第5話 The Beginning

「ごめんね。ひかり」


 長い廊下。いや、廊下と言うにはあまりにもその幅は広く、天井はその視力にもよるが目を細めなければぼやけて見えるほど高い。至る所は雪原のような白で埋め尽くされ、余計な色は一切無い。大理石の光沢が扉の両側に備え付けられている二本の蝋燭を映している。壁に窓は無く、またこれといって手の込んだデザインも施されてはおらず真っ平らな白い壁がその場を包んでいる。


「理事長が謝ることじゃ…」

 響き渡る声が二つ。何処までも続いているかのような長い廊下を、大きな扉から出てきた二人は進んでいく。いや、正確には車椅子に腰掛けた女性を、もう一人の黒スーツに身を包んだ女性がゆっくりと押していく。理事長と呼ばれた女性––––––彌永美春(いよながみはる)は朱色のロングスカートに覆われた左足をさする素振りを見せる。

「…痛みますか…?」

 気にかけさせてはいけないという心積もりでいたはずだったが、癖というものにはどうしても逆らえない。

「…あ、ごめんね。大丈夫よ」


「義足。一度、唐司(とうのす)に見てもらったほうがいいのでは…?」

 足元まで伸びるスカート。初見で何も事情を把握しない者には、車椅子に腰掛ける彼女がただ足を怪我しているか生まれつきのものなのかということしか想像がつかないかもしれない。

「だから、ひかり。夏帆ちゃんのことを悪く言うのはやめなさい」

 首を半分黒スーツの女性へ向け、少しきつめの口調でそう諭す。

「あなたはいつもそう。他人のいいところを全く見ようとしない。それはあなたの欠点よ」

 黒スーツの女性––––––真那(まな)ひかりはその顔を俯かせる。短い前髪が黒眼鏡を覆うほどに。

「…申し訳ありません、理事長」


「老人達の言うことも、あなたは気にしなくていいの。何もあなたが責められている訳ではないのだから。––––––ごめんなさい。話が逸れたわね。…彼についてだけど」

 その表情にいくらか笑みを浮かべ、

「隔離棟から、何か連絡はあったのかしら?」

 会議の直前の話題に戻す。真那は内ポケットから端末を取り出し、長々と綴られた文章に目を通す。


「はい。三十分前に、研究課第二棟から直接の連絡が。ナンバー一四二二七は、十八時十五分にその身柄を確保。第一発見者は六十六班第八部隊の隊員。堕人の接触を受け、頭部殴打、出血多量を確認。隊員は巡回中のヘリコプター二機を要請。その後十八時三十三分、管理局ヘリポートに到着。医療班がその後を引き継ぎ、研究棟での施術が開始されたのが十八時四十二分。終了は二十一時二十分とあります」


「かなり時間を要したようね。死鬼風の影響については?」

 そう言いつつ、手元の腕時計を確認する。時間は二十二時を過ぎたところ。

「記載がありません。ですが、おっしゃる通り施術に要した時間からして、その影響は少なからずあるのではないかと」


「なら今は、死鬼風浄化施設ね」

「向かいますか?」

「ええ。もちろん」

 ふと、彌永の脳裏に一片の記憶が蘇る。だがその度に、今はもう失われたはずの左足に激痛が走る。それはできれば思い出したくはない過去の出来事。だが、決して忘れてはならない事実。そして、今彼女が何よりも追い求める真相の重要な鍵になりうるもの。

「是非、彼の顔は見ておきたいわ」

 




 ◆◇◆◇◆◇◆





 その一室は、まるで赤い海の底だった。

 いくつもの機材が所狭しと乱雑に配置され、中央の培養器のような円柱型の水槽を囲んでいる。室内は決して広くはなく、壁や装置をつなぐ無数の配線が足の踏み場を無くし、体を傾けなければ満足に進むこともできない。

「…」

 窓ガラスから漏れ出す真っ赤なひかりを全身で浴びるように、幼い少女が静かに佇んでいる。茶色の髪の毛を短くまっすぐに整え、赤いチェック柄の上着と白のスカートに身を包んでいる。

