手紙(2)
まだ雪の残る山々に囲まれた町。ゴート氏族の住むこの町は、山の裾野に広がっていた。森を切り開き、まるで自然とはかけ離れた醜い町。山の斜面に点在する、いかにも人の手が加えられている段々畑を、クウは好きになれなかった。遠くでは山羊が放牧されている。それを犬がけたたましい声で追っている。
ゴートの<瞳>であるアルバインの邸宅は、白く塗られた壁のひときわ立派な建物で、坂の上のこの集落を一望できる位置にあった。
クウはぼんやりと窓から外を眺めていた。
町はにわかに活気付いていた。羊蹄祭、ゴート氏族のお祭りが始まるのだとアルバインは言う。
「アルバイン! ここのお祭りは楽しいのか?」
ややあって、はるか後方から声がする。
「……ああ。ゴートの者はみんな祭り好きだからな。毎年大騒ぎだ。今年は特に”催し物”もあるし」
「ふーん。いいなあ。お祭りかあ」
例え異氏族のものとはいえ、やはり祭りというものは心を躍らせる。それと同時に、故郷の祭りをクウは想起する。故郷では祭りの舞手に選ばれるほど、クウは踊りが上手だったのだ。今頃村はどうなっているのだろうか。父は、母は、友達は――。
うっかり物思いにふけってしまったので、背後に近寄ってくる気配に気づかなかった。
「ひゃあ!」
ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき乱される。
「何をするんだっ」
ぴょんと飛び上がり振り返りながら窓枠の上に立った。クウの主、アルバインがそこにいた。先ほどまでしたためていたものであろう、封筒を一つ手にしている。
彼はその反応に構わず、その手紙を突き出した。
「仕事」
「……また?」
クウは窓枠を蹴る。ふわりと宙を舞うと、まるで外から部屋の中を覗き込むように窓枠にもたれかかり、そして頬杖をつく。額縁から飛び出してきた絵のように。背景はどこまでも青い空。絵の持ち主は、アルバインただ一人。そして裏側から見ると、格好悪い。
アルバインが少し微笑んだような気がした。
白い封書の表には、例によって達筆な文字。そして赤い封印が禍々しく踊っていた。アルバインがしたためた証である山羊の頭そして瞳を象った紋様だけれど、この間の印とは明らかに違っていた。
彼は宛名を指し示した。
「読めるようになったであろうなー」
ぐうの音も出ない。
クウは文字が読めなかった。前回、手紙を読みたいがためにちゃんと文字を覚えることを誓ったクウなのだが、結局まだ読み書きできるまでには至っていない。アルバインが使うような正式な書面は、言文不一致の文体な上に、恐ろしく難解なのだ。寺子屋の初級クラスで、ペンの持ち方からしつけられているようでは、道のりは果てしなく遠い。
「大体、なんで私がやらなきゃいけないんだ」
別の切り口から抵抗を試みる。読めないなどと言ったら、この間の二の舞だ。
「面白いから」
「何が面白いのか!」
噛み付くと、アルバインはすかしたように笑った。
「ほら。面白いのう」
「面白くない!!」
クウはぎりぎりと奥歯をかみしめる。どうしていちいち意地悪するのか、クウにはわからなかった。
すっとアルバインの顔が引き締まる。仕事の時は、厳しい表情になる。普段はぼんやりしているように見え、そしてクウを見つけるといたずらっぽい顔になる。まるで獲物をみつけた子供のように。
今日のアルバインは仕事といじわる顔の中間だ。嫌な予感がした。
「残念ながら人が出払っていて、頼まざるを得ないのだ。地下牢の看守、フロン氏に渡してくれ」
「げ」
みるみるクウの顔が強張っていく。あのときの恐怖が蘇ってくる。あの看守に会わなければいけないなんて、拷問もいいところだった。捕虜として牢に入れられ、あわや鞭打たれそうになったというのに。しかも反抗的だという曖昧な理由で。
「……イヤだ」
アルバインは黙って手紙を突きつけたまま顔色を変えない。
「絶対イヤだ! 行かないからな! じゃあな!」
そういい捨て、クウは屋敷の壁を蹴る。
ぱっと飛び立とうとした瞬間。腕をつかまれ、がくんとクウの体勢は崩れた。
思いのほか強い力だった。
