第3話 Oath Hill

 体がビクッと震え、目を覚ます。

 自分が今まで机に伏し居眠りに勤しんでいたことがわかった。腕を机に、その上に頭を置いていた。体のあらゆる部分に多少の痛みを感じる。

 その状態のまま瞬きを二、三度し、ゆっくりと顔を上げる。目に入ってきたのは文献を片手にこちらに向かって何かを話している人間。その後ろには、一面濃い緑色の板に記された白文字の羅列。

 

「––––––だが、日本と米国とはまた違う第三極の存在が介入していたと、最近の研究で明らかになってきている」


 周囲には同じ様な木製の机と椅子がいくつも並べられ、自分と同じ様に席に座っている者がざっと三十名ほどいた。真剣に聞き入っているものがごく少数、寝ているものが三分の一、あとは隠れて端末をいじっているもの、周りと喋っているもの。

 

 もう一度自分の机にあるものに目を落とす。

 本。というより学生一人一人に配布される教科書だ。表紙には「日本史 下」とだけ書かれている。シャープペンと消しゴムが教科書横の白いノートの上に転がっている。


「夢見てたんか?」

 隣の席。机に肘をつき掌に顎を乗せながら、からかうような目つきをした男が話しかけてきた。

「––––––え」

「––––––え。ちゃうわ。今お前寝てたやろ。いっくら起こしても起きへんねや。佐伯、ずっとお前のこと睨みつけてたで」

 隣の男が目だけを前に向ける。その視線を追うと教壇の上に立つ男性が少年をまっすぐに見つめていた。


 その時になって少年は漸く自分の置かれている状況を理解できた。

 ほぼ同時に授業終了を知らせるチャイムが教室に鳴り響いた。緊張が解けたのか、周りの生徒は体を伸ばしたり口々に「終わった」と呟き始める。

 騒めき出した教室内で、教師は一層声を大きくした。

「––––––ここまでがテスト出題範囲だ。各自よく復習しておけ。教科書だけでは最低ラインには届かんからな、ノートも合わせて見ておけ」

  そう告げ、そそくさと教室を後にした。

 

 開いた扉の向こう、廊下からは騒がしい声がいくつも聞こえてくる。廊下を走るなと叫んだのは恐らく先程出て行った教師だろう。


「じゃ、俺は適正者検診やから。先行くで」

 いつの間にか帰り支度を整え教室を出ようとする彼。だが自分はその彼の右手をいつの間にか掴んでいた。

「まぁ待てよ、楽斗(らくと)」


「あ…?––––––…なんや、三日後のテストの日まで会う機会無いから、急に寂しなったんか。女子やったら最高のシチュやけどな、悪いけど俺そっちちゃうから」

 満面の笑みを作り、顔の頬の辺りに手の甲を軽く当てる素振りを見せた。


「俺たち、友達だよな?」

「…あぁ、それがどないしてん。気持ち悪いな。お前ほんまにコッチなんか」

「友達は助け合うもんだ」

「…せやろな」

「佐伯の話が本当なら、俺はこのまま留年が決まっちまう」

「回りくどいやっちゃな。ハッキリ言いや」

「ノート貸してくれ。一晩でいい。今日の十二時までに返しに行く」

 柄にも似合わず、ウインクしてしまった。どうもこいつといるときはいつもの自分じゃ無くなる。


 楽斗はその要望に対し、顔に笑みを浮かべた。そしてこちらの手に自分の手を添え、

「しゃーないな」

 そう言って手を剥がし、学生鞄の取っ手に手をかけ一冊のノートを取り出した。緑色のノート。だが表紙には何も書かれていない。


「今日返しに来いよ。俺も予習したいからな」

 そう言って今度こそ教室から出て行った。


 正直素直に貸してくれるとは思っていなかった。そこでふと一抹の疑問が頭をよぎり、ノートを何ページかめくり、字が記されているところまで確認してみる。

 だが予想に反して、楽斗が渡したノートは自分が望んでいるものが書かれているノートだった。佐伯が黒板に書かれた字を消す直前に見た内容を出来る限り思い出しながら照らし合わせてみる。だがその点についても特に不安を増強する要因は無かった。––––––大丈夫だ、これさえあれば。

 

 ノートを鞄に入れ立ち上がろうとしたその時、頭を鋭利な何かで射抜かれたような痛みに襲われ、同時に吐き気も催した。

 全開になっていた窓から体を吹き付ける風に、二本の足は生まれたての小鹿のように容易によろけた。体勢を崩し、たまらず近くの机に手をつく。机同士のぶつかる鈍い音が無人の教室に鳴り響いた。

 後ろを振り返るが、もちろんそこには何も無かった。二階に位置するこの教室から見えるのは、青空、そこに浮かぶ雲だけ。そして風に乗り親の木を離れたであろう桜の花びら。幾つかの桜がその風に乗り、教室の床にヒラヒラと落ちてくる。そのうちの一つに手を伸ばす。


