宇宙おきらく所沢(下)

■■■5




どこだここは?

実篤はまた浮いていた。

今度は最初から空に浮いている。

眼下には何も壊れてない街、なんどかパソコンの画面で見た事のある衛星写真と同じ町並みが広がっている。

遠くに森と小さな湖が見える。黄色と白い電車が走っている。何年も住んでいる地元の所沢だ。

またこれは夢だろうか?

実篤はもう一度考え直す。

これはきっと夢じゃない。現に頭はよく冴えている。

自分の掌や身体をみようとしても何も見えない。

完全に第三者、神の様な視点で街を見下ろしている。

それを夢と言う筈だが実篤には確証があった、

これは夢じゃない。きっと宇宙が見せているなにかだ。


(流石にもう何があっても驚きませんね)


また何時もの様に宇宙の声だけ聞こえる。


「ああ、もう浮いてる感覚も大分慣れた」


(まだ2回目じゃないですか?)


「そうだったかもな」


実篤は非常識に慣れたと言いたかったが、それは黙った。


「俺の姿が見えないのはどういう理屈なんだ宇宙?」


(ここがどこだか分かりますか?)


「所沢だろ?」


(そうですけど、ちょっとだけ違います)


空からの景色、実篤にはいつも通りに見えた。

大きな公園とそれよりも大きいレーダーの基地。逆側にはドーム球場が見えて、狭山湖と多摩湖が見える。

どこからどう見てもありふれた地方都市、所沢だ。


「何が違うんだ?」


(これは複製されたものです)


「複製?」


(そう、私の宇宙で作られた、実篤が居た「宇宙」から複製した私の宇宙の中にある福祉された実篤の暮らす街です)


「この街が別物なのか?」


実篤にはもう宇宙の言う事に疑問を持つ気力も、論理の矛盾を突こうという気力もなかった。

全ての常識を捩じ曲げる力を持つ宇宙だったら何でも出来そうだった。


(驚かないんですか?)


「今更な」


目の前に広がる景色が偽物だとしても、それが偽物かどうかなんて身体も無く、意識だけの存在になっている実篤には区別がつかなかった。


「なんでこんな偽物の所沢を作ったんだよ」


(アレを見てください)


指をさされたわけでもないのに、自然と実篤は視点を動かして、偽物というには何もかもが精巧すぎる、構成している物体・原始の数まで同じ所沢に近づいて行く。

人の顔が判別出来るくらいまで地面に近づく。

季節は冬なのだろうか、みな厚着をしていた。

見覚えのある学校指定のコートを来た制服のカップルが歩いていた。手を繋いで、沢山の人が通る商店街を通っている。

仲が良いなあと思いながら、実篤はそのカップルに意識を集中させた。


「なんだこりゃ?」


そのカップルの女子生徒は三島雪子だった。

今まで見た事の無い様な笑顔で笑っている。

いつも気を張ってる雪子の無防備な笑顔に実篤は複雑な気持ちになった。

三島雪子にそこまで好かれる相手は誰なんだと直ぐに実篤は隣の男子生徒の顔を見る。

その顔は一日たりとも忘れた事の無い顔、自分の顔だった。


「隣に立ってるのは俺なのか?」


(そうでも有り、違います)


「まあ俺はここに居るからな」


実篤は意識だけのような存在の自分に言い聞かせるように呟く。


(今、実篤の目に映っている実篤は、言ってみれば雪子が望んだ実篤)


「三島が望んだ俺?」


(そう、雪子が私の宇宙で望んだ世界に居る実篤です)


「俺の偽物なのか?」


(構造自体は素粒子の数から一緒です、でも心の部分は大分三島雪子によって書き換えられているみたい)


「どういうことなんだ?」


(もうちょっと近づいてみます?)


言われるまま、実篤は意識をもっと三島雪子に近づける。

すると歩きながらの会話が聞こえてきた。


「三島は大学家から通うのか?」


「うん、一時間くらいだから通えなくはないから」


「そうか、俺はやっぱり都内のどっか安いところに一人暮らしになりそうだ」


実篤が笑うと、少し雪子は心配そうに実篤の方を見る。


「そうなの、それはそれで大変そうだけど」


「妹が高校受験だからさ、なんかピリピリしてて居づらくて」


「そうなのやっぱり大変ね」


「まあけど、一人暮らしも楽しそうだよな」


「家の事やるのは大変だけどね」


「だから家事手伝いに来てくれよ」


「私が実篤の家に?」


「嫌かな?」


「別に嫌じゃないけど」


俯きながら照れているのか雪子は持っているカバンを握りしめて、顔を背ける。

そんな雪子を見ながら、実篤は肩を竦めてガッツポーズしそうな気持ちを抑えて笑う。


「やった、すげえ嬉しい」


雪子は照れながら、少しだけ様子を伺うように実篤の顔を見る。

実篤の喜んでいる顔を見て、やっと少しだけ雪子も笑う。


(実篤どうしたんですか?)


宇宙はさっきから無言の実篤の意識に話し掛ける。


「しっ死ぬ」


実篤は身体がないので胸を押さえつけられる筈がないのに、何だか胸を締め付けられている気がした。


(死にませんよ、肉体がありませんから)


「そういう事じゃなくて、目の前のコレ、本当に三島なのか、つーか俺なのか?」


(実篤は雪子の「こうあって欲しい」の補正が入ってますけど、雪子は間違いなく本物、彼女の意識は完全に私の作った世界に入り込んでいます)


「難しい事は解らないけど、それにしてもだな……この三島はちょっとな……」


(ちょっと?)


「可愛過ぎる」


眼下ではまだ三島と実篤が所沢の商店街を進みながら笑い合っている。

これじゃ完全な自分たちだけの世界に入ってるカップルだ。

今までの三島の態度とかを事を考えると、その明るく笑い合う姿は意外を通り越して想像出来なかった。


「ちょっと離れようぜ」


(もうちょっと見ましょう)


「勘弁してくれよ」


(雪子の事嫌いなんですか?)


「雪子より自分が気になるの」


雪子の隣に居るのは自分の姿をしている。

理屈的にはコピーされた自分なので、もちろんそれは自分なのだが、意識として宙に浮かんでいる実篤にとっては他人で、しかも夢見た大学生で好きな三島と仲良くしている「成功」した自分だった。

実篤の意識は眼下のカップルから離れて、所沢上空、建物が小さく見える所まで上昇した。


「あれは本当に三島が望んでる事なのか?」


(この星は雪子と私が繋がって出来た星です)


「なんで繋がったんだ?」


(それは私にも分からない、どうやら実篤を通して私の「宇宙」と実篤の宇宙は相互に情報が行ったり来たりしてるみたい)


「じゃあ元に戻れるのか?」


(実篤が望めば)


「望まなかったら?」


(このまま雪子はこの星で一生を終えます)


「三島をこの別の星に置いてけぼりに出来るって事か?」


(そうです)


実篤はもう見たく無いと思っていた足下の町並み、その中で仲良く手を繋いで歩く自分と雪子を見る。

遠目からでも楽しそうに、なにか世界全体に祝福を受けている様な、そんな雰囲気に包まれた初々しいカップルだった。

これが三島雪子が望んでいたものなのだとしたら、なぜ自分は、元の世界の自分は雪子に拒絶されたのだろうか?


「なあ宇宙、俺はこの世界の三島に話を聞く事は出来ないのか?」


(この世界には実篤の肉体は無いですからね、無理です)


「ここは三島が望んだ世界なのか?」


(ええ、それは間違いなく)


「もっとお金持ちになってずっと遊んでるとか、そういうのじゃないのか……」


そう言って実篤も確かにお金持ちになって好きなもの買えて、好きな食べ物を嫌だというまで喰えるとかは想像するけど、具体的な絵までは掴めない。

三島雪子にとって自分が恋人になる事が一番想像出来るって事だろうか?

それじゃなんで俺は振られたのだろう?

空に浮かびながら実篤はぼんやりと考えた。


(あっ一つ直接じゃないですけど、コミュニケーションする方法がある)


「ほんとか?」


(人の脳が一番内にこもる瞬間、直接量子干渉すればもしかするとコミュニケーションがとれるかも)


「具体的に言ってくれ」


(雪子が寝てる所に入って行けば良いんです)


所沢の空は青く雲は少なかった。

待ってれば夜になってみんな、この世界の雪子も布団かベッドに入って寝るのだろう。


「あっそういえばお前に最初に会ったときも夢の中だったな」


(はい、人間の睡眠はトランス状態で、外部との接触が極力制限されてますから、量子干渉しやすいです)


「わかったけどなんだかな」


(何か嫌なんですか?)


「人の寝込みに侵入するのはなんだか気が引ける」


(大丈夫、相手からは見えないですから)


そうなんだけどなと実篤は無い頭を抱える。

身体は無いけど、なにか頭が重い気がした。


(ほんと実篤って面白いですね)


「何がだよ?」


(いつも気にしてる)


「何を?」


(自分がどうあるべきかを)


実篤はその時、宇宙の笑顔を思い浮かべた。

その笑顔は優しくて、全てを見透かしているような気がした。




「おじゃまします」


(誰も聞いてませんよ)


実篤の意識は三島雪子の部屋に入り込んだ。

この宇宙の中の世界では実篤は実体がない、だから誰にも見られずに何処にでも行ける。


「やっぱり断り無く部屋に入るのは悪い気がする」


(そうですか?)