ゴート氏族にしては華奢な、あの体のどこに強い力が隠してあるというのだろうか。主は顔色ひとつ変えずにクウの腕をたぐりよせ、そして頭を抱える。クウはじたばたともがいた。しかし、彼はびくともしない。
「嫌だ! 離せ……!」
「わかっているとは思うが、彼の元に封書が届けばいいだけではない。最後まできちんと見届けるのだぞ」
「だれが引き受けると言った! 離せ」
「引き受けるのなら離してやる」
そうでなくても男と女の力の差である。かなうわけがない。やがてもがくのを諦めざるを得なかった。クウはぼそっと悪態をつく。
「……卑怯だ」
「なにが。どちらにしろ拒否権などない」
「あるに決まってるだろ! ただじゃ働かないからな!」
ぴたりとアルバインの動きが止まる。クウの言葉に興味を抱いたようだった。
「ほー。言うてみろ」
まさか交渉に応じると思わなかったので一瞬驚いたが、それを悟られないようにクウは平静を装った。
「じゃあ、仕事が終わったら、お祭りを見に行ってもいいだろ」
「却下である」
「なんでだよ! それぐらいいいだろ!」
「子供には見せられないからのう」
「そんなわけあるかー!」
主はひとしきり微笑み、口をきりりと真一文字に結んだ。
「だが、駄目だ。祭り以外での頼みで面白いものなら、聞いてやらんでもない」
「面白いものってなんだよ……」
にべもない。こうなってはもう主の意思は覆らないことを、クウは経験からなんとなく察した。何故こんなに頑なに拒否されるのか理解はできないが、彼は理由を全て教えてくれるわけでもない。全て自分で考え、行動しなくてはならない。時々本当にからかっているだけ、ということもあるので油断はできないが。
不承不承ながら、もう一つの注文を出した。面白くはないと思うが、通るだろうか。
「じゃあ、パン。この間のパンが食べたい」
「パン?」
クウはうなずいた。味気ないゴート氏族の食事にうんざりしてきた頃合に食べたあのパンは、正直すごくおいしかったのだ。
「ふむ。メリノーのパンか。いくらでも買ってやろう」
アルバインの手が緩み、クウは彼から解放された。そして手紙をぽんと渡される。
あっけなく交渉が成立してしまった。
どうなっても知らないぞ。という言葉を、クウは吐き出しかけて慌てて口をふさいだ。前回それを言って笑われたのだ。
クウは開き直る。まだまだひよっこのクウに頼む仕事なんて、どうせたいした用事じゃない。そしてメリノーのパンを買いに行く振りをして、お祭りだって見に行けばいい。そんな打算を胸に飛び立とうとすると、その背後から声をかけられる。
「学習したのか。よいよい。そうでなければ、期待した甲斐がないというもの」
相変わらず静かな声。だが、そこには威厳がこもっていた。まるで今の考えを見透かされていたようで、クウはびくりとした。
「何を期待しているんだ……」
彼は、おや、と心外な顔をする。
「期待しているのだぞ。何しろ私に減らず口を叩けるのは、くー、お前ぐらいだからな」
「そういう意味なのか! そんなのを期待してるなら、いくらでも叩いてやる! べー、だっ!」
アルバインはにこにこ笑っている。
もう、自棄であった。踊らされるのなら、どこまでも踊ってやる。
「これは大事なものだからな。頼んだぞ、くー」
そう言い、彼はクウの頭を撫でた。クウはびっくりして、窓から落っこちそうになった。
「どうした」
「な、なんでもないよ! 行ってくる!」
クウは慌てて飛び立った。
「しまった……」
なんてことを言ってしまったのだろう。「行ってくる」だなんて。
仕方なくとはいえ、引き受けてしまったことを、クウは後悔していた。だいたいあの看守が相手なのだ。
今回はあの時と違う。捕虜として屈服させられるわけではなく、<瞳>の従者として使いに出されるのだと、頭では理解している。しかし、あの時の恐怖は忘れようがなかった。
しかめ面しながら、ふらふらと空を飛ぶ。さぼってしまおうか、手紙をそこらに投げ捨ててしまおうか。そんなことを考えるたびに、アルバインの真剣な表情が脳裏をよぎる。
町はのんきに祭りの準備に追われている。色とりどりの幕で町中が飾られ、甘いお菓子の匂いが立ちこめている。いっそこの中に紛れてお祭りを楽しめればいいのに。何度甘い誘惑に駆られたことだろう。ふらふらと地面に降りそうになり、その度にゴート氏族の胡乱な視線にさらされ、再上昇せざるを得なかった。