 静まり返った教室。気づけばその教室にいるのは自分一人だけになっていた。

「…あれ、いつの間に…」

 そこに聞こえてくる、威勢のいい掛け声。恐らく部活動の生徒達が練習を始めたのだろう。時刻は十五時を回っていた。

 息を整え、もう一度辺りを見渡す。机と椅子、正方形に仕切られたロッカー、天井から吊るされた蛍光灯、「掲示板」「時間割」と書かれた小さな黒板、黒いブラウン管のテレビ。一通り見渡し、もう一度窓の外に目を移す。

 桜の木の向こう、よく見ると住宅らしき建築物が密集している市街地を臨むことができた。そのまま視線を横にずらしていくと、おそらくその市街地の中を流れる一本の川だろうか。まだ高く昇る日の光を浴び、キラキラとその水面を反射させているように見える。


「綺麗だな…。……––––––!」

 大きな爆発音がしたのは、少年が呟いた瞬間だった。振動は空気を伝わり、少年の体を通り過ぎた。それだけではない。少し遅れて地響きが校舎を揺らし、視界の端に大きな黒煙をとらえた。

 考えるよりも先に少年は教室を飛び出す。廊下を駆け、突き当たりを左へ。そこの階段を降りれば下駄箱はすぐだ。急いで履き替え、ロッカーを乱暴に閉める。開けっぱなしにされた門を通り過ぎ、そのほとんどを白に統一された街中をひた走る。

 

 いくら外壁門に近い十番街に学園があるとはいえ、先程の爆発ではここ新市街と旧市街を繋ぐ外壁門も大きな騒ぎになっていることは予想できた。旧市街にいる新市街住民で外壁門はごった返しているかもしれないと。

 小道を抜け、外壁門と中央棟を一直線に繋ぐ大通りに出た。が、行き交う人はいつものようにまばらで、その光景はいつもとなんら変わり無かった。

 たまたま近くを通りがかった緑色のコートを羽織った男性が目に入った。思い切って尋ねてみたのは、色が目立っていたというのもあるが、腰に差した刀を見て恐らく詳しいことを把握している人間かもしれないと思ったからだ。


「あ…あの…、対堕人戦闘員(ヴェフパーク)の方ですよね。きゅ…旧市街––––––多分天流町の方で爆発が…あったと思うんですけど…」

 だが、いざ話しかけてみると緊張して口がうわずってしまう。しかもただのヴェフパークでは無さそうだ。醸し出している雰囲気が、他の人間とは違った。あとかなりのイケメン。見た目も若く見え、短い茶髪が綺麗に整えられている。

 さぞ女子からモテるだろう等とどうでもいいことを考えながら、答えを待った。


「何々、どうしたの雄ちゃん」

 すると視界の外から一人の女性が飛び込んできた。男性の腕を両手で抱くようにしている。ベージュの髪の毛。男性とは違い、赤いコートを見に纏っていた。


「爆発…?俺は知らないが」

 だが返ってきたのは一片の緊張感も感じられない声だった。そして、隣の女性の突然の行動にも、とくに反応は見せなかった。

 やはり彼女の一人くらい居るかとどうでもいいことが頭をよぎったが、

「––––––え、いやそんな…。さっきすごい音したじゃないですか」

 予想外の返答に、思わず再び疑問を投げ返した。

「少なくとも上からそんな報告は入っていないよ。––––––どうした、そんな顔を青くさせて」

 だが淡々と、何事も起こっていないかのように男性は述べた。


 簡単に信じることは到底出来なかった。あそこまで鮮明に目に映ったものが現実には起こっていないなど。見間違いならまだしも、実際にこの体を震わせたのだ。体験したすべてがリアルだった。


「い…いえ、つかぬことをお聞きしてすみませんでした。––––––失礼します」

 だがこれ以上聞いても得られる情報は無さそうだ。頭を下げ、疑心暗鬼のままその場を後にする。しかしどうしても疑問を払拭することができず、その足は外壁門へ向いた。

 勿論不安が伝播することを避けるため一般市民には公表しないことになっているかもしれない。その可能性は無いとは言えない。

 歩いているとすぐに外壁部に行き着いた。

 高さ四、五十メートル程の白色の門。この間文献で見た、どこかの都の入り口を模したデザインがなされている。昔の木製の建物。形だけ見れば古風な雰囲気を漂わせているが、なにせその全てを純白で塗りつぶされ、木ではなく鉄の塊だという。わざと模して造られたという歴史の佐伯の言葉を思い出しながら、その門をくぐった。




 それ以降少年をずっと遠目で見ていた緑色コートの男性。何を思ったのか、おもむろに内ポケットに手を伸ばした。だが隣でひっつく女性の頭が邪魔だった。

「く…邪魔だこのっ…」

 腕に力を込めて頭を引き剥がそうとする。


「いやーだ離れませんよぉ〜」

「馬鹿かお前っ、––––––早く離れろって…!」

 なんとか体との間に隙間ができ、内ポケットの端末を取り出すことに成功した。溜息一つつき、耳に当てる。


「––––––俺だ。悪いな突然––––––」



 



  ◇◆◇◆◇◆◇◆






 門をくぐると、景色は一変した。先程までの建物から地面まで白一色だったのに比べ、旧市街の入り口は緑色と茶色の木々が生い茂り最低限舗装された砂利の小道があった。入り口と言っても先程の目を引くような門などは無い。門から五十メートル程延びる木製の橋、その下に橋の長さ同様およそ三十メートル掘られた大きな溝があった。大きな白壁とこの外堀を境に、それぞれ新市街、旧市街と呼ばれている。

