弾む心

 ハッ、ハッ、ハッ。

 麦畑の真ん中をエメラは走っていた。赤みがかった茶色の髪が、足取りに合わせて肩先で跳ねる。

 透き通る青空。そよ風に吹かれて、黄金色の麦が嬉しそうに首を振る。さわさわと鳴る葉擦れの音に、エメラは自然と微笑んでいた。急ぐ必要もないのについ走ってしまうのは、すがすがしい天気のせいだけではないだろう。

 牧場の近くで、雑談中の女性たちとすれ違った。年配の一人がこっちを指さしてなにかひそひそとつぶやいたが、エメラは気づかないふりをする。気にならないわけではないけれど、いちいち反応していたらきりがない。

「おーい、エメラ!」

 畑の中で手を振るのは、三軒向こうの奥さんだ。エメラは立ち止まって、軽くお辞儀する。

「そんなにあわてて、どこ行くんだい?」

「ちょっとそこまで。ほら、今日は天気がいいから」

 エメラは空を仰いで微笑んだ。

「ところで、畑の調子はどう?」

「去年よりもずっとましだよ。これもウィリスさまとエメラのおかげかねえ」

 丸々と育ったキャベツを抱えて、奥さんは豪快に笑う。

「あたしはべつになにもしてないわよ?」

「なにもってことはないだろう。王都のお役人に見初められるなんて、こんな田舎じゃめったにないことさ。いいねえ、若いもんは」

 奥さんは葉くずまみれの手でエメラの背中をバンと叩いた。照れくささにエメラの頬はみるみる染まり、それを見て奥さんはまた笑った。

「それはそうと、あんまり走りなさんな。転んだりしたら大変だからね。傷だらけの花嫁なんて、あたしは見たくないよ」

「ありがとう、気をつけるわ」

 奥さんの言う通りだ。同じ白だからって、花嫁衣装に包帯は似合わない。エメラは走るのをやめて、森へ続く坂道を早足でのぼっていった。

 坂の真ん中で立ち止まり、後ろを振り返る。山裾に沿ってゆるく傾斜した大地は、一面、金と緑に染まっていた。金は麦畑、緑は畑の野菜と牧場の青草だ。牧場の囲いの中には白い羊が点々と散らばり、のどかに草を食んでいる。

「もうすぐ、お別れなのよね」

 エメラは見慣れた風景に向かって言った。小さな村は不便で、エメラくらいの年の少女が楽しめるような場所もなかった。姉が亡くなってからは、辛い出来事もたくさんあった。 

 それでも、生まれ育ったこの村を嫌いになることはできない。姉が愛したこの地は、姉と過ごした思い出の地でもあるのだから。

 村を離れる寂しさは、もちろんある。それでも、この先に待つものを想像すると、期待のほうが大きかった。

「あたし、結婚するんだ」

 つぶやいたとたん、甘い熱が身体に満ちていく。ふいに強まった風が、どこからか白い花びらを運んでくる。夏の雪さながらに舞い落ちる花弁は、森がくれた祝福のようだった。

 結婚なんて、自分には縁のないことだと思っていた。結婚が許される十五の誕生日を迎えたときにも、エメラのもとに縁談は来なかった。当時、村はやっと飢饉を抜け出したばかりで、他人の仲を取り持つ余裕など誰にもなかったのだ。

 そして、エメラは十六になった。けっきょく一年経っても縁談は来ず、はやくも結婚へのあこがれは薄れてきていた。――彼が現れたのは、そんなときだった。

 二か月ほど前、一人の青年が村を訪れた。一目で上等とわかる服装をしたその青年は、王都の神殿管理部から遣わされた役人だと名乗った。なんでも、〈神なし村〉に守護神を呼び戻すため、調査にやって来たのだという。

 この突然の訪問を、村は大いに歓迎した。村長の指示で全員が真新しい神殿に集まり、盛大な祝宴が催されることになった。

 エメラが青年を目にしたのも、その祝宴のさなかだった。華やかな容姿の青年は女性たちの注目を集めたらしく、配膳を手伝っていたエメラのところまで噂は届いた。本当は王族に連なる身分だとか、役人になる前は王立研究院で学者をしていたとか。さすがのエメラもだんだん気になってきて、料理を運びながら青年の姿を目で追った。