いくらも飛ばないうちに、見覚えのある建物が見えてきた。もう二度と来ないと誓ったはずの場所だ。身震いがする。
地下牢への入り口には、いかにもゴート氏族、といったような、屈強な門番が二人立っていた。彼らは暇を持て余していたのかぼんやりしていたが、クウを見つけると、げらげらと下品に笑った。
「カラスが何しに来た。また牢に入れられてェのか」
「違う。<瞳>の使いとして来たんだ。看守に用がある!」
大声で答えたが、内心は怯えていた。手紙を懐から出し、かざしてみせる。門番がそれをひったくろうとし、慌てて飛び上がる。
「おまえじゃない。看守に用があるんだ」
決して距離をつめようとしないのも、すぐに逃げられるためだった。うっかり手でも掴まれたら、勝ち目はない。アルバインの使いという肩書きがあるとはいえ、安全を保証されているわけではないことをクウは知っていた。
門番は舌打ちし、一人を残して中に消えた。
やがて門番は看守を引き連れて再び現れた。
「誰かと思ったら、お前かい。糞餓鬼が」
薄汚れた服を身にまとった小男が、煙草を喫んでいた。
忘れるわけがない。クウを閉じ込め、侮蔑的な言葉を投げかけてきた看守。反抗的だ何だと因縁をつけられ、懲罰という名目であわや鞭打たれそうになったこと。
クウは憎しみの視線を向けた。あの時の仕打ちを忘れたわけではない。だが、今日は任務を受けて来たのだ。
「よかったなぁ。<瞳>に目をかけられてよ。アルバイン様は変わったご趣味をお持ちのようで」
下品な笑い声が起こる。嫌な雰囲気だった。
「目などかけられちゃいない」
まるで子供のような貧相な体つきをしたクウであったが、あと少しで成人の儀を迎えようとしていたのである。彼らが暗に示している言葉の意味を知らないわけではなかった。
くだらない話だった。実際、アルバインとクウの間には、噂になっているような事実は何一つない。だが、そんなことを説いてみせようと、看守にとってはどうでもいいことのようであった。事実よりも、勝手な想像によりあれこれ尾ひれをつけることの方が重要なのだ。
クウは手紙を渡し、一瞬で飛びのく。また笑いが起こる。
「そんなにわしらが怖いか、ちびが」
看守は火のついた煙草に新しい煙草をくっつけ、火を移した。そしてちびた煙草をもみ消し、再び一服する。彼は手紙を見ようともせず、あろうことか他の門番と雑談を始めた。
「ああ。今日は羊蹄祭だったなあ。あれが今日の目玉になる、ちゅうわけだな」
「おれも仕事がなければ、見に行くんだがの。こんなつまらん仕事ほっぽりだしてよ」
もちろん手紙を渡しただけではいけない。渡した以上、中身をあらためるところまで確認して帰らなければいけないのだ。それはアルバインからよく言い含められている。クウだって、こんな仕事をさっさと終わらせて祭りを見に行きたいのだ。だが男たちは、手紙のことなどそっちのけ。
クウはしびれを切らして尋ねた。
「……手紙、見ないのか」
「ああ? わしに指図するたぁ、偉くなったものよの、ちびが。確かにここは<瞳>の管理下に置かれている。だが、わしらぁ<瞳>の愛人じゃないからな。お前とは違っての」
男達はげらげらと笑う。
「そんなこと知るか!! 看守は仕事も出来ない能無しだったと伝えれば良いのか!?」
クウは激高した。完全に舐められているのはわかっていた。だが、空の上からなら、彼らも手が出せない。
「ぎゃーぎゃーうるせーなあ」
挑発が効いたのか、看守はようやく手紙に手をつけた。しぶしぶと封を切り、ゆっくりと中身に目を通す。その様にクウはいらいらした。組んだ腕の上で、指をとんとんとせわしなく動かす。だが彼は敢えてそれを無視しているように見受けられた。
やがて看守は手紙を読み終え、丁寧と折り目の通りにたたみ、再び仕舞いこむ。
そしてしばらくクウを見た後、ぼそりと言った。
「お前の主は人殺しだ」
「なんだって?」
予想もしない言葉をぶつけられてクウは少し動揺した。彼が自分を陥れるために吐いた暴言なのかもしれない。いずれにせよ、クウは看守にかなり悪感情を抱いていたので、それを信じることはなかったが、どういう意味を含んだ言葉なのか、クウははかりあぐねていた。