三島雪子の家は高いタワーマンションの中階にあって、何となく場所は話に聞いていたので直ぐに分った。

築十年もたっていないマンションはまだ奇麗で、三島の家は部屋も清潔に片付いていて、雪子の部屋もあまりものが無い、大きな本棚に沢山の文庫本が詰まっていて女の子とは思えないほど素っ気がない部屋だった。

雪子の性格を考えれば可愛い小物やぬいぐるみが飾ってある部屋を想像出来ないが、実際の部屋は下手すれば男部屋みたいな感じにも見えた。

その部屋の奥、壁際に付けられたベッドの中で三島雪子が寝息を立てている。

実篤は雪子の寝顔を前にして動かずに、ただ身動きが取れなかった。


(くっつかないの?)


「ああ、どうするんだ?」


(うーんイメージとしてはそのまま頭に重なるように近づいて)


「こうか?」


実篤はゆっくりと寝ている雪子に近づいて行く。

影も形もない、実篤の意識がゆっくりと近づくのは実篤の中に若干の躊躇があるからだ。

三島雪子の顔が、実篤の意識の中に大写しになる。

三島雪子の顔にこんなに近づいたのは初めてだった、今の実篤は意識だけの存在で心臓が無いのに、なんだか鼓動が速くなっている気がした。


(どうしたんですか?)


実篤の意識が雪子に近づいて行って、息がかかると思うくらいの距離で躊躇する。


「なんか寝込みを襲うみたいだな」


(ちょっと重なるだけですよ?)


相手が自分を認識してなくても、実篤の方が意識して重なるのを躊躇した。

雪子の顔は真っすぐに天井を向いていた、身動き一つしないで小さな寝息を立てていた。

このままずっと見て居てもキリがないのは分かっているが、実篤は少しの間雪子の顔を見ていた。

なんだか雪子は寝ているときも怒っているみたいだった。

実篤は雪子らしいと少し安心した。

躊躇している実篤に対して宇宙は即す様な事はしなかった、ただ部屋に漂う実篤の意識を不思議に思っていた。

目的の前に躊躇する心。

もう一度確認する様にゆっくりと動き出す。

人は何故こうも微細な変化を繰り返すのだろう?

やっと意を決した実篤がもう一度雪子に近づく。まるでキスをするような距離で顔が重なった瞬間、実篤の目の前には新しい景色が広がる。

まるで映画のカットを切り替えた様に、さっきまで薄暗い風景が、明るい景色に変った。

午後の夕日、図書室は黄金色に光輝いていた。


「あれ私?」


「三島起きたのか?」


誰もいない図書室、三島雪子と実篤だけ自習机で大学受験の参考書を広げていた。


「寝てたところ見てたの?」


「見てない」


「ずっと居たんでしょここに?」


「ああ、まあ気がついたら寝ていたから」


寝ているところの意識に割り込んでいるなんて事は言えないが、実篤にも無理矢理押し掛けている後味の悪さはあった。


「ごめんなさい。なんだか楽しい夢を見ていたくらいしっかり寝ちゃった」


本当はこっちの方が夢、今この図書室の景色は三島雪子と実篤の意識が重なり合ってみせている幻の空間だ。


「気持ち良さそうに、なんの夢を見てたんだよ」


「なんだろう、凄く楽しかったていうか幸せだったっていうか……」


まだ混乱してるのか、雪子の回答ははっきりしない。

雪子が見ていた夢というのはたぶん、さっきまで見て居た実篤と付き合っている未来の自分、雪子が心の奥底で望んでいた世界の事だろう。


「実篤君と歩いてて……」


なんだか話しながら雪子は頬を少し赤く染めた。


「それが楽しかったのか?」


「……うん」


静かな図書室の景色、周りには誰もいない。

本物もよく昔は学校が終るまでこうやって自習室で二人で参考書を開いていた。

対して会話したわけじゃないが、実篤も雪子もこの時間を大事にしていた。

だから夢で逢う場所がここになったのか?


「三島は俺の事嫌いじゃないのか?」


「どうしたの今更、私たち付き合ってるじゃない?」


いつもの何も考えてない無表情とは違う、少し恥ずかしそうに顎を引いて話す雪子の顔を実篤は直視出来ずに顔を背けた。

どうやらここも実篤と雪子は付き合っている設定らしい。


「まあそうなんだけど、一応聞いておこうと思って」


本物の実篤は一度振られているので、なんとも言えない。すこし自棄になって質問した。


「嫌いだったら付き合わないよ?」


「でも、俺は振られたよなここでさ……」


そう、誰もいなくなった図書室で実篤は最初の告白をした。

大学受験本番を控えて、クリスマス前くらいの時期だった。


「よかったら俺とその……付き合わないか?」


とその前の日から色々と考えてたわりに、普通の、ただ事実だけを並べる平凡な告白だった。

告白すると三島は突然顔を硬直させた。


「やだ」


その一言だけで、荷物をまとめてすぐに帰ってしまった。

その日から実篤は三島雪子とまともに口を聞いていない。

あの日の事程、実篤は後悔した事が無い。

あんな事を言わなければ、多分普通にこうやって会話も出来たのに、どうして自分は一線超えようとしたのかと。

告白してから雪子は実篤とあまり話をしようと近づいて来る事は無かった。


「一回目ね」


「一回目?」


「もう忘れたの?」


クスクスと笑いながら雪子は言葉を続ける。


「実篤君は私が一度断っても、その後も何度も私の所に来てくれたじゃない、それが私凄く嬉しかった、本当に嬉しかった」


感情が高ぶっているのか、雪子は目に涙を貯めていた。


「しつこいくらい何度も私に本当に好きだって言ってくれて」


実篤は穴があったら入りたいどころか、穴を掘りたかった。


「ほら話したでしょ? 私が中学の時、男子の悪戯でラブレター貰って指定された教室に行ったら沢山のクラスメイトの前で嘘でしたって馬鹿にされてさ、私はそれ以来もう男子が嫌いで嫌いで仕方がなかった」


実篤は初めて聞いた話だった。

違う中学なのでそんな話があるのは知らなかったが、雪子と同じ中学出身のヤツがクラスぐるみの悪戯が流行って大変だった事を言っていたのを思い出した。

誰が始めたのか、質の悪い悪戯だった。

最初は誰かが本気のラブレターで呼び出して、不安だから友達に隠れて見ててもらって、告白して玉砕したのが初めてだったらしい。

それを聞いた別のヤツが同じ事をして、やっぱり振られてしまい、その場で逆ギレしてお前の事なんか本当は好きじゃなかった本気にするなと捨て台詞を吐いて逃げた。

そんな事が続いてからか雪子の学校では異性を呼び出して、友達の前で告白ごっこをする事が流行った。

最初の人間の純粋な真剣さは何処かへ飛んで、男女のどちらかが気を持たせる、待たせているかの駆け引きゲームとして学校で流行ってしまったらしい。

もとよりあまり人付き合いの得意ではない雪子はそういう行為が流行ってるとは知らずに、下駄箱に入っていたラブレター、ご丁寧にハートのマークのシールで止めてある封筒に入っていた手紙に従って雪子は呼び出された教室に向かった。

そこで待っていたのは同じクラスの中学生にしては背が高くて、ニキビの跡も無く清潔感があって学年でも嫌いな子の方が少ない男の子。

でも中身は他の中学生男子と変わらない、子供っぽい虚栄心の固まりみたいなヤツで、何人も女の子を呼んでは告白ゲームで相手の恥ずかしがる姿を楽しんでいた。

呼ばれた雪子は状況が解らずに手紙を差し出す。


「手紙読んでくれた?」


「読んだは」


「返事は?」


「付き合わないわよ」


素っ気なく雪子は手紙を差出人に押し返す。


「じゃあなんで無視しないで教室に来たんだよ?」


「それは失礼でしょ?」


「本当は期待してたんじゃないの?」


へらへらと笑う男子生徒に雪子は嫌悪感よりもこれ以上関わりたくないと思って、教室を出ようとした。


「付き合っても良いんだぜ?」


男の子はまだニヤニヤと笑っているらしかった。

もう振り向いてしまったので雪子はその顔は見えない。

無視して教室の外に出ようとすると、ドアから数名の男子生徒が入って来た。


「三島はやっぱり男に興味があったんじゃん」


「いつも黙ってるけど、やっぱり興味があるんだな」


さっきの男子と同じ様にみんな笑っている。

何が面白いのか雪子には分からない。


「来ないで」


雪子も驚くくらい大きな声が出た。

男子生徒は驚いた顔をした後、皆で顔を見合わせてまた笑い始めた。


「なんだよ、そんな怒る事かよ?」


小さな声だったが、雪子にはよく聞こえた。

雪子は誰にも目線を会わせずにそのまま教室を後にした。

中学生の悪戯なので、それ以上の事も無く、ただ男子生徒達は雪子の静かな反応につまらなそうにして、次は誰を呼んでからかうのかを懲りずに決め始めた。

そして、つぎに呼んだ体育会系の女の子に本気でキレられて、机や椅子を投げつけられて、教室の窓ガラスをほぼ全損する事態になって、先生の知る所になりこの悪戯は終了した。

