第4話 Fallen Human
手首まで伸びる制服の袖を軽く捲り、左腕に巻くアナログ腕時計をふと見ると、時刻はもう六時を過ぎようかというところだった。先ほど渡った天流橋から見えた風景とは少し違い、空は薄黒い夕闇に包まれている。真下に流れているはずの川もそこにあるはずなのだが、橋の支柱や所々に散らばっている岩に水流がぶつかる音が聞こえるだけだ。街灯や少し離れた住宅街の明かり、そして月の光が水面に反射している。僅かに白く泡だつ水飛沫。それをぼんやり眺めていると、心なしか思わず吸い込まれそうになる。
二人は無言のまま天流橋を渡り、再び閑静な住宅街へと入っていく。窓には橙色の光が溢れ、もうすぐ夕御飯を一家団欒で囲むのだろうか、様々の食材の匂いが鼻をくすぐる。子どもの笑い声がいまにも聞こえてきそうな気がする。
「あーお腹減った」
少し前を離れて歩く晩崎鮮陽が独り言をつぶやく。寒いのだろうか、腕を組み体を少し縮こませながら歩いている。
「狭孤磨さんが言ってたこと、あれホント?」
今度のセリフは、晩崎鮮陽は顔をこちらに向けて呟いた。眉間にしわを寄せながらなのは寒さが身にしみているからか、それとも彼女の中での少年に対する現時点での信頼度の表れなのか。そんなことを勝手に考えながらであったが、少年はたった今生まれた全く別の疑問を切り返した。
「誰、それ」
再び晩崎鮮陽が怪訝そうな顔をして見せたのは、今ならば先ほどの疑問は後者に当たるといえるのかもしれない。ため息ひとつ、そして組まれていた腕を解き右手を軽く挙げた。
「––––––あぁ…、えっと、何、ホントに知らないの」
「すまんが、解説を頼む」
「狭孤磨雄太郎。天門霊送機関のテトラよ」
そう言い、晩崎鮮陽は少年の顔をじっと見つめる。五秒。しばらくの後、わかったわかったと心の中で言いながら二、三度首を縦にふっているのが少年には手に取るようにわかった。もう彼女の口調はその心の内をさらけ出したような、うんざりとしていた。
「––––––えっとね。テトラってのは…。なんて言ったらいいかな。––––––戦闘課の中で物凄く優秀な成績を残した人に与えられる称号みたいなものよ。あ、ちなみに四戦士って書いてテトラね」
「四戦士…。四人いるのか?」
「今はいないけどね」
「今は?」
「うん。今は––––––…、確か二人。四年前に一気に二人が抜けちゃったんだって」
「四年前…」
そこで少年は先ほどの話を思い出す。
「爆発があったのも…、確か四年前だったな」
「爆発。んまぁそうだね。ま君からすればその爆発が全てなんだろうけど、天門霊送機関はあの日起こった全ての事件が一連のものだって言ってる。住宅街を襲った堕人、巨大な竜巻、そして大爆発。この“オアス・ヒルの悪夢”全てが、四人の四戦士のうちの二人が天門霊送機関の脱退につながったって言ってる」
「“オアス・ヒルの悪夢”…」
ここでもうひとつ、突然少年の中でどうしても無視できない手がかりが浮上した。手がかりと言うより、この真相が明らかになれば長い間探してきた「本来の自分」を知り、取り戻せるのではないか。そんな予感が脳裏をよぎった。
「一人はその狭孤磨って人だろ。もう一人は誰なんだ?…。…––––––いいってもう」
哀れなものを見るような細い目つきを向けられたのは少年は記憶の限りでは初めてだった。
「ほんっとに。何も知らないんだね。新聞読んでないの?」
「あいにく、最近は自分探しで忙しかったんだ。––––––で、どうなんだ」
「…もう、でたらめ言って…。––––––!」
晩崎鮮陽が突然身構えたことで、少年も何が起きたのか一瞬で分かった。左右には一戸建ての住居。二人はその間に長く伸びるコンクリートの地面に立っている。その二十メートル離れた先、本来ならば丁字路に差し掛かり鼠色のブロック塀が視界に入るはずなのだが、何かがそれを遮っていた。