彼女は用心深く、はったりの言葉を口にした。
「……それが、どうしたというんだ」
「フン。カラスの餓鬼ゃあ、子供でもカラスか。冷酷無慈悲、血も涙もない。怖い怖い。さすが冷酷な氷の<瞳>が好みそうなもんだ」
言われたい放題だった。クウは唇をかみちぎりそうなほど、怒りをため込んでいた。だが、ここで怒っては使命を果たせない。
「どうなんだ!? 承知するのか、しないのか」
それでも声に怒気が含まれるのを押さえきれなかった。
面白くなさそうに、看守は笑った。
「ああ。汚れ仕事はわしらの仕事だ。やってやらあ。だか、忘れるなよ。お前らもその片棒を担いでいるということをな」
正直わけがわからなかった。けれど、話すことは終わったとばかりにしっしっと手を払われ、クウは聞きたいことも聞けずに退散した。
結局彼らに宛てた手紙の内容を知る由もなかった……とクウは内心やきもきしたが、その後ひょんなことから、その内容を知ることになるのである。
帰りの足は速かった。やはり嫌な仕事を片づけたあとの気分は違う。
アルバインの邸宅にたどり着くと、こっそりと部屋の窓をのぞき込む。彼は例によって机に向かっていたが、クウの到着に気づいたのか顔を上げる。
一体何をそんなに書き散らしているのかわからなかったが、大変な仕事なんだろう。クウが窓枠に腰掛けると、主は重い腰を上げて伸びをする。
「どうだった」
「渡したよ。ちゃんと返事ももらってきた。どうだ、満足か」
「うむ。くーにしては上々である。誉めてつかわそー」
また頭をぐしゃぐしゃにされそうになったから、慌ててかわした。
「パンは?」
「ああ……そうであった。お駄賃を用意しておくから、祭りが終わってからでも買いに行くとよい」
そう言うとアルバインは机の引き出しを開けて、皮袋を取り出した。
パンを今すぐもらえないのは予想していた。主自身、朝から働きづめで、部下達もばたばた邸宅を出入りしていたからである。だからこそ自分で出かけて行って、そしてついでにお祭りも楽しんでこようという皮算用もあった。しかしその考えが見透かされていたようで、クウは不満の声を漏らす。
「ええーっ。そんなに駄目?」
「くー。これはゴート氏族の祭りだ」
「だから他氏族が見るもんでもないって? へんなの」
クウはアルバインの含みに気づかない。戦乱の世を生き抜いてきた者であればあるいは気づいたかもしれないが、つい先日まで平和に暮らしていた少女には土台無理な話であった。
硬貨の入った皮袋が、主の手のひらでちゃりんと踊る。
「これは明日まで預かっておこう」
アルバインはお手玉のように皮袋を弄んでいた。皮袋が彼の手からぽーんと空を舞い、弧を描く。
クウの目がきらりと光る。一瞬の好機であった。今だ、とばかりに窓の縁を蹴り弓矢のように鋭く飛び、皮袋を奪い取る。アルバインが黒い影を捕まえようとするが、反応が遅れた。
「と、取ってやった」
「クウ。返しなさい」
まさか本当に取れるとは思わなかった。クウは肩で息をしていた。手がかすかに震える。
アルバインにたしなめられるが、そう言われて返すはずもない。クウは窓から空に飛び出すと、初めて勝ち誇った笑みを浮かべた。主を出し抜いてやったのだ。
「そうやって何でもかんでも駄目、って! もういい! 勝手に行く!」
そう言い捨ててクウは窓から飛び立った。
クウは自分の部屋に寄って白いローブをひっつかみ、飛んだ。飛びながら空中でもそもそと羽織る。そしてお店のほど近くの道にこっそりと降り立った。黒一色のいつもの服装では目立ちすぎるのだ。フードまで被ってしまえば、黒髪も隠れる。ゴート氏族に迎合するようで好みではないが、無用にいざこざを起こすこともない。生活の知恵だと自らに言い訳する。
お店はいつも以上にごった返していた。メリノーおじさんは相変わらず優しかったけれど、帰り際にこんなことを言った。
「あんた、早く帰りな。アルバイン様も心配するだろ」
「えっ、う……うん」
確かに色々と難癖をつけられて祭り見物を止められたが、あれを心配と言っていいのだろうか。素直に反応できるはずもなかった。