 じっと窓ガラスを見つめたまま、その場を動こうとしない。呼吸をしていないのではないかというほど、微動だにせず。


「あら、那月(なつき)ちゃんじゃない」

 そう声がかかり、ゆっくりと首を左へ向ける。通路の向こうから来た車椅子に腰掛ける女性––––––彌永美春だった。

「久しぶりね。もう何週間ぶりかしら」

 柔らかなトーンと表情で、窓ガラスの前に立つ少女––––––というより幼女に声をかける。

「…」

 幼女は何も答えない。ずっと二人の大人を交互に見つめながら、と言っても睨みつけている訳でも驚きの表情を浮かべている訳でもなく、ただただ無表情のまま。後ろに立つ真那がこのなんとも言い難い雰囲気をどうしたものか考えあぐねる中、

「…うん」

 と小鳥のさえずりのように、那月と呼ばれた幼女は小さく囁いた。背丈は120センチあるかどうか。だがどこか大人びた雰囲気を醸し出していることは、その見た目からは想像がつきにくい。

 窓ガラスの前まで移動するよう告げられた真那は、車椅子を黙って佇む幼女のすぐ隣に押していく。

 部屋のスライド扉のすぐ横には、「死鬼風浄化室」という文字が記されていた。

「ナンバー一四二二七は、現在集中治療を受けているはずです。もうしばらくかかると思われますが…。––––––どうされますか」

「少しここにいましょう。できれば早いうちに、会えるときに会っておきたいわ」


 それからしばらく、三人の間に会話はなかった。三人とも、その視線を一点に集中させる。まるで外に広がる夜景を眺めるかのように。この世のものとは思えない神秘的な何かに目を奪われるように。三人の目の前にあるのはただ赤く濁る深海のような室内。その色は濃く、中の様子を詳細に確かめることは困難。辛うじて機材や配線や、中央の大きな培養器などの輪郭––––––シルエットが確認できるだけ。

 彌永は車椅子に腰掛けたまま、ほぼ目線が同じ位置にある隣の幼女––––––那月を見遣る。真剣な眼差しとは言い難いが、かといって退屈そうにしている訳でもない。何も考えず、目に入る情報に関して何の感想も抱かず。今の那月の表情から読み取れる感情に一番近い表現は「哀愁」ではないかと彌永は思ったが、その表現すらも今の那月の状態の本質を説明するには余りにもかけ離れているとも思えた。最早、視界に映る映像さえ自分や他の者とは違っているのではないかとさえ考えさせられる。


「お疲れ様です美春さん」

 声のした方を振り向くと、そこには白衣を身に纏った女性が立っていた。

「施術、終了しました」

 




 ◆◇◆◇◆◇◆

 




 先程までとは打って変わり、部屋の照明は白の蛍光灯により明るさを取り戻していた。壁は本棚で埋め尽くされている。A4の書類がいくつか床に散乱しており、乱雑に配置された机の上もそれは例外ではない。真那はその中に、「適正者検診/14227」と達筆で記された黒いプラスチックの分厚いファイルを見つける。

「…これは」

 思わず一人つぶやき表紙をめくろうとするが、

「真那さん。申し訳ありませんが、 ここにある書類にはあまり触れないでいただきたいのです」

 と、白衣の女性の声がかかる。今にもそのファイルに触れようとしていた手を止め、

「私は––––––」

「たとえ、美春さんの側近の方であろうとも。決まりは決まりです」

 三つのティーカップにコーヒーを注ぎながら、真那の方を見ずにそう告げる。釘を刺された真那は眉間にしわを寄せ、大きなため息をつく。

「少しも変わらないな。会わないうちに、私へのその態度を改めてくれるのかと思っていたが」

「嘘言わないでくださいよ。そんな期待、初めからしていないでしょうに」

 両手でトレイを持ち、部屋の隅に置かれた小さな長方形のテーブルにそれを静かに置いた。その四辺に黒いソファが置かれており、那月と彌永がお互い隣に腰掛けている。

「さぁ、できましたよ。といっても、インスタントなんですけどね」

 彌永の前にティーカップを差し出す。すぐ横には赤色の液体が注がれたグラス。

「那月ちゃんは、アセロラジュースでよかったよね」

 白衣の女性はトレイを元の場所に戻しながら、彌永の隣で足を前後に揺らしている幼女に確認を取ったが、それに対する返答はなかった。先ほどと同じように、目の前の一点を見つめている。