 駆け足の速度を落とさず、目的地へ向かう。コートの男––––––恐らく対堕人戦闘員(ヴェフパーク)のうちの一人と思われる人物は大きな事件性のある出来事は起こっていないという口ぶりだったが、真偽のほどを確かめるため、引き返そうなどとは思わなかった。

 だがそこで、ふと今の自分の行動に疑問を感じた。万が一事件が起こっていたとしても、そこに自分が行く理由はあるのかと。旧市街には親しい人間は誰もいない。母親は新市街で過ごしているし、この時間帯に旧市街にいるとは到底考えられなかった。

 では何故––––––。


「––––––!」

 その思考を遮るように、左胸のあたりがひとりでに震えだしたのを感じた。素っ頓狂な声を上げながら、学生服の内ポケットの中をまさぐり、新市街住民に配布されている端末を取り出す。

  『適正者検診の結果について』

 そうディスプレイに表示されていた。すぐに、酷く憂鬱な感情に苛まれた。

「忘れていたじゃ…、すまねぇよな」

 呟きながらも、渋々メールの受信画面を開き、一番上の項目をタップする。




 1998/3/19 15:40

 From:唐司夏帆

 

【唐司です。先日の診断結果が米国本部より送信されてきました。至急、研究課第二棟まで出頭していただきますようお願いします。】



 

 楽斗が適正者検診を受けに行くと聞いた時、何故自分のことには気付かなかったのか。相変わらず自分の馬鹿さ加減にはウンザリさせられる。

 学園の生徒が一日に三十人ほど受診する対堕人戦闘員(ヴェフパーク)の適正者検診。恐らく今から引き返しても自分が受診するのは午後七時を回るだろう。


 気を取り直して、と言うより開き直って、その足をそのまま旧市街へと向けた。






 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇





 

 左右を森林に挟まれた小さな砂利道を進んでいくこと約十五分。景色が開けたかと思うと大きな十字路に差し掛かった。目の前の横に広がる道路の向こう、少年の立つ道の奥には終わりの見えないかと思うほどの商店街の並びが見えた。


 学園から見えたと思われる爆発はおよそこの辺り。居住区が燃え、人々が逃げ惑う様子が頭に浮かんでいたが、そんなことは取り越し苦労で街はいたって平和だった。

 商店街の入り口すぐ右にある八百屋の店主は買い物袋をぶら下げた主婦と談笑を楽しんでいる。左に見えるのはコロッケ屋か何かだろうか、ランドセルを背負った小学生の男の子二人が一つずつ口に頬張っていた。他には、自転車に乗り家路に急ぐ老婆、少年の後ろからは中学生くらいの野球少年たちが和気藹々と通り過ぎて行き、足の速さを見せつけあっていた。


 上を見上げると『天流町』と書かれた看板があった。

 新市街を取り囲む五つの旧市街。その中で新市街の南西方向に隣接し、居住区や店舗区、また学校などが存在しており、老若男女問わず多くの人々が行き交う。


 十四年前にこの地を中心にして繰り広げられた大きな争い。その時、より多くの被害を被った現在の旧市街。だがその中でもいち早く復興の兆しを見せたのが、この天流町だった。そして、誰もが知る忘れてはならないスポットがあるのもここだ。

 


「あんた天門学園の子かい?」

 声のした方を振り向くと、小さな店の入り口から背の低い老婆が顔をひょっこり出していた。こっちこっちと手招きをされ、肉まんを片手に話しかけてきた。

「いけないねぇ学園を抜け出すなんて。サボりかい?まだ授業中だろうに」


 店の前に置かれているショーケースに肘をつきながら顔をニヤニヤさせている。

 この商店通りは何度か通ったことがあり、この店のことも勿論知ってはいたが、その商品を手に取るのはこれが初めてだった。ショーケースの中にはざっと見ただけでも十数種の肉まんが並べられている。そしてまるで旧来からの親しい知り合いであるかのように、自分も普段に比べて何故か自然と饒舌になる。

 

「いや、授業はもう終わったよ。––––––そんなことより、この辺で大きな爆発とか無かった?」

 そう口にした途端、老婆は顔色を一変させた。

「え!?…また起きたの…?––––––やだねぇ…、……もうあんな悲劇は二度と御免だよ…」

 

「––––––…また…って?」

 危うく聞き逃しそうになったが、間髪入れずに聞き返した。

 だかその言動が軽率なものだったと気付いたのは、店の奥に飾ってある一つの写真立てが目に入ったからだった。––––––まだ幼い、見た所小学校低学年に居るような可愛らしい男の子だった。

 今さっき向かいの店で楽しげにコロッケを頬張っていた少年達を思い出す。振り返ってみたが、既にその姿は住宅街へと続く道に消えかけていた。


 老婆は、しかし腹を立てたり哀しげな表情を見せることなく、むしろ愛嬌豊かな笑顔でその子ども達を目で追っていた。

「懐かしいねぇ。––––––もしあの子が生きていたら…。…そうだねぇ」とこちらに目線を変え、「…あんたより大きくなってるのかな」

 と、その小さな手で肩をポンと叩いてくる。

「見た所、まだ十五歳かそこらだろう?––––––てことは、あんたはあの災禍の中を産まれたばかりにも関わらず生き延びたんだ。凄いことじゃないか。胸張って生きねぇ」

 