何か。あまりにもこの世のものとは思えない、形容しがたい物質。小道のど真ん中に宙に浮かんだ黒い円状。その直径はおよそ一メートル。よく目を凝らして見ると中心部に向かって渦を巻いている。円状ではあるが、靄か、霧のようなものが収縮を繰り返しており、その形は常に僅かに変化している。
「逃げ––––––」
少年の前に立っていた晩崎鮮陽がそう叫びながらその身を翻し、少年の元へ走ってくる。そして晩崎鮮陽が振り返ったと同時に、その後方の黒円に変化が生じる。物体が、明らかに何かの物体がその平面上の黒円から突出している。それは徐々にその姿をあらわにしていき、最初に見えたものは爪だとわかった。晩崎鮮陽は走りながら少年の左腕を掴み、たった今来た道を戻って行こうとしている。すれ違いざまに僅かに見えたその顔は、この数時間に見せた立ち振る舞いからは想像もできない、一言で言えば絶望だった。血の気が引き、目は泣きそうになっている。配慮を無視した晩崎鮮陽の握力と後ろ向きに引っ張られる力に少年は思わずうめき声を上げたが、それを気にする様子は全くない。強制的に進行方向を変更を余儀なくされた少年は、黒円に浮かんだ正体不明の物体の全貌を目撃することなく、天流橋へと目線を変えた。
「ちょ––––––、どこ行くんだ!」
一瞬躓きそうになりながら何とか疑問を口にする。それでも晩崎鮮陽は少年に気を遣うどころかそのスピードを緩めはしない。
「く…そ…っ、とにかく––––––」
完全に我を忘れている。今のは明らかに少年に疑問に対する返答ではなく独り言をつぶやいている。躓きそうになった瞬間、目線は晩崎鮮陽の足元に向けられた。紺色のスリッポン。紐がないタイプの靴だった。少年と同じ所謂学生服を着ていたことから安易に予想はついたが、これでは十分に走ることなんてできないだろう。後ろ足で地を蹴る瞬間も黒のニーハイソックスを履いた踵が見え、今にも脱げそうにあった。少年は自分は今日に限って紐のついたスニーカーを履いてきたことに安堵した。これで自分までブカブカの靴を履いていようものなら、状況はさらに絶望的だっただろう。前を行く晩崎鮮陽の走り方は、日頃から運動をおざなりにしてきたと言わんばかりだ。その足音は無駄に大きい。バタバタと力任せに走るだけではいよいよ体力も心配だと頭をよぎった少年は、一気にギアを入れその先導を交代した。
「力抜け。足動かすだけでいい。転ぶなよ」
「ちょ…ちょ…」
自分の思惑とは違ったせいか、晩崎鮮陽は戸惑いの表情をして見せた。少年は晩崎鮮陽の右手を掴み、閑静な住宅街を疾走する。すぐに先ほどの天流橋がその全貌を現した。
「天流橋はダメ!“誓の丘(ちかいのおか)”に入ったら、それこそ逃げ道がなくなる!」
まっすぐ鉄橋を渡ろうと、十字路を曲がる動きを見せない少年を見て思わず叫ぶ。
「住宅街は見晴らしが良すぎる!捕まるのは時間の問題、被害も拡大するだけだ!」
「––––––いやよ!あそこだけは…絶対にっ!」
握られる手を無理やり引き離し、その反動で少年はコンクリートの車道に頭から突っ込んだ。入り口付近で体重を右に傾けた晩崎鮮陽は橋手前の「天流橋」と刻まれた石碑に身体をぶつけた。
「くそっ…」
少年はすぐさま後ろを振り返り、追っ手との距離を確認。一瞬、焦点が合わなかった。まだそれなりに距離はあるだろうと考えていたが、そんな甘ぬるい考えは目にも留まらぬ速さで振りかざされた鋭い何かに切り裂かれた。
「あっ…!!」