複雑な気持ちでお店を出る。買ったばかりのパンをむさぼりながら、お祭りを眺めていた。にぎやかで活気のあるお祭り。この日ばかりは大人達も昼から酒を飲み、陽気に騒いでいる。子供達も山羊の仮装をして練り歩く。
「なんだよ。ウソばっかりじゃんか……」
子供は見ちゃいけないだの、嫌な思いをするだの。さんざん脅してきたのは何だったのか。
人々はまるで吸い寄せられるように、町の中心地、広場に向かっていた。クウも流れに乗って歩いていく。
普段は閑散としている広場に人が集まっている。杭が打ち立てられ、柵で囲われている。屈強な兵士が配置されている。そこに集まる人たちの異様な熱気。祭りとはかけ離れたものものしい雰囲気に、ふと嫌な予感がした。
組まれた足場の上に、立派な鎧を着た男が立った。恰幅が良く、勇ましい歴戦の勇士といったその風貌。そして鎧に刻まれた印が、いやでも目についた。あれは、そう、クウの主である<瞳>の印に似ていたからだ。つまりそれは、あの男が地位のある立場であることを示していた。
彼は聴衆の前で豪気に挨拶をする。ゴートの<角>イシューである、とその人は名乗った。
「今回の羊蹄祭は特別な意味を持つであろう。我々は先の戦で勝利した! その喜びを存分に分かちあおうではないか!」
うおー、と大きな歓声があがる。
ぞくり、とした。ふつふつと暗い情念が沸き上がる。後悔してももう遅かった。アルバインが止めたのは、こういうことだったのか。
クウは改めてフードを目深に被り直し、周りをうかがう。後から後から人の波が押し寄せてくる。イシューの演説はだらだらと続いていた。さすがに地位のある男の言葉であろう、人々の心を揺り動かしているのは間違いなかった。聴衆が沸き立っている。もっとも、クウの心には重く突き刺さるものばかり。この戦のせいでクウは捕虜となり、そしてここにいるからだった。
その時、聴衆からどよめきが起こった。
クウは背伸びする振りをしてこっそりと飛び上がった。
ぼろを纏った男が二人、縄で繋がれている。彼らは足を引きずりながら、よたよたと歩く。もう既に痛めつけられた後のようで体中の鞭の跡が生々しかった。先導の男に縄をぐいと引っ張られ、あえなく転ぶ。どっと笑いが起きる。
腰に纏ったわずかばかりの赤い毛皮。先の戦に敗れたドール氏族の男たちだとクウは見当をつけた。
そして先導する男が掲げている槍、その先に突き刺さっている手紙がいやでも目についた。それはクウが運んだ手紙であったからだ。アルバインがしたため、<瞳>の赤い封印がしてあるあの手紙。見間違うはずがなかった。
先導の男は足場に上り、槍から手紙を抜きとり、ゴートの<角>イシューに差し出す。イシューはそれを恭しく受け取ると、朗々たる声で読み上げた。
「ドール氏族、シルバーファング、そして、クロックドテイル。先の者二名、死刑に処す。羊蹄歴三百二十八年、五月二十六日。ゴートの<瞳>アルバイン承認」
クウは途中から耳をふさいだ。聞きたくはなかった。こんなものを自分は運んでいたのか。そして、こんなものを主がしたためていたのかと思うと吐き気を覚えた。
「さあ、とくと御覧下されよ! 憎き異氏族の者どもの末路を――」
広場は熱気に包まれた。クウは気分が悪くなってくる。これは悪い夢ではないのか。
あっという間に捕虜が磔にされていく。クウは気がついた。そこで手際よく指示を出している男は、あの看守ではないのか。いつもの汚らしい格好ではない、上等の服を着ている。
「まず一人目。串刺しの刑に処しましょう! 我々の受けた屈辱、忘れるわけにはいきますまい!」
槍が次々に男の体を貫いていく。わき腹、太腿、手の甲。致命傷ではない箇所をわざと痛めつけているのがわかる。その度に男は絶叫をあげる。血が無残にも流れていく。最後の方ではもう声も出ず、ただ口を開けたまま苦痛に顔をゆがめている。やがて男は、そのまま動かなくなった。目の前で繰り広げられている惨劇に、何故か目をそらすことが出来なかった。
「さあ、二人目。火炙りの刑でございます! 地獄の責め苦、とくとご覧下されよ」