 予想に反し、老婆は屈託の無い表情を絶やすことなく優しい言葉をかけてきた。それが本心からか、それとも皮肉を込めた言葉だったのかは判りかねる。そこで疑うことなく前者を選ぶ自分は、ある意味で幸せな性格をしているのだろうが、実際にそうとしか思えないような老婆の口調だった。

 申し訳なさで一杯だったがその良心に感謝しつつ、「あぁ」と小さく、だが確かに力強く頷いた。


 もう一度肩を軽く叩き、店の奥に姿を消していく老婆。一人残された自分はその後ろ姿を見つめながら、刹那感じた何か言い知れぬ違和感のようなものに苛まれていた。

 


 

  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆





 騒がしい商店街を抜けると、周りはいつの間にか一戸建ての密集地になっていた。この閑静な住宅街では発する声どころか、ただの足音でさえも周りに響き渡ってしまう。

 

 聞こえてくるのは小鳥のさえずり。風に揺れる草葉の擦れる音。先程の商店街とは違い、こちらは打って変わって静寂だった。


 そのまま密集地を抜けると大きな吊り橋に差し掛かった。『天流橋』と刻まれている石が目に入る。二本の赤い支柱、見たところ全長二百メートルはあるだろうか。高さもそれなりだ。見上げると青空と白い雲。鳥の群れが視界を横切っていく。


 橋の上から見ると、川の水面が静かに陽の光を反射しているのがよく見えた。学園の教室から見えた川は、やはり今渡ろうとしている橋の下を流れる川だった。

 活気のある声が河川敷の野球広場から聞こえてくる。そこから時々聞こえる金属音は、まるで自然の音の一部であるかのように不規則だ。


 橋の中央付近に差し掛かったところで聞き慣れた機械音が辺りに響き渡り、それはしばらくして、川のむこうにある山の稜線へ一筋の雲を残して消えて行った。元気に泳ぎ回る魚がハッキリ観察出来るほどに、川の水は透明だ。


 周りの風景に気をとらわれていると突然、前方から少し強い風が体に吹き付けた。思わず目を瞑り、左手で顔を守るように風を遮る。少しずつ目を開け細めるようにすると、いよいよ目的の場所が目の前にあった。


 橋の終点に左右に広がる公道、幾つかの遊具のある小さな公園、その先は緑の雑木林がずっと続いている。雑木林に挟まれた細い道は上り坂になっていた。

 そして何より目を引くのは、剥き出しになった岩壁だ。まるで船の先端のようにそり立っている。その高さは二、三百メートルはあるだろうか。久々に目にする光景に自然と感嘆の声が漏れ出た。

 





 ◆◇◆◇◆◇◆◇






 頂上は自然に囲まれていた。エメラルドの草原が広がり、ところどころに咲く花には蜜蜂や蝶々が集まる。

 雑木林を抜け最初に目に入った白い小さな塔。舗装された一本道の左右に等間隔に並ぶ樹木は鳥達の住処になっており、聞こえてくる囀りはこの場所を訪れた者達の安らぎになっている。

 冷たい風が当たり、まるで体を包み込んでいるかのように感じさせる。ふと周りを見渡すと、真っ白な形の整った石のようなものが、これも等間隔に並んでいた。その数は十や二十ではない。恐らく三、四百平方メートル以上はあるこの広大な草原に、無数に散りばめられている。ただの石では無く、そのうちの一つに近づくと、何か字が彫られているのが分かった。

 名前らしき字が一つのものもあれば、他には複数の名前が一緒に並んでいるものなど様々。石の前にはちらほらと花束や飲食料などが置かれてある。しゃがみこみ両手を合わせ目を瞑っている家族、それに向かって一人何かを呟く中年の男性。あれは学校帰りの学生だろうか。よく見ると自分と同じ制服を着ている。


「…あっ」

 その学生––––––少女は、こちらの目線に気づいたよう。目があったことで、照れ隠しだろうか、少し迷ったような仕草を見せている。気まずいのはこちらも同じ。それどころか、どちらかというと自分が変質者扱いされると思い慌てて目を逸らす。

 しかしその少女は、その距離を自ら近づけようとしていた。ゆっくりと歩き、その手を後ろに交差させ、少し上半身をかがめ、そしてこちらが気づいた時には少女は既に目の前にいた。

 


「君、天門学園の生徒だよね」

 透き通った綺麗な声。風になびいた髪を手で押さえ耳にかける姿は、まるで映画の中のワンシーンを見ているかのようだった。


「君も墓参り?」

 何を思って話しかけてきたのか。勿論会ったことはない。話しかけられる理由もない筈だ。自分はそんなに変な目つきをしていただろうか。


「そういうわけじゃないけど…」

 桜色の眼というものを初めて見た。黒や茶色の瞳以外は実際に見ると気持ち悪さを感じるものと思っていたが、そんなことは無かった。

 紺のスリッポンと黒のニーハイソックス、そして上下とも深い紺色を基調とした学園の制服を身に纏っていた。肩あたりから赤と白の細い線が腰あたりまで伸びている、実にシンプルな作り。ブレザーの下からは白いシャツと赤いネクタイが覗かせている。