思考が停止してどれくらい経っただろうか。どれくらい、と言っても三十分も一時間も経ったというわけではない。目の前で突然起きた出来事に、頭から足先まで金縛りを受けたような。時間の経過の自覚もおぼつかず、晩崎鮮陽は自分の体の何一つ動かすことはできなかった。右足を河川敷に続く草原の下り坂にはみ出したまま、この薄暗さの中視認出来るのは鉄橋の赤い手すりに更に飛び散った赤い血と、その隙間に仰向けに倒れる少年、そして至近距離で少年を見下ろす“人に似た何か”だった。
「そんな…」
“人に似た何か”。人との共通点は幾つかあるが、人ではない。かつて人であったものだが、人ではない。人ならざるもの。死んだ人間。––––––人が堕ちた末の末路。
“俗称は堕人。死した人間の成れの果て。だが、死した人間全てがその呪われた運命を辿るとは限らない。論理的な証明は未だ未解明だが、天門霊送機関米国本部の発表した統計によると、おおよそ堕人になる人間は生前に堕人との接触が確認されている。ここでの接触とは、体同士がわずかに触れ合う程度のことを指しているのではない。捕食時、堕人は主に長さ三十センチメートルあるかぎ爪を用い人間を攻撃し、堕人の体成分が人間の体内に入ると、堕ちる可能性が急速に高まるとされている。事実、堕ちる直前の人間の体表面には概ね切傷、擦傷、いずれにせよ出血が見られた。外表ならばまだしも、堕人と運悪く相対し出血が見られた場合には、通常では二度と人間の姿に戻ることは不可能である。––––––一九八五年一月八日”
鉄橋に備え付けられている電灯に灯がともる。ただのシルエットが、その姿をあらわにした。晩崎鮮陽の目の前にいるのは、紛れもなく、飽きるほど文献で目にしたものと同じ、堕人だった。
「…堕人…!」
全体的に見れば、人間の姿と相違ない。が、顔も腕も足も、目につくところはすべて怪物のそれだった。皮膚は肌色ではなく灰色。体毛は見当たらない。瞳は黄金色の輝きを放ち、頭頂部には二本の黒いツノがのぞかせる。口元も人間とは思えない鋭い歯が並び、恐竜のように前方に突出している。肩から手先、胴体部、足先まで所狭しと分厚い筋肉がひしめき合っている。手も足も、白く濁った爪が長く伸びている。まるで獣のような呼吸音、よだれを垂らし、吐く息が白いのは恐らく季節柄という理由だけではないだろう。
晩崎鮮陽は堕人を目にするのはこれが初めてではない。それは単に文献で目にしたことを含めばということではない。もちろん、テレビ中継を通じてというわけでもない。彼女の目で直接見たことはある。いや、今この世界で生きている人間で果たして堕人の姿を見たことがないという人間がいるだろうか。ただ、それを見て他人事のように感じている人間が大半だということ。そんな厄災が自分の身に降り掛かろうなど、微塵も考えない。考えようとしない。それは晩崎鮮陽も同じだった。ここまでの至近距離で堕人を目にしたのは、記憶の限り初めてのことだった。
「に…にげ…」
そこまで言いかけて、なんとか動かそうとした体を再び止める。ここで今自分一人だけならば、逃げに徹するのが正解だ。学園の教科書にも載っている。万が一堕人に遭遇すれば、常人は逃げるしかない。天門霊送機関という組織に属する、確か通称は対堕人戦闘員(ヴェフパーク)。凶暴で理性を欠いた堕人に対抗できるのは彼らしかいない。
「…」
だが、晩崎鮮陽はヴェフパークではない。武器も何もない。体術も何も会得していない。どこにでもいる、ただの一女学生だ。逃げるのが正解。だがその決心を、堕人の目の前に倒れる少年が鈍らせることとなった。
