旧神殿の住人
翌朝、エメラはふたたび旧神殿の泉に向かった。いつもより足取りがゆっくりなのは、蓋つきの大きなかごを抱えているせいだ。
「やあ、エメラじゃないか」
突然の呼びかけに、エメラは飛び上がった。はずみでかごを落っことしそうになる。
「おっと、大丈夫か?」
声の主は、太い腕で見事にかごを受け止めてくれた。その貫禄ある体型を目にして、エメラは緊張を解く。誰かと思えば、ポージィじゃないか。
「ありがとう。せっかくのお弁当が台無しになるところだったわ」
「それはよかった。じゃあ、今日はお祈りじゃなくてピクニックってとこか? 天気いいもんな」
ポージィは丸い顔いっぱいに笑みを広げた。
「ええ、まあ……そんなところよ」
エメラは顔が引きつりそうになるのをこらえて微笑む。一人で出かけるにしてはお弁当が大きすぎることに、ポージィは気づいていないようだった。大食いの彼は、十六歳の少女がどれだけ食べるかなんて知らないのだろう。
「俺は今、祈ってきたところなんだけどさ」
聞いてくれよ、とポージィは目を輝かせた。
「お供えの果物がなくなってたんだ。昨日の朝はちゃんとあったのに……これって、守護神さまが戻ってきて食べたってことじゃないか?」
興奮してしゃべる相手に、エメラは言葉を返せなかった。かじられたリンゴの姿が脳裏に浮かぶ。あれはポージィが供えたものだったのか。
「そうね……そうだったらいいとは思うけど」
真相を知る者としては、そう答えるのが精いっぱいだ。
「そういえば、ウィリスさまがおまえに会いたがってたぞ。『もうすぐ結婚式なのに、僕は婚約者を四日も見ていない』ってな」
「あら」
言われてみれば、二人で散歩に出かけた夜以来、姿を見ていない気がする。長期間にわたる調査も終了間近とあって、このところウィリスは村中央の神殿に入り浸っている。訪ねていけば会えるだろうが、なんだか調査の邪魔になりそうで、エメラは行くのをためらっていた。
「まあ、これからはずっと一緒なんだ。今のうちに一人を楽しむのもいいさ」
「べつにそういうわけじゃないのよ。よかったら、今度会いに行くって伝えてくれない?」
「ああ、いいとも。ついでに『愛してる』とでも言っとこうか?」
神殿の前に住むポージィは、いたずらっぽく笑って軽口をたたいた。忘れかけた熱がまた込み上げそうになり、エメラは無言でポージィの足を踏みつける。
「痛てっ! ……ったく、この乱暴娘め。ウィリスさまもとんでもないのを引き当てたもんだ」
ポージィは大げさに足をさすりながらも、嬉しそうな笑みを崩さなかった。
ポージィと別れてからは、誰ともすれ違わずに泉に着いた。相変わらずひと気はなく、水面も穏やかに澄んでいる。
「ヨウ!」
エメラは石造りの建物に向かって呼びかけた。
「いるんだったら、早く出てきて。心配しなくても、ここにはあたししかいないわ」
声を張り上げても、返事はない。しかし、やがて小さな水音がしたかと思うと、泉に同心円模様が広がった。
「騒がしい奴だな。そんな大声を出さなくてもちゃんと聞こえる」
旧神殿の入口に姿を見せたのは、黒衣の青年だった。はずみで蹴り飛ばされた石材のかけらが、青い水面に幾重もの円を描いていく。
「だったら、返事くらいしてよ。いないのかと思ったじゃない」
エメラは文句を言ったが、ヨウという名の青年は聞いていないようだった。
「なにかいい匂いがするな。もしかして食い物か?」
ヨウはエメラが抱えるかごに目を留めた。
「そうよ。早起きして作ってきたの」
昨日は水を飲ませたら元気になったが、お供えに手をつけるくらいだ。聞けば、ここに寝泊まりしているというし、きっとろくに食べていないに違いない。
「そっちに行っていいでしょ?」
そう言うと、エメラは返事も待たずに、草むらを踏み越えて建物へと入っていった。
旧神殿の中は、外に比べて傷みが少ないようだった。礼拝堂に敷かれた紺色の絨毯も、色鮮やかなまま残っている。とはいえ、神像や宝物は新しい神殿に移されてしまったので、どうしても物足りない感じはした。礼拝堂というより、集会場みたいだ。
聖壇を向いて整列した長椅子に、二人はならんで腰かける。
「待ってて。すぐに用意するから」
エメラはかごの中から蓋つきの容器を取り出し、つぎつぎと長机の上にならべていく。
「これが鳥の蒸しもので、こっちが黄色豆のスープ」
容器の蓋を開けると、とたんに食欲をそそる香りがあたりに広がった。
「そっちの包みは?」
「パンと果物よ」
好物だという林檎も、特別に村の貯蔵庫から分けてもらってきた。
「どうせまた、なにも食べてないんでしょう。遠慮しないで、好きなだけ食べて」
「本当にいいのか?」
遠慮がちな言葉とは裏腹に、ヨウは素早くフォークを取る。よほど空腹だったのか、ものすごい勢いで容器を空にしていく。
「美味しい?」
最後の一品が青年の胃に消えたところで、エメラは尋ねた。
「ああ、初めて食べる味だ」
口元をぬぐって、ヨウは満足そうに微笑む。感想としてはなんとも微妙だが、本人は褒めているつもりらしい。
「そうだ。食事の礼に少し話をしてやろう」
リンゴの芯を手の中で転がしながら、ヨウは唐突に切り出した。
「ここからずっと北へ行ったところに、小さな島国があるのは知っているか」
「北っていうと――氷の小国のこと? 地図で見たことはあるけど、あんまり詳しくないわ」
長い間船に揺られなければ、とてもたどり着けない場所だ。「氷の」というぐらいだから、きっととても寒いのだろうけれど。
「じゃあ、そこの守護神が鳥だということも知らないな」
「鳥? 竜じゃないの?」
「ああ。守護神の姿は、その土地によってまちまちだからな。氷の小国の守護神は大きな鳥で、燃えさかる翼を持っている。春になるとその羽ばたきで、厚く積もった雪を解かすんだそうだ」
「それ、本当?」
エメラは首をかしげる。他国の守護神のことなんて、初めて聞いた。しかも、よりによってはるか遠くの島の話だ。確かめようにも、そうするすべがない。
「本当さ。冬のあいだは、巨木に作った巣の中でじっとしているらしい」
とはいえ、ヨウがでたらめを言っているようには見えなかった。青い双眸は窓を向いていた。小さく切り取られた晴れ空を、どこか遠い目で見つめている。まるで、ずっとずっと向こうにある、氷の国を思い描くみたいに。
視線を重ねるように、エメラも窓の外を見る。夏の空を横切っていく、真紅の翼。一瞬浮かんだその姿は、すぐに青空に溶けて消えてしまった。
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