 一通り配膳が終わると、エメラは村長に呼ばれた。村人の中ではいちばん年が近いからと、青年の話し相手になるよう命じられたのだ。

 ウィリスと名乗った青年は、間近で見ると想像以上に整った容姿をしていた。整いすぎていて、エメラは最初、まともに顔を見ることもできなかった。しかし、ぽつぽつと言葉を交わすうちに少しずつ打ち解けてきて、宴が終わるころにはすっかり友人気分でいた。

 別れ際にウィリスは言った。   

 ――しばらくこの村にいる予定だから、今後ともよろしく。

 その言葉通り、ウィリスは調査の手が空くたびにエメラを訪ねてくるようになった。神姫だった姉の話を聞きにくることが多かったが、特に用もないのにやってくることもあった。そんなとき、エメラは決まって紅茶をごちそうした。年の近い友達とお茶を飲みながら過ごすのが、ずっと夢だったのだ。

 とはいえ、その「友達」から結婚を申し込まれたのは不意打ちというしかない。

 ――調査が終わっても、僕と一緒にいてくれないか。

 貴公子然とした微笑みとともに手を差し出したウィリスに、エメラの心臓はどくんと跳ねた。思えばあれが、恋に落ちた瞬間だったのだろう。

 それからはウィリスにどんどん惹かれていった。陽光にきらめく金の髪も、淡く透ける灰色の瞳も。甘く響く声音も、優雅な物腰も。今では、彼を形作るなにもかもが魅力的だった。

 ウィリスが来てから、村で目立った凶事は起きていない。畑作や酪農も去年よりは順調とのことだった。もしかしたら、調査のおかげで竜神の加護が戻りはじめているのかもしれない。

「それでな」

 背後から聞こえたしわがれ声に、エメラは我に返る。

「ゆうべはとうとう隣村じゃと」

 振り向くと、道の先に杖を手にした村長の姿があった。

「まあ、それじゃあだんだん近づいてるじゃない。うちは大丈夫かしら」

 かん高い声で言うのは、前村長の娘だろう。こちらに背中を向けていても、大げさな身振りでわかる。

「大丈夫じゃろう。なんといっても、新しい防護柵をこしらえたばかりじゃからな。この前わしの馬が興奮して突進したが、柵はびくともしんかったぞ」

 そう言って、村長はカカカと笑った。どうやら話題は、最近この国を騒がせている盗賊のことらしい。ウィリスもこの前、村を囲う柵の設置を手伝ったと話していた。王国のあちこちで盗賊の被害が出ているとは聞いていたが、隣村まで襲われたとは初耳だ。

「それに、今や村にはウィリスさまがいらっしゃる。盗賊の一匹や二匹、守護神さまのご加護が跳ねのけてくれよう」

「あら、私はかえって心配だわ。だって、婚約相手があのエメラでしょう?」

 突然飛び出た自分の名に、エメラは身を強張らせた。あの人のことだ、次になにを言うかはわかっている。エメラはわざと足音をたてて、二人に近づいていった。

「村長!」

「おお、エメラじゃないか!」

 村長はこちらに向かって手招きした。前村長の娘は苦々しげな視線をよこしたが、エメラは作り笑いでそれをかわす。

「ちょうどおまえさんの話をしておったところじゃ。おまえさんは村の誇りじゃとな」

 自慢げに笑う村長の顔に嘘はない。神姫が死に、守護神が消えたあとも、この白髪頭の老人は変わらぬ態度で接してくれている。

「ウィリスさまのような方を伴侶にできるなんて、おまえさんは本当に幸せな娘じゃのう」

「あの」

 村長の話はまだ続きそうだったが、エメラはどうにか言葉をねじ込む。

「ごめんなさい。急いでるから」

 ぺこりと頭を下げると、二人を振り切って走りだした。急いでいるというのは嘘ではない。村長たちはあそこですれ違ったのだろうから、どちらか一人はエメラと同じ方向に行くはずだ。