 そのまま目線を上げていくと、再び少女と目が合った。ポケットに手を突っ込み顔を俯けたのは気まずさからだった。

 少女は少し笑って見せた。

「変な人。––––––じゃあどうして?」


 えらく突っかかって来る女だ。話し掛けられる要因を挙げるならば、せいぜい同じ制服を身に纏っていることぐらいだろう。

 確かに自分とこの少女の他にはうちの学園の制服を着ている人間は見当たらない。この霊園に学生が来ることは滅多にないから物珍しさで話しかけてきたことも可能性の一つとして考えられる。だかそれを考慮しても、馴れ馴れしすぎる。


「––––––悪いが、あんたと話した覚えは無いんだが…。人違いじゃないのか?」

 そう言うと、桜色の長い髪の毛をした少女はしばらくポカンとした表情を見せていたが、突然吹き出し、さっきよりも大きく笑い出した。


「ええそうよ。私も貴方とは初対面ね」

 何故か目に涙を浮かべている。そこまで可笑しな事を言っただろうか。


「––––––じゃあなんで急に話しかけて来たんだ」

「いいじゃない。初対面の人とは絶対話してはいけない、なんて決まりごとでもあるの?誰とも話せなくなるじゃない、そんなの」

「……いやそういうことじゃないんだが…」


 少女は突然その桜色の瞳を大きく見開き、こちらの腕を掴んできた。

「ねぇ!あの塔登ったことある?」

 その行動に、心臓が高鳴った。だがその動揺をなんとか隠そうと、赤くなる顔を必死に抑えつける。無い、と小声で呟くように言うと、少女はその綺麗な顔をさらに輝かせた。

「じゃあ行こう!気に入るよ絶対」


 こちらに構うこと無く勝手に手を引いていく少女。自分がここまで他人に翻弄されやすい性格だったとは思わなかった。


 手を引かれながら、辺りをもう一度見渡してみる。学園の窓から確認した位置は丁度この丘だと思っていた。だが空まで立ち昇っていた黒煙はどこにも無く、何度見ても変わらない、静謐な空間が支配しているだけだった。






 ◆◇◆◇◆◇◆◇








 螺旋階段に金属音が響き渡る。かれこれ五分は上り続けているだろうか。永遠と右回りの動きを続けている。明かりの一つも設置されていないため、視界が悪いことは言うまでもない。左の壁に一定間隔でくり抜かれている長方形の穴から陽射しが入り込む。

 内装は外から見たものとは違い、煉瓦造りでできていた。もう何年も手入れされていないのか、所々に蜘蛛の巣が張り巡らされ、煉瓦と聞けば茶色っぽいものを想像するかもしれないがそういったものはなく、そのほとんどには黒ずみが目立った。


 外から見た印象は、円柱形をしたただの白い塔、だった。何の変哲も無い、言うならば鉄の塊。学園の校外学習か何かで訪れた際も自分は勿論、周りの連中にもここに関心を抱く者は殆ど居なかった。


 なおも上り続けていく。初めてここに来た時の思い出やらなんやらを喋りながらこの階段を上り続けてなお、少女は全く息を切らせていない。そこには素直に驚かされた。見た目とは裏腹に、かなり体力があるのかもしれない。

 だが、この急な角度だ。後に続くこちらの視線の先には、彼女のスカートの中が見えたり隠れたりを繰り返していた。ちなみに髪の色と同じだった。だから思わず聞いてしまう。


「結構…あれな」

「え?」

「何かこだわりでもあるの?」

「こだわり?––––––あぁ、…まぁ確かに、私にとっては大切なことかな」

「そう…。あの…、最近の女子ってみんなそうなの?」

「え?…えっと…まぁ…、多分私くらいじゃないかな、ここまで思い入れが強いのは」

「思い入れ…?…そうか。なにか理由があるんだな…」

「…すごいね」

「…え?なにが」

「こんな短時間で勘づくなんて。まだ会って数分よ」

「…そりゃどうも」

「相手の心が読めたりする?」

「そんな奇天烈な能力は持ち合わせてない」

「ホントに?でなきゃおかしいよ。どうやって分かるっていうのよ」

「––––––?…いや見れば分かるよ?」

「やだ何その言い方。––––––あ、わかった。君、もしかして適正者?それもただの適正者じゃない。特殊能力を持った––––––」

「適正!?そんな適正基準あるの!?やだよそんな適正!てか特殊能力って何!」

「えーなんで。カッコいいじゃん」

「カッコいいの!?まじで!?女子がそれ言っていいの!?認めていいの!?」

「––––––カッコよければいいの」

「……うわ言っちゃったよ。引くわ。…何、あんた結構変わってる?」

「なによ。毎日ここに来てることがそんなに変?確かに他にはそういう人居ないかもだけど、ちょっと言い過ぎじゃ無いの?」

「––––––…?」


 どうやら話が全く噛み合っていないようだった。



 心底残念だというように、少女は首をうな垂れた。だが後ろを行くこちらの視線が今どこにあるのかも知らずに、一歩一歩、淡々と階段を上っていく。時々差し込む陽の光が少女を照らし出す度、浮かび上がる笑顔が目に映る。