巻き込まれた雪子はただ怒っていた。

他人の悪戯に巻き込まれた事に対してではなく、自分が物のように扱われた事に対して憤りを感じて、教室に呼び出された日の帰り道では涙が出そうになったのを堪えた。

他人に対して距離を置く雪子にとって、土足で自分の気持ちに入ってくるのは許せない事だったのだ。

女子は別にグループで行動するので、敵対行動をとらなければ自分の方に寄ってくる事は無い、裏でなんと言われようとそれは他人事でしか無いからだ。

そこに今まで気にもしてなかった男子達が割り込んで来た。

それは雪子が中学生になって人目を引く容姿、大人しくて清楚で、重そうな瞳でアンニュイな表情を浮かべる姿が絵になって、明るくて騒がしい女子の中でも異質な存在感に心惹かれる男子が増えたからだった。

それは雪子にとっては意識してやっている事ではないので仕方がなかった、時々興味を持って話かけてくる男子は後を絶たなかった。


「それ以来、何度か告白されてもどれも信じられなかった。そういうことされる度にあの時の嫌な事思い出して、めんどくさいなぁって思ってた」


雪子は自分の手を見ながら話している。


「だから杜若君はそういう事絶対自分から言わない人だと思ってたから楽だった」


何かと気を掛けて来る男子の動きはいつも不自然だった。

無理に物を運ぶのを手伝おうとしたりして、真面目な雪子には本人が手伝われるのが下に見られている様に不快に感じるのにだ。

その点実篤は、ただ優しいだけではなく、任せる所は任せてくれて凄く一緒に居て苦痛ではなかった。


「どうせ俺は奥手だよ」


「でも、優しいじゃない。誰に対しても嘘はつかないし、嫌な事しない様に考えすぎちゃって話がまとまるのに時間が掛かってもがんばってさ」


雪子は実篤の誠実さを褒めた。


「私は実篤君のそういう所好きだったから、大学受験とか面倒な事が終ったら私から言おうかなって思ってたから……好きだって」


「ほんとに?」


実篤は身を乗り出す。


「うん」


雪子は恥ずかしそうに頷く。


「そうか……」


「だから先に言われちゃった時はどうしようと思って、それでまた中学校の時みたいに嘘って言われたら私はもう駄目になっちゃうって思ったから、だから私は一回目は断ったの」


「そうか、試されてたんだな俺は」


実篤は最初の告白で雪子に断られるとは思っていなかった。

だからその後は何もしなかった。


「うん、その後何度も私に嘘じゃないよって、メールしてくれたり、電話してくれたりして、最後なんかもう夜いきなり部屋の外に居るんだもんビックリしたよ」


「あ?」


雪子はまるで王子様が迎えに来たように、目を輝かせていた。

実篤はそんな胸に手を当てながら陶酔しきっている雪子を始めて見た。

一点の曇りも無い、純粋な、やっと手に入れた邪な気持ちの無い「奇麗」な物を大事に握りしめている。


「ほら窓の外から迎えに来てくれたじゃない?」


「えっだってお前の家十五階だよな、どうやって?」


その時初めて雪子は疑問に思ったようだった。


「そういえばそう、どうやって私の部屋の窓の外に来たの?」


「どうってお前……」


「凄く嬉しかったけど、危ないよね十五階の窓の外から私に会いに来てくれるなんて」


雪子は全く疑いのない眼差しで実篤を見る。


「夢みたいだった……」


雪子の微笑みは今まで見た事の無いくらい屈託の無い優しい笑顔だった。


「ありがとう」


「三島!」


そのまま雪子は崩れ落ちる様に椅子から滑り落ちて床に伏せた。


「三島大丈夫か?」


雪子に触れようとした瞬間、実篤が見ている景色は色を無くした。世界は古い写真の様に全てが静止して、全てのものが霞みかかった様に淡くボヤけて見えた。

でも雪子の寝顔は笑っているようだった。

実篤に雪子の寝顔をが幸せそうに見えたの、今まで言えなかった事を言えた開放感なのだろうかと思いながら、細い雪子の身体を支える。


(実篤、もうすぐ雪子が目覚める)


今まで声が聞こえなかった宇宙の声が聞こえる。


(実篤?)


三島雪子の肩を抱きながら、実篤は動こうとしなかった。


(どうする?)


「どうするって……」


(このまま雪子をこの私の中に作った別の地球に置いて行く?)


「置いてったら俺の住む地球に雪子は」


(居ないわ、雪子が開いた世界では雪子が居なければ存在しない)


このまま雪子をこの宇宙が作った別の地球に残しておけば、雪子は自分が望んだ幸せに浸る事が出来る。


「三島は凄く幸せそうだったな」


(やっぱり実篤の事好きだったのね)


「俺が元の世界に連れて帰ると、三島はまた辛いんだろうな」


元の世界に戻れば三島雪子は実篤と結ばれる事無く一人に戻る。

また心にトラウマを抱く。

このままここに置いておけば多分、心に傷を負う事はない。

三島が作り出したコピーの自分と幸せに高校・大学生活を送る。


(実篤はどうしたいの?)


「俺は、三島を連れて帰りたい」


実篤にしては珍しく即答だった。


(連れて帰ってどうするの?)


「少しくらい三島の事、三島が良いと思える事してやりたい。俺は自分の事しか考えてなかったんだきっと」


ゆっくりと実篤は三島雪子を抱き抱える。


「宇宙、元の世界に俺と三島を戻してくれ」


返事は無かったが、実篤の周りは更に色を無くしていった。光が無くなって、照明が落ち始める舞台の様に、一つ、一つと光が、色が消えて行く。

ゆっくりとゆっくりと視界は暗くなり、眠る様に実篤も気がつかない内に目の前は暗くなり、静寂が訪れた。


寝ていた三島雪子は目覚めてすぐに身体を起こした。

ベッドの上に、着替えもせずにそのまま寝転んで寝てしまったようだった。

起き上がって三島雪子は頭を抱える。

身体を動かしてベッドの上にある白い大きな枕に手を伸ばして掴むと、頭を隠す様に覆い被さる。

誰が見てるわけでも無いのに、顔は見せないのは恥ずかしいからだった。

三島雪子は夢を見た。

自分が杜若実篤の告白を受け入れて、付き合い始める夢だ。

自分でも驚く程仲が良くて、楽しくて、地に足が着かない楽しい気持ち。

雪子は愚かしいと思ったのは、それを否定したのは自分だったからだ。

実篤の図書室での告白を一言で断った自分がいけないのだ。

現にもう実篤には新しい彼女が居て、自分は大学に入っても独りぼっちだ。

そこまで考えて、雪子は自分がベッドで寝ている事に疑問に思った。

そういえば大学の帰り道で実篤と宇宙に会った筈だ。

そこからの記憶が無い。いつの間にか家に帰って来て寝ていた。

その間の記憶が曖昧というよりは白いノートの様に真っ白だった。

何か書こうと思って、態とそこをあけてある様な、そんな感覚は初めてだった。

雪子が感じた記憶の空白はもちろん宇宙が作った。

元の世界に戻る際の時間軸の調整の誤差だった。

雪子が夢だと思った出来事も、実際は宇宙の中の別世界での雪子が望んだ生活、実篤と付き合った日々の事だ。

そんな事も分からずに、恥ずかしい夢を見たと思って、雪子は顔が熱くなるのを感じた。

いつもは風が強いので閉めている窓に近づく、少し部屋に風を入れようとする。

窓に近づくと何か音がした、ガラスを叩く音だ。


「なに?」


ベランダの外、窓の前に誰か立って居た。

雪子は驚きのあまり声が出ずに腰が砕けてしまってそのまま座り込んでしまった。


「実篤君?」


窓の外にはさも所在なさげに、顔に手を当てて考え込んでいる実篤が居た。

頭を抑えている方とは別の手で、雪子に手を振っている。

ゆっくりと雪子は立ち上がって、実篤が立っているベランダの窓に近づいていく。


「ちょっとそんな所でなにやってるの?」


「結構高いなここ、怖かったわ」


「どうやってこんな所に……」


「企業秘密、もうやらない」


ベランダの外では宇宙が浮いているが、雪子からは見えない。

実篤は宇宙にしがみついて、十五階のタワーマンションのベランダまで上がって来た。

部屋の場所は宇宙の作った並行世界で知ってたので簡単だった。

しかしエレベーターでもなく生身で十五階まで上がるのは驚く程怖かった。


「なにしに来たの?」


「話をしに来た、電話とかメールとかだと伝わるもんも上手く伝わらないし」


「だからって他人の家のベランダに勝手に上がるの?」


「土足で踏み込むのは悪いと思ってるけど、あの時やっぱりもう一歩踏み込まなきゃ行けなかったんだ俺は」


「何の事?」


「告白した日から俺はたった一回拒絶されただけで諦めて、勝手に絶望して、勝手にいじけてた」


「実篤君?」


「だからなんで三島が俺の事を振ったのかとか、そういう理由を聞いて何度でも何度でも話せば良かったんだ」


実篤は勢いでこの三島の部屋まで来ていたので、声は上擦っていた。


「どうして? どうしてそう思うの?」


「勿論俺の勝手な憶測かもしれないけど、三島がみんなと居ても、俺と会っても笑わなくなったのは俺が中途半端に触れて、三島を不安にさせたからだよな?」


雪子は何も応えなかった。


「だから、あやまりに来た」


実篤は深々と頭を下げる。


「それで態々ベランダから?」


「こういうの好きだろ?」


「嫌よ、危ないもの……」


雪子は手を差し出して、実篤のシャツの裾を掴んだ。


「私の事なんか放っておいてくれればいいのに」


「やっぱり俺は三島の事が好きだったんだよ」


「過去形?」


「今はちょっと頭の中とか自分の周りが不安だらけでさ、何が大事だかわかんなくなってるんだよ正直」


「宇宙さんの事?」


「まあ、それも……」


殆ど問題の大半は宇宙だったが、あえて実篤は誤摩化した。


「実篤君変った」


「何が?」


「前はこんなにハッキリ行動に移す人じゃなかった」


「どういうヤツだった?」


「いつも優しくて、周りの事ばっかり」


「それは違う、自分の事も周りの事も考えてなかった、結局周りに流されてただけだった」


雪子は実篤のシャツを引っ張る。


「そんな事無い」


「いや、この地球を壊す様な爆弾抱えても全部壊しちまえと爆発させる自分本位な勇気もないし、三島の幸せを願って、そのままにさせてあげる勇気もなかったんだ俺には」


宇宙との距離を広げて地球を壊す事も、別の世界で幸せに暮らす雪子をそのままにする事も出来ずに連れて帰って来た。


「なんの事?」


「結局今を続けるしか無いんだって、告白に失敗した事も大学受験に失敗した事も全部繋がってて、それを一つ一つ次の形に繋げてくしかなくってさ、だから俺は三島に謝りたかったんだ、あのままにしたくなかった」