「冷めますよ」

 未だ物色を止めない真那に、白衣の女性は彌永と向かい合う形でソファに腰掛けながら再度声をかけた。その様子を見て彌永は、

「ひかりは、“彼”のことになるとつい夢中になるのよね」

 その言葉に、真那は明らかに顔を赤らめた。白衣の女性はすかさず、

「え、真那さん。聞き捨てならないですね、事実ですか?」

 顔をニヤつかせながら聞いた。

「…理事長。誤解するような言い方はやめてください」

「えーいいじゃないですか。恥ずかしがることないですよ。まあかなり年の差はあると思いますが、私は別にいいと思いますし、恋なんて周りの意見を気にす––––––」

 そこまで言いかけた白衣の女性だったが、気づけば部屋の逆側にいた真那がいつの間にか目の前にいた。まばたき––––––目を閉じる前はかなり離れていたが、一瞬閉じ、再び開いた時には視界の大半は真那の顔で覆われていた。

「…すみません」

 白衣の女性の座るソファに右足を乗せ、左手を高い背もたれに当て体重をかける。文字どおり、どこにも逃げられない状態だった。

「でも…、ここではやめましょう。真那さん」

「ひかり落ち着いて、冗談よ」

 白衣の女性は顔をこわばらせ完全にやり過ぎてしまったと後悔した表情だが、一方のこの状況を生んだ彌永は冷静にコーヒーを飲むだけだった。

 しばらく超至近距離で睨みつけていた真那だったが、やがてそれも止め、そのまま白衣の女性の横に腰を下ろした。右足を左足の上に乗せ、両腕を組む。目の前のコーヒーには手を出そうとしない。

 不機嫌そうに何もない空間に顔を背ける真那。固まった体の力を抜き緊張の糸を解く白衣の女性。優雅にコーヒーを飲みながら二人を正面から捉え、このツーショットもアリだと微笑みを浮かべる彌永。そして、ようやく目の前のアセロラジュースに手をつける那月。

「相変わらず偉いわね、那月ちゃん。––––––これも夏帆ちゃんのおかげかしら」

 彌永は、四人が席に着くのを確認してから目の前に出されたものに手をつける那月に感心した様子を見せた。

「いえ、私は特に何も。––––––ただ、お客さんがここに来た時にお茶とか入れるので、それを見て真似してるのかな」

 彌永はストローを通してアセロラジュースを飲む那月の頭を優しく撫でる。茶色の髪の毛が蛍光灯の光を綺麗に照り返している。

 その時、ふと彌永の脳裏に那月と初めて顔を合わせた日のことが思い出される。まだ記憶に新しい––––––あれは大雨の降る日。初めて見た那月の姿はボロボロの衣服に泥だらけの全身。男性の対堕人戦闘員(ヴェフパーク)に手を引かれ、天門霊送機関の管理局ヘリポートに降り立った。その時印象的だったのは、眼だった。かなり時間の経った今でこそ一見穏やかな印象を受けるが、当時は眉間にしわを寄せ、見るものすべてを睨みつけていた。少なくとも、他の同年齢の女児が見せるような表情では決してなかっただろう。横を通り過ぎた時、彼女の体からは血の匂いがした。恐らく雨が自然に洗い流したのだろうが付き添っていたヴェフパークに事情を聞くと、発見した時は身体中が真っ赤な血で染まっていたという。確かに治療で見つかった出血痕は幾つか見られたが、そのヴェフパークが証言した血液の量とはどうしても合致しなかった。

 そのほとんどは返り血だった。発見現場の側には二人の大人が横たえていた。すでに息はなく、死因は大量出血によるものだと鑑定が結論付けた。身元はすぐに判明。利瀬那月(りせなつき)は七歳という年齢にして自分の両親を失った。


