語り部ヨウ

 その次の日も、また次の日も、エメラは食料を携えて泉に向かった。

「ずいぶん熱心だな」

 途中ですれ違ったポージィが、感心だというように微笑む。

「ええ、まあ……そうね」

 エメラはあいまいに答えた。ポージィと違って、竜神に祈りにいくわけじゃないのだ。なんだかだましているみたいで、背中がむずむずする。

「そうだ、エメラはもう見たか?」

「なにを?」

 問い返すと、ポージィはにやりと笑って声を潜めた。

「蛇だよ、蛇。最近、泉の草むらに大きなのが出るらしいんだ」

「蛇!?」

 思わず大声が出る。何年か前に大きな青蛇が家に入り込んでからというもの、蛇はなにより苦手なのだ。

「しかも、頭のてっぺんから尻尾の先まで、炭みたいに真っ黒なんだってさ。黒いヘビなんて、なんとなく不吉だよな」

 不吉とまで聞いて、エメラは急に心細くなる。ポージィは親切のつもりで話してくれているのだろうが、できれば知らないままでいたかった。蛇が出るというその場所に、こっちはこれから向かうのだから。

「俺は尻尾をちらっと見ただけだけど、念のため足元には注意しろよ。踏んだりしたら大変だからな」

 ポージィは駄目押しの忠告をして帰っていった。その小山のような後ろ姿を、エメラは恨みがましく見送る。

 そして、重い足取りでまた歩きだした。巨大な黒蛇なんて、想像するのもおぞましい。なのに、油断すると、頭の中はたちまち蛇で埋めつくされてしまう。とぐろを巻く黒蛇を思い浮かべては消し去るうちに、エメラは泉に着いた。

 時刻はもう昼を回ったのだろう。太陽は空の高いところで輝いていた。

「ヨウ」

 泉の縁から呼びかける。さすがに草むらに入る勇気はなかった。

「ああ、おまえか」

 建物から出てくるなり、ヨウは不思議そうにこっちを見る。

「どうしてそんなに遠くにいるんだ?」

「だって、このへんに蛇が出るっていうから。ヨウは見たことない?」

「知らないな。それより、早く中に入らないか」

 うながされても、エメラはその場を動けなかった。建物に続く地面は、どこもかしこも草に覆われている。大股で進めば十歩ほどの距離だが、その十歩で運悪く蛇を踏みつけないとも限らない。

「……今日はヨウがこっちに来ない?」

 エメラはできる限り可愛く微笑んでみせたが、提案が聞き入れられないことはわかっている。ヨウは旧神殿の外に出るのをひどく嫌がるからだ。

 ところが、

「仕方ないな」

 予想に反して、ヨウは音もなく草むらに降りた。軽い身のこなしで、そのままこっちに駆けてくる。

 珍しいこともあるものだ、とエメラは思った。しかし次の瞬間には、身体がふわりと浮いて両足が地面を離れる。

「え、ちょ、ちょっとっ?」

 姫君よろしく抱き上げられたエメラは、驚きのあまり脚をばたつかせた。

「あんまり暴れると落ちるぞ」

 頭上からあきれたような声が降ってくる。見上げれば、触れそうな距離に青い瞳があった。視線がぶつかると、ヨウはかすかに笑みを作った。

「そのままじっとしていろ」

 ヨウは両腕にエメラを抱いたまま、跳ぶような足取りで草むらを越えていく。石段をのぼったところで、そっと「荷物」を下ろした。

「わが城へようこそ、お姫さま」

「ようこそ、じゃないわよ。びっくりしたじゃない」

「それは悪かった。でも、こうしないと来てくれなさそうだったからな」

 そう言って、黒服の「王子さま」はいたずらっぽく笑う。

 いつものように礼拝堂で食事を済ませると、ヨウはまた話を始めた。

「今日は、おまえにもなじみのある話をしよう。この地を守る竜神は知ってるだろう?」

「もちろんよ。これでも神姫の妹なんだから」

 エメラはここぞとばかりに胸を張る。村の守護神のことなら、誰より詳しい自信があった。

「それはそれは。じゃあ、その神姫がどうやって選ばれるかは知ってるか」

「どうやってって……だいたい、神姫って選ばれてなるものなの?」

 姉は生まれつき守護神と言葉を交わせたというから、そういう女性が自然と神姫の職に就くものだと思っていた。

「もちろん、守護神と話ができることは必須条件だ。だが、それだけで神姫になれるわけじゃない。守護神に認められ、神姫となる契約を交わして、はじめて竜神の力を届けられるようになるんだ」