雪子は実篤のシャツを縋るように握る。


「私のせいにしないなんてなんか狡い」


「まあ三島だったらそう言うよな」


実篤は溜め息をついた。


「私もごめん。もっとちゃんと話せばよかった」


「いいよ、三島の頑固さは今に始まった事じゃないし。一度機嫌を損ねると長いからな、でも半年近く口を聞いてもらえないとは思わなかった」


「悪かったわね」


「これで貸し借り無しだ、元通りってわけには行かないけど」


実篤と雪子は部屋とベランダの仕切りの間で対峙している。

線を引いてあるわけではないが、内と外、奇麗に別れている。

どちらかがその線を越えなければ関係はいつまでも相対的なものになる。

実篤も雪子も昔の嫌な記憶を引きずり出しながら、その線を越えて相似的なものから一つなりたいと願う。


「実篤君、会いに来てくれてありがとう」


「三島」


二人の距離がミリ単位で徐々に近づく。お互いの目を覗き込みながら、その瞳の微かな光に誘われる。


「俺は今でも三島の事を……」


(なにするの実篤?)


ベランダの横には宇宙が座り込んでいた。顔を上げて実篤の方を見ている。

実篤は下の階のベランダにでも隠れていろと宇宙に指示を出していたのだが、いつのまにか三島雪子の部屋のベランダに上がって来た。

宇宙と離れれば地球は壊れてしまう。

壊してしまったら何の為に三島雪子をもとの世界に戻したのか意味がなくなる。それどころか沢山の人の運命が終る。

そんな事を忘れて実篤は雪子との二人だけの時間に浸っていた。


「三島、目を閉じて」


「なんで?」


「閉じれば理由がわかるよ」


雪子は言われるまま素直に目を閉じた。

胸の動悸は早くなる。

その時ふと握っていた実篤のシャツが雪子の手から離れた。


「夢でも幻でも三島に謝れて、俺は良かったよ」


実篤の言葉が聞こえて雪子は目を開いた。

目の前にさっきまで居た実篤は消えていた。

雪子は慌てて周りを見るが実篤の姿は無い。

ベランダに出て、身を乗り出して周りを見たり、下を見ても実篤の姿は無い。

さっきまで手で握っていた実篤のシャツの感触は夢にしてはリアル過ぎる。

けど夜の街、古い住宅街が続いていく町並みが遠くに壁の様に並ぶ山並みまで続いて行た。


「実篤君」


三島の住むタワーマンションには強い風が吹く、髪を揺らしながら雪子は町並みを見下ろす。

大好きな男の子が窓から訪ねてくるなんて、漫画みたいな展開をいつから期待してたのだろう。

夢で見るにしたってもう少しましな夢を見るべきだった。

でも、なんだか優しい夢で、頭の片隅にあった嫌な事が少し溶け出した様な気がした。

ふと雪子は実篤の隣に居た宇宙の事を思い出した。

あの子に会ってからなんだか不思議な事が続いている様な気がした。

あんなに話せなかった実篤と急に何度も会って、話す事が出来た。

そうだ今日もあの宇宙って子に会ってから、なんだか凄く長くて濃密な時間を過ごしている様な気がする。

やっぱりあの子は今も実篤の隣に居るのだろうか?

やっぱり優しい実篤はあの変な子に今日も振り回されているのだろうか。

三島雪子はなんとなく色々考えているうちに、再び眠くなってきた。

窓を閉めて三島雪子はベッドに向かう。

こういうときはもう寝てしまう事にした。

学校から帰って来て、服は着たままだったので面倒だったのでスカートを脱いで、上着の中に手を入れてブラジャーだけ取ってから布団に入った。


「うん?」


雪子はなにか視線を感じたが、とりあえず重くなった身体をベッドに潜り込ませてみた。

すぐに瞼が重くなったのは、また楽しい夢を期待してるからなのだろうか、それともずっとわだかまっていたものが溶けて楽になったからだろうか?

雪子は窓を背にして再び眠りに着いた。


[newpage]



「実篤、雪子は寝たみたいだよ?」


「そうか……」


タワーマンションの上空、埼玉県の所沢市上空に二人の人間が浮いて居た。


「どうしたの目を背けて?」


「いや、いきなり服を脱ぎ始めたから……」


実篤は宇宙の背中にしがみついていた。

現実世界では実篤は浮かぶ事は出来ない、でも宇宙は重力を遮断してどこまでも空中に浮く事が出来るので、宇宙にしがみついて三島雪子の部屋のあるタワーマンションの十五階のベランダまで行き、その後は三十階のタワーマンションよりも高い高度で所沢上空を飛んでいた。


「宇宙、とりあえず早く下ろせよ」


「もうちょっと浮いてようよ?」


楽しそうに宇宙は微笑む。


「怖いだろ!」


「大丈夫、私と一緒に居れば落ちないよ?」


そう言って宇宙は夜空にクルクルと回った。

重力を操って飛んでいるので、頭に血が上る様な事は無いのだが、逆に視界だけがグルグルと回って実篤は気持ちが悪くなった。

夜空は少し肌寒い、意識として空を浮いていた時とは違って、自分の身体が浮いている時は興奮よりも怖さの方が勝った。

地面に足が着いてない落ち着かない感覚が実篤を襲う。


「止めてくれ」


「実篤あそこ覚えてる?」


「あの水がある所」


「ああ狭山湖か」


宇宙が指差すのは市街の外れ、森の中にある人工の湖。


「私はあそこで初めて実篤の事認識したんだ」


「俺を?」


「うん、あそこで私に向かって来る実篤の声が聞こえたんだ」


「俺がお前を呼んだ?」


実篤はゆっくり考えてみる。

最初に三島雪子に振られた時の事は思い出したく無い事なのでずっと記憶の押し入れの奥に鍵を掛けてしまっていた。

実篤は記憶の奥底に閉まった箱をゆっくりと開けて行く。


「ああそういえば」


落ち込んだ実篤は夜に目が覚めて、ふらふらと自転車を漕ぎ始めた。

行き先なんかどこでも良かったが、着いた先は雑木林とキツイ坂を上った所にある小さな人工の湖の狭山湖だった。

夜の湖畔、といっても整備された歩道の上で、実篤は小さい湖といっても人一人には十分に大きな湖を前にして柵に寄っかかって、時間を潰していた。

三島雪子の事を考えながら、ふと夜空を見上げる。

東京郊外でも少し住宅街を離れれば、星空に上る星の数は増える。

まばらに散らばる星の下で実篤は大声を出す。


「俺は、今度は髪がフワフワで柔らかくて、胸が大きくて、何時も笑顔で俺に笑ってくれる女の子と付き合ってやる!」


夜中で周りには誰も居ないとはいえ、三島雪子に振られた反動で雪子とは正反対の女性を思い浮かべて、実篤は大声で湖面に向かって叫んだ。

そしてすぐに恥ずかしくなって、また自転車を漕いで家に帰った。


「実篤どうしたの、顔真っ赤だよ?」


「五月蝿い」


自分の恥ずかしい過去を一言一句思い出して、あまりの恥ずかしさに実篤は両手で顔を覆った。

タダでさえ振られた男の戯言なのに、更に雪子を傷つけておいてまで自分勝手な事を言っている自分に実篤は幻滅した。

いや、自分に対してとっくに幻想なんて無い。

自分はいつも失敗して、誰かを傷つけて生きている。


「恥ずかしいを通り越して痛い。殺してくれ」


実篤は足をジタバタと動かしたかったが、空に浮いていて怖くて出来なかった。


「はは、やっぱりこの星を壊しちゃう?」


「それは出来ないけど、気持ち的には凄く壊したい」


「ふふ、変なのさっきまで壊したくないって言ってたのに」


宇宙が言っているのは多分、三島雪子の部屋で後悔してないと実篤が言った事に対してだ。

そう、さっきまで吹っ切れたと思ったのに、また思い出を蒸し返して右往左往してしまう。人の心ほど揺れ幅の大きなものは無いのではないだろうか?

