ゴートの瞳

瑞沢(みずさわ)

手紙(1)

 ゴートの<瞳>アルバインの執務室は、彼の邸宅の最上階にある。

 クウはふわりと薄暗い部屋の中に舞い降りた。足をついたとたん、床板がぎいと音を立て、顔をしかめる。地べたから離れられないヒトだ、ということに、否が応でも気づかされる音だ。

 そんな気配に気づかないのか、この部屋の主は振り返りもせず、机に向かっていた。

「アルバイン」

 クウは彼に呼びかけるが、彼は返事をしない。ただ一心に何かを書き付けている。聞こえていないはずがない。彼に呼び出されて来たというのに、どうやら書き物よりも扱いが低いのである。クウは彼の傲慢さが気に食わない。

「アルバイン」

 二つ目の呼びかけにて、ようやく書き付けを終えたらしいアルバインが羊皮紙をひらひらさせた。どうやら近づいてもいいらしい。クウは恐る恐る近づく。そのたびに床板がみしりと嫌な音を立てる。

「来たか。はい、これ」

 彼はこちらを向こうともせず、その紙を差し出した。その態度にかちんとしながら、クウはそれを受け取ろうとする。その瞬間、すっと取り上げられる。

 遊ばれている。

 むっとして彼の方を見やると、いつもの涼しげな顔。口の端が笑っていた。

 白髪だけれど、年老いているわけではない。むしろ要職に就いている者としては随分若かった。白から灰色の毛髪はゴート氏族の特徴だ。その中でも彼はひときわ白い。

 彼は静かな声で言った。

「なんて顔をしているんだ」

 それもまたクウの神経を逆撫でした。

「誰のせいだと思ってるんだ!」

 クウは歯を食いしばる。沸点が低いのは自覚している。だが、怒りに任せるのは思うつぼだ。

 そのとたん、彼はふっと吹き出した。

「面白いのう」

「何が面白いものか!!」

 クウは怒りに任せて叫んだ。やっぱり、耐えられなかった。

「呼んだんだろ! 何の用なんだよ」

「ああ」

 要領を得ない。せっかちなクウはいらいらする。これでゴート氏族の<瞳>だというのだ。こんな奴を要職に据えて、いったいゴート氏族は何を考えているのだろうかと思う。

 その紙切れに封をしながら、アルバインは言う。

「簡単だ。この手紙をこの宛名の通りに届けてくれればいい」

 手紙をずいと差し出した。恐らく達筆なのであろう、なにやら流麗な線が封書に踊っている。

「さあ」

「……読めない」

「あー?」

 アルバインはとぼける。クウがゴート文字を読めないことを彼はわかっている。それなのに、わざと意地悪をする。

「簡単だぞ。ヨーク通り、三軒目、青い屋根の家。メリノーおじさんのところ」

 いちいち文字を指し示しながら、アルバインは事細かに解説する。そしてその封書をクウの額に押し付けた。

「そろそろ覚えたまえ。じゃあ、頼んだ」

「だ、誰が引き受けるものか!」

 クウは怒った。これだけコケにされて引き受ける義理もない。

「いいのか? こんな大事な封書を私に預けたりなんかして。どこかに捨ててくるかもしれないぞ」

 アルバインはじっとその様子を眺め、ひとつため息をついた。

「素直な奴だのう」

 クウの顔が真っ赤に染まる。

 確かにその通りだった。本当にずる賢いなら、はいと一つ返事で引き受けて捨ててしまえばいいのである。

「じゃあ。任せたから」

「えっ? おい!」

 そう言ってアルバインはひらひらと手を振り、自分の仕事に戻っていった。机に戻り、書類を一枚一枚眺めながら何かを書きつけ始める。

 こうなるともう手が出せない。クウに与えられた時間はこれで終わりなのである。

 クウはきゅっと口を結んだ。そして開け放たれたままの小窓に足をかけ、空に飛び出した。そのまま風を切って空に飛び立っていく。

 クウはクロウ氏族なのだ。つややかな黒髪、漆黒の瞳。地べたを這うゴート氏族とは、何もかもが違う。本来なら、こんなゴート氏族の集落でお使いなどやっているはずはないのである。今頃はクロウ氏族の集落で平和に暮らしていたはずなのに。