まだ息はあるだろうか。晩崎鮮陽は物音を立てないように、少年の姿がしっかり確認できる場所へ移る。石碑の陰に隠れ、堕人の体を真後ろに捉える。改めて晩崎鮮陽は圧倒された。彼女の予想をはるかに上回った体の大きさ。人を容易く死に追いやる存在が、すぐ目の前にいる。足がすくむどころの話ではない。今にも吐きそうになり、自分でも血の気が引いていくのがわかった。手足は震え、心臓は高鳴り、呼吸が速くなる。
堕人が大きく開く両足の間に、倒れている少年を確認。気になるのが出血だったが、先ほど見たのはやはり勘違いなどではなかったようだ。それどころか、出血量が予想よりも多い。飛散し、鉄橋の手すりにかかった程度ではなくそれに加え、少年を中心に血溜まりができていた。見た所かなりの量。これでは堕人の体成分が侵入する恐れどころか、出血多量で死にかねない。
どうすべきか決めあぐねていた晩崎鮮陽。その時、堕人の体が動く。口を大きく開き、少年へ覆いかぶさる。いうまでもなく、堕人の体重をまともに受ければ圧迫死も珍しくない。顎の力は強靭、人間の頭など容易く嚙み砕く。堕人は今にも少年を捕食しようとしていた。
「まて」
気づけばそう叫んでいた。いつの間にか鉄橋の道のど真ん中に立ち、堕人を睨みつける晩崎鮮。その透き通る声にピクッと反応し、再び立ち上がり振り返る堕人。荒く息を立て、ヨダレを際限なく地面に落としている。その時晩崎鮮陽は初めて堕人と目を合わせた。
「…う…っ…」
急激に心臓が高鳴る。なぜ自分がこんなことをしたのか分からない。自分一人逃げることもできたはずだ。あの状況でならそう難しくなかっただろう。ましてや狙われているのはさっき会ったばかりの赤の他人。恩も何もありはしない。助けるメリットなど、身代わりになるメリットなどない。
「…!」
目があった途端、堕人は突然目を大きく見開き、両腕を地面につけた。晩崎鮮陽は瞬きをする。そして目を開けた次の瞬間には、堕人はすぐそこにいた。地面をひと蹴りしただけだろうに、三十メートル以上の距離をものの一秒未満で縮めていた。
殺される。堕人の顔は目の前に、その後方から振りかざした左腕のかぎ爪がもう間も無く晩崎鮮陽の顔を突き破ろうとバネを溜めている。目を瞑り、顔を背ける。もう逃げられない。ついに左腕は勢い良く放たれた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
目を開く。痛みはない。十秒は経っただろうが、自分の体に特に変化は感じられない。痛みもない。一瞬夢から覚めたのかとも思ったがそんなわけはなく、先ほどの堕人は未だ目の前にいた。
「––––––!」
バネを溜める構えから確かに腕は晩崎鮮陽の顔に放たれたようだが、どうやらまだ首は地面に転がっていない。狙いが外れ空振りしたのだろうか。だとしても、未だ危機的状況に変わりはない。再度攻撃すれば堕人からすれば事もなし。だがその考えも一気に吹き飛んだ。堕人のかぎ爪、それどころか左腕の人間でいう二の腕部分から先がなくなっていたのだ。
「え…」
想定外の事態に晩崎鮮陽は思考がまとまらない。左腕は生物の教科書に載ってあるような綺麗な断面図となっており、緑色の液体がとどまることなく溢れ出ていた。それは返り血のように晩崎鮮陽の身体中にかかったが、そんなことはこの時は気にも止まらなかった。
「間一髪ね。本当に間に合わないところだった」
どこかから声がした。聞いたことのない、だが女性の声だった。辺りを見渡すが、人など見当たらなかった。再度堕人の目を見ると、何が起きたのかわからないと言った様子だった。自分は確かに首をはねた。そのつもりだったが、どういうわけか自分の腕がなくなっている。日本語でそう思っているのかは定かではないが、恐らくそんなところだろう。自分のなくなった腕をじっと見つめていた。