そんな事を実篤は顔を赤らめながら考えた。


「愛しいなあ」


宇宙は実篤に向き合って顔を見つめる。

二人で抱き支え合う様に、所沢上空に浮かぶ。


「人って言うのは本当に突発的で不規則に適当に内宇宙を変えていくね」


「そんなに変ってるのか?」


「つねに変ってるよ。ほら」


宇宙は夜空を指す。

実篤には一瞬、あの別世界でみた全天を埋め尽くす大銀河団の姿が見えた様な気がした。


「宇宙が千億の星とそれを束ねる千億以上の銀河からなる大規模構造を億年単位で変化させるけど、人の心はそれに比べたらほんの一瞬の煌めきでしかない」


実篤には単位が大き過ぎて何だか実感がわかなかった。


「でもね。こうやって見ていると本当にその煌めきは私に取っては賑やかで見てて飽きない。人が何かを好きになる『愛しい』って気持ちが初めて分るようになったよ」


実篤の足下には地元所沢の街の明かりが広がっている。

その家に灯る明かり一つ一つに、自分みたいな何でもないけど、唯一無二の個人が居る。

それを宇宙は愛しいと言った。

実篤は所沢以外の街で暮らした事は無い。

だからこの小さな街が全てだと言えば間違いじゃない気がした。

それは宇宙と話していても、特大のスケールを持つ彼女の世界の話を聞いても、結局自分の生きている世界はこの足下に広がる小さな街、地方都市のひとつなんだと思った。

この小さな街自分の周りに沢山の人が集まっている、自分の家族、アパートの隣人たち、フットサルに誘ったり飲み会に誘ってくれる友人、そして宇宙がこの街に居る。

まるで自分が世界の中心のような気がした。

けどそれは多分足下に居るみんながそうなんだろう、誰一人例外は無いとおもう。

人は何をどうしたって一人で生きて一人で死んで行く。

心を重ねて全てを見せ合う事なんて出来ない。

けど自分が今しがみついている女の子だけは極大スケールの例外だ。

望めば全てを別の世界に与えてくれる。

そこには無限のスペースがあって、なんでも思い描けば一通りのものを揃えてくれる世界だ。


「どうしたの実篤?」


「何でも無いよ」


宇宙はいつものように笑う。


「私をこの場所に呼んでくれてありがとう。実篤」


「別に呼びたくて呼んだわけじゃない」


実篤は自分の狭山湖の絶叫を思い出して、宇宙を直視出来ずに顔を背ける。

宇宙に向かって大声だしたら届いたなんて、なんて陳腐な奇跡だろう。

宇宙が初めて自分の前に現れた時、宇宙開闢の奇跡に等しい確率で巡り会ったという意味が何となく実篤には分かった。


「はは愛しいな」


宇宙は手を伸ばして実篤に抱きついた。

宇宙の身体は普通の女の子と変らない。いやそれ以上に柔らかいのか実篤には比べるものが無いから分からなかった。


「馬鹿やめろよ」


条件反射で慌てて実篤は手を伸ばして宇宙を押しのける。


「あれ?」


そのまま実篤は地上へと落下を始めた。

一気に二人の距離が開くと、一瞬地面の方から大きな地響きがした。


「よっと」


すぐに宇宙は実篤を拾い上げて、抱え上げる様に手を伸ばす。

そのまま軽々と空中を飛翔して、三度程他人の家の屋根を軽く踏んで飛ぶと、実篤の住む古い木造アパートの庭にたどり着いた。


「到着」


「死ぬかと思った……」


宇宙に目を回しながら縋りついて、実篤は自分の心臓の音が体中に響いているのを感じていた。


「地球壊れるかと思ったね」


「危ないな」


実篤達が庭に降りると、ガラガラと隣の部屋の窓が開く。


「また変な地震が……」


中から小豆色のジャージを来た渋沢希美が出て来た。


「あら、サネ君帰ってたの?」


「はい」


「そんな所で抱き合って何してるの?」


「いやコレは」


実篤は宇宙に抱きつかれて身動きが取れなかった。


「もう、部屋では飽き足らず外で破廉恥行為におよぶって事なのね?」


「違う!」


「おーいあかりちゃん、きららちゃん、サネちゃんがまたイチャイチャしてるぞー」


「なんですって!」


すぐに隣の大家の家から声が聞こえてくる。すぐにバタバタと走る音が聞こえる。


「出てくるのかよ!」


「何よ、文句あるの!?」


森本姉妹が壁に付けてある扉から直ぐにアパートの庭に入って来た。


「あんなに揺れたら怖くてみんな家の外に出てるよ」


「そりゃ悪かった」


「なんで実篤が謝るの?」


あかりの不思議そうな顔に、実篤はしまったと思った。

庭で座り込んで抱き合っている宇宙と実篤を見て、妹のきららは姉のあかりの肩を叩く。


「やっぱり宇宙さんと仲が良いんですね。お姉ちゃん諦めたら?」


「きららは黙ってなさい!」


実篤はなんだかどっと疲れが出て来た。

大冒険とは言わないが、雪子との事が終って、家に着いてもなんだか落ち着かない。


「うん、どうしたのそんな疲れた顔しちゃって」


希美が実篤に声を掛ける。


「今日は色々あったんです」


「ふーん何があったの?」


実篤は隣に座り込む宇宙と目を合わせる。

大きな瞳はキラキラと光っていた。

この目に捕まると、自分が理想とする世界に捕まってしまうのだろうか?


「希美さんがこうなって欲しい世界ってあるんですか?」


「なに? なんの話?」


「いや夢っていうか、こうなったら良いなあって思う世界ってあります?」


「うーん、まあ一日中寝てても誰も文句言わない世界があったら良いなあ?」


希美は三十代に届こうかという人間とは思えない程の純粋な笑顔で実篤の質問に答えた。


「私は名前変えたい!」


きららが手を挙げて応えた。


「あかりちゃんは?」


「私は……別にそういう夢とか願望とか無いもの」


「あれ、前に優しいお兄ちゃんみたいな人が欲しいなあって言ってなかったけ?」


「言ってませんよ!」


あかりは顔を真っ赤にして希美に詰め寄った。


「実篤?」


「まあ、みんな色々な願望があるよな」


みんな何かを求めてそれなりの日々を暮らしている、もしも自分の望む世界にならなければ、こんな世界を壊して新しい世界を作るべきなのかも知れない。

世の中自分よりも不幸な人間は沢山居るだろう。でもその人には地球を壊す力は与えられなくて、女の子に振られて落ち込むだけの自分みたいな弱い男に地球を壊してしまう力が与えられた。

理不尽と言えば理不尽だが、なんだか今の実篤には少しだけ納得ができる。

自分はそれだけ雪子に対して真剣だった。それが世界の全てだと思っていた。

それが叶わなければ、それは世界の終わりと同一だとその時は思ってた。

でももちろん世界は終わらないし、振られた彼女とも同じ街で暮らしている。

ちょっと飛べば会える距離で。

考えたって無駄な事が世の中には多いけど、考え抜いてから諦めるのは悪い気がしなかった。実篤は自分が雪子に振られた事、大学受験に失敗した事になんだか少し納得ができて来た。

「自分が望んだ事がかなった世界で幸せになれたら良いけどな」

それは何処かで誰かが悲しむ事なのかもしれない。

ふと、実篤は宇宙の顔を見た。

優しい顔で笑っていた。たぶん宇宙にとっては自分も含めて全てが変っていて楽しいのだろうと思った。

宇宙に比べれば自分たちの一生、願い事なんて光の点滅の様な一瞬の事なのだろうから。

「実篤、希美とあかり、きららの願い。私の中の宇宙と繋げる?」

「出来るのか?」

「一回出来たので何となく」

宇宙は自分の胸元に手を当てて実篤に問う。

「まあこの世界はここにしか無いし。この中でせいぜい、なるようにしかならないような気がした」

「そうなんですか?」

「そう考えると少し気が楽になる、おきらくに行こう」

そうでもしなければ地球の危機と一緒に狭いアパートで暮らす事は出来ない。

自分の唯一無二の世界は続いて行くのだ、終わらないでだらだらと。

「宇宙、おきらく、所沢」

そう呟いて、何となく語呂がいいと実篤は思った。




[newpage]



■■■エピローグ




「実篤、外に行かないの?」


「行かない」


実篤は部屋着ではなく、ちゃんと外出が出来る様に少し皺の有るシャツを着ていた。

そして黙々と机に向かって勉強をしていた。

そしてそんな実篤の後ろで宇宙は今日も浮いていた。


「ねえ、あの合コンってやつもうやらないの?」


「俺が行くと場が荒れるからもう呼ばないって」


宇宙を連れて行った同窓会という名のただの酒飲みの集まりは、あまりも男性陣が実篤の恨み節と宇宙の話をして、女性陣が宇宙の嫉妬混じりの宇宙の話をするので、もう何の為に集まったのか分からなくなる為、とりあえず次に集まる時はあの空気読めない実篤は呼ばない事にしようという事になったらしい。


「じゃあ、あのボール蹴るのは?」


「あれも行かない」


フットサルの方も同じ様な理由なのか、そのあと海野社長からの誘いの電話は無い。


「そうか、面白いのにね」


「そうかもな」


実篤は宇宙の方は向かず、机に向かって勉強を続けている。

最初は勉強どころではな無かったが、三日も過ぎると部屋に浮いている宇宙と話しながら勉強ができる様になったのは自分でも適応しすぎると思った。

どんな大事件も、自分の一生を変えてしまうと思っていた事件も三日も過ぎると元にもどってしまう。

この世界はそんなものなのかもしれない。

実篤は日が沈む昼過ぎに自室でそんな事を考えた。

大学受験失敗も、告白の失敗も全て過去だった。

実篤はふと雪子の事を思い出した。


「どうしたの実篤?」


目の前に逆さまになった宇宙の顔が浮かんでいる。


「いきなり顔だすな」


「雪子の事を考えていたの?」


なんで分かるんだとは実篤は聞かずに、またどすんと背中から畳に倒れ込んだ。

畳の上に平机は直ぐに休めるから、勉強の効率が悪いと思いながら。

仰向けになって天井を、そして浮かんでいる宇宙を見る。

桜色の髪を弛ませながら、重力からも自由な宇宙は足を少し曲げて、手はスカートを握っていて、子供の様な笑顔を浮かべていた。


「お前は三島の事どう思ってるんだ?」


「好きだよ」


宇宙に嫌いなものなんかあるのだろうか?