 竜神は水を司る。その力を使えば、乾いた大地に雨を降らせることも、反対に嵐を鎮めることもできるという。

「じゃあ、姉さまも竜神さまと契約を交わしたのかしら」

「だろうな。神姫がいたときは、村も豊かだったんだろう?」

 ヨウは微笑み、契約の儀式には特別な宝物が使われるのだとも言った。

「この地の竜神は、もともと東の大陸に棲んでいた。そのうちの何匹かが、海を越えてこの村に来たんだ」

「じゃあ、東の大陸にも竜神さまがいるの?」

「ああ。この村の竜神はその親戚に当たる。まあ、分かれたのがずっと昔だから、向こうの一族とは少し見た目が違うらしいけどな」

「ふうん」

 エメラは海を渡る竜の群れを思い浮かべた。相変わらず嘘みたいな話だ。なのに、どうしてだろう。いつの間にかその話にはまり込んでしまって、続きを聞くのを楽しみにしている自分がいる。

「東の大陸の竜神は、昔、隣国の守護神と派手に喧嘩をしたと言われている。金色の翼にはまだ、そのときの噛み跡が残っているそうだ」

 よどみなく語るヨウの瞳は、子どものようにきらきらと輝いていた。それを見つめるエメラの瞳も、きっと負けないくらいの光を宿している。

「ありがとう、とても面白かったわ。でも、どうしてそんなこと知ってるの?」

 こらえきれずに、エメラは尋ねた。なにしろ、姉からも聞かされたことのない話ばかりなのだ。村の守護神のことを村人でもない青年のほうがよく知っているだなんて、なんだか悔しい。

「どうしてって……俺も話に聞いただけさ。その土地に詳しい奴からな」

「じゃあ、ヨウは東の大陸に渡ったことがあるのね!」

 エメラは身を乗り出した。

「もしかして、ずっと世界を旅して回っているの?」

 それなら、遠い国々に詳しいことにも説明がつく。

「いや、その」

 畳み掛けるように問われて、ヨウはたじろいだように言葉を濁す。しばらく黙ったあと、苦笑まじりに答えた。

「まあ、そんなところだ」

 その言葉に、エメラは深く納得する。散らかっていた部品が、あるべきところにぴたりと収まっていくようだった。

 風変わりな容姿をしているのは、この国の生まれじゃないから。同じ服ばかり着ているのは、荷物を少なくしたいから。こんなところで寝泊まりしているのは、宿賃を節約したいから。

「言ってくれれば、泊まるところくらい探してあげたのに」

 エメラはなにもない礼拝堂を見回した。ただでさえ人の出入りの少ない村だ。村の外から、それも異国からの客となれば、村のみんなは大歓迎するだろう。ウィリスがやって来たときなんて、村じゅうがお祭り騒ぎだったのだから。

「気持ちは嬉しいが、俺はここで充分だ。静かで落ち着くからな」

 蜘蛛の巣にまみれた装飾灯を、ヨウは愛おしげに眺めた。

「……ならいいけど」

 エメラは小さくため息をつく。よくよく見れば、石材がむき出しの壁は苔で黄緑に変色しているし、絨毯の上には石のかけらがいくつも転がっている。きっと天井からはがれ落ちてきたのだろう。綺麗に見える内部も、少しずつ、確実に朽ちていっているのだ。

 ――こんなところが好きなんて、本当に変わってるわ。

 うっかり石につまずかないよう、エメラは足下に気をつけて建物を出た。

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