 流石に罪悪感が増し、次に少女が口を開くまでずっと足元に顔を向けながら歩を進めた。




「はい着いたよ」

 気づくとそこには扉があった。暗闇の中後半はほぼ無心で登っていたせいか、言われるまで最上階に到着したことに気付かなかった。少女が錆の付いた扉の取っ手に手をかける。どうやら扉は引いて開くようで、右足を半歩後ろに下げ「ふっ」と小さく息を吐くようにして力を込めた。やはりここも普段から頻繁に開け閉めされないのか、鉄の錆が擦れ合う音が響き渡る。


 眩しい。

 ようやく暗闇に目が慣れてきたところだったが、ほぼ真正面から差し込む陽の光に少年は顔を手の平で覆わずにはいられなかった。両手を使って扉を開ける彼女の細い体が、より小さく見えた。


 勢いよく風が吹き付ける。

 少女が重い扉を開ききった瞬間、鳥たちが翼を羽ばたかせて飛び立っていった。

 扉の先は一目で綺麗に手入れされたと分かる緑一面の人工芝が広がっていた。周りには真っ白か手すりが設けられており、簡単に人が落ちない設計がなされており、芝生を円状に取り囲んでいた。

 およそ、一般的な学校の教室を四つ程合わせた広さと言えばいいだろうか、子どもが遊ぶには程よい広さだった。

 端まで歩くと、先程歩いてきた天流町が一望できた。そして、その街を二分するように流れる大きな川。後方には大きな山がそびえ立つ。気づけば空は先程とは違い僅かに赤みを増していた。橙色に輝く太陽、夕陽はもうすぐ山の稜線へ消えかかろうとしている。

 

「でかいな…」

 だが、こちらの目を何よりも奪ったのは広場の端にそびえ立つ真っ黒な十字架だった。高さはおよそ五十メートル。

 近づき、十字架の根元に触れる。


「…」

 冷たい。

 どうやら鉄の塊で出来ている。傷一つ見当たらないのは、黒く塗りつぶされ小さな汚れが見えにくいなどという理由ではないだろう。滑らかな表面が綺麗に夕陽を照り返している。


「––––––なぁあんた。さっきこの辺で…、二、三時間前だ。でっかい爆発かなんか無かったか?教室からでもハッキリ––––––」

「晩崎鮮陽」

 

 ろくに振り向かず彼女はつぶやいたので、一瞬違う誰かが喋ったのかと勘違いしそうになった。だがこの数分間だけとはいえ、透き通るような声を聞き違えるはずも無い。そしてその通り、声を発したのは目の前にいる彼女だった。

「え?」

「私の名前」

 突然何を言われたのか分からなかったが、しばらくしてそれが彼女の名前だとわかった。

「あんたじゃない。私にはちゃんと晩崎鮮陽(くれさきあざひ)って名前があるの」

 よくある展開だな、と少年は心の中で思った。

「そっか。で、晩崎さん。ここらで爆発––––––」

「鮮陽でいい」

「…」

 何を思ったのか、彼女は少年に右手を差し出してきた。

「よろしくね。名無しの権兵衛さん。ちなみに、ここ数時間でここらで爆発は無いよ。私ずっとここにいたんだから、嘘じゃ無い」

 信じ難いことだった。あの教室から見た黒煙。あれが爆発で無くなんだというのか。火山の噴火などではもちろん無い。そして、地響きとともに聞こえてきた鼓膜を突き破らんとする大きな爆音。少年は自分の目と耳でその光景を目の当たりにしたのだ。

「でもね––––––」

 だが少女はそのまま続けた。

「爆発はあったよ。ここで。四年前にね」




 





 ◆◇◆◇◆◇◆







 その後、霊園からの山道を下る間、少年は彼女から得た情報を反芻した。

 少年が今さっき目撃した大きな爆発。少なくとも、この数時間霊園にいた彼女、晩崎鮮陽はそんなものはなかったと証言している。確かに教室から確認した方向、それに今まで歩いてきた距離と方向を考えに入れると場所はこの辺りで間違いない。仮に間違っていたとしても、優に黒煙は三、四百メートルの高さまで登っていたことを考えると、あの見晴らしのいい丘だ。全く爆発跡が確認できないのは考えにくい。よって少なくとも、晩崎鮮陽が言うにはこの辺り一帯は天流町というらしいが、この町で爆発は起きていない。そう考えるしかなかった。