宇宙から見れば人間なんてみんな小さくて、そう、可愛いものでしかない。


「終ったんだよな」


「何が?」


「何かだよ」


そう言って実篤は腰を上げる。

そのまま庭に続く扉を開けて縁側に出る。

外は晴れていて、雲が少しだけ浮かんでいた。

いつもの平日。

縁側に腰を掛けて実篤は何も無い庭を見る。


「はぁ何だかなぁ」


「どうしたの?」


宇宙が後ろから声を掛ける。


「平和だ」


「平和って?」


「何にも無いって事だよ」


宇宙はそのまま実篤の頭の上で腕を組む。

実篤も頭の上に宇宙の腕が乗っかってるのは分かるが、重さは殆ど感じなかった。


「なにやってんだ宇宙」


「何もしてない」


宇宙は実篤の背中の後ろで身体を浮かしている。

実篤は平和と自分で言っておきながら、背中に感じる特大のリスクの事を考えた。

実篤の部屋から二人を見ると、逆行でくらい影が繋がっている様に見えた。

平日の昼下がりに実篤はすぐ壁のある小さい共有の庭を見ていた。

隣の希美は会社に出勤中で居ない、ベランダから見える壁の向こうの森本姉妹の声も聞こえないし、この世界には誰も居ない気がして実篤はハッとした。


「宇宙、この宇宙は俺が最初から居た宇宙なのか?」


「そうだよ」


「そうか、あの雪子が居た偽物の世界とは違うんだな?」


「うん」


「そうか、そうだよな」


実篤は笑いながら溜め息付いてから両膝に手を置く、宇宙は笑いながら実篤の頭の上に手を乗せる。


「ふふふ」


宇宙が小さく笑う。


「なんだよ?」


「平和、平和」


実篤の両肩に手を乗せて、宇宙は実篤にゆっくりとまとわりつく。


「よせよ!」


「なんか浮いちゃいそうだから捕まえて」


宇宙の冷たい細やかな指が実篤の首筋を這う。


「お前が浮いて離れちゃうと大変な事になるだろう?」


実篤は慌てながら宇宙の手首を掴む。

宇宙の手首は実篤が思ってるよりも細くて、男の手で握ると潰れてしまいそうな気がした。


「ほら、離れるなよ」


「うん、離れない」


ふと実篤は宇宙が離れて居なくなってくれればと考える。

宇宙が離れればこの地球も壊れる。

そう考えると実篤は少し宇宙を握る手の力が弱くなった。

すると実篤の手首が少し熱くなる。

宇宙が実篤の手首を握り返した。


「地球壊す?」


宇宙は実篤の頭上で目を輝かせた。

吸い込まれそうな瞳に、星々の輝きが見える。

薄暗い安アパートの暗がりの中で、桜色の髪と輝く瞳。宇宙の中には無限のスペースを有する大宇宙が有るが実篤にはそんな事は分からない。

ただ、人々が昔から夜空を見上げて手を伸ばして来た気持ち。

時間も空間も遥か彼方にある星空の世界と比べて、地表でウジウジと明日の事や来年の事を悩む自分の小ささを恥じ入る。


「俺は地球を壊す度胸なんてないよ」


「知ってる」


実篤は宇宙の手首を放す。

実篤は再び宇宙の手を握って、ほんの少し浮かび上がっている宇宙を自分の元へと引き寄せた。

ほんの少し引き寄せたつもりが、重力に縛られていない宇宙は簡単に実篤に引き寄せられて、実篤と顔を合わせたままくるんと一回転して、宇宙は実篤に身を委ねる様に寄り添った。


「なんだよ近い!」


「ちかいちかい!」


笑いながら、まるで実篤がお姫様抱っこしているような格好になる。

でも宇宙は浮いているので実篤の手は手持ち無沙汰だ。


「あっ」


宇宙が何か気がついたのか、外の入り口を面した道路の方を見る。


「ぐっ」


宇宙は重力の操作を止めて、そのまま実篤の膝の下に降りた。

幾ら宇宙が軽い女の子でも、いきなり重さが加わって実篤は苦悶の表情を浮かべた。


「何だよ宇宙!」


宇宙はすぐさま実篤の首に腕を回して、膝から落ちない様にバランスを取った。

実篤の膝を尻に敷いて足を伸ばす。


「お兄ちゃん何やってんの?」


「げっ多香子!?」


眉間に皺を寄せて、地元の中学校の制服姿の女の子が眉間に皺を寄せて実篤達を凝視する。

短い肩口で切りそろえた黒髪、制服の着こなしに野暮ったさが無く倫として意思の強そうな姿は勝ち気に見える。

その姿に実篤は直ぐに自分の出来のいい妹だと認識させられた。


「何やってんの?」


宇宙に抱きつかれたまま、実篤は動けなかった。

宇宙は実篤の人の前で浮くなという言い付けを忠実に守っているだけだった。だが美女に昼間っから抱きつかれている浪人生という絵は真面目な女子中学生の多香子にとっては不健全極まりない姿だった。