 突然の戦。そのどさくさでクウはゴート氏族に捕まり、捕虜となった。私刑を受けていたところを<瞳>に見咎められ、何の因果か彼に身柄を引き取られることになったのである。

 一体、何が間違ってしまったのだろう。足元をちらりと見やると、そこには捕虜となった証、冷たい足枷の片割れが残っていた。これさえ外れれば、すぐにでもこんな所を脱走してやるのに。

 山間の冷たい風を一身に受けながら、クウは家々の遥か上を飛んでいく。アルバインに託された封書を握り締めたまま。



 クウは封書の中身が気になっていた。

 恐らく達筆なのだろう。だが、宛名さえクウには読めなかった。クロウ氏族には文字がないのである。物語や、先人の教えや知恵は口伝で教わった。クウが読めないのは仕方のないことなのだ。

 そして主であるアルバインも、それに気づいたとき、対策を取らないわけではなかった。クウをゴート氏族の寺子屋に入れたのである。しかも、一番初級のクラスに。

 確かにクウは年かさの割には小さく、子供扱いされることもままあった。だが、洟をたらしたゴート氏族の子供たちの中に混じって、氏族も髪の色も年齢も違う少女が一緒に座らされている時間は苦痛でしかなかった。子供たちは彼女を笑う。おまけに先生が厳しかったのである。年老いた老女ながら指導の迫力は凄まじく、態度を一喝されてクウはすくみあがった。ものさしで頭や手をぴしりとやられ、青痣を作って帰るのが常であった。

 そんなわけだから、クウは寺子屋が、また勉強が嫌いだった。一向に字が読み書きできるようになる気配はなかったのである。

 クウは毒づく。

 もし読むことが出来たのなら。こっそり封を切り、中身を読んでやるのに。

 だが、クウには読むことが出来なかったし、そのことについて頼れる人もいなかった。

 封書にはくっきりと刻印がされていた。山羊の顔と瞳を象った、少し奇妙で禍々しい紋様。ゴートの<瞳>、アルバインがしたためたものであることの証明。

 ゴート氏族の者は誰もがその紋様について知っていた。つまり、<瞳>の不興を買ってまで封書の中身を読もうなんていう輩は、クウの知る限りはいないのである。

 いや。クウが知らないだけで、ひょっとしたら協力してくれる者がいるかもしれない。しかし、その人物を捜し出す手間とこの町での立場を天秤にかけると、圧倒的に不利なのは火を見るより明らかなことであった。


 クウは主のことを考えた。彼は一見いいかげんのように見えるが、あれでかなりのやり手なのである。クウに対するときのふわふわした態度、あれは彼の本質ではない。他の部下に対する冷静な態度をクウは知っている。

 認めたくはないが、いわばクウは彼の駒の一つだ。いや、正確には――「駒見習い」といったところだろうか。

 つまり。この任務は彼に「使える駒かどうか」を認識される試験のようなものではないか、とクウは考えていた。恐らく間違いないだろう。ならば、選択の余地などなかった。クウは元捕虜なのである。ここで<瞳>の意に背いたら牢に逆戻り。むしろ次第点以上を叩き出さなければ次はない。

 気が重い。自然と飛ぶスピードが遅く、そしてふらふらと蛇行していた。行きたくない、という心の表れであった。クウはまだ未熟だから、心が飛び方に表れる。故郷だったら笑われている。

「あー。クーだ」

「ほんとだ。カラスが落ちてきてるぞ」

 地べたを歩いている子供が大きな声を上げた。寺子屋で同じ初級クラスの子供たちであった。

「げっ」

 いつの間にこんな低いところを飛んでいたんだろう。クウは我に返るがもう遅い。石が飛んでくる。クウは足をじたばたさせて踏ん張った。高度を上げないと、彼らのいい的になってしまう。だが、まだまだ未熟な飛び手なのである。ふらふらと高度は変わらない。

 わーわー言いながら子供たちは追いかけてくる。

「お前ら! ヌビア先生に言いつけてやるからな!」

 伝家の宝刀。寺子屋の厳しい先生の名前を出したことにより、彼らは一目散に逃げていった。

 クウは胸をなでおろした。もちろん、ヌビア先生に報告するわけがない。彼女もまたゴート氏族の老人なのだ。クロウ氏族であるクウの言い分を聞いてくれるかどうか、自信がなかった。