その微動だにしない頭も、首に入り込んだ鋭利な何かによって今では地面に落ちている。今度は首元から緑色の液体が勢い良く噴射した。液体は鉄橋の両端に備え付けられている街灯の光に反射し、それだけを見ると、何か美しい光景を見ているかのような気になる。
「…えぇ、施術の準備をお願いします。––––––出血多量、頭部殴打。––––––…いえ、影響は少なからず受けているでしょうが、危険は無いと思われます。…はい…––––––」
制御を完全に失った堕人の肉体は力無く地面に倒れ伏し、その向こう、仰向けに倒れ意識を失っている少年の元に一人の女性がしゃがみこんでいる。端末を右耳に当て、誰かと話していた。
「え、あ、はい。そうです、少年です。…え、ナンバーですか?––––––…えっと…」
そう言いながら、女性は少年の制服を脱がし始めた。
「お…おい…、ちょっと」
晩崎鮮陽は思わず女性に似つかわしく無い言葉を発した。女性は晩崎鮮陽の存在に気づいているのか、少年のブレザーを荒々しく脱がし、その下にある真っ赤に染まったワイシャツのボタンも一つずつ外す、のかと思いきや襟元を両手で掴み一気に最大限に広げて見せた。
「…!?」
五、六個のボタンが一斉に吹き飛ぶ。上半身の皮膚があらわになり、同時に堕人のかぎ爪によって切り刻まれた痕が晩崎鮮陽の目に入る。切傷どころではなかった。もう少し深ければ確実に即死だったかもしれない。いや、出血している時点で、もはや手遅れかもしれないが。
「えっと…?一四…二…二七…?––––––一四二二七です」
少年の赤く染まった肌があらわになり、女性は左肩に注目する。そこには黒く記された英数字があった。番号を告げると端末のボタンを押し、上着の内ポケットに入れた。
「君知り合い?」
女性は少年の深い切傷を眺めながらそう呟く。傷は三つ。左脇腹あたりから右骨盤にかけてできていた。どこにしまっていたのだろうか、白い包帯を取り出し患部に丁寧に巻いていく。
「知り合いっていうか何ていうか…。さっき会ったばかりで。だから友達とかそんなんじゃ––––––」
「夜の外出は極力避けるように言われていたはずよ。人の命を何だと思っているの」
少女のおちゃらけた態度が癇に障ったのか、それとも元々こういう口調の人なのか。冷たく言い放たれた言葉に晩崎鮮陽は肩をすくめる。
「たまたま巡回エリアの近くだったからよかったけど、少しでも時間がずれていればあなた達は死んでいた。これに懲りたら、二度と夜の危険地域には出ないことね」
そう言いながら女性は顔を上げ、地面から大きく突出した丘を見上げる。目をわずかに細め、険しい顔を見せながら。
その時、この女性は何を思っていたのか、晩崎鮮陽はおおよその見当はついた。“オアス・ヒルの悪夢”の出来事が人々にもたらした悲しみは数知れない。一般人はもちろんの事、天門霊送機関で職に就く人の中にも親族が被害を被ったという話も何度か耳にしていたことを、晩崎鮮陽は思い出していた。
「命は自分一人だけのものじゃ無い。それをよく考えなさい」
◆◇◆◇◆◇◆
大きな轟音を立てながら二台のヘリコプターが到着したのはその五分後。鉄橋に着陸するのは困難、周りは住宅密集地ということもあり、鉄橋上空でホバリングしながらの回収作業となった。いや、その前にヘリコプターから三、四人が続けて降下しただの肉片と化した堕人の除去作業が行われた。
除去作業。聞こえは良く無い。だが、天門霊送機関はこれを常用語とする。ゴミか何かであれば、そのような違和感も出てこないだろう。詳しくは天門霊送機関の人間しか知りえないが、文字通り、堕人を専用の巨大な袋に入れた後、研究のために解剖、分割し、最後は集積所で焼却するのだという。そのような行為が認められる法律が出来るまで、天門霊送機関は堕人の処分方法に頭を悩ませた。死んだ堕人をそのままにしておけば、死骸から発せられる成分が生物に悪影響をもたらす。海に放棄すれば環境被害は免れない。土に埋めるも、死骸の影響は完全にゼロにはならず、長い目で見れば、無限に増え続ける堕人に対し埋める場所など限られている。たどり着いた結論が焼却だった。