「…大丈夫。私たちが守ってあげるからね」

 艶やかな髪の毛に自分の口をつけ、優しくそっと抱きしめる彌永。

 利瀬那月はその気持ちを知ってか知らずか、目の前の赤いアセロラジュースをただ無感情に眺めているだけだった。






 ◆◇◆◇◆◇◆






「ところで、彼の様子は」

 しばらく黙っていた真那だったが、唐突にここへ来た一番の理由を切り出した。気持ちも少し落ち着いたのだろうか、未だその表情から消えないしかめっ面を残して聞いた。

「まだポッドの中です。じきに終わると思いますが、しばらくは経過観察が必要かと」

 どうしても彼のことが気になるのかと、白衣の女性––––––唐司夏帆(とうのすかほ)は、どうしても口に出したくなるその言葉を今度ばかりは心の中にしまっておいた。

「それは、ポッドから出した彼を一度ベッドで安静にさせてから、日常生活で支障ない程度に回復した後のことかしら」

 彌永もそのことを忘れていたわけではなかった。間髪入れずに疑問を返し、部屋の中央にある巨大な培養器を見る。

「その通りです。幸いにも命に別条はなく、懸念されていた脳に障がいが残る心配もありません。––––––ただ“死鬼風”を微量ながら浴び体内に取り込んでいるため、私たちが想定する最悪のケースになる可能性も完全に否定はできない。––––––それに、彼は適正者検診をすっぽかしたままですしね。先程も催促のメールはしたんですけど、無視してます。またMr.モディに怒られますよ」


「トリュヌフ・ブラック・モディか。元気にしてるのか?」

 隣の真那が懐かしい名前を耳にし、聞き返す。

「私も、電子メールのやり取りでしかありませんが。変わらず、無愛想な文面です。––––––そういえば、近々また日本に来るとこの間連絡が。お二人とも時間を作ってお会いしたいと」

「七年前だったかしら。彼が最後に日本に来たのは。––––––私の知らないうちにさっさとアメリカに帰って…。びっくりしたわよ。別れの挨拶もなしかって」


 その時、室内にアラートが鳴り響く。ポッドのランプが緑色に点滅していた。

「さぁ。ようやく終わったみたいですね」

 ティーカップをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がる唐司。赤い溶液の溜まるポッドに近づき、側面に備え付けられているキーボードを叩く。すると赤い溶液が徐々にその水位を下げていき、今まではその姿を確認することのできなかった少年の姿があらわになった。

「死鬼成分はあらかた除去しました。あとは静かに療養です」

 水中に浮いていた少年はポッドの底にわずかに落下し、ぐったりと横になる。唐司はポッドへ体半分を入れ、少年の体を抱きかかえる。

「は…裸じゃないか」

 その光景を見て、真那は思わず誰もがするであろう疑問を口にする。が、利瀬は相変わらず無表情のまま、彌永は全く恥ずかしがる様子を見せずじっと少年の顔を観察している。

「当たり前じゃないですか。液体を直接体内に注入するんですから。衣服着用でも施術はできますが、効率は悪いので」

 身体中水まみれになった少年の体に、真っ白なローブを巻きつけていく。全身を覆い隠し、すぐ横にあるストレッチャーに寝かせる。ベルトである程度の固定を施した後、

「さて。これから私は再度医療棟の方へ彼を移送しますが。––––––那月ちゃんは、私と一緒に行こうか」

 小さく頷く利瀬。唐司––––––と言うよりストレッチャーに横になった少年に寄り添う。

「では、今日はこのくらいにしましょう。彼の顔が一目見れただけで十分です。ひかり、お願いできるかしら」

 真那はソファの横にある車椅子を彌永のそばに運び、彌永を真正面から抱きかかえ、再び車椅子へと腰掛けさせる。

「ありがと。––––––夏帆ちゃん、トリュヌフから連絡があったら教えて。早いうちに予定を空けておきたいわ」

「了解です、美春さん。––––––では私はこれで。おやすみなさい」

 深々と頭を下げ、利瀬と二人、ストレッチャーをゆっくりと押していく。


  真那は手元の腕時計を確認する。もう二十二時三十分を回っていた。

「お部屋に戻られますか」

 そう問われた彌永は、しばし考え込む素振りを見せる。

「ええ、そうね––––––」

「…どうかされたんですか」

 唐司と利瀬、二人と別れた途端、彌永の纏う雰囲気が一変したように真那には思えた。その表現は恐らく語弊があるのだろうが、いや、二人と別れた後というより、あの少年の顔を見た瞬間からかもしれない。そう直感した。その時は唐司の手前、その内に秘めた何かしらの感情を表に出さなかったのかもしれないが、今のこの、何かをじっと考え込む様子。

