真相は分かりません。

ただ言える事は、その後より、変若水は怨霊を作り出す物だとされていった事、そして、長屋王、早良親王、井上皇后・他戸(おさべ)親王親子など、数多の怨霊を生み出した事でございます──。


その後、朝元という遣唐使の娘に転生した後、藤原に入り込み、今ここにおるというわけでございます。

……私は上皇様の境遇を存じております。しかし、変若水にはどうか手を出さないで下さいませ。私は、上皇様が化生の者となった姿は見たくはございません。どうか御高察下さいませ……。

……さようでございますか。ならば仕方がございません。しかしどうか、今宵の話は御心に止め置かれ下さいませ……。

……え、雅仁様、でございますか?お元気でいらせられますよ。相変わらず今様がお好きなようで。……ええ、こちらの歌を、でございますか?承りました。さぞや喜ばれる事でございましょう……。


──上皇様……顕仁様が、朝廷により仕向けられた刺客により暗殺され、怨霊と騒がれる事となるのは、この後の事でございました……。

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