 スカートをひるがえしながら森の細道を進むと、やがてひらけた場所に出た。

 まず目に入るのは、清らかな水をたっぷりとたたえた泉だ。穏やかな水面は、夏空を映して深い青に染まっている。泉の向こうには、かつて村の神殿があった。石造りの建物は今も残っているが、ろくに手入れもされず、あちこち石材が割れたり欠けたりしている。もともと純白だったという壁も、長年の汚れと風化ですっかりくすんでいる。もはや神殿というより遺跡だが、水面に映る姿はほの青くてなかなか美しく見えた。

「……やっぱり綺麗」

 思わずため息がもれたが、見とれている場合ではない。今日は大切なことを願いにきたのだ。

 この泉は竜神の棲み家だといわれている。姉が生きていたころは、村人が毎日のようにやって来ては、竜神に祈りを捧げていた。

 そして、竜神が消えた今も、その習慣を続けている者はいる。エメラもその一人だった。

 エメラは泉の縁に立ち、辺りを見回す。竜神に祈るときは、近くに誰かがいてはいけないのだ。誰もいないことを確かめると、胸の前で手を組み、そっと瞳を閉じる。

「どうか、あたしとウィルの……」

 願掛けの途中で、エメラは言葉を途切れさせた。照れてしまって、「結婚式」の一語が口に出せない。

「どうか、あたしとウィルの、けっ、けけっ、けけっこ――ああもう!」

 鶏の鳴き声じゃないんだから、と足をじたばたさせる。願掛けくらいで照れていてどうするのだ。結婚式のあとには、甘い新婚生活が待ち受けているというのに。

「新婚、生活……」

 想像したとたん、顔が火を噴いた。冷静になるつもりが、頬は熱くなるばかりだ。頭を冷やそうと、エメラはぶんぶん首を振った。――ちょっとくらくらするが、おかげで無心になれた気がする。深呼吸して、もう一度手を組んだ。

「あたしとウィルの――」

「……うぅ」

 願掛けの言葉はまたしても途切れた。エメラは目を開けて、泉の左手を見やる。うなり声は、たしかにそっちのほうから聞こえた。

 泉の左手には、大人の膝丈ほどの草が生い茂っている。その草むらが不意にうごめいたかと思うと、草のあいだから人の手らしきものがのぞいた。――誰かが倒れているのだ。

「大丈夫!?」

 ぬかるみで靴が汚れるのもかまわず、エメラは草むらに分け入っていった。草の中でうつぶせになっていた相手が、ゆっくりと顔を上げる。こっちを捉えた両目は、珍しい色をしていた。空と海を混ぜたように、どこまでも澄んだ青。

「あんたは……?」

 倒れていた男は、かすれた声で尋ねる。年はエメラといくつも違わないように見えるが、知らない顔だった。この地方では見かけない黒い髪をしている。黒くゆったりとした衣服も、この国のものではないだろう。

「それはこっちの台詞よ。あなた、うちの村の人じゃないわよね。こんなところで倒れてるなんて、具合でも悪いの?」

「いや……その」

 青年は数歩先の草むらに目を移した。見れば、草の中に林檎が一個埋もれている。供え物を意味する焼印が押された林檎には、二、三口かじった跡があった。

「つまり……食べてみたら傷んでたってわけ?」

 供え物を食べたりするから、そんな目に遭うのだ。エメラはあきれた目つきで青年を見たが、相手は首を振って否定する。

「違う……神殿の中で食べていたら……手が滑って……転がって」

 青年は息継ぎのように大きく呼吸した。

「追いかけるうちに……ここまで来てしまって……まぶしくて……水……水が……」

「水が? 水がどうしたの」

 問い返しても、青年はもう答えてくれない。がっくりと首が折れ、また元通りに倒れ伏してしまった。

「ちょっと、しっかりしてよ! ねえってば!」

 誰か手伝ってくれる人はいないかと、エメラはあたりを見回す。しかし、村長たちはまだおしゃべりに夢中なのか、人がやって来る気配はなかった。

 青年はぐったりして微動だにしない。いちおう息はあるようだが、それもいつまで保つことか。

「ねえ、目を開けてってば!」

 もしかして、このまま死んでしまうのではないか。エメラは泣きそうになりながら、青年の身体を揺さぶり続けた。

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