第66話 世界の心臓

 宇宙船が飛ぶようになったくらいの未来の話だ。宇宙船が飛ぶことはどうでもいいのだけれど、この宇宙は残酷で、何もかもが醜くて、どうしてもうまくいかない組み合わせによってできているものだということだった。夜空に光るのは満点の星空。北斗七星とオリオン座くらいしか星座を覚えていないけど、夜の星をぼくたちは時々、眺めるのだった。

 もし、人生がかけがえのない素晴らしいものだとしたら、きっとぼくたちは頑張って生きていったのだと思う。もし、この世界が努力の報われる世界だったら、ぼくたちは頑張って生きていったのだと思う。でも、そんなことにはならなくて、世界は残酷で、何もかもが醜くて、どうしてもうまくいかない組み合わせによってできていた。

 ぼくが彼女のことを知ったのは十八歳の時で、大学に入学した時だった。彼女はいつも本を持ち歩いていて、ずっと本ばかり読んでいる女の子だった。友だちはそれでもいるらしく、本ばかり読んでいるといい男を見逃すよと半ばあきれ気味にいわれていたようだけれども、彼女は読書をすることをやめるつもりは一切なく、一分一秒も見逃さない気迫で書物にとり組んでいた。

 それで驚くのはまだ早く、聞いたところによると、家に帰るとずっと机に向かい物理の勉強をしているのだという。いったいそんなに勉強してどうするんだというほど、彼女は勉学に励んでいたのだった。ぼくたちの大学はたいした大学じゃないけど、彼女の高校時代の成績が全国一位を争うほどだったと聞いた時は、さすがにこれはうかつに手を出すことのできないご令嬢だと思い知らされた。

 彼女はそこそこの顔立ちをしたそれなりの美人で、どちらかといえばかわいいくらいに思っていたのだが、ぼくは、

「何か力になれることがあったらいってよ」

 とひとこと声をかけたことがあったくらいだった。あとは特に話す機会にも恵まれず、ぼくと彼女は離れ離れに学生生活を送っていたのだけれど、ぼくが遠くから観察するかぎり、彼女はいつも苦しそうだった。彼女はいつもシャープペンシルを片手に紙に何かを書いていた。

「将来、どうするの? 進路とか」

 とぼくが聞くと、彼女は、

「研究生目指す。親には悪いけど」

 と答えた。

 ある時、彼女が摩訶不思議な本を発見した。それは「世界の心臓」と題された謎の物理学の書物だった。図書館の片隅に置いてあったというその本は、今から百年以上前に書かれた本らしかった。

 彼女はその本に没頭した。まるで未来人の数式、未来人の物理学だった。くり返すが、これは宇宙船が飛ぶようになった未来での話である。

 この宇宙の天体の回転について書かれた書物であるという。この宇宙のどこかに<世界の心臓>と呼ばれる機械があって、その機械を動かすと、この宇宙のすべての天体の回転を止めることができるのだという。

 その内容に驚いた彼女は、その機械を動かす理論体系について必死に勉強していった。この宇宙の天体すべての回転を止める機械。その<世界の心臓>を支える技術は難解で、彼女にも到底理解できる代物ではなさそうだった。

 ぼくはそんな彼女の様子をうわさで聞きながら、一緒の講堂で講義を聞いていた。

「ぼくが不思議に思うのは、そんな宇宙を破滅させる機械をどこの誰が作ったのかってことだよね」

 とぼくが彼女にいうと、彼女はとても晴れやかな目をしていった。

「それはね、この宇宙を作った何者かが、この宇宙が存続することをあきらめてしまったからなんだって」

 ぼくにはちょっと意味がわからなかった。だって、宇宙を創造するほどの誰かなんだろ。それなら、きっと素晴らしい贅沢な暮らしができたにちがいない。

「どこにあるんだ、その機械は」

「どっかにあるよ」

 彼女は明るく笑った。


 そして、あの忌まわしい出来事が起こった。口にするのもおぞましければ、書き記すこともおぞましい。考えるだけで身が悶える。彼女が強姦されたのだった。

 五人くらいの男に輪姦されたらしい。子供の頃から勉学に励み、成績は全国有数の順位を叩き出して、一心不乱に勉学に励んでいた彼女が強姦され、処女を失ってしまった。

 彼女はそのことをぼくを呼び出して教えてくれた。そして、卑屈な笑顔を作っていった。

「ねえ、もう、この世界をあきらめちゃおうか」

 ぼくは否定することはできなかった。彼女を慰める方法をぼくは知らない。彼女にふさわしい男性を見つけるというのは無理な話だが、彼女の女性としての魅力をくだらない男たちに汚された屈辱は忘れられるものではない。

 彼女がいうには、別に自分の恋愛がうまくいくなんて思ってなかったと。でも、無理矢理強姦されて犯されてしまうくらいなら、別に相手はぼくでもよかったのかもしれないといっていた。ぼくは、どうにもしようがない気持ちでただただこの世界の醜さを呪った。

 それで、必然的にぼくたちは<世界の心臓>を探す旅に出ることになった。

 ぼくらは宇宙船にのって星々の大海を旅した。宇宙は綺麗で、美しく、そして、そのどこかに<世界の心臓>を隠していた。

 ぼくたちは宇宙人に出会った。最初の接触のあらましはこうだった。

「あなたたちは宇宙人ですか」

「そうです。わたしたちは別の星から来た異星生命体です」

「よかった、この宇宙には地球人は一人ぼっちじゃなかったんだ。それで、ものは相談ですけど、あなたたちにこの宇宙を任せてもいいですか」

 ぼくたちはそういった。ぼくたちはこの宇宙をあきらめていた。だけど、宇宙人の返信も同じく希望のあるものではなかった。

「いいえ。わたしたちは宇宙をあきらめました。好きにしてください。自由に滅ぼしてください。もう生きる気力がないのです」

 宇宙人は宇宙をあきらめていた。

 なんでも、釈尊が語るには、生きることはすべて苦しみであると。これを一切皆苦と呼ぶ。宇宙人も一切皆苦の原理から逃れることはできないらしく、それで、ぼくたちは<世界の心臓>のある場所に向かった。

 <世界の心臓>。この宇宙の天体のすべてを支配する機械。この宇宙のすべての天体の回転を止めてしまうことができる。そして、その天体の位置エネルギーをすべて集めることができるのだ。

 彼女は少しためらいがちに<世界の心臓>を動かした。これから、すべての星の回転が止まる。宇宙が死ぬんだ。いや、宇宙がその根源の力を失い、解きほぐれ、別の姿をさらけ出すのだ。

 ぼくたちはこの宇宙をあきらめている。醜く歪んだ反吐の出る世界。

 そして、すべての星の回転が止まり、宇宙が永遠の死へと落ちていった。

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