「ひかり。彼の––––––一四二二七の今日の行動記録、分かるかしら」

「…あ、はい。私の端末から天霊の中央情報局にアクセス––––––、いや」

 真那は再び内ポケットの端末を取り出す。キーを何度か押し、耳元に当てる。

「––––––天門学園理事長補佐、真那ひかり。パーソナルコードXB七二五九二、そちらで認証お願いします。…ええ。––––––こちらの端末に、一四二二七の今日の行動記録を送ってもらえるかしら。––––––ええ、そうよ。…ええ、ありがとう」

 


 通話を切り、しばらく黒い画面を眺めていると、早速メールの着信があった。真那は送られてきた添付ファイルを開く。

「きました」

「知りたいのは、六十六班の隊員が彼を発見した時の状況と、その数時間前の記録」

「はい」

 



 真那の端末には天門霊送機関周辺の地図と、そこにいくつかの矢印マークが表示されていた。矢印の横には日時と時間。天門霊送機関付属天門学園にも矢印が振られており、一九九八年二月十二日十五時三十一分とあった。そこから青線をたどっていくと天門霊送機関の真南にある山道に入り、かなり遠回りをして本来南西に位置する天流町に続いていた。そこからは南東方向に青線が伸び––––––


「誓の丘…か…」

 彌永は右手を口に当て呟いた。

「判っていらしたのですか?」

 彌永の反応に、真那は驚く。

「理由なんてないわよ。私の中の勘」

 こういうことを目の当たりにする度に、真那は彌永美春という人間の質の高さに驚愕する。これまでも驚かされてきたことは何度もあったが、表面上外見上は実に穏やかな印象を周りの人間に植え付ける。そして、その内に忘れてしまいそうになる、この人の能力の高さを。勘だと言い張っているが、恐らくその頭の中では驚くべき洞察力が働いているのだろう。そして本人は決して、普段からその能力の高さを見せびらかそうとはしない。

「明日。誓の丘に行ってみましょう。ひかり、万一に備えて基B級の装備を」

「了解しました。護衛は私一人で?」

 彌永は顔をニッコリ、頷いてみせた。

「十分よ。大きな動きは老人たちに余計な負担をかけかねないからね」






 ◆◇◆◇◆◇◆





 完全に照明が落とされ、普段は壁も天井も床も真っ白で覆われているこの部屋も今は漆黒の闇に包まれている。時刻は夜中の二時頃。いくつもの敷布団と掛け布団が並べられており皆静寂を保っているが、いくつものある部屋のうちの一つ、その隅で何やらもぞもぞと動いているものがあった。

「––––––あった。リムーバル法案」

 薄暗い部屋の中で、晩崎鮮陽は誰にも気づかれないように端末を開き、その照明の明るさも最小限に抑え、キーを押す指力もできるだけ弱くする。いろいろなことが起こったどころか、命の危険さえもあった一日。あまつさえ、心配と不安が限界に達した同室の者に胸倉を掴まれ、二、三度頬を叩かれたのがつい先ほど。普通ならば体力と気力は衰弱し、眠りに誘われることは容易いはずであったが、少しでも気になることは一刻も早く解明するというのが、晩崎鮮陽という少女だった。


「あんた。死んでたわね」

 胸倉を掴み、二、三時間程怒り通した後その体力も尽きたのか、ルームメイトは晩崎鮮陽の体を床に投げつけ、呆れた口調で自分の寝床に戻っていった。優しく声をかけてくる者や、遠巻きにバカを見る目をした者もいた中、晩崎鮮陽はしばらくそのまま黙って床に仰向けになっていた。

