婚約者の忠告
夕焼けの名残りが、森の輪郭をゆるやかに映し出している。民家の窓に黄色い明かりがつぎつぎと灯りはじめる。
村の中央に建つ神殿は、薄闇の中で純白の壁を浮かび上がらせていた。
「ウィル!」
重い扉を押し開けると、広い礼拝堂の奥で人影が動いた。淡い金髪が蝋燭の炎にきらめいている。
「やあ、エメラ。珍しいね、こんなところまで来るなんて」
「もしかして、お邪魔かしら」
「構わないよ。ちょうど帰ろうと思ってたとこなんだ」
ウィリスは燭台を手に入口まで出てくる。
「じゃあ、うちでお茶でも飲んでいかない? お隣さんから珍しいお茶をもらったの」
「へえ、きみから誘ってくれるなんて嬉しいな。ここのところ、ずっと会えなかったし」
ウィリスは甘く微笑む。燭台の火を消して、代わりにエメラの手を取った。少し骨ばったウィリスの手に、エメラの手はすっぽり収まってしまう。まるで壊れ物を扱うかのような力加減に、気づかいを感じた。
「おお、ウィリスくんじゃないか」
「どうもお邪魔します、ローガさん」
家に帰ると、玄関まで父が出てきた。軽く酔っぱらっているのか、上機嫌でウィリスに話しかけようとする。
「もう、父さまったら。邪魔しないで」
エメラは父を押しのけ、ウィリスを奥に通した。
「待ってて。すぐに用意するから」
手伝おうとするウィリスを強引にテーブルに着かせて、薄桃色のそろいのカップにお茶を注ぐ。貴重だという茶葉から抽出されたお茶は、きれいな琥珀色をしていた。ほんのり果物の香りがする。
「どうぞごゆっくり」
テーブルをはさんで向かい合うと、どちらからともなく笑みがこぼれた。部屋に二人きりという状況は、自然と結婚後の生活を想像させる。
「ごちそうさま」
カップが空になったところで、ウィリスがふっと息をつく。満足そうな表情だった。話をするなら今のうちだろう。エメラはカップを持つ手に力を込めた。
「ねえ、ウィル」
「なんだい」
「前にも話したと思うけど……森の奥に、昔、神殿だった建物があるでしょ?」
「ああ、知ってるよ。なんでも、手前の泉に祈ると願いが叶うんだって? 僕も一度祈ってみようかな。エメラが僕を愛してくれますように、って」
冗談めかしたささやきにも、エメラはあいまいに微笑むことしかできない。まだ話は終わっていないからだ。
「それでね、一週間くらい前から、その建物に旅人が寝泊まりしてるみたいなの」
「へえ、そりゃまた物好きな……いったいどんな人なんだい?」
お茶のおかわりを、ウィリスは音もなく飲み干した。勘のいい婚約者は、エメラがその「旅人」に会ったこともお見通しのようだ。それでも機嫌を損ねたようには見えなかったので、エメラはこの一週間のことを順に話していった。
願掛けに訪れた泉で、偶然、倒れている彼を見つけたこと。お腹が空いているようだったので、それから毎日食事を運んであげていること。ヨウと名乗った彼はどうやら、遠い国から来た旅人らしいということ。
「なるほど」
話が終わると、ウィリスはカップを置いて長い指を組んだ。
「きみはどこまでも優しいね。わざわざ彼のために食事を作って、あんな遠くまで届けてあげるだなんて」
薄灰色の瞳を細め、やわらかい笑みを作る。
ほらやっぱり、とエメラは思った。自慢の婚約者は、困っている人相手に嫉妬したりしないのだ。
「でもね」
ウィリスは静かにつけ加える。
「旅人といえば聞こえはいいけど、要するにどこの誰かもわからないってことだよね。あそこはあんまり人も来ないし、きみ一人で会いにいくのは危ないんじゃないかな」
「大丈夫よ。ヨウは悪い人じゃないわ」
不思議ではあっても、不審ではない。少なくとも、エメラの印象ではそうだった。
「本当にそう言い切れるかい?」
ウィリスは表情をくもらせる。
「ほら、最近はあちこちを盗賊がうろついてるっていうじゃないか」
「彼が盗賊だっていうの!?」
エメラは勢いよくカップを置いた。華奢なカップが、受け皿の上でがちゃついた音をたてる。
「そういう可能性も否定できないってことだよ」
ウィリスの態度は冷静そのものだった。
「いくら宿賃が惜しいからって、あんなところに寝泊まりしなくたっていいだろう? 僕だったら、誰かの家に泊めてもらうとか、空き家を借りるとかするけどね」
現実にウィリスは、神殿近くの小さな空き家を借りているのだ。
「あんなところに住み着いてるなんて、自分には隠れなきゃいけない事情がある、って言ってるみたいなものだよ」
ウィリスは形のいい眉をひそめた。
エメラはとっさに口をひらいたが、反論する言葉が出てこない。ウィリスの言うことも、的外れではないように思えたからだ。
ヨウは旧神殿の建物を気に入っていると言ったが、寝台もない部屋ではぐっすり眠るのも難しいだろう。それに、考えてみれば、エメラはヨウのことをほとんどなにも知らない。彼は不思議な話をたくさん教えてくれたけれど、自分の素性についてはなに一つ語らなかった。
不思議な響きの名前は、偽名かもしれない。黒ずくめの服装は、闇にまぎれるのに都合がいいからかもしれない。旅人というのもエメラがそう思い込んでいるだけで、本当は盗賊の仲間なのかもしれない。いったん芽を吹いた疑念は、とどまることなく枝葉を伸ばしていく。
「わかったわ。もう会わないことにする」
「それがいいと思うよ。食べ物にありつけなくなれば、そのうち村を出ていくかもしれないし」
ウィリスはエメラの手を取り、白い甲にそっと口づける。
「悪く思わないでほしいな。僕はただ、きみのことが心配なんだ」
こちらを見つめるウィリスの瞳は、ランプの炎に赤く燃えていた。
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