 ヨーク通りは町の中心部にあり、アルバインの屋敷から坂を下っていく。飛んでいくとすぐだ。にぎやかな通りが見えてくる。

 通りの真ん中に降り立つと目立つだろうと思い、近場で降り立ってから通りに向かったが、やはりクウは好奇の視線を浴びた。漆黒の髪に、同じ色の瞳。それに合わせたような黒い衣服はクロウ氏族の証である。ゴート氏族の中ではやはり目立つのだ。町行く人々のひそひそ声が聞こえてくる。

「あれがアルバイン様の……」

「まだ子供じゃない……」

 大人は陰湿だ、とクウは思う。これなら石でも投げられたほうがまだマシだ。誰も表立って話しかけてこないことをいいことに、口をかたく結んだまま、悠々と通りを歩んでいく。

 三軒目、青い屋根の家はすぐに見つかった。おそらく店舗兼住居なのであろう、看板が出ていて、出入りする人でにぎわっている。いい匂いが立ち込めてきた。食べ物の匂いだ。この店の主人と見られる男が、店頭で呼び込みをしていた。

 そ知らぬ振りをしてそのまま通り過ぎようとする。まずは様子見のつもりであった。情報を集めてからでも遅くはない。

「そこのお嬢ちゃん! そう、黒い服を着た君だよ。うちのパン、買ってかないか」

「え……」

 いかにも人が良さそうなおじさんであった。クウは油断なくその男を見つめる。

 無視して通り過ぎるには目立ちすぎる。様子見は大失敗であった。せめて人込みに紛れる格好をしてくるべきであったと後悔するが、もう遅い。覚悟を決めて男のもとへ歩みを進める。

「あの。ここにメリノーさんはいるか」

「メリノーは私だが、君は一体どこの誰だい」

 はっ、とクウは息を飲み込んで非礼を詫びた。

「私は、アルバイン……様の使い、クウだ」

「ああ、君が。アルバイン様から聞いてるよ。……あっ」

「えっ?」

 聞いている、って? ぽかんとすると、おじさんは恥ずかしそうに笑った。

「やっぱりこんな茶番は、私には似合わないねえ。さあ、おいで。話はアルバイン様から聞いてる」

 メリノーはクウを店の中に招きいれた。拒む道理もないので、促されるまま中に入る。ふわっと、甘い匂いが広がる。

 店舗の中には、茶色い食べ物が所狭しと並んでいた。四角いもの、丸いもの、細長いもの、それぞれが綺麗に陳列されている。これがパンというものかと、クウは興味深げに眺めた。

 店の中にいた人々は、珍客の来訪にぎょっとした顔をするも、店主の手前、何事もなかったかのように振舞っていた。

「はい。これがアルバイン……様からの、手紙だ」

「ああ。確かに受け取った」

 メリノーは手紙をカウンターに置いたまま、奥から紙袋を一つ出し、それをクウに手渡した。

「はい。持っていきな」

「……見ないのか? その、中身」

 クウは手紙を指した。一応、封書を届けるという任務なのである。

「ああ。アルバイン様から既に言付かっているからね」

「やっぱり、試されていたんだ……」

 クウはため息をついた。手紙の中身をあらためもせず対価を渡すその杜撰さ。いくらなんでもひどい、と思った。扱いが子供の使い以下だ。

 その言葉におじさんは、ふ、と噴き出した。

「勘がいいねえ。やはりアルバイン様が気に入るだけあるよ」

「気に入られてなどいない!」

 遊ばれているだけだ。その事実だけは、否定しておきたかった。メリノーは笑っていたが、クウはむすっとしたまま口をつぐむ。

 それからメリノーは客応対を放ったらかして、気前よく語ってくれた。クロウ氏族の子供が来たら渡してもらうよう頼まれている、と。どうせ素直に店に入らないだろうから、店前で不審な動きをされるよりさっさと捕まえたほうが早い、などと言われていたことまで知ってしまい、クウは顔が赤くなった。