当時のこの天門霊送機関の決定に、一般市民は反発した。人々に被害をもたらすとはいえ、堕人は元は人間。不幸が原因で何故そのような扱いがなされなければならないのかと。デモも頻発。毎日のように抗議集会が開かれ、広大な敷地を有する天門霊送機関を包囲したこともあった。参加者は涙ながらに訴える。「人としての扱いではない」、「人に対する冒涜」だと。だが、その主張は日の目を見ずに一旦の終局を迎える。
彼らの訴えを退けたのは天門霊送機関ではなく、それ以外の一般市民だった。天門霊送機関の決定に反対した人間、それ以外の日本全国民の約九十八パーセント。反対勢力はごく微小なものだった。
日本国民の総意としては、政府と天門霊送機関の共同決定意思に背くどころか、当時直近にして最大の社会問題に対する良案であったため、むしろほぼ歓迎ムード一色であった。
上空から見下ろすと、改めて様々なことに驚かされる。今では当たり前のことだが、天門霊送機関の敷地面積の広大さには目を見張るものがある。その広さは約十五キロ平方メートル。天候にもよるが、日によってはこれほどの高高度から見下ろしてもその全貌を視界に入れるのも困難であるほどだ。外周を水路で囲っており、それを見て誰かが「まるで城だ」と言った。そう言うのも無理はないかもしれない。水路よりすぐ内側にはまだ緑が生い茂り、子どもが遊ぶための公園がいくつかある。だがそこからは居住区などの建物が密集し、天門霊送機関に所属する人間達の施設が続く。徐々にその高さを増していき、最奥地中央には円柱型の塔がそびえ立つ。 広さもそうだが、建物の高さも尋常ではなく、中央塔のアンテナは八百十五メートルの高さに位置する。
「しかし、よく包囲できたわね…」
テレビで高高度からの映像は何度も見た。何千、いや何万の群衆が天門霊送機関の水路の外側に立ち、主張を訴えていた様子は晩崎鮮陽の記憶に鮮明に残っていた。ヘリコプターの座席に腰掛け、窓枠に肘を置き顎を手の甲に乗せながら一人そう呟く。
その時、ふと記憶が蘇る。
人混み。叫び声。曇り空。灰色の景色。乱暴にぶつかり合う体。身にしみる寒さ。自分の名前を呼ぶ二つの声。一つは目の前から、一つは耳元から。
自分は何かを欲していた。だがそれが何であったか思い出すことができない。
「––––––懐かしい。…そういえばそんなこともあったっけか」
黒いヘリコプターが並び飛んでいるのが見えた。少年と晩崎鮮陽、駆けつけた女性が乗ったヘリコプターとは別のもう一機。息絶えた堕人をブルーシートで包み、完全に密封し、4本のロープで吊るしている。
「あの堕人、どこへ?」
密閉式のヘッドホンを付けた晩崎鮮陽は右隣に視線を移し、夜景を眺める女性に聞いた。黒髪を短く整え、その全身を焦茶色のローブを見に纏う。長い足を組み左腰の刀を優しくさすっている。先ほどは余裕は無かったが、そこそこ綺麗な顔立ちをしていた。
「焼却処分場よ。その前に解剖ね」
さらりと言ってのける。おそらく多くの堕人を手にかけてきたのだろう。
「元は、人間なんですよね」
「…あなたも、そっち側の人間?」
突然鋭い目を合わせながら聞いてきた女性に戸惑い、晩崎鮮陽は思わず言葉を失う。何も言えずに黙りこくる晩崎鮮陽に女性は、はぁ、と小さくため息をついた。
「…やめてよね。あんな頭のいかれた連中、組織の中にいると思うだけで––––––」