看守が火のついたたいまつを、二人目の男の足元に放り投げた。黒い煙がもくもくと立ち上り、クウは軽くせきこんだ。やがて火が勢いを増していき、嫌な臭いがした。肉が焼けていく臭いだ。ぱちぱちと火がはじける音が聞こえてくる。無気力に虚空を見つめていた捕虜の顔に、次第に苦痛の色が浮かんでくる。いやだ、とか、助けてくれ、とか男の嘆願がもれ聞こえたが、それらは全て聴衆の笑い声にかき消された。
信じられなかった。この神経も、この熱気も。狂っている。皆、狂っている。
その時。後ろからどすんと人が押し寄せ、勢いでクウのフードがはらりと舞った。つややかな黒髪が露わになる。
「お前――」
しまった。
「おおい! ここに異氏族がいるぞ!!」
クウは男の言葉を待たず、全力で駆け出した。フードの先端を捕まれそうになるが、必死で振り払う。少しの人混みの隙間を見つけ、ようやく飛び上がった。目の前で飛び上がられた婦人は腰を抜かさんばかりに驚いている。
怒号があっという間に広がっていった。広場に集まった皆が空の上に現れた人影を見ている。黒煙がもうもうと立ち上り、悪意のある視線が熱狂的な渦を巻いて、クウに襲い掛かる。打ち落とせだの、石を投げろだの、物騒な言葉が投げつけられる。
「――殺せ」
誰かがぽつりと漏らした言葉が、聴衆に伝播していった。
クウは飛んだ。高く高く飛んだ。ここまで飛べば石も弓も当たるわけがないとわかっていたけれど、彼らの怒号が耳にこびりついて離れなかった。
そしてやっとのことで主の邸宅のほど近く、大きな針葉樹のもとにたどり着き、クウはほうぼうのていで枝に座り込んだ。
<瞳>の部屋に逃げ込むことがためらわれたが、その必要はなかった。部屋の主が窓から外を眺めていたからである。
「無事か」
例によって表情の変わらない口調で、彼は言った。冷酷だと、クウは思った。
「な……なんだよ。あれは何なんだよ! あれは――」
「羊蹄祭で捕らえた捕虜を死刑にする。民は一つになり、戦意が高揚する」
「そういうことを聞いているんじゃない! あれは、お前がやったのか」
「正確には違うが、まあ……同じことだ」
なぜ彼がこんなに淡々としていられるのか、理解できなかった。しかもクウの非難さえも、しれっと受け止めてみせた。クウは逆に振りあげた拳の落としどころを失う。
「そうだ、私はあの手紙を運んだ。私もあの人たちを殺したんだ」
「――そういう事は考えるな」
がたがたと震えが止まらなくなった。アルバインの手の届かない木の上であることが幸いだった。血塗られたその手に慰められるのも、見捨てられてしまうのも。そのどちらもが恐ろしかった。
知らなければよかった。知らなければ、まだ無邪気なまま彼の従者でいられたであろうに。
だが、あれを知らないまま過ごすことは、欺瞞ではないのか?
そんな考えがちくりとクウを刺した。
捕虜を死刑にする命令を出したのは紛れもなくゴートの<瞳>アルバインであり、それに加担したのは自分なのだ。そして自分も、異氏族に捕らえられた捕虜であるという事実に違いはなかった。ただアルバインの加護があるから生かされているだけ。焼かれていったあの人達と、何も変わりはしないというのに。彼らは死に、自分は生かされている。女だから? 子供だから? アルバインに見初められたから? アルバインの愛人だから? その可能性のどれもが適当なような気がしたし、そのどれもが間違っている気がした。
「私が死ねばよかったんだ……。私が死ねば! あの人たちが死ぬこともなかったんだ! いやだ! もう嫌だ……」
「そんなに死にたいか」
ぞくりとした。
ぱっと屋敷を振り返ると、やはり顔色一つ変えずにアルバインがたたずんでいる。
そして彼はそれができる。彼が一筆振るえば、いともあっけなくクウの命は消し去られるだろう。
殺せばいい。殺してくれ。
その一言を、クウは言うことができなかった。その代わり、別の言葉をクウは口にした。
「あいつが言っていた通りだ。お前は氷、氷の――」
冷酷な氷の<瞳>。アルバインに纏わりつく蔑称を、クウは最後まで言い切ることが出来なかった。
そのときのアルバインの奇妙にゆがめられた顔が、クウは今でも忘れられない。
ひょっとしたら、あれは悲しんでいたのだろうか。
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