 消灯時間が近づき皆が寝静まる準備を始める頃になってゆっくり起き上がり、無表情のまま自分に割り当てられた布団に入っていく。改めて、先ほどの言葉を思い出してみるが今日が特別、命の危険に瀕したというのは、いささか考えが甘いのではないだろうか。晩崎鮮陽はそう考えていた。日々すぐ隣をかすめるようにして走るトラックに少しでも接触すれば、死ぬ。今自分がいる高さ六十メートルの高さから身を投げ出せば、死ぬ。空気中に浮く病原菌に感染すれば、死ぬ。

 死は、日常の中にある。


 晩崎鮮陽は軽く打ち付けた後頭部をさすりながら、検索結果一番上のURLをタップする。

 

 “一九八三年成立。天門霊送機関と政府の共同署名。堕人の体構造は基本的に人間と変わりない。だが、健常者には有害な毒素––––––死鬼風が堕人の体内に含まれていおり、放置すれば空気を伝って健常者の体内に入り込み、土葬では毒素は分解されず、いずれも健常者の堕人化を招くだけ。そこで提案された方法は、高熱度による焼却処分。この方法は民意に支持され、第二次世界大戦後急速に普及していく”


 そういえば、と晩崎鮮陽はつい最近開いた文献に“堕人が初めて発見されたのは一九五〇年頃、世界各地で”と書かれてあったことを思い出した。


 “三十年以上も法改正なされなかった理由としては、ARG(Anti Removal Group)の存在が挙げられる。「人の敵である堕人も、元は同じ人である」と公言し、その規模はかなり巨大。西日本にある焫昇島(ぜっしょうとう)に本拠地となる高層ビル群を所有。天門霊送機関諜報課と警察機構による協働査察も複数回行われ、現時点までに明らかになっている人数規模はおよそ四十万人にのぼると推測される。公には非営利団体と称され、認識されている。海外にも複数拠点を所有しているとされている”


 “「反リムーバル騒動」と呼ばれる一連の出来事は、リムーバル法案を語る上では欠かせない。事の発端は、一九五四年の東北地方で起こった神室村集団焼身事件。事件当時は遺体は全て健常者であるとされていたが、後の遺体解剖の結果堕人も複数含まれていたことが判明。決定的な証拠は見つかっておらず、事件が起きた経緯は不明だが、焼け焦げた堕人の体からは死鬼風が全く検出されないことが大々的に報道された。堕人の攻撃自体防ぐこともままならなかったが、この事件を機に対処法が判明し、焼却することが堕人の最終的な処分方法として日本のみならず世界中に広まった。ARGはこの方法を極めて残虐かつ非人道的な行為であるとし、即座に処分方法の変更を天門霊送機関に要求。受け入れの意思を示さない天門霊送機関に対し、ARGは任務妨害、工作活動などあらゆる手段を行使。時には広大な敷地を有する天門霊送機関を大勢の人間が取り囲むなどして見せた”


「あの時の記憶…。やっぱりこの状況に似てる。私もあの場にいたのかも…」


 “これらのARGの行動を全て否定し、立法府は「リムーバル法案」を可決。天門霊送機関はこの決定に沿い、従来の処分方法を全国に拡大。以降、ARGの活動に目立った動きは見られない”


 今にも閉じそうな瞼を擦り、必死に文字を追う目を動かそうとする。周りはすでに深い眠りに落ちている様子。だが己の睡魔も極限に達し、今にも意識が失われようとしていた時、館内にけたたましいサイレンが鳴り響いた。


「!」


 サイレンの種類は一つではないが、この大音量の、人間が聞くと不快な気持ちになる音は、緊急事態時に使用されるサイレンだった。



『複数の熱源反応を確認。詳細な数は不明。十二秒前に「ゲート」の発生をレーダーで確認したことから、堕人である可能性が極めて高いと推測される。各員第二種警戒態勢に移行の後、攻撃を開始。––––––繰り返す。––––––』