 だが、晩崎鮮陽はその後興味深いことを口にした。

「まぁ、過去に一度も大きな爆発が無かったわけじゃ無いけどね。君が見たっていう爆発。オアス・ヒルの悪夢がそれに近いんじゃ無いかな」

 約四年前にあったという謎の爆発事件。近隣住民の間では未だに全容が明らかになっていない出来事として、風化すること無く未だにその事件を思い出すと背筋が凍るという。

 事の発端は、ある夜。約三キロ平方メートルある天流町のいたるところで火の手が上がり、無差別に民家が破壊された。被害をもたらしたのは言うまでも無く堕人という化物。被害にあったのは約三十世帯。死亡した住人たちは約六十人。一般人には自分たちの五倍以上の力のある堕人の攻撃には当然なす術も無い。だが普通なら軽く倍以上の犠牲が出ていたはずのところ、被害を最小限に食い止めたのが「天門霊送機関」と呼ばれる組織に所属する、戦闘行為を専門とする人間達だった。ここでも聞き慣れない言葉に戸惑った様子を見せてしまうと、晩崎鮮陽はさらに眉間にしわを寄せたことを少年は思い出す。綺麗な顔が台無しだと間髪入れずに続けると、明らかに照れを隠した様子で拳を少年の脇腹に軽く捻りこませた。

 堕人の息の根を止めたとしても、その肉体は勝手に消えてくれるわけでは無い。蒸発もしない、砂となって風に流されていくわけでも無く、何かに溶けていくわけでも無い。肉体の処分、崩壊した瓦礫の撤去諸々の事後処理は全て人間がやらなければならない。大切な家族を突然亡くし、瓦礫と化した自分の家ですすり泣く子ども。その横で淡々と堕人の肉体を回収する機関の人間。こういった出来事は今に始まったことでは無く、何度もその光景を目にしてきた晩崎鮮陽は自分達の心が麻痺していることにふと気づき、怖くなったという。

 それで済むはずだった。いつも通りであるならば。だが四年前の一九九四年十二月八日は違った。突如、直径二、三百メートル以上はある巨大な竜巻が出現し、先ほど少年がいた丘のすぐ横にある天流町の民間居住区を跡形も無く吹き飛ばした。空高く吹き上げられたのは勿論人間も例外では無い。死傷者は合わせて三百名以上に上る。そして、そこで起きたという大爆発はその直後。塔を中心にして起きたと推測される爆発は周囲の墓石の殆どを吹き飛ばし、地層をむき出しにした。掘り起こされた棺桶も束の間、爆発による高温で熱され、爆風により激しく地面に叩きつけられ、その後形状を維持したまま確認できたのは全体の十分の一にも満たなかったという。

 地響きとともに聞こえた鼓膜を突き破るかのような爆音、空高く上がった黒煙、そして爆発場所。どれも少年の目撃したものと、あまりにも似通いすぎた。ただ一つ、決定的に違う点を挙げるとするならば、時間だ。数分、いや十数分の誤差あったとしても納得はできるかもしれない。だが四年だ。少年に過去の出来事を観察できる力でもあるならば話は別だが、あるはずが無い。

「そんなワケねーしな…」

  れだけは、今のところ解決しようが無いと少年は思った。いくら自分の記憶に欠如が見られると理解していても、それくらいは分かる。

「記憶…。––––––そうだ…」

  少年が思い出せるのは、先程教室で受けていた授業以降。それより前の記憶が、何一つ無い。そう考えた途端、頭から血の気が引いていくのが分かった。同時に全身に感じる冷や汗。思わずよろめき、両手を折った膝の上に乗せた。鼓動、呼吸が早くなる。こめかみから顎下へと渡った一雫の汗がそのまま地面に落ちていく。あまり舗装されていない山の小道、枯葉が入り混じった茶土へと染み込んでいった。



「ちょっと!」

 その声で我に帰ったのか、いや違う。周りの状況を普段通りに理解できるようになったのは、暖かい何かに身体が包まれたからだ。

「…!」

 気がつけば、少年はその体勢を地面とほぼ平行にしていた。平衡感覚も一時分からなくなるほど、何が起きたか一瞬理解が追いつかなかった。

「馬鹿ね。調子悪いのならそう言いなさい」

 声は耳元で聞こえた。透き通る声。それが晩崎鮮陽のものだと分かると、少年の動きは固まった。


「ちょ…お前…、なにやって…」

 頭に感じるのは彼女の左手。肘が少年の右肩にうまく回り、地面との接触をかろうじて避けていた。少年の右足と少女の右足が絡まり合い、残る右手で身体を支える。

「お前じゃない」

 結果、超がつくほど至近距離で向かい合った二人。顔を真っ赤にしている少年とは正反対に、晩崎鮮陽は冷静な顔をして続けた。

「鮮陽よ。私の名前は晩崎鮮陽」

 吐息が顔にかかるのは言うまでもない。覗かせる桜色の瞳に思わず吸い込まれそうになる。間近で見たこちらも桜色の髪の毛は、差し込む夕陽を浴び黄金色に輝いているように見えた。





 ◆◇◆◇◆◇◆





「おいコラ」

 どこからか聞こえたドスの効いた声。しばらくの間見つめ合っていた二人は我に帰り、それだけでは済まず、更に晩崎鮮陽の顔色は一変した。まるで自分の人生の終わりを見たかのような。

 ゆっくり、ゆっくりと、晩崎鮮陽はその顔を声のした方へと向ける。少年も同じように誰がいるのか確認しようとしたが、なぜか固まりきった彼女の手によって自由が利かなかった。むしろ、彼女自身の胸へと押し付けられているような、いや実際に押し付けられようとしていたので、少年は流石にすかさず両手を彼女の肩に当て逆方向に逃げようとした。