「はは。言われた通り、店の前で待ち伏せておいて正解だったね。お陰で仕事を家内に任せっきりだよ」

 忙しそうにお勘定をしている、奥さんらしき人が先ほどからちらちらと視線をこちらに送ってきていた。一瞬目が合ってしまい、クウは慌てて目をそらした。

「おっと、おしゃべりが過ぎたみたいだね。じゃあ、頼んだよ」

 その様子にメリノーも気づいたようだった。おじさんは慌てて、仕事に戻っていった。


 封書と引き換えの温かい袋を抱きかかえて、クウは再び飛び立った。

 開けていないけれど、おそらくパンだろう。いい匂いがする。開けて食べてしまいたい誘惑にかられるけれど、我慢する。もうここまできたら後は持って帰るだけだ。

 おじさんが喋ってくれたことから考えると、つまり、クウの行動はもう既に見透かされていることになる。きっとクウがこのお使いを成功させようと頓挫させようと、想定の範囲内なのだ。それは実につまらなかった。

 しかしあのおじさんは随分口が軽かった。いくら子供の使いとはいえ、こんな適当な段取りでいいのだろうか。

 そんなことを考えながら、アルバインの屋敷にたどり着く。執務室の窓は開いていた。みし、と窓枠に足をかけ、中に降り立つ。

「ごくろーである」

 例によって静かな声が出迎える。しかし緊張感がない。

 彼は手を止めることもなく、まだ何かを書きつけている。机の上に載っていた書類の量は、半分ほどに減っていた。一体何をしているのかクウにはわからないが、大変な仕事だということだけは理解できた。

 持ってきた袋を、名残惜しそうに机の隅に置く。本当はちょっと食べたかったけれど、しょうがない、渡してやる。

「おー。くーにしては上出来である」

 わざとらしいお褒めの言葉は、どこまでもクウの神経を逆撫でした。

「なーにが『くーにしては上出来』か! ただのお使いじゃないか!」

「まあ、そうとも言う」

「しかも人を試すような真似をして。お前は人を試すことでしか判断できないのかっ。そんなんじゃ、友達なくしちゃうぞ」

 不意にアルバインが手を止めてこっちを見た。クウはびくりと背筋を凍らせる。

 言ってはいけないことを言ってしまったと直感した。

 彼がおもむろに立ち上がる。クウは反射的に窓から逃げ出した。怒られると思ったからだ。

 そして屋根の上から窓をそおっと覗き込むと、ふいっと顔を背けて机に戻っていくアルバインの姿が見えた。

 クウはしゅんとした。ちょっとばかり、調子に乗ってしまったのである。

「……言い過ぎた」

 彼は返事をしない。

「ごめんなさい」

「ああ」

 一応許してもらえたのだろうか。様子を見ていると、彼は一仕事終えたところでペンを置き、手招きをした。気が進まないが、行かねばなるまい。くるりんと窓枠の上部を掴んだまま部屋の中へ滑り込み、そして着地する。

「怒ってる?」

 彼はぴくりと眉を動かした。表情に出さないように努めているものの、少々いつもと雰囲気が違うように思えた。つまり、怒っているのだとクウは思った。自分の蒔いた種だ。なんとかしなければ。

「わかった。……なんなら、友達になってやろうか」

 不遜な発言であった。なにせクウはクロウ氏族の少女で、元捕虜なのである。ゴートの<瞳>であるアルバインとは、なにもかも違いすぎた。それを理解した上で、クウはにこーっと笑ってみせた。

 アルバインは、そんなクウの様子をしらっと見つめていたが、ふっと噴き出した。顔をそらし肩を震わせている。

「考えておこう」

「そ、そうか」

 大口を叩いてみたが、内心は冷や汗ものであった。うまくいったようでほっとする。

 アルバインは先ほどの袋をつかみ、クウの頭の上にぽんと乗せた。

「今日の褒美だ。取っておきたまえ」

 クウはぽかんとしたが、反射的に手を伸ばす。困惑していると、彼はにいっと笑った。

「ああ。ちなみにちゃんと持って帰ってこなかったら、今日の晩飯は抜きだったから」

「え? そういうことなの?」


 クウの初めての仕事。それは、自分の晩御飯を買いに行くこと、であった。

 自分の寝床に戻った後、まだ温もりの残るパンにかぶりついた。やや歯ごたえのしっかりしたパンだった。ここに来てから今まで、草を食んでいるようで全く味気ない食事だったのだが、初めてゴート氏族の食べ物をおいしいと思った。

 そしてお使いの一部始終がメリノーからアルバインにしっかり報告されたことを、彼女は知らない。「まあ……いいだろう。面白いし」という微妙な評価をつけられ、メリノーを困惑させたことも。

 彼女の不毛な道は、始まったばかりなのである。

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