 ◆◇◆◇◆◇◆






「おせーぞ葉宜(はぎ)!」

 若者が部屋に駆け込んできたことに気づき、短茶髪の男が声を荒々しくあげる。息を切らしながら勢いよくドアを開けたこちらも茶髪の少年。

「士峰(しほう)さんが早いんですよ。堕人来ること知ってたみたいな––––––」

 士峰と呼ばれた男は座っていた机から飛び降りる。左耳のピアスが光に反射し、ネックレスが金属音を発生させる。

「んなわけねーだろ。馬鹿かてめぇは」

 重低音の効いた声。乱暴な口調。容姿も相まって、チンピラか何かを思わせる。

「でも本当に早いですね。強襲警報あってからまだ五分ですよ。いつもならこの二十分後くらいに––––––」

 対する葉宜と呼ばれた少年は背中に背負っていたリュックサックを幾つか並べられている椅子の一つに置いた。それは士峰が今の今まで足をかけていた椅子の二つ隣。だが彼の言葉は聞き覚えのあるもう一つの声に遮られる。

「ただこの部屋の前を通りががった瞬間に強襲警報を耳にしたと、正直に告白する気は皆無のようね」

 女性の声だった。扉を押し開け右斜め前の机の上に座る士峰は真っ先に視界に入っていたが、その逆––––––扉から見て左斜め前のソファに静かに腰掛けている女性には、葉宜は気付かなかった。真後ろを振り返り、女性の姿を確認する。

「新冨(しんとみ)さん、いたなら声かけてくださいよ」

「あらごめんなさいね。存在薄くて」

 新冨––––––そう呼ばれた女性はそのスタイルのいい足を組み、眼を細める。

「いや誰もそんなこと言ってないじゃないですか。––––––…なんですかその眼」

「知らんぞ良さん怒らせて」

「でどうなんですか士峰さん。珍しく早くここへ来ているのは果たして偶然なのか否か。非常に興味深いのですが」

「後、普段用がない限りはこのウェイティングルームのある第三棟自体に近づくことはないっていうのが、私達の知る士峰稑炉(しほうろくろ)という男だけれども」

「あー久しぶりだから思い出したわ。この二人が揃うとすげー面倒くさいんだったそーだった忘れてた。––––––で、どうだったんすか良さん。噂じゃ例の糞坊主、連れ戻したの良さんらしいじゃないっすか」

「え、そうだったんですか」


「えぇそうよ。よく知ってるわね。無駄なことだけは」

「眞堂さんがこの部隊に入れるとかなんとか」

「知らないわよ私は。哨戒任務中にたまたま熱源反応感知して、一番近いのが私だった。そしてそれがたまたま授業放っぽり出した一四二二七だった。ただそれだけのことよ」

「はっ、いい加減な奴か。で、そんな問題児がなんでこの部隊に––––––」

「どの口が言うか」

 士峰と葉宜の腰掛ける椅子の後ろ、新冨と呼ばれた女性の視線の先には、いつの間にか別の扉から入ってきた大男が立っていた。茶髪をオールバックにしている。

「…いたんすか、仲霧隊長」

「今思ったのだけど、この隊の異様な茶髪率の高さは何?男子の間で流行ってるの?」

「今言いますかそれ」

「眞堂さんからお達しだ」

 雑談に勤しむ隊員達に向かって、奥の扉から現れた大男は毅然とした態度で言い放つ。

「目標は複数。現在もゲートの出現は継続しており、恐らく数は増加している。天門霊送機関はヴェフパークを総動員してこれに当たるが、それにはもう暫く時間がかかると思われる。だが敵は待ってはくれない。そこで、現時点でウェイティングルームに集合している面々で任務に当たって欲しい。遵守すべきことは単独で接敵しないこと、必ず複数人、最低でも二人一組で事に当たることだ。後からウェイティングルームに来た者も同様、必ず複数人で随時出撃。以上だ。質問は」