そう言いかけた時、ヘッドホンに男性の声が響き渡る。もうじき着陸するとのことだった。もう一度窓を覗き込むと、先ほどまでは遠くにあった天門霊送機関の外壁が目の前に迫っていた。操縦席の前方窓ガラスを見ると、建物の屋上が見えた。ヘリコプターは徐々に減速。黄色で大きな丸の中にRと記されたマークに、寸分たがわずその脚をゆっくり降ろしていく。
「ハッチ開いて。一四二二七をこれより研究棟へ移送。施術の準備出来てるの」
女性はパイロットに指示を出しながら、端末を右耳に当て誰かとやり取りをしている。そして固定ベルトを外し、完全に着陸せずホバリング状態を続けているヘリコプターから飛び降りた。屋上エレベーター付近で待機していた白衣を着た何人かに手で合図し、こちらへ来るよう促す。ストレッチャーを大きな音を立てながら転がす。
「了解。三分後に到着するわ。––––––医療班に引き継いでもらう」
女性は端末を白衣の男性に手渡し、残りの医療班とともに少年が横たえている担架をヘリコプター後部から引っ張り出す。医療班は息のあった動きでストレッチャーへ少年を移し、体を固定。酸素マスクを手で押さえ、再びエレベーターの方へ向かっていく。晩崎鮮陽はその様子をただ眺め、突っ立っていることしかできなかった。
「どんな事情があったかは知らない」
後ろから声がかかった。一息ついた女性はパイロットとともに担架を元の位置に収容していた。作業が終わると女性はその場から下がり、もう一人操縦席に座ったままのパイロットに見えるように人差し指を立て、頭上で大きく回して見せた。すると開いていたハッチがゆっくりと閉まっていく。回転翼は再びその勢いを増し、大きな轟音を立てながら真っ暗な夜空へと上昇していく。
女性は飛び立っていくヘリコプターを見上げたまま、
「だからって、言い訳はできないわ」
そう晩崎鮮陽に告げた。
「多分助からないわよ。あの子」
「…!」
予感していたこととはいえ、いざ対堕人戦闘員(ヴェフパーク)に確信を持って告げられると、晩崎鮮陽の中のわずかな希望、もしかすればという奇跡が全て打ち消された気がしてならなかった。
「どうしてすぐあの場を離れなかったの。夜は特に危険だってわかってたはずよ」
晩崎鮮陽は何も答えない。だが答えたくないのではない。自分でもその理由がわからなかった。やがて思い出したように、晩崎鮮陽はその口を開いた。
「…彼を見た瞬間、私の中で何かが変わったんです。––––––父のお墓詣りを終えたら、すぐここに戻るつもりでした。でも初めて彼に会ったとき、頭の中を何かがよぎりました。それが何だったのか、今では思い出せませんけど…」
冷たい風が、強く二人の体を吹き付ける。焦茶色のローブが激しく音を立てている。今夜は星も月もその姿を分厚い雲に隠している。天門霊送機関のあらゆる場所に備え付けられているレーザービームの白い光がものすごい速度で流れていく雲を映し出す。
「研究棟へ行けば彼に会えるわ」
「…え」
女性は晩崎鮮陽の横を通り過ぎ、エレベーターへ向かっていく。
「ナンバー一四二二七。そういえば取り次いでもらえるわ」
「あ…あの…!」
晩崎鮮陽は考えるよりも先に口が出た。
「お名前は…」
女性は振り返らない。
「私も知らないわ。ただ、彼の肩にある––––––」
「貴女の––––––…、お名前を聞かせてください」
強く。晩崎鮮陽は強い口調で尋ねた。が、結局は女性はそれ以上を口にすることはなかった。ただ、今はもうその機影が消えた方角を見つめたまま。息絶えた堕人を運んでいたもう一機のヘリコプターが向かった方角を。
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