「お兄ちゃん本当に女の人と一緒に暮らしてるんだ……」


妹の見下した態度に実篤は情けなく目を背ける。


「あかりさんの言ってた事は本当だったんだ」


多香子は腕を組みながら呆れた顔をする。


「何やってんのお兄ちゃん?」


「これは色々な事情があってだな」


実篤は窓枠の所から立ち上がり、多香子に詰め寄る。


「事情って?」


「不可抗力なんだよこれは」


実篤は両手を開いて無実をアピールする。


「そんなに抱きつかれて不可抗力なの?」


実篤は軽さに気がつかなかったが、首にしがみ付いたまま宇宙が自分にくっ付いて居た事に今更気がついた。


「あっ宇宙ちょっと離れてろよ」


「離れるなよって言った」


実篤の胸に顔を擦り付けて、宇宙は実篤の妹の前で甘える様な仕草をする。


「お兄ちゃん趣味変わった? お兄ちゃんの好きな人ってあの地味目で奇麗な人じゃなかったっけ?」


多香子が三島雪子の事を言っているのは実篤にも分かった。


「まるっきり正反対」


「こいつはそんなんじゃないの!」


多香子はハイハイという顔をしながら鼻を鳴らす。


「あかりさんもこんなダメな兄の何処が良いんだか……」


「私は別に関係ないじゃん!」


制服姿のあかりが昨日と同じ様に庭の壁に付けてある扉を開けて話に割り込んで来る。


「様子見て来てって言ったのあかりさんですよね?」


「あかり、俺の部屋を見てたのか?」


実篤は宇宙が浮いている所を見られたかと思った。


「見てないわよ! ここからじゃ扉開けないと見れないもの、声しか聞こえない!」


あかりは聞き耳は立てて居たようで、自分で言ってて恥ずかしくなったのか顔を真っ赤にして反論した。


「あかりさん、お兄ちゃんは昼から親にお金だしてもらってる部屋に住んで女性と抱き合うダメ人間ですよ、諦めた方がいいですよ」


「別に私はなんともない!」


高校生のあかりが完全に中学生の多香子に手玉にとられている。


「多香子お前何しに来たの?」


「様子見、またいじけてるのかなって思ったけど楽しそうで何よりだわ、お母さんに伝えておく」


「待て、多香子!」


多香子を止めようとして実篤の前には桜色の髪の毛が浮かぶ。

宇宙が首からぶら下がったままだった。


「宇宙、ちょっとだけ離れてろよ、ちょっとだけ」


「やだ、離れないよもう」


宇宙は実篤の首に手を回したまま、まとわりつくように背中に廻って、実篤の肩に顔を乗せる。


「あれ、多香子ちゃんだ?」


多香子がアパートの庭から出ようとしている所にちょうど俊彰が庭に入って来た。


「久しぶり、今日も可愛いね」


「そう言うのは俊彰さんだけですよ」


「そうなの? みんな分かってないなツンデレ妹の良さっがっ!」


多香子は躊躇無く俊彰にローキックを御見舞いする。


「馬鹿」


「あっありがとうございます」


実篤は久しぶりにみた多香子と俊彰の挨拶を見て少し心が落ち着いた。


「俊彰お前も何しに来たんだ?」


「いや、ほら宇宙さんの顔でも拝もうと思ってな、あれあかりちゃんもそんな所で固まってどうしたの?」


「固まってなんかないです!」


「あっ高校の制服姿やっぱり可愛いね、あかりちゃんの制服姿始めて見た」


あかりは身を引いて俊彰の視線から外れようと、実篤に近づいて後ろに立つ。


「実篤、お前またそんなハーレム主人公みたいな事やってるの?」


「なんだよそれは?」


「畜生、じゃあ俺は多香子ちゃんで対抗する」


そういって俊彰は多香子の後ろに立って、多香子の背をポンと押して実篤と対峙させる。


「これは圧倒的に不利だな……」


「なにが不利なの?」


言葉は疑問系で多香子は小さく呟いたが、それと同時に俊彰のハラに肘撃ちを入れた。


「痛い」


俊彰は本当に痛そうにして膝を着いた。


「あれ、みんななにやってんの楽しそう!」


塀に埋め込まれた扉から、きららが顔を覗き込んでいた。


「きらら、今帰り?」


「うん、みんなで何やってんの?」


「別に何をやってるって訳じゃないけど」


「あっ多香子お姉ちゃん久しぶり!」


苦悶する俊彰から離れて、ゆっくりと多香子はきららに近づく。

きららもアパートの庭に入って来る。


「きららまた背が伸びた?」


きららの目の前に立って、多香子は目の前の小学生を見上げる。


「うん……」


きららは残念そうに頷く。


「どこまで大きくなるの?」


「知らないよーそんなのー」


「なになに、なんか賑やかね……」


実篤の隣の部屋の窓が開いた。

寝間着様なのか、古い小豆色のジャージを着た希美が部屋から出て来た。


「希美さん会社は?」


「有給よ、有給」


平日に有給を消化して昼過ぎまで寝てるなんてなんて有意義過ぎる有休消化なのだろうかと多香子と実篤は呆れて、あかりはまた女子力ゼロの部屋着だと感心し、きららは大人って自分で休みの日を決められて凄いと感動していた。