 士峰が即座に手を挙げる。

「敵の現在位置は」

「外周部外壁より外側がその殆ど。僅かだが、内側の一般居住区にも熱源反応が確認できる。現在活動可能な部隊はそちらから優先的に当たらせている」

「眞堂さんは今どこに」

 新冨も間髪入れずに疑問を口にする。

「現在上級臨時作戦会議に出席している」

「では僕たちは––––––」

 葉宜と呼ばれた少年は音静かに立ち上がり、目の前にある大きなリュックサックの中身を探る。葉宜の手に引かれて姿を現したのは、長い一本の刀だった。

「只でさえ戦力の足りないこの状況に、一刻も早く加勢する必要がありますね。行きましょう、良さん」

 入ってきた扉とは反対側に歩いて行き、白い壁の前で立ち止まる。柱のすぐ横に備え付けられてある幾つかの小さなスイッチのうち、一つに触れる。

「なんで俺の名前は呼ばれなかったのか、聞いてもいいか」

 どうでもいい疑問をあくまでも冷静に士峰は問うた。

「彼女さんと会うんじゃないんですか?」

「あ?なんで。…––––––!」

 士峰は両腰のホルダーに刺してある拳銃に手をかけ、

「だってその鍵、彼女さんの部屋の合鍵でしょ?この部屋に忘れたから取りに来––––––」

 葉宜目掛けて銃弾を打ち込んでいた。



 銃口からは白い煙。士峰は口角を僅かに吊り上げ、小さく首を振って見せた。

「場所を選ぶんだな糞餓鬼。十代でその辺に興味があるのかは知らんが、下衆の勘繰りなんざするもんじゃねぇ」

 葉宜は左腰にかけていた刀を左手で掴み、まっすぐに引き出し手を顔の前で止めていた。放たれた弾丸は刀身にぶつかり、原型をとどめることなく床に落ちた。

 目の前のやり取りを微動だにせず眺めていた新冨良はゆっくりと立ち上がり、壁のほうへと歩いていく。立てかけてあった刀を手に取り、葉宜のすぐ隣に立つ。葉宜が押そうとしていたスイッチに手を伸ばし、

「先に行かせてもらうわよ」

 押し込むと同時に目の前の壁が天井との接着部分から切り離され、同時に冷たい風が部屋に入り込む。プルシャンブルーの夜空に輝く星々。月が太陽の光を白く照り返す。轟音と共に壁が前面に押し出される。

「単独で動くなよ、新冨。ちゃんと二人も連れて行け」

 後ろで眺めていた仲霧が未だ睨み合う男二人に、「お前らも行け」と顎で示す。

「しばらくすれば増援も来るだろう。人数が少ないうちは無理に殲滅することを考えなくていい。ただ一般居住区域に敵の手を伸ばさせるな。現時点での防衛ラインをそれ以上後ろに下げるな。あと、単独になった場合は必ずここへ退避しろ。必ず最低二人一組だ」

 了解、と新冨は答え、横倒しになった壁の上に立つ。体のほとんどを覆う黒いコートと黒い髪の毛が強風により激しくはためく。右腰にかけた鞘から刀を抜き、左手で握りしめる。


「ちっ。ふざけたこと抜かしやがって」

 士峰はもう片方の拳銃を抜き、文句を言いながらも新冨と同じように壁の上へ立つ。

「すみません。でも、図星だからってすぐに怒りすぎですよ」

 あくまでも冷静に、だがその顔に少し笑みを浮かべながら、士峰の後を追うようにして二人の間に入り壁の上に立つ。だが、

「…!…さぁ…むい…!」

 葉宜は刀を持ったまま、両手で二の腕を掴み体を震わせる。

「敵は地上だから、降りればそこまで寒くはないわよ」

 新冨は霞みがかっている外壁をじっと見つめながら、ふと思い出したように仲霧を振り返る。

「待って。外周部外壁ということは、三百六十度全方位から包囲されているということですか?」

 その問いに対し、仲霧は何も反応を示さない。黙ったまま。

「なら、喋ってる暇はねぇな。こっちに死人が出る前に、加勢するぞ!」

 一時の沈黙を破ったのは士峰だった。気付けば彼は壁を蹴り、その身を空中に投げ出していた。

「ちょっ…。抜け駆けなしですよ!––––––行きましょう新冨さん!」

 葉宜もその後を追う。


 新冨は、だが無言のまま再び仲霧と顔を見合わせる。

「とりあえず三番地方面へ向かえ。詳細な位置は後ほどコントロールルームから通達があるだろう」

「…。まるであの時の再現だと、そう思いましたか」

 刀を握る左手に、力がこもる。黒髪が顔を覆い、新冨の表情は仲霧からは伺えないが、想像するには難しくなかった。

「今は、お前の務めを果たせ」

 それ以上、仲霧は何も言わなかった。

 新冨は歯ぎしりを隠し、細めた目を先行した二人に向けたまま、空中を駆けた。

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