泉に願いを

 霧のような雨が降り続いている。泉の水面は雨粒に曇り、ふだんより緑がかって見える。ぬかるみを避けて歩いてきたつもりが、革靴はすっかり泥だらけになっていた。ブラウスとスカートも、湿気を吸ってじっとりと重い。

 名を呼ぼうとすると、それに先回りして相手が石段に姿を現した。

「なんだ、誰かと思えば」

 ヨウはあきれたような声を出す。

「懲りずにまたやって来るなんて、つくづく物好きな奴だな。しかもずぶ濡れじゃないか」

 顔をしかめながらも、中に入れと手招きする。

「いいの」

 エメラは首を横に振った。

「今日はお別れを言いに来ただけだから」

 もう会わないと決めたものの、せめて別れの挨拶くらいはしておきたかった。

「そうか」

 ヨウはあっさりとうなずいた。

「さては恋人になにか言われたな」

 図星を指されて、エメラは黙り込む。これでは認めたようなものだが、うまい言い訳もすぐには思いつかなかった。

「俺はなんだと思われたんだろうな。国を追われた犯罪者か、盗賊の一味か」

「本当なの?」

 淡々と言ってのけるヨウに、エメラは噛みつく。

「あなたは本当に、盗賊の仲間なの?」

 雨にかすむ景色の中、青い瞳を射抜くように見つめた。相手もまっすぐに視線を合わせてくる。

「おまえはそう思うのか?」

 返ってきた答えは、肯定とも否定ともつかないものだった。ヨウは怒ることも、笑ってごまかすこともしない。ふだん通りの澄ました表情の中で、薄青の双眸だけが奇妙に凪いでいた。感情を押し殺した、静かな瞳。

 ――傷つけたのだ。

「ねえ――」

 慌てて口をひらいても、もう遅い。

「わかった。もう帰るといい。――俺もそろそろ消えるとしよう」

 ヨウは安心させるように微笑み、踵を返した。広い背中が石造りの建物に消えていくのを、エメラはただぼうっと見ていることしかできなかった。

 帰り道は、どこをどう歩いているのかよくわからなかった。頭の中では、かすれたヨウの声がいつまでもこだましていた。

 ――おまえはそう思うのか?

 問われてすぐに返事をしていれば、なにか変わったのかもしれない。でも、あのときはどんな言葉を返しても嘘になっただろう。自分がどう思っているかなんて、エメラ自身にもわからないのだから。


 エメラはその晩、熱を出した。昼間、雨に濡れたのがよくなかったのだろう。

 熱はなかなか下がらず、結局、三日も寝込んでしまった。しかも、起き上がれるようになってからも、家を出られない日が続いた。式の前だからと、周囲に外出を止められたのだ。

 あの雨の日から、ちょうど一週間後の明け方。

「行ってきます」

 まだ夢の中にいる父に小声で言い残し、エメラは家を抜け出した。

 森へと続く道は、なかば夜の闇を残している。小鳥のさえずりに混じって、フクロウの鳴き声が低く響いた。

 風がないせいだろうか。今朝の泉は鏡のように周囲の景色を映していた。人の姿がないのはいつものことだが、今は人の気配すらまったく感じられない。言葉通り、ヨウは本当にここを出ていってしまったのだろう。

「あたしとウィルとの結婚式が無事に行われますように」

 胸の前で手を組み、ささやくように願いをかけた。あれだけつっかえてばかりいた言葉が、今はすらすら出てくるから不思議だ。

「あさってもこれくらい晴れてくれるといいけど」

 つぶやいて、空を仰いだ。白みはじめた空には雲一つない。

 結婚式は二日後に迫っていた。


 人の声に、〈彼〉は目を覚ました。鈴の鳴るような声音は、よく知る少女のものに間違いない。しかし、もう姿は見せないと決めていたので、そのままじっと息をひそめていた。

 結婚するのだと少女は言った。それを聞いたとたん、なぜか水の塊を飲み込んだように息が苦しくなった。湧き上がる想いを抑え込み、〈彼〉はまた眠りにつく。祝いの言葉一つかけてやれないのが残念だと思った。

 少女が立ち去ってしばらくすると、また誰かがやってきた。

「こうでいいのかな」

 泉の前に立った男は、慣れない様子で両手を組み替えている。

 〈彼〉は特に興味を覚えるでもなく、ふたたび眠りに落ちようとした。

 しかし、

「――が上手くいきますように」

 男の願いを耳にして、一気に眠気が吹き飛ぶ。この男は今、なんと言っただろう。

「それじゃ頼んだよ、竜神さま」

 祈りを終えた男は、泉に向かって一礼した。去り際に浮かべた微笑みは、奇妙なほど冷ややかに見えた。

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