「なになに、サネちゃんまた太陽が出てる時から破廉恥なことやってるの?」


「なにもしてないですよ」


「またまた、そんな首に美女をぶら下げておいて」


希美は庭に起きっぱなしのサンダルを突っかけて、ゆっくりと皆に近づく。


「あっ多香子ちゃん久しぶり」


多香子は隠れる様に実篤に近づいて腕を握る。


「やだもう警戒しなくても大丈夫よ?」


多香子は希美に対して、小動物の様な警戒態勢を解かなかった。

実篤は多分最初に顔を合わせた時に希美がスキンシップっと言いながら背後から近づいて胸を揉んだ事に未だに警戒してるんだろうなと思った。

そしてあかりは気軽に実篤に抱きつけて羨ましいと臍を噛み、宇宙は近くに来た多香子を興味深そうに覗き込む様に顔を近づけた。


「なんですか?」


警戒モードの多香子が、宇宙にも気を配る。


「あなたも実篤の事好きなの?」


「なんですか急に?」


「実篤の事好きな人って多いね」


宇宙が嬉しそうに笑うのが多香子には理解し難かった。

その派手な姿と大人っぽい体型からは考えられないくらい、子供の様な屈託のない笑顔だった。


「実篤、お前はいったいどういうシステムなんだよそれ……」


膝をついた俊彰が地獄の淵から這い上がってくる様な気持ちでいるのか、ゆっくりと顔を上げる。


「上から下まで、やりたい放題じゃねぇか?」


見上げると実篤の周りには女の子山が出来上がっていた。


「そんな富の不均衡を誰が許せるのか!」


俊彰は立ち上がって両手を広げて叫んだ。


「馬鹿ね」


希美が真顔で呟く。


「馬鹿だ」


あかりも呆れて声を漏らす。


「バカだ」


きららも続いて指をさして笑う。


「馬鹿」


最後に多香子。

全員に馬鹿と言われて俊彰は満足そうだった。


「実篤、俊彰はやっぱり馬鹿なんですね」


「そうなるな」


実篤に纏わり付きながら宇宙は笑った。


「おい、実篤!」


「あれ海野さん?」


俊彰の後ろから、ジャージを着た海野社長が庭に入って来た。


「暇だろ? フットサルやろうぜ」

なんの疑問も持っていない海野は実篤を暇だと定義付け、またフットサルに誘いに来た。


「こんな時間から?」


「ああ、何か時間が余っちゃってな、人数全然足りないからよ、俺とお前となまこの野郎で一対一の練習しようぜ」


「三人だけでボール蹴るんですか?」


「なまこにお前が来るって言ったら張り切ってたぞ、もうコート来ていつでも出来る様にアップしてるみたいだぞ」


実篤は直ぐに頭にタオルを蒔いて、誰も居ないフットサルコートで仁王立ちしているなまこさんの姿が想像できて実篤は頭を抱えた。


「あっフットサルですか、楽しそうですね」


「私もやってみたい」


俊彰と小学生のきららが運動と聞いて海野の話に飛びついた。


「おっやるか?」


海野は人数が増えれば試合が出来るので喜んだ。


「それにしてもお嬢ちゃん背が高いな、なんか運動やってるのか?」


「バスケとかバレーを誘われてるけど、好きじゃない」


「中学生にしては背が高いものな」


「小学生です……」


「ははは、でけー小学生だな、オイ」


海野は初めて会った俊彰の肩を何度も叩いて笑った。

実篤を置いてなんだか話が盛り上がっている。

全く今日はなんなんだ、気がついたら人に囲まれている。

なんかちょっと前までは部屋にずっと一人で居たと思ったのに、なんだか気がついたら周りに人が沢山居る。

ふと実篤は遠くを見る。

アパートの塀越し、家やマンションが並ぶ先に大きなタワーマンションが見えた。


「実篤、どうしたの?」


宇宙に声を掛けられて、実篤は何でも無いと言おうとして止めた。

見ている先を宇宙は知って居た。


「これが俺の望んだ宇宙なんだよな」


目の前で騒ぐ友人や知人、妹を見ながら実篤は呟く。


「そうかな?」


宇宙は笑いながらアパートの入り口の方を指す。


「好きっていう力は引き合う力なんだね」


宇宙の指を指した方向を実篤が見ると、何も考えずに実篤の身体は勝手に反応した。

一瞬見えた人影、宇宙と離れたら地球が壊れるとかの状況なんて何も考えずに、ただ身体が反応した。


「三島」


実篤が声を掛けると、背中を向けた三島雪子が立って居た。

昨日会ったばかりなのに、実篤にはなんだか久しぶりに感じたのが不思議だった。

会いたい相手に会えればどんな時も愛しく、会えない時間を永遠とも一瞬とも違う普通の時間軸の尺度から外れる。

そこには惹かれ会う者同士の斥力が生む力が、時間の進み方すら曲げてしまうのだろうか、

実篤には分からないがなんだか目の前に立つ雪子は昨日とはまた違って見えた。


「どうしたんだ?」


どうしたもこうしたも、自分に会いに来る意外こんなボロいアパートに三島が来る必要は無い筈だ。

実篤も他に言葉があるだろうと思いつつも、なんだか言葉に詰まって相手に主導権を渡してしまった。


「別に用事があるってわけじゃないけど……」


雪子もバトンを渡されては困ると言った感じで言葉に詰まった。

二人とも言葉を繋げようとして必死に頭の中の用語事例集のページを捲る、勿論ページにはなにも書いていない白紙なので、頭の中は真っ白だった。

実篤は何か言葉をと思って、そう言えばこの前の飲み会の事をちゃんと謝っていないという状況に気がついた。


「あっ三島この前……」


「きのう実篤君が……」


雪子と実篤は二人ともほぼ同時に声を掛けた。


「あっごめん」


「ごめんなさい」


声が重なった事を二人で謝った。


「俺がどうした?」


実篤は自分の謝罪の事は置いておいて、三島の話を聞く事にした。

雪子は黙ったまま顔を背ける。

実篤には雪子がなんだか話したい事があるのに話せない様に見えた。

ちょっと前の実篤だったら困惑するだけだったが、雪子の内面を見て来た今は、雪子が話すまで我慢できる。

きっと言いたい事がある、じゃなければ人は会いに来ないし、外に出ない。

当たり前の事だった。


「もどかしいわね、もっとガッと抱きついちゃえばコロッといっちゃうんじゃない?」


希美は握りこぶしを作って実篤を刮目する。


「畜生、畜生」


俊彰は握りこぶしを作って恨みを口にする。


「おお、何だか若いな若い」


海野は顎をさすって何だか感慨深そうにしている。

そうやって各々がアパートの陰に隠れて、庭に居るメンバー全員が実篤と雪子を覗き込んでいた。


「なんだよお前らこっち見んな!」


「気になるじゃない!」


あかりが反論する。


「やっぱりお姉ちゃん望みない……」


きららが小学生らしくない深い溜め息をついた。


「馬鹿ね」


多香子の呟きは誰に向けての言葉なのかよくわからない。


「あれ、宇宙は?」


実篤は後ろで覗き見している顔ぶれを見て、一番派手な宇宙の姿がない事に気がついた。


「ここに居るよ」


「キャッ」


雪子が身を引いて驚いて、実篤が振り返ると二人の間に宇宙はしゃがみ込んで二人を見上げていた。


「お前、いつの間にそんなところに居たんだ」


「なんだかね、二人の間の所が一番居心地いいみたい」


「どうゆうことだよ?」


「内緒」


「なんだよ、俺はお前のせいでな……」


ふと振り返ると雪子は実篤の方を見ていた、すこし笑っていた。

こうやって雪子と対面できるのは宇宙のおかげだった。

この数日の厄介な事は全部この宇宙が運んで来た事だ。


「昨日夢を見たの」


雪子が口を開いた。


「実篤君とあなたが一緒に楽しそうに空を飛んでた……」


実篤は雪子の部屋から出たところを見られたのかと思ったが、夢と思ってもらえているんだったらそれで良かった。

しかしそれは本当に雪子が見た夢だった。

無意識の下で、少しだけ繋がっていた実篤の心と雪子の心が繋がっていた為に見せた、感情の共有だが、そんな事は二人は知らない。


「変な夢だな」


「ごめんなさい、なんでこんな変な事言いに来たんだろう私」


雪子は顔を上げられなかった。


「なんでも良いよ、会いに来てくれれば俺は嬉しいし……」


実篤の視界には桜色の髪が広がる。

雪子と実篤の間に宇宙が立って居た。


「なに?」


雪子が身構える。


「実篤の事好き?」


宇宙は真正面を向いて雪子に問う。


「宇宙、なに聞いてるんだよ!」


実篤は慌てて宇宙の両肩に手を置いて引っ張って、雪子の前から退かした。

一度振られた事、昨日の部屋での事や色々な事が思い出されて、実篤は雪子の顔を直視できなかった。


「嫌い……」


雪子の言葉を聞いて実篤は傷ついたというよりは納得ができた。


「じゃないわ、別に」


雪子の言葉は積極的な肯定ではないが否定でもなかった。

振り返って実篤は雪子を見る。


「はは」


実篤の乾いた笑い声にも反応せずに、雪子はひと目で分かる程顔を赤くしていた。

嫌いじゃないが今の雪子の精一杯だった。

それでも実篤は嬉しかった。

告白してから壊れてしまったと思った関係が、すこし形を変えて元に戻って来た。

実篤は思わず照れてる雪子を抱きしめたくなった。


「三島俺はまだ……」


実篤が一歩踏み込むと、雪子も顔を上げる。

そして顔は赤みを帯びた照れた顔から急激に冷めて、いつもの雪子の顔に戻った。


「まだ?」


実篤の横には宇宙が寄り添っている。


「良かったね実篤!」


雪子には宇宙が浮いて実篤に纏わり付いている様にも見えた。実際のところは浮いているのだが、誰も気にしなかった。


「離れろよ宇宙!」


折角雪子との関係を修復してる最中に、宇宙は実篤にまとわりつく。


「いいの?」


「いや、それは良くない!」


結局実篤は宇宙と離れない。


「仲いいのね?」


「良くなんかない」


「ずっと一緒に居るんでしょ?」


「仕方なくだ!」


思わず、実篤は雪子に向かって声を荒げてしまう。


「そんな可愛い子に抱きつかれて悪い気はしないでしょ?」


「そういう問題じゃないんだ!」


「どういう問題よ!」


売り言葉に買い言葉で実篤と雪子の会話は噛み合ない。


「三島は俺が宇宙と一緒に居るとどれだけ大変か分かってない!」


「何よ、ずっとベタベタとくっ付いて」


「宇宙は近くに居ないとダメなんだ!」


「どういう理屈?」


「それは……」


実篤が宇宙の説明を躊躇すると、雪子は我慢が出来ずに帰ろうとする。


「ごめんなさい、邪魔ね」


実篤は前と同じだと思った、また三島に説明も出来ずに、自分の気持ちを伝えずに終ってしまう。


(実篤、動いて)


雪子と実篤の間に立っている宇宙から実篤の心に直接声が届く。


(大丈夫、実篤と雪子の間には“強い力”が働いているよ、引き合う強い力が)


瞬間、雪子は自分の身体が浮いた様な気がした、踏み出して歩こうとしても前に進まない。

宇宙が周囲の重力を操って、雪子の足を止めたのだ。

実篤は手を伸ばした。

あの日伸ばせなかった手、再び自分に合いに来てくれた雪子に向かって手を伸ばした。

同じ街に住んでるのに、雪子が住んでるタワーマンションは見上げればすぐそこに見えるのに、遠いと感じた雪子が近くに居る。

ここでまた何もしなければ本当に終る。

そう思うと縋り付く様に、実篤は雪子に後ろから抱きついた。


「三島!」


重力で足を止められた雪子は凄く軽くて、後ろから抱きしめると人形の様に胸元に引き寄せる事が出来た。

雪子の小さい背中を抱きしめる。

心臓は壊れるつもりなのか異常な高鳴りをする。

実篤の心臓だけじゃない、雪子の心臓も同じ様に高鳴る。

二人とも面白いくらいにハッキリと顔が赤くなっていた。


「抱きついちゃったわね」


「あのヘタレのお兄ちゃんが!」


多香子は本気で実篤の行動に驚いている。


「ふぇ」


「お姉ちゃん?」


きららは謎のうめき声を上げた姉を心配そうに見下ろす。


「なんだありゃ?」


「やっぱ流石に実篤でも追い詰まって来ると手が出るんだな」


目の前の光景に呆れる海野と顎に手を当てて俊彰は感心していた。


「実篤君……」


「三島」


スルリと雪子は抱きしめた実篤の腕の中から崩れ落ちようとする、実篤は慌てて支えようとして雪子の腕を強く握る。

実篤の腕に寄りかかるように雪子は崩れ落ちる。


「大丈夫かみし……」


瞬間、実篤の視界は真っ白になる。

雪子が渾身の右ストレートが実篤の顎にヒットした。

二人は縺れ合って地面に崩れ落ちる。

実篤は目を回してそのまま大の字に地面に仰向けになる、雪子はその場にしゃがみ込んでしまった。


「実篤君、馬鹿、急に、だって」


雪子は断続的な言葉を上げる。


「大丈夫なの?」


希美が近寄って来て雪子に声を掛ける。


「馬鹿、馬鹿」


抱きつかれただけだが、雪子はすっかり錯乱していた。

顎を引いて目元は前髪に隠れているが、まだ顔は赤く、少し震えていた。


「立てないの?」


雪子は小さく頷いた。


「あかりちゃん、ちょっと手伝ってー」


希美が座り込む雪子に肩を貸す、あかりも反対側に立って二人で雪子を抱え上げた。


「とりあえず私の部屋で休もうか?」


「希美さんの部屋、人が入れるんですか?」


「あっちょっと厳しいかも」


希美は自分の服とゴミが床に混在した部屋を思い出した。


「とりあえず私の家にしましょうか?」


「優しいわねあかりちゃん」


「なんですか、希美さん?」


「なんでもなーいー」


希美の言い方にあかりはひとこと言ってやりたかったが我慢した。


「すみません」


小さい声で雪子は二人に謝る。


「いいのよ凄く面白いもの見れたから」


「希美さん?」


あかりが趣味が悪いと希美を注意しようとしたが、希美はなんだか照れながら笑って居た。

あかりには希美が雪子を羨ましがっている様にも見えた。


「馬鹿、実篤君の馬鹿」


確かにこれは少し羨ましいとあかりは思った。

雪子は負傷兵のように希美とあかりに連れ去れて、その後ろをきららが着いて行く。


「俺たちどうしましょう?」


「あっいけねえ俺、なまこの野郎を置いて来た!」


そのころフットサルコートではなまこさんが一人で平日の夕方、誰も居ないコートで黙々とリフティングをしていた。

彼は新しい好敵手が来るのをずっと待って居た。


「なまこ? 名前なんですか?」


「サッカーの上手い漫画家なんだよ」


「えっ「なまこ」ってめっちゃ一部のマニアには有名な漫画家さんですよ?」


「えっそうなの、知らん」


「うわっ会ってみたい、サイン欲しい!」


「じゃあ、アイツ置いて行こう」


海野と俊彰は延びている実篤を置いて、そのままアパートの敷地を出て行く。

実篤とすれ違い様に俊彰は「お前にしてはよくやったな」と実篤の胸を叩いて行った。


「じゃあ宇宙さんまた!」


アパートの敷地に倒れ込む実篤を見守る宇宙に向かって俊彰は手を振った。

宇宙も手を振って返した。


「宇宙、居るのか?」


「居るよ」


宇宙は実篤の顔を覗き込む。


「星が見えた」



「凄いね、どこの星?」


「知らない」


実篤が見たのは顎に小さい雪子の拳が入った時に見えた光だった。

今までにない衝撃。

星の誕生の瞬間か、あるいは崩壊の時なのか、目の前が真っ白になった光景を実篤には星が見えたように思えた。

宇宙と最初に会った時に見た夢、地球が壊れて新しい惑星が宇宙の手で創造されて行く時の光に似ていた。

何かが始まる光、そんな衝撃が雪子のパンチにはあった。


「実篤」


宇宙は地面に膝を着いて、実篤の枕元に座り込みながら実篤の顔を覗き込む。

桜色の髪がカーテンの様に広がって、宇宙の赤い目を実篤は覗き込んだ。


「おきらく?」


真剣な眼差しで宇宙は実篤津に問う。


「何も解決してない」


実篤は笑う。


「でも、これで良いかって気楽さだけはあるな」


好きな女の子に抱きついて、殴られて延びている実篤は宇宙の全存在に等しい宇宙人と相対しながらも気が楽だと言った。

実篤が笑うと宇宙も笑った。

実篤は何度か真顔になった、その度にすぐ笑った。

宇宙はずっと実篤の側で笑っていた。

何が楽しいのか分からないが、宇宙が笑っているとなんだか実篤は気が楽になった。




今日も誰かが地方都市の片隅で地球崩壊の危機と隣り合わせに笑っている。



END

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宇宙おきらく所沢 さわだ @sawada

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