「やばいって、ちょ…、当たるって…」

 少年が必死の抵抗にある意味夢中になる中、しかし晩崎鮮陽は全く別のことを考えていた。


「やば」

 そう言った途端、すぐさま起立し少年のそばから離れようとする晩崎鮮陽。頭を支えていることもすっかり忘れてしまったのか、乱雑に動いたせいで強く地面に叩きつけられる羽目になった。誰か人に目撃されそのせいで恥ずかしさを感じるのは致し方無い。気を失いかけた自分の身体を支えてくれたことも有難いことだと、少年は思った。だが、だからと言ってそこまで極度の反応を見せることも無いだろうと、結局打ち付ける羽目になった後頭部を抑えながら少年も声のした方を振り返ると、つい先程会った男が小道の横の樹木にもたれかかっているのを目にした。

 明るい茶髪に茶色の瞳。際立つのは深緑色の身の丈ほどあるコート。さっきは気付かなかったが、よく見ると燕尾服のように生地が二つに分かれており、特徴的なデザインが成されている。チノパンのような黒いズボン、首元に羽毛のついた焦げ茶色のジャケット。飛び抜けて背が高いわけではないが、晩崎鮮陽はもちろん、自分よりもいくらか高いように思えた。男はこちらを交互に品定めをするように見比べ、最終的に晩崎鮮陽を睨みつけながらこちらに歩み寄ってきた。


 まるで大層な恨みを買った相手に追い詰められ今にも自分が殺されようとしているかのような、そんな悲壮感たっぷりの顔をして晩崎鮮陽は後ずさっていく。だが間もなくすぐ後ろにあった樹木に当たり退路を絶たれる。逃げ場を無くし身体を小刻みに震わせるだけの晩崎鮮陽だが、容赦なくその距離を縮めていくコートの男。

「一応、確認するぞ」

 眉間にしわを寄せ、心底うんざりというような言い方をしながら、男はコートの内ポケットから小さな箱型のものを取り出した。右手を振り一本取り出し、それを口にくわえる。手元で火をつけ目を瞑りながら空を仰ぎ、白い煙を吐き出した。

「ふー…。…許可日以外に外出すれば、翌日の夜まで飯なし。そういう約束だったよな」

「え…、えーと…」

 男に詰め寄られ、戸惑いの表情を浮かべる晩崎鮮陽。目をキョロキョロとさせ、いかにこの状況を脱しようかと考えを巡らせているのが丸分かりだ。

 未だ地面に伏した少年は、会話からして二人はどうやら初対面ではないと当たりをつけた。そうして自分と男を交互に見やるうち、晩崎鮮陽がいつの間にか自分のことをジッと見つめているのが分かった。なにやら口をパクパクと動かしている。

「…ん」

 晩崎鮮陽が何を言おうとしているのかは一瞬で分かった。だが得心がいかない。口の動きは恐らく“たすけて”だったのだろうが、そのすぐ上にある片目は閉じられウインクしていた。笑みまで浮かべ、危機感など片鱗も感じさせなかった。


「全く心がこもってねぇ…」

 どうやら晩崎鮮陽という女は思っていたよりいい加減な性格の持ち主であるらしいと、その時思った。男の醸し出す雰囲気から多少の危機感はあったが、この瞬間に一気にどうでもよくなった。が、晩崎鮮陽が何も答えない以上、返答待ちの男も何も言おうとしない。ここは自分が発言した方が良いだろうと、咳払いをし、一言挨拶から始めようとしたが男は今度は少年の方へ向き直った。

「君も」

「––––––え」

「研究棟からお達しが来てる。本日十六時三十分より適正者検診を受診する予定だった、コード14227が姿を現さないと」

 

「…いや、ちょっと待ってくださいよ。さっきこの辺で大きな爆発があって––––––。びっくりして。何かなって––––––」

「別に––––––」

 何とも情け無い。どこから見てもただの言い訳にしか聞こえない。喋っている自分もそれはよく自覚していた。それに対し、男は再びこちらのセリフに自分のセリフを被せてきた。手で制して。威圧を感じは黙りこくったが、予想に反して先程までの強い口調とは少し違い、

「別に、だからと言ってどうこうしようってわけじゃない。俺には研究棟の事情なんざ知ったこっちゃないが、普段からこうやって外を歩き回ってるのは俺たちだろ。ついでに隔離棟を抜けた輩を連れ戻せと、上からのお達しで決まってるのさ。無視しても構わないんだが、連中の小言を聞くのにもいい加減飽きてね」


 そう言いながら、腰にぶら下げているものに左手を軽く置いた。

「だが、いくら化物共の駆除率が九十七パーを超えているからといって、確実に安全が保障されたってわけじゃない。今でも夜はたまに目撃情報があるんだ。二人とも、早く家に帰れ」

 そう言うと男は手に持っていたタバコを地面に捨てる。土に混じったそれを足で二、三度踏み火を消した。

「ポイ捨てするような人にとやかく言われたくありません」

 晩崎鮮陽が、まるで待っていたと言わんばかりに横槍を入れる。明らさまに言ってやったりという顔。

「後のことは知らんぞ。言うことは言った。食われても俺は関与しないからな」

 だが、男はそんな少女の小言に反応することはなく、二人が今来た道を戻り、丘への道を登っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る